はてなキーワード: モノクロとは
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
そんな訳ないだろ。
芸術方面(特に絵や配色等)において生まれ持った資質を無視して「努力すれば誰でも出来る」と言われがちなのは何故だろう。
世にいる絵描きは「絵が描けない人」の描けなさ具合を舐めすぎ。
よくある「絵が描けない人が練習でこんなに描けるように!」みたいなのだって、本当に絵が描けない人を知ってると「元々かなり描けてるだろうが!」って思う。
本当に絵が描けない人は、何かの認識能力的な物が著しく欠如してる。本来その視点からでは見えないものを描いたり、逆に見えるはずのものを描かなかったりする。これはマジで解消のしようがない問題で、模写をいくら繰り返しても線に迷いがなくなるだけで物の形を正しく捉えられない。
グリット状の補助線を引いても無理。モノクロにしても無理。何しても「なんでそこに線を引くんだ?」ってなる。
別に字が下手な訳じゃない、キャッチボールやラケットを使った球技だって出来る。字であればお手本を見て真似できるし、空間認識能力がないわけでもない。
でも絵は描けない。そういう人は沢山いる。
これが例えばスポーツなら、生まれ持った「体格」が結果に大きな影響を与えるし、努力だけではどうにもならない世界があるのは理解が得られると思うんだよね。
みんな~。
フィルムカメラやろうよ。
フィルムカメラは文化だ。このままオワコンにするにはもったいない。
みんなで延命しよう。
フィルムカメラに触ったことがない若者も、昔はバリバリ使っていた中年も、またフィルムをやろう。
●フィルムのいいところ
いろいろあるよ。よく言われるのは、一発勝負だから緊張感があるとか、写りがその場でわからないから現像上がりが楽しいとか、写りが勝手にレトロになるとかだよ。
デジカメと違って1枚1枚にコストがかかるから、撮るときも見るときも気合が入って、写真芸術により真摯に向き合えるようになると思うよ。iPhoneで手軽に写真を撮って手軽に見れる時代だからこそ、フィルムは面白いよ。俺は最新フルサイズミラーレスデジタル一眼も使うけど、やっぱりフィルムの楽しさは格別だよ。本当はフィルムで取りたいけど金をケチるためにデジカメを使ってるまである。
こうやってフィルムのいいところを挙げていくと、俺が挙げたいいところに対して反論を試みる謎の人間がかならず現れるよ。たとえば「レトロな写りが良いならデジタルで撮って編集しろよ」とか言い出す謎の人間がかならず現れるんだけど、俺たち絶対そんなめんどくさいことしないじゃん。フィルムで撮ったほうが話が早いよ。「写りがその場でわからないのが良いとか言うけど、デジカメで撮ってモニター見なきゃいい話じゃん」とか言い出す謎の人間も現れがちだけど、俺たち絶対そんなめんどくさいことしないでしょ。そういう面倒なのを全部すっとばして手軽に緊張感のある撮影体験とレトロな写りが得られるのがフィルムの良いところだよ。フィルム愛好家はこの時代にあえて不便な方法を選択している奇人に違いないと思われがちなんだけど、じつは逆で、怠惰だからフィルムを選んでるんだよ。フィルム写真の良いところは手間がかかることではなく、むしろ手間がかからないところにあると言って良いよ。
●ランニングコストについて
一番安いフィルムで36枚撮りのカラーフィルムが1600円くらいだよ。1枚44円。きょう富士フィルムの値上げ発表があったように、値段は上がる一方なんだけど、少なくともあと数年は1枚50円くらいだと考えておけばいいと思うよ。たけ~。
現像は好きなところに出せばいいけど、俺はPriNet1ってサービスを使ってるよ。郵便でフィルムを送ると現像してデータをCDに書き込んで送り返してくれるよ。36枚撮りのカラーネガフィルムで760円だよ。1枚あたり21だね。
フィルム代と現像代で合わせて1枚65円だね。高え~。高すぎる。
まあでも、月50枚撮っても3250円だからね。安くはないし、5年くらい前と比べて倍近くなったけど、大人の趣味って考えれば法外な値段だとは思わないよ。
●イニシャルコストについて
フィルムはなんといってもイニシャルコストの安さが魅力だよ。フィルムカメラはめちゃくちゃ安い。ライカみたいな一部のブランドカメラじゃなきゃ、たいていは5000円もだせば動作保証のある機種が買えるよ。国産の不人気機種なら2000円くらいで買えることもある。昔は家1軒買えるといわれたライカみたいな舶来高級カメラですら、今は物によっては3万円くらいで買えるよ。デジカメの最新高級機がいつの時代も100万円くらいする一方で、フィルムならその時代のフラグシップのほとんどが1,2万円以下で買えるよ。
カメラっていうのはバネと歯車でできた機械だから、マニュアルの高級機は触ってるだけで楽しいよ。これもフィルムの魅力だね。
ぶっちゃけカメラ趣味って続く人はかなり少ないから、イニシャルコストが安いのは魅力的だよ。10万のデジタル一眼を買ってすぐ飽きるのと、5000円のフィルムカメラを買って1万円分撮って飽きるのとだったら、後者のほうが圧倒的に傷は浅いよ。フィルムは金がかかるって言われがちだけど、入門者だけに絞って見ればフィルムのほうが安く済んでる人も多いと思うよ。
●はじめかたについて
まずお店に行って見た目が気に入るカメラを選ぶといいよ。フィルムカメラは見た目がおしゃれなのが一番の魅力だから、見た目から入ったほうがいいよ。ぶっちゃけ画質や性能ではデジタルカメラに絶対勝てないから、持ったときのフィーリングとか、身につけたときの自分がイケてるかどうかで選ぶべきだよ。ビビっときたカメラを買おう。
この段階ではショールーミングするだけだからお店はなんでもいいよ。どこにでもある系のお店だとハードオフが良いかな。都心なら専門店がいっぱいあるよ。ビビっとくる機種があって、値段に納得できたらそこで買おう。納得できなかったらヤフオクとかメルカリとかネット通販で調べてみて、そっちのほうが安かったらそれを買おう。
このとき、35mmフィルムが使えるかどうかを確認するのが重要だよ。フィルムには、圧倒的に普及している35mmフィルムの他にも、中版フィルム(ブローニー)とか、110フィルムとか、APSフィルムとか、いろいろあるよ。けど、中版フィルムは死ぬほど高い、APSフィルムは絶滅、110は虫の息だよ。このへんはとりあえずは避けたほうがいいよ。
フィルムカメラはどこかしらに不具合がある機種が普通に売られている世界だけど、不具合があると書いてあるカメラはなんであれやめたほうが良いよ。簡単に直せる不具合だったりもするけど、そうは言っても買ってきてすぐに使える完動品のほうが最初はいいよ。
本体を買ったら次はフィルムだよ。モノクロとカラーがあるから好きな方を選ぼう。カラーにはネガフィルムとポジフィルムがあるんだけど、ポジは難しいから最初はネガを使おう。フィルムの箱には、100とか200とか400とか800とか謎の数字が必ずでかでかと書いてあるんだけど、最初は400がいいよ。この数字は感度ってやつで、数字が大きいほど光への感度が高くなって暗い場所でもしっかりとした画が撮れるよ。そのかわり値段が高くなったり、画質が落ちたりするんだけど、安くて画質が良いのが好きなら究極的にはiPhoneが最強になってしまうからね。400くらいがちょうどいいよ。100は屋外じゃないと基本的に使えないし、800は高すぎて買えないからね。昔は1600とかもあったけど、フィルムがオワコンになって消えてしまったね。
フィルムにはサイズがあって、これを間違えると使えないから注意が必要だよ。いちばん普及している35mmフィルムを買おう。135とか35mmとか書いてあるのを買えばいいよ。
富士フィルムとかコダックとかいくつかメーカーやブランドがあるけど、感度が同じならぶっちゃけ銘柄はなんでもいいよ。どれを選んでもそれっぽいレトロな感じに勝手になってくれるよ。俺も適当に選んでる。何も考えずに選びたいならKodakのUltraMAX400でも買えばいいよ。
●最後に
最後になんとなくヨコハマ買い出し紀行の有名な一節を載せておくよ。みんな好きでしょ?
ー
お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころのこと
夜が来る前に
作りが力業というか、美しくない。大量にカメラ、CPU、ディスプレイを搭載していて、個人的に好みな構成ではない。
個人的に好きなハードにニンテンドーDS(特にlite)がある。その理由の一つに、搭載しているGBAのCPUを効率的な使っているという点がある。具体的には、下画面の描画とGBAエミュで、このCPUを使っている。
似たような例として、PS2がある。PS1のCPUを、エミュと音声チップに使っているそうだ。直近では、PSVR2が良いなと思った。周辺マッピングに使うためのカメラを、外を映す機能に流用している。(ただし、モノクロ)
多分、このようなハードの創意工夫の傾向が、値段※ に間接的に影響してると思う。自分は、VR機器に割かし金を使うユーザーだと自負しているけど、Vision Proの50万円は高すぎる。さすがに手が出せない。
※ PS2やPSVR2は高いだろ、と言われそうだけど、発売時点で同機能を搭載している機種と比較すると、十分に安いと思う
ただまぁ、AppleはGoogleよりも継続的にサポートしてくれる印象があるし、そもそも開発にかなり金を掛けてそうな感じだ。当面の間は、XR界隈の発展にかなり寄与してくれそうなので、その点は喜ばしい限り。
おそらく億単位の設備とスタッフが必要だった「セガ・スーパーサーキット(1989年)」みたいなゲームが、数千円でしかもマリオカートの演出を3DでAR合成してくれる夢のゲームだった。だから発表時熱狂した。
だが購入しておっさんは思い出した。
「セガ・スーパーサーキット」もそんなに面白くなかったことを…
実際の小さいラジコンサーキットを借りてダンボールマーカーを設置して疑似スーパーサーキットを再現してみたけどそれでもダメだった。
ついラジコン走行でちゃんとRCサーキットのレコードラインを走ってVRコースが完成するんだけど、実は通ったラインを中心にして左右幅均等にARコースが設置されるため、ARカー(敵車)は「インのイン」を走れてしまう。
だからまず勝てない。
そのためにはARカーが不利になる(実際のRCサーキットの)非レコードラインを走って仮想コースを作り、ARカーは目一杯走っても通れないレコードラインを自分が走る、みたいな本質的でないテクニックが必要になってしまった。
まあ、マリオカートに限らず「コクピット視点でラジコンで遊ぶ」は、30年以上前からなぜかRCファンは夢見てしまう。
30年前、まだアナログVHF転送の小型モノクロカメラにブラウン管TVのローカル受信を使ってまでコクピット視点のマシンで疑似スーパーサーキットを作って学内催しとして遊んでいた。
だが一番面白かったのはイベント会場でドライバーが見えないところにマシンが飛び出して入り込んでしまい、そこからカメラ映像だけで戻してくるというトラブル時だった。
最近どんどんFPV(ファースト パーソン ビーグル)用アイテムも進化し、手軽にゴーグルでドローンとかもできるようになったんだけど、出来るようになったらあんがいすぐ飽きてしまった。ドローン規制もあってあっという間に廃れてしまった。30年の間に3Dグラフィックスも同時に進化し続け、もうディスプレイ越しに見て見分けがつかないレベルなら3Dグラフィックスでいいやん、ってなってる。
ただ、3Dグラフィックスで遊ぶにしても、実際にレースカーを走らせるわけに行かないところをぐるっと撮影カー走ってあとはゲーム内で再現、みたいなコースビルドをあの技術でできるならとても楽ちんかもしれない。
そういう可能性だけはまだ夢見させてくれた。
数ヶ月振り?ぐらいにまた発生した。
「【精米】 南魚沼産 コシヒカリ 無洗米 吟精 2kg 令和4年産」(販売、発送: Amazon.co.jp)を確か午前中、アプリでカートに保存
米をカートに入れたままだったことを思い出してアプリを開いたら「PULABO タイヤトレッド深さゲージ深さ測定、モノクロ」(単価\135、出品者: fu yancai)50個が勝手に追加されている。
もしやと思いPC側で尼のカートを確認するとさらに「1/6ドール服 人形服 ミニスカート ドレス ノースリーブシャツ 女性 フィギュア用 衣装 装飾, A, 1:6」(単価\1,370、出品者: prettyia jp)が499個追加されている。
合計550 個の商品、¥692,060。
今回勝手に追加された商品の出品者はいずれも中華業者。以前のもマケプレ業者出品だった日本(っぽい)業者だったかもしれない。
連休最終日、昼寝していたら奇妙な夢を見た。
二人で連なった形式の机。
私は遅れて来たらしい。
どうやら英数国社を一度にやるようだ。
国語に取り掛かると、問題用紙には動画再生プレイヤーのUIがあって、プレイを押すと藁半紙のような紙質の問題用紙の上でモノクロの絵が動き出す。
良く出来てる。
高校生の少女たちが主人公の、青春SFモノらしい映画を観て、その感想を書かせる問題らしい。
送電線に引っ掛かったUFOが送電線をビロ〜ンと伸ばしながらこちらに寄ってくるシーン。
問題に目をやると、鑑賞した人の感想の断片が書かれていて、それらを正しく並べ替えよ、との指示。
また、別の問題では「時刻が何時頃なのかを表す箇所を抜き出せ」とある。
映画のタイトルに「夕ぐれ」が含まれているし、なぜか夕方4時頃だというのはわかるのだが、それを示す箇所を抜き出すのに難儀する。
早送りしたり戻したりするが、肝心なところに合わせられない。
諦めて他の科目に目をやるも、全く試験勉強していなかった私には手に負えそうにない。
こりゃ全滅だな。
仕事はどうした。
そもそも40年近く昔に大学を卒業した私が再び高校生になれるのか。
よく見る夢ってあるじゃん
誰しもひとつやふたつあると思うんだけど、妙に印象的で覚えてるものってあるよね
自分にもあって、小学生くらいの時によく見てたものなんだけど…それがどうにも気持ちが悪い夢だから書く
母親の顔は妙に暗くて俯いている
母親に連れられて歩いていると、親戚が集まっている部屋に連れてかれるんだよね
誰も笑ってなくて、とにかく暗くてじめっとした雰囲気
みんな黒い服を着ている…というか色がなくて、モノクロ映画みたいな感じ
で、なんか大人達で話し合ってる
部屋は畳の部屋で、真ん中には黒い長いテーブルがあるんだけど、ひとつ、真っ赤な座布団がある席があるんだよね
他のものには色がついてないんだけど、その席だけ、鮮やかな赤
大人たちの話し合いは、どうやらそこに誰が座るのか、って話らしいんだけど、誰も座りたがらない
でもどうしても誰かが座らないと行けなくて、諦めて誰かが座る
で、座るんだけど、座ったら血を吐いてシぬ。真っ赤な血を吐いて
みんなそれを黙って見てる
っていう夢
気持ち悪いよね?なんだったんだろう
この夢を頻繁に見てた。座る人はまばらで、母親の時もあれば自分の時もあった
座らないで!!だめ!!って必死になって止めるんだけど、でも誰かが座らないといけないの、って諭されて、血を吐くのを黙ってみるしかないあのどうしようもなく無力な感じ
座るとどうなるか、はみんな分かってる時と分かってない時があって、ただ自分一人だけが焦ってる
あー、思い出しても嫌な気持ちになる
中学上がるところにはぱったり見なくなってそこからは見てないな
なんだったんだろう
酷い時には月1とかで見てたんだよな、あの夢を見るのか嫌で不眠状態になったりもした