はてなキーワード: ジュディス・バトラーとは
https://archive.md/m3u6E#selection-495.0-495.47
「身体性別はない」と主張する能川センセイ、ニューヨークタイムズのまともな記事読まなくちゃ!
The Problem With Saying ‘Sex Assigned at Birth’
「割り当てられた性」が採用される理由のひとつは、敬意に満ちた婉曲表現が提供され、特にノンバイナリーやトランスジェンダーの人々にとっては、厳しい生物学的現実のように感じられるものを和らげることができるからである。誰かが「出生時に女性に割り当てられた」と言うことは、その人が生物学的に女性であることを伝える、間接的でより丁寧な方法であると考えられている。この用語は、トランスやノンバイナリーの人々との連帯を示すと同時に、伝統的な性の理解は時代遅れであるというラディカルな考えを伝えるためにも機能する。
「出生時に割り当てられた性別」の表現は、善意によるものかもしれないが、進歩ではない。私たちは礼儀正しさや連帯感の表現に反対しているわけではないが、「出生時に割り当てられた性」は人々を混乱させ、生物学的事実について疑念を抱かせる可能性がある。また、私たちの伝統的な性に対する理解を正す必要があるから、このような表現が求められるのでもない。
そうではないのだ。セックスは、私たちの種にとって重大な結果をもたらす基本的な生物学的特徴であるため、それに関する誤解を助長することには問題がある。
性差は健康、安全、社会政策にとって重要であり、文化と複雑な相互作用をする。女性は男性に比べ、薬物による有害な副作用を経験する確率が2倍近く高いが、この問題は女性の薬物投与量を減らすことで改善できるかもしれない。一方、男性はCovid-19やがんで死亡する確率が高く、殺人や性的暴行の大部分を犯す。"割り当てられた性 "が死亡数を増加させるわけではない。重要な事柄に関する用語はできるだけ明確にすべきである。
影響力のある組織や個人が「出生時に割り当てられた性」を推進するとき、彼らは、「セックス」、「男性」、「女性」のような、社会で誰にとっても馴染み深く、性の意味合いを議論するのに必要な言葉を使うことで、市民が辱められるような文化を奨励している。これは通常の検閲のようなもので、特定の意見を公的に支持することを抑制するものではない。もっと巧妙で、そもそもその意見を議論するのに必要な語彙そのものを抑圧しているのだ。
より急進的な「割り当てられた性」の支持者は、生物学的事実としての性という考え方そのものが疑わしいと異議を唱えるだろう。フランスの哲学者ミシェル・フーコーや、最近ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーに関連するこの見解によれば、性とは何らかの文化的生産物であり、赤ん坊に男か女かのレッテルを貼った結果である。したがって、「性別」よりも「出生時に割り当てられた性別」の方が好まれるべきであると主張する。
この立場は、人間が自然の摂理から免除されていることを暗黙の前提としている。残念なことに、私たちは動物である。有性生物は少なくとも10億年前には地球上に存在していたし、人類が進化しなかったとしても、オスとメスは存在していただろう。セックスは、分娩室での言語的儀式やその他の文化的慣習の結果というわけではない。
一部の学者によって蒔かれた混乱にもかかわらず、私たちは性別の二元論が人間の発明ではないことを確信できる。
「出生時に割り当てられた性別」の問題は、確立された生物学的事実から会話を遠ざけ、政治的アジェンダを吹き込むことである。私たちは、医学的、社会的、法的な問題に関して、意見を明確に述べ、最善の方針を打ち出すのに役立つ共有言語を必要としている。その共有言語こそが、たとえ強い意見の相違が残っていたとしても、相互理解と民主的な審議の出発点なのである。
トランスやQ:クィアがペドフィリアを含んでいることは、クィア理論の支柱となった文献をみれば明白なんだよね。
以下はクィア系文化人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィア・スタディーズにおける超重要文献からの抜粋だ。ちなみにルービンはトランスの教祖ジュディス・バトラーの師である。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。
A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダー、アイデンティティ、権力の問題に焦点を当てた哲学者、ジェンダー理論家である。彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然なカテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的に生産され強化される社会的構成物であるという考えに基づいている。彼女はクィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダーの概念に対する批判を行ってきた。
バトラーの主な主張の1つは、ジェンダーは遂行的であり、それは単に生得的または既存のアイデンティティを表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである。彼女は、ジェンダーは私たちが学び、内面化する文化的なスクリプトであり、私たちの日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまり、ジェンダーは私たちから独立して存在するものではなく、私たちが積極的に生み出し、参加しているものであるということです。
バトラーの研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女の批判である。本質主義とは、特定の特徴や性質が個人や集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティを定義するという信念である。バトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然なカテゴリーがあり、それが差別や排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式を可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティの概念を提唱している。
ジュディス・バトラーに対する最も一般的な批判の1つは、あまりに抽象的で理論的であり、彼女のアイデアを現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである。批判者は、ジェンダーのパフォーマンス的な性質とアイデンティティの流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女の仕事は不平等と抑圧の問題に対処するための明確な戦略を提供していないと主張している。
バトラーの研究に向けられたもう一つの批判は、個人のアイデンティティと主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的・制度的構造が私たちの経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女が成果主義とジェンダーの社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義、人種差別のような制度的システムを通じて権力が機能する方法に十分に対応していないと主張している。
最後に、フェミニストの学者や活動家の中には、生物学的な性と女性の経験の重要性を損なうとしてバトラーを批判する者もいる。彼らは、ジェンダーの流動性とアイデンティティの社会的構築を強調することで、バトラーは女性の身体の物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。
フェミニスト内部の意見対立を見ていると、悲しいほど学歴やそれに付随する収入がダイレクトに影響してきている気がする。
例えばトランス女性(身体は男性だが性自認は女性)に対する立場をとってみてみると、
と呼び方も異なるようだ。ラディフェミという呼称はかつてはフェミニスト内でも蔑称扱いされていた(少なくとも自称するものではなかった)が、「結局男に迎合しやがって」と、所謂「リベフェミ」の態度に憤った人達がそれと区別するために名乗るようになったようだ。
Twitter内で「アルファフェミニスト」と呼ばれている人間はこの二者だとリベフェミに分類される人間が多いらしく、ここ数日トランスジェンダー周りの話題が取り沙汰される中でそれに失望するラディフェミの姿が散見されている。
この姿勢の違いだが、どうにも「フェミニズムを学問として勉強したことがあるかないか」に依拠しているようにも見える。
近年フェミニズムを大学で勉強しようとした場合、「女性学」ではなく「ジェンダー論」が入口になる。入門的なジェンダー論はLGBT関連の歴史研究なども扱う場合が多いと共に、近年人気のあるジュディス・バトラーの研究はどちらにも応用できる理論なので、大学で齧ったことがある人間ほど「領域の近い問題」という意識が生まれ、トランス側とシス女性の間に連帯感を覚えがちだ。
それに対してラディフェミと呼ばれる人々は、「フェミニズムは女の女による女のための学問」という意識が強い。身体が男性であればその時点で敵認定する人も少なくない。彼女たちのツイートを観察してわかってきたのが、「勉強してるからって気取っちゃって」という反感が根底にあるようだということだ。既に自分は女性という身体を持って生きてきて、構造的差別に晒されてきたので、この体験をもってフェミニストとして活動するし、改めて勉強する必要を感じないという勢力である。そこに対して、リベフェミ側はよりによって「トランスの歴史についても学んでみてください」と語りかける。火に油だ。
ラディフェミとリベフェミは関心の強い領域も異なるため(性被害についてのスタンスは近いが、ラディフェミは表現、リベフェミはリプロダクトや政治・キャリアに話が寄りがち)、協力体制を敷くことも難しそうだ。
ジェンダーの問題は誰でも当事者であると言えるため、フェミニズムの論者たちの層もかなりバリエーションに富んでいる。ただでさえマイノリティのフェミニスト、この分裂は致命的なように見える。
いま人々はフェミニストに牽引されて、傷つけ合っていた野性の時代から、より人間的な理性へ、全体的に向上していく過程にあるんだと思う。
これは同意。
フェミニズムが一時的に優生思想と繋がった歴史もあるけど、それは後に「間違いだった」と認められている。
人間のあり方を試行錯誤する過程の中で、紆余曲折あるのは当たり前だろう。
フェミニズムの過ちを指摘する前に、過ちを犯す危険性に足を突っ込む必要がない特権階級にいるのは誰なのか?を我々は考えなければならないのだろう。
今はまだフィクトセクシュアル・フィクトジェンダーのような在り方をフェミニストが理解できなくても、いずれは理解されると信じている。
なぜなら、「オタク」のセクシュアリティの発見もまた、ジュディス・バトラー以降のクィア理論がもたらした啓示だから。我々のアイデンティティそのものがフェミニズムの影響を強く受けていて、フェミニズムがなければ今の我々は存在しない。
フーコー派は「私たちは社会的権力に欲望させられているのだ」という主張を好みますが、これは反自由主義フェミニズムと非常に親和性が高い立場です。なぜならこの理屈を使えば、自由意志の下で性を楽しんでいる女に対して「あなたはそのように欲望させられているだけの奴隷だ」と言えるからです。
いわゆるフーコー派哲学は「我々は社会的権力に欲望させられている」という主張を好みますが、ドゥルーズ派哲学は「その社会的権力とやらを生み出しているのは、結局のところ私たちの欲望なのだ」という立場を選んでいますよね。これはフーコー批判としては最も辛辣なものであるように思います。
ミシェル・フーコーの社会哲学は何でもかんでも権力権力アンド権力と言い募る戯言を通じて結局のところなにをやらかしてしまっているのか。むろん個々人の自由意志を抑圧することに貢献しているのです。少なくとも人間の自由を抑制したがる人々に最適な武器を与えていると言えるでしょうね。
ポストモダニストの代表格であるフーコー、ドゥルーズ、デリダのうち、実は最も「悪用されやすい」という意味で悪質なのはフーコーです。
反自由主義フェミに対し、彼ら彼女らは実は単なる男性嫌悪者に過ぎないと主張する人々がいるけれど、それは真実の半分しか言い当てていないと私は思います。反自由主義フェミは女の自由も抑圧したがっているのですから、彼ら彼女らは同時に女性嫌悪者でもあるのだと考えるのが自然だと思います。
エマワトソン論争は「男も男性性から降りたほうが幸福だ」VS「男は男性性から降りたほうが不幸だ」みたいな対立でしたが、そもそも男が男性性から降りたり女が女性性から降りたりするのは基本無理なので全く意味のない議論だと思いました。ありもしない仮定の下で議論するのは時間の無駄。
当時の私はエマワトソン論争を眺めて「ジェンダーがそんなに簡単にフリーになるわけないだろ。なめとんのか貴様」的なことを考えたり考えなかったり、そんな風な感情を抱きながら両陣営を眺めていましたね。そもそも論者自身が男性性も女性性も捨てていないのにムシのいい話だなと思いました。
今さらジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』を再読しましたが、いくらなんでも生物学的な性差を軽視しすぎていると思いました。これは単なる観念論ではないのか。じっさい、最終章でバトラーが称揚してみせるのは毒にも薬にもならない「パフォーマティブな攪乱」でしかないというわけです。
ざっと見た感じなので間違ってるかも。
アヴィダル・ロネルはニューヨーク大学の有名な哲学者で、専門にはフェミニスト哲学や倫理などもある。
この件と関係ないかもだが被害者はゲイでロネルはレズビアン。ロネルは相手と自分のことを "gay man and a queer woman" と言っている。
2012年の春から、性的接触やキス、ベッドでねる、性的な内容のメールを送る、メールの返事をくれないと一緒に仕事をするのを拒むなど。
被害者は2017年9月にセクハラ、性暴力、ストーキング、報復行為に関する訴状を提出。
大学は調査を行いロネルに責任があるとし1年間授業停止とした。
著名なフェミニストや学者などのグループが連名でロネルを支持する書簡を大学に提出。
被害者はRonellへの悪意あるキャンペーンを行っているとし、またRonellの学問への貢献や国際的評判を鑑みられるべきだとして、Ronellへの処分や訴えを批判している。
連名のトップは有名なフェミニストであるジュディス・バトラーであるが、後からこの手紙の文言はよろしくなかったと後悔している。
他にも生徒たちによってロネルの重要性を訴えかける署名などが行われている。
この件が重要なのはロネルでなく支持者の書簡のほうで、問題点が二つある。
一つは被害者の悪意を根拠なく決めつけている点で、これはセカンドレイプである。
もう一つは評価や評判をもって処罰を打ち消そうとしている点である。これは公正さを蔑ろにする行為である。
ジュディス・バトラーもそこのところを後から後悔している。
書き急ぎすぎた、訴えた人の動機を決めつけてはいけないし、ロネルの地位や評判をもって特別な扱いを引き出そうとしてもいけない、と。
バトラー程のフェミニストでも、セカンドレイプのようなことをやってしまうのだということは大事である。
決してフェミニズムに疎いから、相手の性を見下してるから、ミソジニーやミサンドリーだからそういう行為をしてしまうというわけではないのである。
もちろん、誰かを差別主義者だと断定したことがイコールであなたの発達障害を疑う要因というわけではありません。
そして申し訳ないですが、今のところアスペルガーか境界性知能かを見分けることは出来ていません。
インターネット上では難しいかと思います。エピソードがひとつも無い状態では断定は不可能です。
その辺、どうしても論旨がぶれがちになるのはご容赦ください。
この手の話は、一つの結果に対していくつもの可能性があります。
言語がそもそも理解出来ていない結果なのか、他者とコンテクストの共有が出来ていない結果なのか
あるいはある種の価値観を絶対視している結果なのか、それは私如きの能力では判別がつきません。
私が「病気ネタ」を始めたのは、コンテキスト上の接続が(少なくとも説明を受けない限りは)全く無いパロディと
その後、強烈に他者を「電波」等の言葉で狂気と断定する行動を続けたという二点からです。
他者と文脈が食い違う、背景となる知識の共有が出来ないというのはよくあることに過ぎません。
問題は、それを他者の狂気、ないしは問題と一足飛びに判断している部分が大きいです。
もちろん、私の知識も経験も絶対ではないので間違いはありえます、当てにしない方が良いとも思います。そこは正直に申し上げます。
しかし、あなたの取ったこの行動は先述した発達障害を持つ方のテンプレにピッタリ嵌った行動なんです。
コロコロ変える、というご意見は非常に理解出来ます。申し訳ない。
しかし、境界性知能、アスペルガー、強力なオルグで教条主義的価値観を形成してしまった方
これらをエピソード無しで弁別することは少なくとも私には不可能です。原因は違えど、ほとんど同じ結果として顕在化するからです。
いずれにせよ、「他者とコンテクストの共有が出来ない」という結果をもたらします。
現在、私は左派的なイデオロギーとの親和性が高いところを鑑みて、どの可能性もありえると思っています。
つまり、「ヤベェ性癖持った奴も、コッソリその性癖を持ち続ける自由がある」みたいな意味?
誰かに自分の性癖がバレたとしても、「あいつはアナルオナニーするぞー」と触れ回られない自由ってことか。
えーと、それって結局普通の法の範疇じゃないか?「内心の自由」だと思うわ。
その領域に辛うじて近い思想家といえば、ジュディス・バトラーかなぁと思うけど。
あれは「世界の色んなセクシャリティのみんな!自分で「変態」(クィア)という称号を名乗ることで
「変態」(クィア)の意味を無効化しちゃおうぜ!みんなクィアなのさ!」
って理論だし、そもそも性癖のようなものが内心の範疇っていうのは現代法ではむしろ常識の範囲だろうし。
その部分を今更理論付けてる思想家って、ちょっといないと思うなぁ。
そもそも、「プライバシー」って感覚が構造主義以降の思想とはあんまり馴染まないし。
むしろ、「内容が事実であっても名誉毀損が成立する」っていう辺りの普通の判例引っ張った方がいい気がする。
柳美里の判例は、「セクシャリティ」が表現の自由を打ち破ったわけじゃないしね。それはあんまり関係ない。
他人の話をそれが誰か特定できる形で出版して訴えられたら、そりゃ負けるよ。しっかし、柳美里はキチガイ過ぎてどうしようもない。
http://anond.hatelabo.jp/20100309164305
フェミさんの基本は既存イデオロギーの破壊で、「家制度」や「家族」といった
既存の抑圧(と彼女たちは受け止める)的制度を破壊するってのは
フェミの皆さんの根本理念のはずだけど。これ知らんって、フェミ云々の議論に参加する資格ないよ。
俺はジュディス・バトラーしか思いつかねーわ。日本に現代的フェミニストって
一人でもいるんだろうか。あいつら脳みそがマルクスで立ち腐ってるだろ。
今回の夫婦別姓についてもその程度にしか思えない。既存制度の「破壊」だけじゃダメなのに。
別姓アリにしたところで、家制度が解体されるわけねーじゃん。やりたきゃやりゃいいと思うけど
ほとんど意味ないっしょ。色々めんどくさくなる以上の何も起きないと思うよ。