はてなキーワード: 生物学とは
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「身体性別はない」と主張する能川センセイ、ニューヨークタイムズのまともな記事読まなくちゃ!
The Problem With Saying ‘Sex Assigned at Birth’
「割り当てられた性」が採用される理由のひとつは、敬意に満ちた婉曲表現が提供され、特にノンバイナリーやトランスジェンダーの人々にとっては、厳しい生物学的現実のように感じられるものを和らげることができるからである。誰かが「出生時に女性に割り当てられた」と言うことは、その人が生物学的に女性であることを伝える、間接的でより丁寧な方法であると考えられている。この用語は、トランスやノンバイナリーの人々との連帯を示すと同時に、伝統的な性の理解は時代遅れであるというラディカルな考えを伝えるためにも機能する。
「出生時に割り当てられた性別」の表現は、善意によるものかもしれないが、進歩ではない。私たちは礼儀正しさや連帯感の表現に反対しているわけではないが、「出生時に割り当てられた性」は人々を混乱させ、生物学的事実について疑念を抱かせる可能性がある。また、私たちの伝統的な性に対する理解を正す必要があるから、このような表現が求められるのでもない。
そうではないのだ。セックスは、私たちの種にとって重大な結果をもたらす基本的な生物学的特徴であるため、それに関する誤解を助長することには問題がある。
性差は健康、安全、社会政策にとって重要であり、文化と複雑な相互作用をする。女性は男性に比べ、薬物による有害な副作用を経験する確率が2倍近く高いが、この問題は女性の薬物投与量を減らすことで改善できるかもしれない。一方、男性はCovid-19やがんで死亡する確率が高く、殺人や性的暴行の大部分を犯す。"割り当てられた性 "が死亡数を増加させるわけではない。重要な事柄に関する用語はできるだけ明確にすべきである。
影響力のある組織や個人が「出生時に割り当てられた性」を推進するとき、彼らは、「セックス」、「男性」、「女性」のような、社会で誰にとっても馴染み深く、性の意味合いを議論するのに必要な言葉を使うことで、市民が辱められるような文化を奨励している。これは通常の検閲のようなもので、特定の意見を公的に支持することを抑制するものではない。もっと巧妙で、そもそもその意見を議論するのに必要な語彙そのものを抑圧しているのだ。
より急進的な「割り当てられた性」の支持者は、生物学的事実としての性という考え方そのものが疑わしいと異議を唱えるだろう。フランスの哲学者ミシェル・フーコーや、最近ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーに関連するこの見解によれば、性とは何らかの文化的生産物であり、赤ん坊に男か女かのレッテルを貼った結果である。したがって、「性別」よりも「出生時に割り当てられた性別」の方が好まれるべきであると主張する。
この立場は、人間が自然の摂理から免除されていることを暗黙の前提としている。残念なことに、私たちは動物である。有性生物は少なくとも10億年前には地球上に存在していたし、人類が進化しなかったとしても、オスとメスは存在していただろう。セックスは、分娩室での言語的儀式やその他の文化的慣習の結果というわけではない。
一部の学者によって蒔かれた混乱にもかかわらず、私たちは性別の二元論が人間の発明ではないことを確信できる。
「出生時に割り当てられた性別」の問題は、確立された生物学的事実から会話を遠ざけ、政治的アジェンダを吹き込むことである。私たちは、医学的、社会的、法的な問題に関して、意見を明確に述べ、最善の方針を打ち出すのに役立つ共有言語を必要としている。その共有言語こそが、たとえ強い意見の相違が残っていたとしても、相互理解と民主的な審議の出発点なのである。
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。
https://www.bbc.com/news/uk-scotland-68712471
スコットランドの新しいヘイトクライム法に異議を唱えるJKローリングのソーシャルメディア上のコメントは、犯罪として扱われないとスコットランド警察が発表した。
ハリー・ポッターの作者は、有罪判決を受けた囚人、トランス活動家、その他の公人など、複数のトランスジェンダー女性を男性と表現した。
この新法は、保護特性に関する「憎悪をかき立てる」という犯罪を新設するものである。
同警察によると、苦情は寄せられているが、処分は下さないという。
このニュースに反応し、ローリングさんはXに次のように投稿した。「生物学的性別の現実と重要性を訴えることを望むスコットランドのすべての女性が、この発表によって安心されることを願っています。
【人権TODAY特別編】トランスジェンダーのこれまでとこれから(高井ゆと里) - 荻上チキ・Session~発信型ニュース・プロジェクト | Podcast on Spotify
どういう内容に触れるのか興味があったので聞いてみたが、
トランスジェンダーは存在している、当事者のリアルを想像することが重要だと言うだけの内容だった。
所謂「トランスジェンダー問題」の論点には触れておらず、社会問題の解決策に繋がる要素は一切なかった。
これを報道するTBSの報道機関としての姿勢にも疑問を感じる。
と説明するが、社会の期待と違う生き方を強いられるのはフェミニストをはじめジェンダーロールに反発する男女も同じだ。
定義がないというTERFの批判を無視して、トランスジェンダーを説明する用語を、以前より曖昧なものに変えることで、トランスジェンダーに対する社会の理解がより進むとはとても思えない。
トランスジェンダーの定義がないという他称TERFの論点をのらりくらりとかわすためだけの詭弁に聞こえる。
身体の性はトランスの人の状況を考えるときに役に立たない。M2Fの身体は多種多様。
身体は男というと全部見えなくなってしまうので良い言葉ではない。
性移行も性転換手術だけでなく、生活する性を移行したり、手術を受けたり様々ある。
社会と接点を持つとき、特に従来性別学的性別で分けられてきた領域に関わるときに身体の性は重要という論点に一切触れない。
自分たちにとっては役に立たない論点は無視するという他者視点が全くない主張。
この手前勝手さも、社会のトランスジェンダー理解を逆方向に進ませるのではないか。
GID=トランスジェンダーかのように説明する詭弁。正しくは「該当する」ではなく「含まれる」。
性別変更治療を必要とするGIDをくたばれと批判してきたGID以外のトランスジェンダーの存在を隠蔽化している。
まずGID以外のトランスジェンダーとは何かという定義を明確にすべきだろう。
もちろん存在しているだろう。だが、定義が決まらないと数も人口構成比も算出値に意味がない。
実際に出会ったとき、その人がトランスジェンダーかなりすましかを見分ける方法がない状態では、生物学的女性と全く同じに扱うことはできない。
アンチトランスを、当事者のリアルを把握せずバッシングしているバカという前提で作っている内容と見せかけて、トランスアライに対する洗脳強化コンテンツとなっている。
これを聞いたアライたちは、アンチトランスに対し「不勉強」を繰り返すだけだろう。
それは本当にトランスジェンダーのためになるのか?
https://www.nytimes.com/2024/04/03/opinion/sex-assigned-at-birth.html
New York Timesがようやく
「ジェンダー理論が生物学的性別の事実に対する混乱を産んでいる」
とまともなことを書き出した。
日本で脅迫騒ぎが起きている例の本を批判する根拠になっている医学的見解はWPATHが出しており、
WPATHが推進してきたトランス医療はロボトミーを超える医療過誤事件だったと流出ファイルから判明し海外では大々的に報じられている。
国内でWPATH事件を報じないのは解説できる専門家を確保できないからだろう。
トランス推進派の専門家はWPATH事件についてはノーコメントを貫いているし、中立な専門家はトランス推進派のバッシングや脅迫やキャンセルに晒されるリスクを負ってまで発言したくない。
Q1)トランスジェンダーの定義は?(GIDは比較的明確だが、GID以外のトランスジェンダーの定義はどこにもない)
Q2)生物学的女性がその性質のために受ける被害への合理的配慮として運用されている女性スペースに生物学的女性ではない人が入るべきではないと思わないか?
Q3)トランスジェンダーとなりすましを見分ける方法はあるのか?
A1)勉強しろ~お前の勉強が足りないからわからないだけだ~ ⇒ 調査しても各種機関により定義は様々で統一されていない。変態もトランスジェンダーに含むという定義もある
性犯罪者のせいでトランスジェンダーのせいではない ⇒ 圧倒的多数の性犯罪者ではない男性も女性スペースへの侵入は認められていない。M2Fも同じ。
少数の性犯罪やスポーツ問題を大げさに取り上げすぎ ⇒ 既に被害は出ている。女は被害を我慢しろと同義。到底受け入れられない
トランス差別は深刻なんだ ⇒ 女性差別も深刻で、かつ性犯罪で今日も誰かが苦しんでいる
A3)(回答された例がない)
元々男性の暴力性を持ってる上に、社会規範を敵視して相手をナチス呼ばわりしてるから、衝動の抑制が効かないんだね
トランス過激派の事件は、特に米国で大きな注目を集め、暴力の可能性について懸念を抱かせている。
特に憂慮すべき事件のひとつは、ナッシュビルのキリスト教系小学校で銃乱射事件を起こしたトランスの射手、オードリー・ヘイルに関するものだ。ヘイルは最近、彼/彼の代名詞とエイデンという名前を採用し、コヴェナント・スクールで3人の子供と3人の大人の命を奪った。
別の事件では、元NCAA水泳選手のライリー・ゲインズが、サンフランシスコ州立大学で、女子スポーツに女性選手を入れることに反対を表明した後、トランス活動家から暴行を受けた。この身体的暴行事件は、このテーマについて反対意見を表明する個人が直面する敵意の高まりを浮き彫りにしている。
彼らは、特定のジェンダーに関連する慣習を禁止する法律は「トランスジェノサイド」に相当すると主張し、過激な思想の推進を煽っている。
さらに、サイクリストのハンナ・アーレンスマンは、生物学的男性との競技に反対したことで直面したハラスメントにより、スポーツを辞めるという苦渋の決断を下した。ハラスメントに関与した人々の中には、プロトランス団体であるジョン・ブラウン・ガン・クラブのメンバーも含まれていた。
トランスの人々が投稿する、武装自衛を擁護するビデオの増加も気になる傾向だ。現在は削除されたTiktokの投稿で、2400人のフォロワーを持つタラ・ジェイは、女性用トイレの使用を妨げようとする人に対して銃を使うことを警告している。
このような事件は、『トランスの権利.さもなくば......』というスローガンを銃の画像とともに表示したシャツの販売とともに、トランスジェンダーのイデオロギーを取り巻く過激主義と脅迫の風潮を助長している。
これはマジな。
生物学的女の生存権と利害対立しているのを見ないふりして、まとめてTERFだヘイターだ言っていればいい人達は気楽だな。
【速報】「心は女性」女装写真で偽り、施設利用の女性らに性的暴行 障害者支援団体代表の男に実刑判決(読売テレビ) - Yahoo!ニュース
夫婦間で相互にセックスはコミュニケーションであるという理解が無いから。
生物学的な理論を出す人は性欲解消としか捉えていないから相互に性欲解消という考えを持っていても老化や疲労などでレスになる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/courrier.jp/news/archives/359090/
妻以外にはほとんど性欲を感じなくなり、大変人生に満足しているのだが、
インターネット上には自分と同じような夫婦が少なくて戸惑っている
日本の夫婦の7割がセックスレスというデータがありブコメの大半がそれに肯定的であるという現状は理解し難いものがある
自分は特別性欲が強い方でもないし体力も少ない方だが、意識して週に1回以上はセックスするようにしている
その結果(もちろんそれだけではないだろうが)、恋人時代と変わらない愛情をお互いに感じ続けている
明らかに最善の選択をしたと思うのだが、滅多にご同意いただけないのはなぜだろうか
だとするとなぜ夫婦がお互いに楽しんでセックスし続けることがそんなに難しいのだろうか
今朝方も妻とセックスをし、お互いに大変満足して休日を過ごした今、
これは一番あり得るパターンだろう。太る、禿げる、体臭口臭加齢臭、ED、男が性的魅力を失う要素は人生に多すぎる。自分は幸運にも20代の頃からあまり変わっていないが、それでも確実に老化はしているし今後性的魅力が大幅に減退するほどの老化に直面する可能性はある。
・妻の姓的魅力が減退する
これもよく聞くパターンで、男ほどではないにしても太る、体臭、老化の影響はあるだろう。特に老化してなくても数年同じ相手とセックスすると飽きてしまうというタイプの男も少なくないらしい。自分からするとそれは浅いセックスしかしてないからでは?と思ってしまうのだが生物学的にオスは同じ相手と交尾し続けられないのだ、と主張される方も多い。全然そんなことはないと思うが飽きてしまったものは仕方がない。そうなると、他の女で性欲を満たすことになるが、妾の生活の面倒を見たり、たくさんの婚外子を育てる財力がある極めて稀なケースを除き、妻以外の女とセックスをしたり、エロコンテンツを探してオナニーをしたりしても気持ちいい以外になんの得もないのである。反対に、妻とセックスすることはお互いに気持ちいいだけではなく共同生活するパートナーとの絆が深まり、相手の体調やコンディションも肌で感じることができる。得しかないのである。
外見的魅力の減退については、部屋を暗くすることで8割解決するといっていいだろう。目で見たもので興奮するのは20代で卒業すべきだ。耐え難い悪臭などの困難も起こりうるかもしれない。香水やお香などでカバーするしかないだろう。
当たり前だが、セックスは疲れる。疲れや徒労感が快感や興奮を上回った時、セックスしたくなくなる時がくる。自分も付き合って5年ほど経った時、徒労感を感じ「このままマンネリになってセックスに飽きてしまうかもしれない」と思ったことがあった。性欲も加齢とともに確実に減退する。この時になんの対策も打たなければ、自然消滅していくこともあるだろう。それでいいと考えているなら仕方がないが、自分はしたくないからセックスをしないというのはあまりにももったいないと思う。
・妻がセックスしたくない
これも非常に多いパターンで、男の性的魅力が減退していなくても、妻にセックスする余裕がない、特に出産後そうなるパターンがよく見られる。女性は男とは性欲の形が異なるもので、溜まってくると分かりやすくムラムラするというものではないと理解している。その気がなくなれば徹底的に性欲を感じなくなるものらしい。しかし、性欲を感じないからといってセックスをしない方がいいというものではないと思う。適度にセックスをして愛情を実感し快感とともに体を解放状態にすることが、メンタルを長期的に安定させることにつながる。このことを長い時間をかけてお互いに理解していければ、安定して円満な夫婦関係を築けるのだと思う。
もちろんセックスしなくても円満な夫婦関係は築けるのだろう。しかしセックスしてる方が簡単だと思う。
セックスし続けることが難しいのだろうか。自分はそんなに難しくはなかった。ただの幸運だろうか。
ただ自分はかなり早い段階で(第一子が生まれ第二子を作る間ぐらいだろうか)、妻とのセックスが夫婦関係において最重要だと思い至り、
これを維持することが人生の最重要課題だと認識した。20代で性欲が人並みに盛んだった頃、セックス以上にインターネットを通じたエロコンテンツ収集に情熱を燃やしていたが、
35歳を過ぎて性欲が減退し始めたことに気づいた時、妻とのセックスよりも優先すべきオナニーは論理的に考えて存在し得ないことに気づき、
エロコンテンツ収集とオナニーの人生における優先度を下げると、妻以外にはほとんど性欲を感じなくなり、結果的にオナニーもしなくなり、無駄な時間が減ってQoLが高まったと感じている。
https://www.sankei.com/article/20240324-2PWOH4565RKCVKFLAV2GC5BQKQ/
確かに、内容はかなりアレなのだけど、ブコメを見ると、多くの人が「性自認」という概念を理解できているようで驚いた。
私は前に新書か何かで解説を読んだが、正直なところよくわからなかった。
そこで、性自認を理解した顔してる人たちも実はわかってないでしょと、わからせたい。
まず、性自認とは何か。先を読み進める前に一度自分の言葉で定義を考えてみてほしい。
多くの人は、「自分の性をどう認識しているか」という感じのことを考えたのではないか。
これは実際、一般的な説明でしばしば用いられる定義だと思う。少し大雑把すぎるかもしれないけれども、ここではこの定義を採用する。
まず「生物学的性別」と「性的指向」について思い出しておく。生物学的性別とはその名の通り遺伝子レベルでの性別で、性的指向とはどの性別を性的対象とする(もしくはしない)かである。ここで極めて重要な点だが、性自認は一般的な理解において、生物学的性別と性的指向とは独立にとりうるとされている。例えば、生物学的性別が男性で、性的指向が女性に向いている場合に、性自認は男性(ストレートの異性愛者)、女性(トランスジェンダーの同性愛者)の二つの場合がありうるということだ。
ここからが本題。性自認を生物学的性別や性的指向から切り離して定義することは、本当に可能だろうか(常に切り離せる必要はないが、独立に取りうるということは切り離せる場合があるということだ)。もし可能だとすれば、どのようにして自分の性自認を定めるのだろうか。例えば私の場合は、生物学的に男性で性的対象は女性だから、自分をストレートの男性と認識している。つまり、性自認として独立した認識があるわけではなく、単に演繹的に導いた結果だ。こう書くと、「トランスジェンダーのレズビアンである可能性を無意識下で排除したことこそが性自認が独立して存在しうる証左だ」という主張をする人もいるかもしれないが、しかしそのような排除は恐らく私がマジョリティの異性愛規範に染まっているからに過ぎない。要するに「常識」に盲目的に従ってしまっただけだ。もし誰かに「あなたはトランスジェンダーのレズビアンかもしれない」と言われたら、正直なところ私は反論する言葉を持たない(というか、区別する意味が分からないのでどっちでもいい)。まとめると、私にとって性自認というのは強いて答えようとすれば答えられるなんとなくの根拠しか持たないものだ。そして性自認という概念が個人の内的な経験によってのみ基礎づけられている以上、確固とした性自認の感覚を持たない私にはあやふやな理解しか持ち得ないのでないか。
そして私は、この事情はほとんどのストレートの人にとっても同じではないかと言いたい。自分がストレートの異性愛者かトランスジェンダーの同性愛者かを区別する確固とした根拠があるだろうか。念の為注意しておくと、そのような確固とした根拠があるはずがない、ということを言いたいのではない。トランスジェンダーの当事者にはそういった感覚(というよりも強い齟齬の感覚)があるということは知識としては知っており、それを否定するつもりはない。ただ私を含むマジョリティである、ストレートの人のほとんどは性自認という概念を捉えることができないことを認める必要があるのではないか。そして、もしよくわからないことを認めるのだとしたら、性自認を学校で教えることに対する反対意見に対し、知った顔で小馬鹿にした態度を取るのは、やめた方がいいのではないか(記事に対する批判自体を否定しているわけではない)。
そして最後に少し本音を言うと、このような個人の感覚のみに基礎を置く概念をもてはやすことはアイデンティティポリティクスの跋扈を許す危険な道なのではないか。
競技フェアネスの確保とトランス女性のアイデンティティ: 生物学的な性別に基づいてカテゴリー分けされることは、スポーツ競技におけるフェアネスを確保するために重要です。トランス女性が女性として生活していることは尊重されるべきですが、生物学的な性別に基づくカテゴリー分けは彼女たちのアイデンティティや権利を無視するものではありません。代わりに、トランス女性のスポーツ参加に関する詳細なガイドラインや規定を策定することで、彼女たちの権利と競技フェアネスを両立させる方法を模索すべきです。
トイレ利用の安全性とプライバシー: トランス女性のトイレ利用は、彼女たちの権利を尊重し、公共の場でのプライバシーを確保するために重要です。しかしながら、女性用トイレは生物学的な性別に基づいて設けられており、トランス女性の利用が他の利用者の安全感やプライバシーを脅かす可能性があります。そのため、個室トイレの設置や、トイレ利用に関する教育と理解を促進すると同時に、トイレ利用に関する適切な措置や配慮が必要です。
1. **競技フェアネスの確保**: 生物学的な性別に基づいてカテゴリー分けされるべきという考え方は、スポーツ競技におけるフェアネスを重視する観点から理解できます。しかし、トランス女性が女性として生活している以上、彼女たちに対して男性と同じカテゴリーに分類することは、彼女たちのアイデンティティや権利を無視することになります。代わりに、トランス女性のスポーツ参加に関する詳細なガイドラインや規定を策定し、競技フェアネスを確保する方法を検討することが重要です。
2. **トイレ利用の安全性とプライバシー**: 日本の法律により女性用トイレの利用が違法とされている事例があるとしても、トランス女性は女性としての権利を持ち、公共の場でのトイレ利用においてもその権利を行使することが重要です。安全性とプライバシーを確保するためには、トランス女性の利用に関する適切な措置や配慮が必要です。例えば、プライバシーを守るための個室トイレの設置や、トイレ利用に関する教育と理解を促進することが挙げられます。
3. **包括性と公正性の実現**: 包括的かつ公正な解決策を実現するためには、様々なステークホルダーの意見を考慮し、対話を重ねる必要があります。トランス女性の権利を尊重しつつ、競技フェアネスや安全性を確保するためのガイドラインや規定の策定が不可欠です。また、トランス女性に対する差別や偏見に対する教育と啓発活動も重要です。
以上の観点から、トランス女性のスポーツ参加や女性トイレ利用に関する議論は複雑であり、包括的な解決策を模索する必要があります。彼女たちの権利と安全性を確保しつつ、競技フェアネスや公共の場でのプライバシーを尊重する方法を見つけることが重要です。
トランス女性のスポーツ参加と競技フェアネス: トランス女性の身体能力が女性より高いという研究結果もあります。生物学的な違いは否定できません。スポーツ競技においては、身体能力だけでなく生物学的な性別に基づいてカテゴリー分けされるべきです。女性選手がトランス女性に対して不利益を感じる可能性があることは、競技フェアネスを確保する観点から重要です。
トランス女性のトイレ利用と安全性: トランス女性が女性用トイレを利用すること自体が日本において違法であり、大阪では実際に送検されています。トイレ利用における安全とプライバシーは重要です。女性用トイレは女性にとっての安全な場であり、トランス女性の利用が他の女性利用者の安全感を損なう可能性があります。トイレ利用における安全性とプライバシーを考慮した上で、包括的かつ公正な解決策を模索する必要があります。
包括性と公正性の実現: スポーツ競技においては、トランス女性の参加を認める際には、競技フェアネスを確保する方法を検討する必要があります。同時に、トイレ利用においては、ユニバーサルデザインのトイレの整備や、トイレ利用に関する教育や啓発活動が重要です。包括的かつ公正な解決策を実現するためには、様々なステークホルダーが協力して取り組む必要があります。
結論: トランス女性の権利と尊厳を尊重しつつ、スポーツ競技やトイレ利用における安全性とプライバシーを確保するためには、慎重な検討と配慮が必要です。競技フェアネスと安全性を両立させる解決策を模索し、包括的な社会を築くために努力することが重要です。
スポーツにおけるフェアネスの損失: 生物学的な性別差異があることは否定できません。トランス女性が生まれつきの男性の身体構造を持っている場合、彼女たちは生物学的に男性の利点を持っている可能性があります。女性スポーツにおける公平性と競技の質を保つためには、生物学的な性別を考慮する必要があります。トランス女性が女性スポーツに参加することは、競技のフェアネスを損なう可能性があり、他の女性選手に不利益をもたらす可能性があります。
トイレ利用における他の利用者の権利: トランス女性が女子トイレを利用することは、他の利用者のプライバシーと安全を脅かす可能性があります。女性として生活しているとはいえ、生物学的な性別が異なるため、他の女性や女子供に不安やストレスを与えることがあります。女性トイレは女性にとっての安全な空間であり、その安全性が損なわれることは許容できません。
このように、トランス女性の参加が他の女性選手や女性利用者に不利益をもたらし、彼女たちの安全やプライバシーを脅かす可能性があるため、スポーツ参加やトイレ利用における包括性と公正性を実現するためには、より綿密な検討と配慮が必要です。
そもそも生物学上の能力差を無視して平等を唱えても無理難題であることを受け入れる事が出来ていないから空転してるんだよな
目が見えない者にも平等に絵画を鑑賞させろ!って視覚の再建が確立できていない世の中では不可能であることは自明だからそんな運動は起きていない
物理的生理的に互いの欠点を補い合う相互扶助を確立しなければいけないのに平等というおためごかしに躍起になっているのは滑稽でしかない
何万年もかけて生物学的合理性の上に確立した人類社会を根底から覆そうとする男女平等運動は
競技の公平性への影響: トランス女性が生まれつき男性として生物学的な利点を持っている可能性があります。この利点は競技の公平性を損なう可能性があり、特に競技で身体的な接触や競技成績に影響を与える競技種目において問題が生じます。女子スポーツにおいて、生物学的な性別が競技の成績に与える影響は無視できません。
安全性とプライバシーへの懸念: トランス女性が女子トイレを利用することが許可される場合、生まれつきの生物学的な性別と異なる性別のトイレを利用することで、他の利用者に不安やプライバシーへの侵害を引き起こす可能性があります。特に、女子トイレは女性や子供の安全とプライバシーを保護する場所として設計されています。トランス女性の参入により、他の利用者のプライバシーや安全が損なわれる可能性があります。
健康への影響: トランス女性が女子スポーツに参加する際、生物学的な性別に基づく身体的な差異が現れる可能性があります。これにより、競技中の怪我や健康リスクが増加する可能性があります。また、適切な医学的監視やトランス女性の特有の健康上のリスクを考慮に入れないままスポーツに参加することは、彼女たちの健康に悪影響を与える可能性があります。
これらの理由から、トランス女性の女子スポーツ参加や女子トイレの利用に関しては、公平性、安全性、健康への影響などの側面を慎重に考慮する必要があります。トランス女性の人権と尊厳を尊重することも重要ですが、それが他の個人や社会全体の権利や安全と衝突する場合は、バランスを取る必要があります。
生物学的な違いの無視: トランス女性が自己認識する性別のトイレやスポーツへのアクセスを認めることは、生物学的な性差を無視することになります。例えば、トランス女性が女性トイレを利用することで、生物学的な女性の安全やプライバシーが脅かされる可能性があります。そのため、全ての関係者の安全とプライバシーを確保するためには、生物学的な違いを考慮したアプローチが必要です。
フェアな競争の保護: 女子スポーツにおいて、トランス女性が参加することはフェアな競争を脅かす可能性があります。生物学的な男性として生まれた者が、女子スポーツに参加する場合、彼らの生物学的な利点や身体的な能力が、競技の公平性に影響を及ぼす可能性があります。そのため、女子スポーツの競技の公正さを保つためには、生物学的な性別に基づく規則が必要です。
法的および倫理的な検討の必要性: トランス女性の権利を保護することは重要ですが、その達成方法には慎重な検討が必要です。トランス女性の権利を尊重する一方で、他の関係者の権利や安全も確保するために、法的および倫理的な規範の変化を十分に検討する必要があります。
これらの理由から、トランス女性が自己認識する性別に基づいて女性トイレや女子スポーツへのアクセスが提供されるべきであるかどうかについては、様々な観点からの検討が必要です。生物学的な性差やフェアな競争、関係者の安全やプライバシーなど、多角的な視点からの議論が重要です。