はてなキーワード: 怨霊とは
はじめは普通の死んだ男の子だと思って、普通に死後の説明をしたり、
からかったりしていた。
そいつはよく墓場から消え、大事なお墓参りの朝来なかったりした。
手のかかるどうしようもないやつだと思ってた。
だが死んだことは知っていた。
首くくるのもうまかった。
だから気を抜いてたんじゃないかと思う。
お盆が佳境に入って、よく2人で深夜まで見回りしたりした。
私の分もついでに買って来たりするなよなって頼んだ。
それから本当に大変だった。
何が大変かって、お盆は佳境、
毎日大量の参拝客がやってきて、連日深夜まで対応、休みも無い。
死後に集中しなきゃいいのに、そいつの事が気になって仕方が無い。
おかしい、この前までどうでもよかったのに、今日は式を打つのが恐ろしい。
奴が来るのが怖い。
へんなラップ音鳴らしやがって。
いやちがう、ここは死後の世界だ。
死んだことに気づきなと、、、
そう思いながら、とうとう送り火の前夜に。
ある日送り火を無事見送るために、霊柩車で1時間半くらいかけた死体安置所に行く事になった。
準備をしていたら、なんと牛頭が、そいつとふたりで行けという。
翌朝いつもよりうんと早起きして、霊柩車に乗って送り火に出かけた。
2人で死体を食べた。
地獄の作業が始まった。
作業後、何故か一緒にケセランパサランと唱える子どもを殺したり、
この世の終わりみたいだと私は思った。
私だけがね。
その翌月、偶然近所でそいつを見かけた。
家について、決してのぞかないでね、と式を打った。
勢いだった。
答えは最悪だった。
1週間後、そいつと果たし合いをした。
彼と2人で簡単に呪いあった。
悪夢みたいだった。
みたくなかった。
墓場に帰って来てホッとした。
何故こんなにも苦しいのだろう。
もう死んだ後だし、「死人エクソシスト」という特別な立場をやめるわけでもないのに。
でも、もう、朝あいつを式で呼び出す事も無い。
あいつがしようとすることを止めることも、印を結ぶ事も、九字を切る事もない。
恨み晴らしてさしあげようかって提案する事ももう無い。
お先に失礼しますって言う事ももう無い。
もうあいつに九字を切る事も無い。
あいつ、いっつも私が切った九字を跳ね返しやがって。
それを一晩で爆発させたりして、
ねえ、もう一度、
あいつに九字切らせてよ。
今私は決めている事がある。
最後の審判がやってきたら、
神に戦わせろって言うんだ。
すぐにもどって来れる位置を確保してる。
他の世界に行ったお前は元気でな。
あんたがいたから、私はこの世界からやがて消えなくてはいけなくなる。
あんたと、出会いたくなかった。
ただそれだけ。
どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教は神の国に行くし、仏教は輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。
http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...
神道では、人間が死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。
私たちが死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者、若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。
「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことなく霊界へ行くことができるのです。
この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。
ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。
有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療や科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教の場合も神の試練だと、仏教は功徳が足りないと思っていたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
仏教的にはどちらかと言うと荒神の信仰に近いものかな。阿修羅とか。
靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である。
http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
前進は明治2年にできているので、戊辰戦争の御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。
政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。
こうしてみると、靖国にA級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかちます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。
んで次に気になるのは、別に首相がいかなくてもいいんじゃね?という点である。
多分これは崇徳天皇のせい。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。
[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。
しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人の天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇が御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップが御霊慰霊を行うようになった理由だろう。
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。
しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲、内閣総理大臣を天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである。
ただ天皇は戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である。
このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。
2は前述のとおりグレー。
3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しかも信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ。一般的にキリスト教では参拝は神への信仰、仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体は功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。
したがって、問題の争点は政教分離の観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉の原則に反するが、言うの自体は自由である。
こっちと対話しないと痛い目を見る状況に相手を追い込む
http://anond.hatelabo.jp/20130825231640
その代わり、運良く相手が対話に応じ始めたら追い込みはきっちりと停止する事
「神を信じているなら輸血はしちゃいけません」とかいう奴がいる。「これは神様がおっしゃったことだから絶対確実です」。
1.神がいれば
→輸血しないで死んだあと神を信じて死んだので永遠の幸福が得られる。輸血して生き延びたらその後の人生がどんなに幸福でも死後に得られるのは地獄。
2.神がいなければ
→輸血しないで死んでも輸血して生き延びて死んでも死後に得られるのは無。
あなたが神がいると信じているとき、輸血して生き延びると地獄だがしないで死ぬと天国。
信じていないとき、輸血しないで死んでも輸血して生き延びて死んでも死後に得られるのは無。
最悪なのは
3.神はいるけれども輸血禁止はしておらず、むしろ輸血で助かるべき派だったとき、
「神の教義」とされた輸血禁止を貫いて死んだら地獄行き、しかも神に敢えて背いて地獄に行く場合でも唯一得られるはずの納得すら奪われる。
「豪傑」にもいろいろあるが、ここでは、個人の武勇、それを示す逸話、そして知名度を鑑みて選考する。
ただし数が多くなるためいわゆる「剣豪」は除いた。あしからず。
俵藤太。大百足退治。
武勇については問題なし。
知名度でどうか。
対戦相手は最強クラスだが、頼光本人の武勇がよく分からない…。
一矢で船を沈めたとも。
屋島の戦い、扇の的。
為朝と比べれば落ちるか。
知名度は随一。
鬼小島。
猿や犬を懲らしめる。
実在が疑われる。
餅。
意外に武勇を示す逸話は少ないが、知名度だけで他の不足を補うレベル。
朝鮮での虎退治。
現在では豪傑というよりも名将として評価されていると思われ。
他の候補者と比べて異色ではあるか。
三大怨霊みたいに平安時代で固めてしまってもいいかもしれない。
意見を求む。
暴論だと仰るのは最もだし、世間的にその意見が大勢だろうとも思いますが、私はオーバースペックというのが本当に生理的にダメで、そういう背景を以って「歌にする必要は無い」と考えているので、この点については謝罪も撤回もしません。他人の自己承認欲求を満たす、あるいは自身のそれを満たすためのプラットフォームに、音楽は明らかにオーバースペックだと思います。
さらに、話を私の最初の投稿で述べたミクロマクロの話に戻すのですが、私自身(当然)日本は変わらないし(てゆーか変えられないように歴史上できてるし)、もっと言えば日本は暫くの内に高度経済成長を成し遂げた歴々の偉人様方々の為に倒れると思ってます。現代型厭世観が少し具体像を持った感じです。マニュアルに沿ってれば自分の人生は問題なく円滑に進むんだと学校で教えられました。実際に生活実感としてその通りだったし、あるいは今教育政策を策定しているのはそれが大事だと思っている人々だから、義務教育を修了している身としては当然の思想を持っていると思っています。だから、今ボカロで流行りの曲を作る人々は、公教育上大変優秀な産物だと思います。それがミクロな私の偽りない意見です。
ではマクロな私の偽りない意見は何かというと、それじゃマズいでしょ、というものです。一国が過去の人間の為に滅びるなんてマジでやってられないし、そんな歴史上の汚点を以って自分の国が滅びるなんてことになれば、全国に神社が建つぐらいの怨霊になる自信があります。大事なのは今現状が改善されて何か変わることじゃなくて(そんなことありえないし)、今まさにその過去の人間に現代の人間が飼い慣らされて下を向いてることで、どーせ倒れるんなら誇りの中で上を向いて倒れたいなーというものです。
それは当然ミクロな自分にも反映されてて、厭世的で近々日本は滅ぶと思ってるけど、別に日本が滅んでも自分は滅びないし、生きていたいと思うから、厭世的で前向きな曲が好きだし、マクロな自分としては、日本が生きにくいことと自分が生きていることは別の問題で、もっといろいろ無視して生きてほしいなぁと思います。
結局、死んだら元も子もないし、それを歌にして発するってのは、どっちかってーと日本という国から美味い汁吸い続けて今まさに日本を枯れ木にしようとしている人々による印象操作ではないかとさえ思えます。
あんまり文中にうまく表現できなかったので付言するしかないんですけど、この前向きに生きるってのは、従来のロックパンクのような「(よくない社会に対して)相対的に反発する」のではなくて「(社会が良くないのは最早仕方ない問題だけど、それでも自分自身は、自分のやりたいことに対して)絶対的に前向きである」といった意味合いで、結局’00年代辺りのロックポップなんかそうですけど、スキマスイッチ「ゴールデンタイムラバー」とかちょうどピンポイントでそんな感じじゃないかと思うんです。
こういうのがあまり供給されないのは、文脈の上では公教育批判とか作曲者の手抜きの指摘とかいう形で行われているとおりで、それが供給されて消費者が消費しないのは、現代型厭世観の問題で、私や元増田は、それがミクロではなくマクロになっていることに問題意識を持っています。