はてなキーワード: 河川敷とは
嫌なことがあったわけではないが、死にたい、という漠然とした悩みがあった。
正確な時間は覚えていないが、夜にその気持ちがピークに達して、死にたい気持ちが頭を支配した。
本当に死んでしまったら大切な家族に迷惑がかかるから、死ぬ前に誰かに相談して、思いとどまろうと思った。
死んだ後もお金がかかってしまうから、というのもあるし、私と違って私の家族はいい人なので、家族の力不足のせいで私が死んだとか思われるのは嫌だった。
私は、自分の内側の大切なところを声に出して話そうとすると喉が詰まってなにも言えなくなる。電話相談しても、きっとなにも話せないだろう。無言の時間が続いて、結局何も話せず切ってしまったら、相談を受けようとしてくれた人や、私が話していたせいで話せなかった私よりももっとつらい人に申し訳ない。だから、文章で相談できる場所を探した。
まず、前から入れていたオンラインカウンセリングのアプリを開いた。オンラインカウンセリングは、どこも料金が高い。仕事をしておらず、親に面倒を見てもらっている私にとっては、すごく高い。こんなものなのだろうけど、3回のやりとりで数千円とか、何回もやりとりするなら月に二万円近く払うとかは、私にとっては高かった。このお金を払うとしたら親だ。親に迷惑をかけたくないから他の誰かに相談して解決したいのに、それをするために親に迷惑をかけていたら本末転倒だと思った。借金して未来にお金を返すとしても、中学のころから週五日、あるいはそれ以下の日数で学校に通ったりバイトしたりしようとしてはすぐに通えなくなって引きこもっているこんな私に、それができる保証はない。カウンセリングが成功して踏みとどまれるかもわからない。
だから、お金を払ってカウンセラーに相談するのは一旦諦めて、無料だった、AIを使って自己分析する機能を使った。相手が人間でなくても、気持ちを吐き出したら冷静になれるかもしれないと思った。スマホ代を払わせるのも申し訳ないと思いつつ、機能を使わせてもらったが、あまり落ち着けなかった。私の問題を解決するにはおそらくこのAIでは力不足なんだろうと思った。
厚労省のサイトから、並行して無料相談できるサービスにメッセージを送った。三か所。「込み合っていて返信に時間がかかる」と返ってきて、30分経って、一日たった今も返信はない。
25:30になって、死にたさは膨れるばかりで、声が出なかったとしても、電話相談するしかないか、と思って、24電話相談する場所に二か所電話をかけたが、どちらもつながらなかった。
なんだかテンションが高くなってきていた。そもそも大して不幸な出来事があったわけではないし、いつも頑張って仕事やら勉強やら家事やらをしている優しい両親やきょうだいを持っているという幸福な現状で、働けもしないのになんとか実家の一室で生かしていただいているくせに、死んでしまいたいとか思っている自分勝手な私に、他人の手を煩わせる価値はないと言われてるみたいに感じて、そりゃそうだ!と愉快になった。
でも、やっぱりつらいものはつらいな、とも思った。
もし、私が自殺したら、過去、困った顔で「みんな大変なのは同じなんだから」って言ってきた人に、その「みんな」の中でも、もう一歩つらかったというか、死ぬくらいにはつらかったんだよって、信じてもらえかな、信じてもらいたいな、という気持ちが強くなった。愉快で元気な気持ちのまま、裸足を靴に突っ込んで死ぬために家を出てみた。
どこかで踏みとどまらなきゃ、という理性は残っていたし、まだ返信が来る可能性もあったから、スマホだけは持っていった。充電は20%で、途中で切れたらいよいよ死んでみようかと思った。死ぬ方法についてはあんまり考えていなかった。考えたら本当に死ねてしまうので、考えないようにしていた。
夜風が冷たくて寒くて、空は曇っていて星が見えなかった。とりあえず、まっすぐ、行けるところまで、引き返す気が起きるところまで進もうと思った。
家のすぐそばの坂をずっと下っていけば、踏切がある。ここで立ち止まって轢かれてみたいな、いやいや、どれだけお金と迷惑がかかる思ってるんだ、こまでイカれてはいない、なんてやりとりを自分の頭の中でしながら通り過ぎた。終電は終わっているから、電車が来るわけない、ということに気づいたのは、引き返し始める少し前くらいだった。24時間電車が走っていたら、自殺者はもっと多かったかもしれないなと思った。
踏切をすぎて、ずっと進むと工場地帯にさしかかった。煙突から煙がもくもく出ていて、まだ働いている人がいるのかしら、働いているなら、本当に尊敬するな、と思った。働いているすべての人がうらやましくて、ヒーローみたいに見えた。
T字路になって、ずっとまっすぐ、ができなくなったので、とりあえず左に曲がった。クラピカを思い出した。次の十字路は右に曲がった。また左に曲がったら、家の方に戻ってしまうからだ。
左、右、と交互に曲がりながら進んでいたら、川にたどり着いた。広い河川敷に降りてみた。下流に進むと人が多い場所についてしまうな、と思って、左の、上流のほうに進んだ。
川を歩くころには、今引き返したら、家族が起きる前に家にたどり着いて、家を出た事実をなかったことにできるな、とか思うようになっていた。引き返した方がいいのはわかっていたけど、進んだ距離が自分の辛さの証明になる気がして、歩けるまで歩いてみようと歩き続けた。
筋肉痛と靴擦れで足が痛くなって、河川敷から上がってベンチに座った。
そのころには、もう帰ろう、という気持ちになっていた。もし自分が外にいる間に家の人が起きてしまったら心配をかけてしまう。そのときもし私が死んでいたらすごく悲しくなるだろうし、周りの人に何を言われるかわからない。死んでいなかったとしても、家を出たことを知ったら迎えにこようとしてくれるだろう。どう転んでも申し訳ないから、もう帰って、家を出たことすらも最初からなかったことにしてしまおう。
ようやくスマホを開いて時間を見たけど、一時間くらいしか経っていなかった。歩いた距離も、直線にすれば、最寄駅の次の次、二駅先まで来た、くらいの距離だ。
自分の辛さなんて、二駅歩いたら小さくなる程度なんだ、本当に大したことないな、と少し面白く、少し残念に思った。自殺を試みる人にはきっと到底かなわない。
ところで、「みんな辛いんだから、比べるものじゃない」と言葉は、比べるな、と言いながら目の前の人とみんなを比べているよな、ということは、行く道で何度か考えたことだ。
その日はほとんどなにも食べていなかったから、お腹がすいていた。駅の近くに行って、コンビニにでも寄って、なにか食べて、線路に沿って帰ろうと思った。
24時間のコンビニには、年配の男性店員と、若い男性店員がいて、客も順番に数人入ってきていた。店員さんはもちろん、この時間にコンビニに買い物に来ている人も、みんな偉いな、と思った。
商品を選んでるとき、年配の店員さんが、レジでうとうとしていて、深夜3:00になっていたし、そりゃ眠いよな、体大事にしてほしいな、と思った。
甘いものでも食べようかと思ったが、なんとなく贅沢してはいけない気がして、焼きそばとおにぎりが入った250円くらいの弁当と、爽健美茶を買った。お金は、申し訳ないことにもらっていたお小遣いと、かつて一瞬バイトしていたときのお金を貯めた銀行口座のものを使った。2万円くらいしか入っていないので、カウンセリングを満足いくまで続けるにはちょっと足りないけど、コンビニで安い弁当を買うくらいなら十分だ。スマホのバーコード決済をしてから、レジ袋が必要だと言い忘れていたことに気づいて、もう一度5円のレジ袋を買うためにバーコードを当ててもらって、申し訳なかった。嫌そうな顔をされなかったのは、店員さんが私に興味がないからか、私が泣き続けていて顔を腫れさせていたからかどっちかな、とか自意識過剰なことを思った。
駅のベンチで冷たい弁当を食べた。ヤマザキパンのトラックがコンビニの前に止まって商品をおろしていた。働いているすべての人に敬意を感じているので、やはり尊敬した。
コシの片鱗もないぷつぷつ切れる焼きそばと、鮭フレークと青菜のおにぎりと、ケチャップがかかったコロッケ。どれも誰かが作ってくださっているもので、とても美味しかった。寒い外で冷たい弁当を食べたので寒かった。
爽健美茶をちょっと飲んで、ゴミを持って、線路に沿って帰った。
帰り着いたのは午前四時すぎだった。Twitter(今はX)を開いたら、偶然起きている人がいて、私の数時間前のツイートにエアリプしていたので、エアリプで一時間くらい元気に会話した。創作で繋がった人だ。創作と、好きな漫画の話をした。漫画は、タイトルを挙げようかと思ったけど、こんな人間が推しているのが申し訳ないので伏せる。(さっきクラピカの名前を出してしまったけど、そっちはミームだからいいとする。)きっと相手はついさっきまで会話している相手が死ぬために家を飛び出していたとかは思いもしないだろうな、と思った。インターネットの、そういうところが好きだ。
5:00くらいにその人が寝たので、靴擦れで血が出ていたが放置して寝た。
13:30くらいに起きて、親と会ったけど、深夜に家を出た話はできなかった。
Twitterのおすすめ欄に、はてな匿名ダイアリーが流れてきた。なんとなく調べてみて、匿名で日記が描ける場所なのだと知った。
dpzでも記事になってるというか、小田原のオススメスポットはこの記事読めばええんちゃう?みたいな。
>小田原にはトリックアートみたいな不思議な景色がある~地元の人頼りの旅in神奈川県小田原市~ :: デイリーポータルZ — https://dailyportalz.jp/kiji/170915200663
石垣山一夜城はちょっと遠いのだけど、行くなら坂の途中の堀秀政墓所にも寄るのをオススメ。景色がバツグンによいし、墓所の脇のオバケのような樹木も味わい深い。
明治天皇皇后が立ち寄った海岸。まあ、そういうの抜きにしても、海を見るのは一年中いつだってええものやないの。
大久保忠世・忠隣の親子が酒匂川の土手を整備し、小田原合戦で荒廃した土地を見事に復興させた。
のちに酒匂川は富士山の宝永噴火で大量の火山灰で土砂が堆積して水害が頻発するようになった。
自慢のイチモツをポロリして「ちんちんぶらぶら総世寺」と言えば彼女も爆笑まちがいなし。
近くに古墳群がある。
一号墳の主は百塚の王の異名を持ち、古墳からは足柄平野を一望できる。
dpzでも取り上げられている。なぜかGoogleマップでは早川港になっている。
2人前で1500円くらいする冷凍もつ鍋が、ドラッグストアコスモスで売られている。これ誰が買うんだよと思ってたんだけど、ネットで調べたら評判が良かったので、エイヤと買ってみて、彼女とやった。
IHコンロをわざわざリビングの机に移して、加熱しながらの鍋をやった。
美味しかった。美味しかったし、楽だった。材料を順次投入するだけで、かなり本格的なもつ鍋ができた。でも途中で(うまいけど)モツ食うのキツい!ってなって、キャベツや豆腐を狙って食い、「ほら、モツだよ…食べな……」と、親切めかしてモツを食わせあう一幕があった。
食品センターなる謎の店があって、海鮮が充実してるとのことだったので2人で行ってみた。
うっすら床が湿っていて、やや薄暗く、陳列はなんとなく乱雑な印象だったが、それでいて客は多かったので逆にいい店なのだろうと感じられた。
刺身の盛り合わせと唐揚げを買った。季節は冬で、歩くのがあまり苦ではなかったから、少し歩いて近くの海まで行った。
防波堤の先まで行って、適当に腰掛けて、食べやすそうな唐揚げを食べた。うっすら暖かくて、なかなかいい味だった。陸の方を振り返ると、犬の散歩をしているおじさんなんかがいた。
初デートで近所の山に登ったあと、同じく近所の川に行った。
かなり川幅が広くて、河川敷も整備されているタイプの、都市的な川だった。
川に詳しくないので、目的はよく分からないんだけど、飛び石みたいなコンクリートブロックが川幅ぶん×5列くらい敷いてあって、渡ろうと思えば渡れそうだったし、特に渡るなとも書いてなかったから、2人で渡った。
児童公園なんかの、本当に子供が渡ることを想定した飛び石とは違って、そこそこ距離もあるし、落ちたら浅いとはいえマジの川だったので、俺はけっこうビビって、おっかなびっくり、ゆっくり渡っていた。その間に彼女はピョンピョン跳んでいって、けっこう先から俺の方を振り返った。そのときの笑顔がすげえ可愛いくて、俺はこの人と付き合ってよかったなあと思った。
公園とかにある回転遊具の小規模版という感じで、筒につかまって地面を蹴るとガンガン回れて、その間に足を突き出したりして、回転速度の変化を楽しんでください、という趣旨だった。
最初は土日に行ったので子供がずっと遊んでいて、彼女は「あれやりたいなー…」と言っていたが、空きそうな気配がないので諦めて帰った。
平日にリベンジして、子供どころかほかの客自体がまばらな状態で、彼女は存分に回っていた。よかったねえ…と思った。
ノーパンで浴衣を着て外を歩くフェーズがあって結構ドキドキしたりしつつ、本題の砂風呂にたどり着いた。
砂をかけられ、おお重い重い、これが砂風呂かあ!などと思い始めたところで、後ろから声が聞こえてきた。
「お前さあ、ホント動かないよね。人に動かせるなよ。いい加減にしろよ、本当」
「はい…」
「さっきも全然砂かけてなかったじゃん」
はじめ、社員旅行とか部活の合宿か何かで来た客同士がやり合ってんのかと思い、こんなアクティビティ中に説教すんなや!と思ったが、やってるのは砂風呂の従業員だった。
気まず!全部聞こえてんぞ!と思った。首だけ動かして隣の彼女に目をやったら、まっすぐな目で虚空を見つめていた。
電車で行きにくい場所にある植物園に行った。バス停から1キロ前後の距離があったんだけど、その道がほとんど直線で、広い道路で、中央分離帯兼植栽みたいなものも充実しており、歩き甲斐のある道だった。
植物園自体は1980年代とか90年代とかそのあたりの、なにか大きな国際イベントを期に整備されたものらしく、大きくて古びていた。
遠目に目立つ塔状の構造物があったので、入園してから近くに寄ってみたら、かつては展望台だったけど今はやってません、と言う旨の張り紙がしてあった。停止した自動ドアのガラスの向こうには人気のない薄暗い受付がうっすら見えていて、それと同時に自分たちの姿もガラスに反射していた。その情景をなぜかよく覚えているんだけど、なぜかはよく分からない。
どうぶつタワーバトルを彼女に勧めたら、ゲームをやらない彼女にしては珍しくハマってくれた。
最初は経験の差で俺が勝ちまくっていて、なんなら少し手を抜いたりもしていたんだど、最近では全くの互角か、彼女のほうが強いくらいだ。センスがあるんだと思う。
今日の事はどこかに書き記して、そして忘れたかったから、この日記帳に記して捨てるつもりだ。
昨日、初めて限界を超えて酒を飲んでいた。
自分は酒を好む性格ではなく、ましてや日常的に飲むことはない。
3%の酒くらいが関の山で、それでも2,3本飲めば終わりしておく。
その原因はもっと単純で、計画中の旅行の代金をもっと安くできたはずなのに、それを選ばなかった事を後悔したこと。
そして、その後悔を覆すためのキャンセルができないと知ったことだった。
しようと思えばもっとできるのかもしれないが、そうしたならば折角の休学中の身分を活かしきれないと思っている。
それに何より、休学後、つまりは来年度の内定先の月収を超えてしまうのは、何となく、来年度からの仕事に身が入らなさそうで嫌だったのだ。
そんな我が儘による月10万程度の稼ぎ。
それを優に超える出費というのは、慎重に選ばなければいけなかった。
それなのに、キャンセル不可。ついでに変更不可。
もっと安くする手段があったはずなのに、慣れていないという理由から友人に全てを任せてしまって、いろいろと決められた時には手遅れだった。
数万単位の金は戻ってこない。やり場のない感情だったから、愚痴を言うほかは無かった。
私は母に対し、愚痴を言った。
母がよくそうするように。
私はもう解決しないことを愚痴って、気持ちの整理を付けようとしたのかもしれない。
もっと働いて金稼げとか、過ぎた事なんだからしょうがない、とか、そんなありきたりの回答は欲しくなかった。
しかし、愚痴を聞いた母の回答は私の予想以上のものではなかった。
もっと働いて金稼げとか、過ぎた事なんだからしょうがない、とか、そんなありきたりの回答をくれた。
私はその回答を予想していた。母はその通りに答えた。だから最初から、濃いめの酒を私は準備していたのだろう。
それでは足りなかった。
いつもは母が愚痴を言う方で、それが逆転した希少な状況。
そして、私の愚痴の原因は、数万円程度の失敗。取り返そうと思えば、いつでも取り返せる額だ。
だから、私を面白おかしくいじろうとする意図が見て取れた。例えそうでなくとも、私はそう感じた。
私はすぐに酒を飲み干し、買い物に行くと言って外に飛び出した。
そして、コンビニで濃いめの酒を数本買った。
外は幸いにも涼しく、天気が良かった。
日はすっかり沈んでいて辺りは暗く、住宅街を抜けた先の河川敷に移動してしまえば、辺りの暗さは一層に増している。
つまらなかった。
すぐに酔いは回らない。酔いが回っても楽しくもない。自分を責める声だけが、自分の口から漏れ出していく。
だけれど、その大小を決めるのは私である。
途中で何人もの人々とすれ違ったはずだ。
自転車のヘッドライト、ペットの光る首輪、ランニングする人々。
誰も私を気に留めない。
発狂した。
だから、いろいろ上手くいったこともあるし、だからこそ、上手くいかなったこともある。
休学の理由もそうだ。
研究室という閉鎖空間において、パワハラ気質の教授という最悪な人間にあたってしまったが、それでも魅力的な研究をしていると思っていたから、ついていこうと頑張ってきた。
だが、そんなもので人を見るべきではなかった。
研究という科学的なプロセスにおいても、科学的事実よりも人格という感情論を優先して上に立つ者を選ぶべきだったのである。
幸いにも私は、その環境を脱し、色々な苦労を経て、就職先とバイト先を見つけることができた。
ただ、私の性格というものは、どうにも変わり切れていなかった。
今は実家に戻っていて、いわば、居候のような状況で、居心地が良いとは言い難い。
だから度々、客観的には帰りの遅くなる母を思いやって、主観的には居心地の悪さを緩和するために、そして、小言を言われないように、家事を手伝った。
そして、度々、私は母の愚痴を聞いてやるのだった。
さて、発狂した私の話に戻そう。
私は発狂のあと、酷くなる頭痛を治めるために水を買いにコンビニに行った。
水のペットボトル、酒の缶。
それを買って、再び、河川敷に戻る。
空を仰ぎ、水を飲む。頭痛はずっと続き、私を苦しめる。
自分が何もかもの原因で、自分のせいであり、自分が悪いんだと、私は自覚した。
その時、自転車が通り過ぎた。
座り込んでいる私に一瞥もくれずに。
私は買って来た酒の缶を地面に叩きつけた。
噴水みたいに酒があふれ出す。
私の心の中のように。
気が付けば時刻は夜11時を回っていた。
私のスマートフォンは、何の通知も受け取っていなかった。
膨大な数のラインを母に送った覚えはある。それを受けてから、掛かってきた母の電話に出る気は無かった。
これからの私も、これまでの私も、今の私も、他人の事を思いやるくらいはできると思っていた。
傲慢だったらしい。
帰ってみれば、母は寝る準備を済ませていた。
私は一言だけ、たぶん「ただいま」とかいう当たり障りのない言葉を取りあえず投げつけて、ベットの上で、床で、風呂で、眠れない時間を過ごした。
一度だけ、母が目を覚ましていたような気がするが、あれは気のせいだったということにしておく。
そして、朝日が昇った。
私はまだ痛む頭を抱えながら、外に出た。
清々しい朝だった。
私の気分も晴れ晴れとしていた。
心の枷が外れたような気がした。
そのことに気づいただけでも、十分だった。
思いやりは、最小限で十分だと気が付けた。
はてサは金玉以外にもチャーミングポイントが欲しいと考えていた
金玉は素晴らしい
金玉だけではなく竿も売り出そう
竿の魅力も知ってもらおう
竿をギンギンに隆起させて見せてみた
使うことができるようになる
いや問題ではない
変身すればその辺は何とでもなる
では何が問題なのか
まずは出会いだ
子ども食堂をやれば役に立つと教えてやったら
草をむしったり虫を取ったりドブを漁ったり海へ行ったりして
はてサは気づいた
日本人のレベルが低すぎてこの素晴らしい料理が理解できないのだと
ならば導くしかあるまい
僕のソーセージは食ったのか?
何が僕のソーセージだ
ちんぽを誇るより金玉を誇れ
と言って金玉を出して
食って質問を始めた
はてサは夜中に目を覚ました
目の前に髪の長い女がいる
顔色が悪く目つきも悪い
白い服を着た陰気な女
知らない女
泥棒か
それにしては部屋の中を物色していない
はてサのことをじっと見ている
何者かわからない
おそらく不審者だ
ならば遠慮はいらない
はてサはぶん殴ることにした
が
手が動かない
全身動かない
指先もまぶたも何もかも動かせない
化け物か
妖怪か
とんでもないやつというとこは理解できた
このままではやられる
はてサは焦るが体は動かない
女が手を伸ばし
女の指先が
金玉に触れた
もにゅもにゅ
もにゅもにゅ
女は五分ほど金玉を揉んだ後
歩いて部屋を出て行った
海賊王に俺はなる!
と言ってはてサが姿を消したのはもう何ヶ月も前のことになる
自分の手下としてこのグランドラインでワンピースを探すために働かせていた
手下たちを後ろに従え宝探しをする
そろそろ暗くなってきたので解散かと言う空気になってきたところ
ワンピースはこれだぁぁぁぁあと
奪い合いになり
金玉を引きちぎって持ち去った
この世の全てを手に入るような宝物を求めて旅立った
宝は地底の迷宮に隠されていた
それは持つものの金玉に無限のエネルギーを与える金玉ブースターだった
人間には過大な力だ
はてサは宝を置いて帰ろうとしたところで
以降
うちには子どもがひとりいる。4歳の男の子。かわいくて元気。本当にめっちゃ元気。楽しいこと、面白いことが大好きで、知らん人にも気にせずバンバン話しかける。でも意外と常識面はしっかりしてて、意味不明なことはあんまりしない。小さい頃はまあよく泣いて手のかかる時期もあったけど、言葉が通じるようになり、大変と思うこともなくなってきた。いわゆる余裕が出てきた状態。
息子は不妊治療でようやく授かった第一子。妊娠が分かったときはもう天にも昇る気持ちだったし、生まれる前も生まれてからも大体ずっとかわいくて。夜泣きでイライラした夜も、話が通じずギャン泣きされて途方に暮れた夕方も、逃げ出したいと思ったことはあったけど、トータルで見たら、かわいい大好きが圧勝してる。
こんなにかわいいんなら、こんなに愛おしいんなら、もう一人いてもいいんじゃない...?ってふとした時にいつも思う。弟か妹ができたなら息子は絶対喜ぶし、何より私が、ほやんほやんの赤ちゃんを、もう一回だけ育ててみたい。赤ちゃんの息子と過ごした日々をもう一回だけ丁寧に、死ぬまで覚えていられるようにじっくりじっくり噛み締めながら過ごしたい。
とは言ってもね。
じゃあもう一人産みましょうかと簡単に言えるものでもなくて。正直毎日仕事だけでもくたくたで、保育園から帰ったあとは風呂メシ寝るの三拍子。とてもじゃないけど、離乳食を撒き散らかすバブちゃんを相手にできる余裕はない。そもそも私は不妊治療が必要で、お金だってたくさんかかる。生まれてくるかも分かりはしない存在にお金をドバドバ注ぎ込むよりは、いま確かにいる息子のために使いたいし溜めときたい。
ここまではまあ私というか親の都合。息子の意思はどうかというと、遊び相手に飢えてる。とても。帰り道のスーパーで、じゃれあう兄弟を羨ましそうに見つめる顔がいつまで経っても忘れられない。できることなら、一緒に遊べる弟を、かわいくて仕方ない妹を、自然な流れで妊娠し、おぼつかない手で抱っこする息子の顔が見たかった。その可能性が消えたわけではないけれど、私は多分、もう産めない。息子の時に燃えていた不妊治療への情熱や、がむしゃらに0,1,2歳に向き合う気力体力をもはや持ってはいないのだ。だって私はもう知ってる。子どもからギャン泣きされると本当につらくて泣きたくなるし、寝不足は人を狂わせる。かわいいはずの小さい子どもにイラついてしまう自分の器の小ささも、疲れを理由に遊んでやらない根性の無さも嫌というほど分かってるから。二人目を迎える資格も覚悟もないのだ、本当は。
そうなると、選択肢に上がってくるのがワンちゃんだ。ねこちゃんでもいいけれど、なんとなく、一緒に遊ぶといったらワンちゃんだろう。かわいいワンちゃんを迎えたら、それはそれは楽しくて、私は息子と毎日夕方、河川敷まで散歩に行って、しみじみと季節の移り変わりを楽しむだろう。そのうち大きくなった息子と一緒にリードをひいて、家ではなかなか話せない、学校のことや恋の悩みを聞くかもしれない。それはなんか、すごくいい。
とは言っても、私はこれまで犬を飼ったことがない。最初のしつけの大変さとか、散歩の量とか、老犬になった時の介護とか。ことあるごとに話を聞いては、その存在の大きさになかなか勇気が出なかった。犬と暮らす生活は多分きっと楽しくて、本当の本当に幸せだけど、とにもかくにも別れがつらい。私は結構楽観的な性格なので、別れはもちろんつらいけど、生きてる間はそれを上回る喜びが絶対あると思ってる。小さい頃から犬と一緒に生活してきた人はみんなして家族以上に家族とか、兄弟みたいな存在だって話すから。息子にはせめて、傷ついたとき、そっと側に寄り添ってペロペロと涙を舐め取ってくれるあたたかで優しい存在をつくってやりたいと思うのだ。
ということで。
最後の戦いとして気合をいれて第二子を望んでみるべきか、わふわふと無邪気な愛想をふりまいて家族みんなを癒すけど、家族より長生きしてはくれない命を迎えるべきか。
答えがでません。いつまでも。
たくさんのご意見をいただきありがとうございます。
色々な立場の方がいて、色々な方法があることが分かり、読んでてとっても楽しいです。いただいたコメントについて、いくつか補足させてください。
・夫について
第二子には消極的。理由は私が絶対大変だから。不妊治療も出産も夜泣きも授乳も平日の世話も夫より私の負担がずっと大きい。ママママ大好きママ大好きな息子の相手で疲れた私のためにいつだって何でもやってくれるし、私なんかよりずっと育児に向いてる夫。私が不妊体質じゃなく、体力が人並み以上にあったなら、二人目も喜んで迎えてくれると思う。犬については別れがつらくて飼えない派。でも結局、私の意思を誰より大事にしてくれるので、私の心が決まったら全力で支えてくれると思う。あと多分だけど彼は猫派。
何度目かの体外受精で凍結できた受精卵2個のうちひとつが息子。ひとつは去年お腹に戻して着床したけど育たなかった。自然妊娠は今でもひそかに期待してるよ。毎月毎月、宝くじみたいな気持ちで臨んでるけど、生理が来るとがっかりするし、来なきゃ来ないで(遅れただけで)そわそわはらはらしてしまう。私はいつまでこれを続けるんだろなあって思ってる。
それもあっての犬ですよ。妊娠中に私が無事とも限らない。出産で命を落とすかもしれないし、第二子がどんな感じか分からない。息子がいる分、極力リスクはとりたくないけど、リターンが素晴らしく大きいことも知っているから悩んでしまう。
・犬はおもちゃじゃない
火事が起きて途中中止になったけど花火は最期まで上がっていたといういたばし花火大会だが、実は戸田市との共同開催になっていて、荒川を挟んで板橋側だけが中止になったのだ。荒川を挟んで両岸で打ち上げまくるのね。
でも板橋区の方では「いたばし花火大会」としてしかアナウンスされないし、戸田市側の方は「戸田橋花火大会」としてしか案内されないから、東京都民or板橋区民の中には戸田市の方でも打ち上げてるのを知らない人が結構いるし、反対側の埼玉県民、戸田市民の方も然りで、「中止になったのに最後まで打ちあがってたのは何故???」というなぞなぞみたいな事になってしまった。
そして両岸で共同開催という珍しい形になったのは、荒川の改修工事が元になっている。
赤羽の岩淵に岩淵水門という隅田川入口を締め切る水門があるんだが、そこから下流の荒川は大正から昭和初めに掛けて開削した放水路だ。それまでは荒川の全水量が今の墨田川に流入していて水量が増えると東京の下町の方が洪水になってその都度大損害を出していた。
そこで荒川放水路を掘るという大工事に至ったのだ。普段は岩淵水門を開けておいて水は隅田川の方に流れているが、水量が増えたら水門を閉めて全部放水路の方に流れるようにする。
同時に岩淵水門の上流も大改修する必要があった。荒川がうねる様に大蛇行していて、当時の堤防というのは河道から500m~1kmも離れた所にあり水が溢れたら堤防までの土地(堤外地)は水没、という扱いになっていた。
これを止めて直線的に流れるようにして堤防に対する攻撃力を下げる。そしてちゃんとした高い堤防で完全に水を封じ込むようにする。
ついでに合流する河川も改修する。新河岸川は彩湖の付近で合流していたが、荒川の堤防だけ高くしても洪水時は新河岸川の方に逆流するからそこから洪水になって無意味だ。
そこで新河岸川の堤防を荒川準拠に高くする代わりに、新河岸川の合流地点を延長して荒川と平行して流し、赤羽まで持って行く。そして岩淵水門の下流で隅田川に合流させるのだ。確かに荒川の水量の影響を受けなくなるがすごい工事である。
で、その河道はどうするかというと、蛇行している荒川の頂点に接線を引いて、北側接線を荒川、南側接線を新河岸川にした。
すると接線の間にはサインカーブで分断された土地というのが出来る。
そしてそれまでは荒川が埼玉県と東京府の境だった。荒川の位置を変更して北側接線にしたから、東京府側に下に凸型の埼玉県飛び地がいくつか出来たって事になる。
このサインカーブ飛び地問題、今の埼玉県川口市&東京都北区、埼玉県戸田市&東京都板橋区が影響を受けるが、川口市&北区側は早々に解決した。
今の埼京線浮間舟渡駅~北赤羽駅の浮間地区は元は埼玉県横曾根村の浮間だった。だが荒川改修直後に横曽村と川口町の合併(川口市へ)が控えており、その時に東京府に割譲すると取決めがされてその通りになった。
一方、戸田村の船渡地区は東京府との協議が難航していた。浮間の方は横曽村がほぼ丸ごと東京側に行くのに大して、戸田村の集落は埼玉側にあり、その船渡地区だけが東京側に行く。
時折線が入り組んだ複雑な県境があるが、それが出来る理由というのは同じ地主の土地が県境で分かれないようにする為というのが多い。この場合は地主の土地を引き裂く県境引き直しだから難しい訳だ。更にその土地が工場に売られたりして更にややこしくなった。
そうするうちに戦争が始まってしまう。東京府と東京市は無くなって東京都と板橋区が出来て話し合いの主体もリセット。もう解決不能である。
戦後になって流石に復興する前にあれ何とかすべきだという事になり、1950年、難航の末に戸田町と板橋区の間で県境を荒川にする事で合意。今の地図を見ても蛇行の名残は見える。
https://goo.gl/maps/uEMgZazGCHPmMV2Q6
新河岸川の角みたいなのと浮間公園の池が蛇行の跡で、戸田葬儀場があるU字型の土地が戸田町から板橋区に割譲された船渡地区だ。
そこでこりゃ目出度いって事で、戸田橋花火大会を開催することになり、板橋区もそれに協賛という形で加わる形となった。後に協賛じゃなくて戸田市側の戸田橋花火大会、板橋区側のいたばし花火大会同時開催という形に変化。
そしてこのいたばし花火大会の開催&打ち上げ地点というのはこの戸田市からぶん捕った土地の河川敷なのである。これは飛び地問題解決を祝って始めた花火なのでここじゃなきゃいけないわけだ。
荒川の河川敷は今の経緯から見ても判る通り、元は農地だった。戦後すぐまでもそのままで農民は河川敷の農地を所有し堤防を越えて農業をしに来ていた。
だが堤外地で増水時には水没する土地でもあり自治体は土地を購入して運動公園への転用、ゴルフ場や教習所など水没前提の事業者への売却を促してきた。つまりは「平地」として活用されてきた。
だがそのうち荒川旧河道は誰の土地でもないから放置されて荒れ地のままになっていた。それも昭和後期あたりから公園や払下げなどが進んできた。
だが現河道と旧河道の合流部は敢えてそのまま残される事になった。水面が切れ込んでいるので水生生物が流されにくい。そしてその周辺は敢えてそのまま荒れ地のままにしてバードサンクチュアリにする。
という事で、他の部分は運動場などで使うので綺麗に芝刈りされているのに「一か所だけ荒れ地のままにしているところでナイアガラをする」という条件が揃ってしまったのだ。
旧河道付近は荒れ地のままにして、戸田市からぶんどったこの土地でやるのが元々の花火のテーゼだから仕方がないのだが条件が悪いな。
増田の推測だと他の悪条件も重なったと思われる。
まずは2019年の台風19号。これによって荒川は増水し、昭和初期の堤防の高さを超える位置まで水位が上がった。
水が引いた後は河川敷の教習所もゴルフ場も泥まみれである。これらは2~5cm以上にも達し、人力で除去されたのだが、荒れ地の泥はそのままだったはずだ。
そして洪水の泥はナイル川デルタに文明を発生させるほどに肥沃であって、泥がそのままの荒れ地は猛烈に雑草が繁茂したはずだ。
更に2020~2022は東京五輪とコロナの為に開催中止。肥沃な泥で荒れ地の雑草たちは伸び伸びと繁茂しまくり、その中には葛も含まれていた。こいつが来たらもう手に負えない。
そんな悪条件で更に当日は風が強かった。堤防下に管理用道路があり、その脇の数mは普段から草刈りされていて、そこでナイアガラするのだが、そこを遥かに超えた所まで火が飛んでしまった。そしてそこには台風19号で肥料を大増量されて3年以上も繁茂しまくっては枯れと繰り返した雑草、特に葛が居たのである。悪条件が重なりすぎなのだ。
戸田市側の堤防の向こうには戸田のボート場があるが、これは東京五輪用に作られたものだ。
だがこの五輪は2020大会でもなけりゃ戦後の1964年大会でもない、幻となった戦前の1940年大会用に作ったものである。日中戦争激化でキャンセルされた幻の五輪に向けてこれだけ大きなボート場を作ったのだ。でも当時は埼京線は無いし交通はどうするつもりだったのか?都電が戸田橋の南詰まで走ってたがこれは戦後開通だし。
今は西側1/3をギャンブル競艇、東側の残りの水面を大学や実業団の漕艇部が使うという形になっていて、それらの艇庫がズラリと並ぶ。
飛び地問題を早々に解決した川口市の方は荒川での花火大会は無かった(最近出来た)。
だが戸田&板橋の花火大会が羨ましくなった川口市はたたら祭りという祭りを開催。その〆に花火を打ち上げている。
これは川口オートレース場で行われるが、狭いところで打ち上げるので尺玉などは無くて、数も3500発位と、スペックだけ見たらしょぼく見える。
だがオートレース場は観客席と防音壁で囲まれており(数年前までマフラー無しの直管だった)、そこで打ち上げるので音が反響してもの凄い迫力である。また打ち上げ場所が近いので灰や花火の殻がバラバラと沢山降ってきてかなりワイルドなんである。
これは高級スポーツカーよりレーシングカートの方が楽しいとかジャンボジェットよりもセスナやブリテン・ノーマン アイランダーの方が体感的というのに似ている。
先のgooglemapsの航空写真では船渡地区のU字の丸い底の方に工場群が写っているのが見える。
これは新日鉄の工場で、新河岸川は舟運が出来るので戦後すぐに出来たものだが(貨車、トラックに乗らない長物が運搬できる)、実は今は解体されて無くなっている。
都内最大の超巨大物流センターになる予定で、ドローン配達の基地にもなるそうだ。
ただ、ここは実はスーパー堤防予定地である。また、対岸側の川口市の方にはやはりスーパー堤防予定地にタワマンが数棟建っている。
いいの?と思うがスーパー堤防の整備年数は400年、タワマンや工場の耐用年数は60年で、修繕しても120年くらいだから建てちゃっていいそうなのだが、スーパー堤防の壮大さというよりも大言壮語さに驚いてしまう。
花火会場の直ぐ近くを東北新幹線と埼京線が鉄橋で渡っており、埼京線は打ち上げ中は徐行して渡る。新幹線は普通に走っているので乗客へのサービスと思われる。
韓国の雑踏事故とコロナのせいで有料席だけとして無料の人は出ていけとしている大会が増えていて今いたばし&戸田橋もそうだが、これだと市街地の道に人が溢れ、トイレやゴミ箱の設置が無いからその始末を住民がする事になって運営が無責任だ、見えなくしただけだという感じで結構ヘイトを買っている。このやり方はまずいんじゃないのか?