はてなキーワード: 略取とは
モテ男でありながら女にだらしないゲスい考え方。ポジティブさを全面に出すのではなく、ネガティブな思考、醜い心もさらけだす正直さ。
等身大という言葉がぴったりで共感できる歌がたくさんあります。そしてそれらの良い曲はどれもこれもシングルにはなりませんでした。
音楽的な知識はありませんのでバンドの良さは語れませんが、好きな歌を紹介します。
不倫か浮気かわかりませんがパートナーのいるクラスメイトとの情事の歌。
同窓会で再会して盛り上がっちゃったけど相手がいるから一緒になれないという苦悩を歌っています。
後期の歌では女性に対して冷たい扱いが多いですがこの曲は未練が感じられる。まだ純粋だったんですね。
彼女が TAXI で家から帰る情景を想像するに一線は越えてるようです。
モテ男が自信満々に女性を口説く歌。純粋に会いたい気持ちを綴った詩とみせかけてやっぱり内容はエロい。
ストレートに「また会えるかな」と誘えるなんてリア充の行動でしょそれ。
「次会う時は君が悩み持ってたりすりゃいいな/守りたくても君が助けを必要としてないんじゃまるで意味がないから」
このセリフは使わせてもらっています。ありがとうございます。女の子は笑ってくれますのでおすすめです。
「お互いあれこれ事情があるんだもん/そりゃつべこべゆう奴だっていると思うけど」というのはまたのっぴきならない事情なんですかね。
いい大人が女子学生を捕まえて大人の余裕を振りまいてはいけません。すぐに勘違いしてしまいますので。
即やれる女を捕まえるのではなく、一人の女の子の成長を年単位で待てるほど心の余裕があるのはまさに真のモテ男。
しかしかわいい女の子の成長を見守りたいという男の心の奥深くにある心理に気付いてしまいました。
ミスチル2大キスの一つ。こちらはガラリと変わって本命彼女の歌でしょうか。
倦怠期で別れの空気が流れているのに気付いているけど素直になれない二人。
女性はどう思っているのかわかりませんが男性はどうしても別れたくないご様子。
ふとしたキスは二人の心を溶かせるか。
Heavenly Kiss が仲直りのキスだとすれば、乾いたキスは別れのキス。
遊びすぎて罰があたったのでしょうか、こんどは彼女を他の男に取られてしまいます。
去って行く女は後で苦しんで欲しいという気持ちはすごく共感できます。
「好きな人には幸せになって欲しい」といったクソみたいな正論が大嫌いな人にはオススメです。
何者かに成りたかったけどそれを彼女に見透かされて捨て台詞を吐かれるシーンは想像しただけで胸が痛みます。お気を付けて。
// TODO 誰か書く
生挿入の歌。
// TODO 誰か書く
// TODO 誰か書く
岡山県倉敷市の女児(11)が監禁され、5日後に保護された事件で、逮捕された岡山市北区の無職藤原武容疑者(49)は、大学院で哲学を学び、研究者を志した寡黙な青年だった。監禁容疑での逮捕から26日で1週間。県警は未成年者略取容疑での立件に向けて、事件の全容解明を進める。
「カントを愛している」
約20年前、大阪大学大学院の博士課程で倫理学を専攻していた藤原容疑者は、研究室の宴席で同窓生にこう打ち明けた。寡黙で勉強熱心。青春時代の藤原容疑者を知る人たちの印象は似通う。交友関係は少なく、存在感は薄かった。
地元の私立高校を出て、一浪して法政大学に進学。その後、ドイツの哲学者カントに心酔し、大学院の研究室で研究者を志した。
だが、学問の壁に突き当たる。学友が順調に助手や教職に就き始める中、1人だけ就職先が見つからなかった。ある同窓生は「進路が決まらず焦っていた。気まずかったのか、周りに気づかれないように単位取得退学した」と話す。1995年ごろのことだ。
大学院を退学した後は、家庭教師などの職を転々としていたようだ。96年~99年ごろは、大阪府内の公立中学校で夜間に校内を見回る宿直員として働き、宿直室で寝泊まりしていた。
同じ時期に勤務した男性教諭は「岩波書店の難しそうな本を黙々と読んでいた。無口だが愛想がよく、先生や生徒とあいさつを交わしていた」と話す。休日の電話番を引き受け、部活動の早朝練習に来る生徒のために、早起きして校門を開けていたという。
親族らによると、藤原容疑者は30歳のころに結婚したが、すぐに離婚した。今年初めごろまでの約10年間は、兵庫県西宮市に住んでいたという。築32年の4階建てアパート。家賃3万円の1階6畳一間。コインランドリーで洗濯する藤原容疑者を、複数の住民が見ていた。ある住民は「平日の昼過ぎで、仕事をしていない人だと思った」と話す。
暮らしぶりには不明な点が多く、岡山市の実家に戻ってからも人付き合いはほとんどなかった。ただ、洋室のリフォーム代や母親の介護費用などは工面できていたようだ。逮捕後に名乗った職業はイラストレーター。小学生くらいの女の子を描いたA4サイズの絵を見せられた人もいる。
正直イカ娘が実在したらあれくらい愛でても不自然じゃないレベルの可愛さがあるだろ。
ありとあらゆる危険がある。
それを知ったイカ娘は海に帰ろうとするが、もはや野生では生きていけない体になってしまっていた。
もう相沢家にひきこもるしかない。
食事とゲームしかしないうちに、目はうつろになり、笑うこともなくなった。
とうとう寝たきりになってしまう。
視線はずっと虚空を見つめている。
話しかけても返事はない。
今ではぼくがイカ姉ちゃんの身の回りの世話をしている。
以前イカ姉ちゃんの周りにいた人間は皆、イカ姉ちゃんを守ろうとして殺されてしまった。
ある日、お風呂でガリガリになったイカ姉ちゃんの体(もうぼくが簡単にだっこできるくらいに軽いのだ)を湯船につからせると、イカ姉ちゃんがぼそぼそと何かつぶやいた。
驚いて耳を寄せると、
「殺してくれなイカ…?」
「海に帰りたいでゲソ…」
イカ姉ちゃんは延々そう繰り返していた。
しかしイカ姉ちゃんはもう野生では生きていけないのだ。
力のないぼくができるのは、唇を噛み締めてうつむくことだけ。
「たける…」
顔を上げると、何年ぶりかイカ姉ちゃんの目に光が宿っていた。
違った。
それは涙だった。
枯れ木のような手が、見た目に似合わない力強さでぼくの腕を掴んだ。
「海を見せてくれなイカ…?」
夏の盛りはとうに過ぎて、落ち着いた日差しがぼくたちに降り注いでいる。
人気もなく荒れきった町を、イカ姉ちゃんをおぶって歩く。
思い出の場所をいくつも通りかかるが、イカ姉ちゃんの反応はない。
イカ姉ちゃん一人のために起こった争いによって、この町はすっかりゴーストタウンと化してしまったからだ。
「いつもより時間がかかってなイカ…?」
「まだでゲソか…?」
いつもより、だなんて。
にじむ視界をぐいと拭う。
遠回りをするのも時間切れのようだった。
「ようやく…着いたでゲソね…」
絶え間ない波音と、人っ子一人いない砂浜。
夕日のおかげでイカ姉ちゃんが血色よく見える。
目にも、弱々しいながら光が戻ってきていたことに初めて気づく。
「下ろしてくれなイカ…?」
慌てて、でも丁寧に、そっと、砂浜に下ろす。
イカ姉ちゃんは、起き上がることすらできなかったことが嘘のように、よろよろと海に向かって歩き出した。
一歩一歩、踏みしめるように。
無言の小さい背中は、手助けを許さない、何者をも寄せ付けない強さをまとっていた。
長い時間をかけてようやく波打ち際に辿り着くと、イカ姉ちゃんはゆっくりこちらを振り返った。
頬がこけた顔で微笑む。
ぼくはたまらず駆け寄り、イカ姉ちゃんを抱きしめた。
「たける…苦しいでゲソ…」
ごめん。ごめんねイカ姉ちゃん。
こんなことになってしまって。
「涙は…海の味がするって、地上で、初めて、知ることができて、よかったでゲソ」
優しく、ゆっくりと、ぼくを引きはがす。
「たけると…みんなと会えてよかったでゲソ」
最後にもう一度微笑み、イカ姉ちゃんは海に体をゆだねた。
すると、どこからかタコのような頭をした女の人が現れ、
「……」
ぼくに悲しそうな笑顔を向けた後、波間にたゆたうイカ姉ちゃんの額に手のひらを当てる。
ぼんやりと光り始めたイカ姉ちゃんの体が、ほろほろと海に溶けていく。
すべてが終わった後でぼくに渡されたものは、イカ姉ちゃんの腕輪だった。
そう言い残すと、彼女はいつの間にかいなくなってしまっていた。
浜辺に残されたのは、ぼくと腕輪だけ。
彼女が誰だったのかなんてどうでもいいことだ。
リア充とコミュ障についての一般的理解についてはすでに得られているものと仮定する。ところでこれは世界一般の傾向とは言いがたい。コミュニケーション力のあるなしは、たしかに社会での成功につながったり、リーダーとして選ばれる資格ではあったりするものの、社会全体を二つに分けたりはしない。同じ趣味を共有する者たちは、リア充であろうとコミュ障であろうと仲良くする。同じようにリア充であっても価値観、例えば政治信条が違うなどすれば必ずしも仲良く話したりはしない。これは西洋社会のことを説明したのだが、アジアや中東やアフリカがそれぞれ違うかもしれないが、いずれにせよ世界で一般的な社会構造とはいえない。
日本での特徴は、コミュニケーション力が高く集団のリーダーになりうる人間に、その他大勢のある程度コミュニケーション力ある人間がコバンザメのように付着し、そしてその外的構造であるコミュニケーション力がかなり低い人間を自分たちの場にいれないように蹴落とそうとするところにあると考える。ある種のコミュ力の低い人間、たとえば極めて知能の高い人間や有名スポーツ選手などはリア充集団に歓迎して迎えられるが、それはリア充集団が彼をどう捉えるかによって決定されている。つまり、社会構造の決定因子はリア充クラスタの集団意思に拠っている。
ここでアニメ・ゲームをはじめとするオタク文化を考察すると、ここは実のところ必ずしもコミュ障 ∋ アニメオタクという符号が成立しないことには、この分野に詳しい諸家はすでにお気づきのことと思う。大方コミュ障はアニメ好きを許容し、リア充はアニメを毛嫌いするような一般的合意があるように思われるものの、その結果としてリア充クラスタにおける「アニメ好き」趣向は、まるで韓国における「親日」と同じレベルのタブー、クラスタからの脱落を意味しかねない極度にセンシティブな因子なのである。かくしてリア充構成員はたとえアニメ好きであったとしてもそれを隠蔽する傾向にあると推察される。一見すると強力に両クラスタ間を分別する因子がオタク文化のように感じられるかもしれないが、実のところ本質的な差異である「コミュニケーション力(あるいは空気を読む力)」に比較するとオタク文化の識別能力はさほど高くない可能性がある。リア充クラスタにおいて本来オタク文化を好む傾向を持つものは、宮崎アニメ好きやゲーム好きなどという仮の衣をまとっていたりすることがあろう。
ここでコミュニケーション力の高い人間の中でもリア充クラスタを引っ張るほどに実力の高いものには、上記のタブー要因が作用しないことにも注意したい。かくしてリア充リーダークラスに認められたオタク文化、例えばゲームであるとか、エヴァンゲリオンなどと言ったものは、一時的ではあってもリア充クラスタに受けいられることはある。しかしその発言権を有するのはリーダークラスだけであって、構成員はたとえエヴァンゲリオンが面白いと感じてもそれを口にだすべきではないわけだ。
もしこれを読むリア充構成員が、そんなことはなくて本質的にアニメなどくだらなくて毛嫌いすべきもの、自分はどこまで言ってもあんなものを理解することはない、と思うとしたらそれは知性のなさを吐露するものと捉えられよう。どんな文化にもその文化の理解と経験からなる文脈的解釈があって、たとえば夏目漱石を読みたいたいならその背景のあの時代の日本の小説文化をわかっていないと凄みがないし、ゴダールを楽しみたいならヌーヴェルバーグについての一定の知識がないと到底わからないだろう。これらのマニアックな趣味ならばこの発言はすぐに受けいられるが、これはたとえばレディー・ガガだって、浜崎あゆみだって、「読モ」だって同じ事だ。「読モ」なんていうのはあからさまに文脈的文化であり、芸能界と大衆一般文化・特に女子高生文化との異常な接近を意味しているに過ぎず、これがたとえば欧米社会に言って受けいられるようなスター性がある人間たちだとは到底思えない。それはしかし逆も真であって、現在の欧米のセレブリティが普遍的価値を持っているわけでもない。さらに欧米であったって、日本のアイドル文化の文脈を理解した者たちは、熱烈にモーニング娘を支持したりする。結局のところ文脈だ。そしてその文脈を理解した時、アニメの面白さというものが血となり肉となって味わうことができるのであるが、アニメの文脈を捉えようとしたことのないリア充が「アニメなんて子供のものでつまらない」と言った時、文脈をきちんと理解した時彼が同じようにつまらないと思うかどうかはわからない。本当はそのアニメの強力な支持者になりうる資質をもっていたかもしれない。
ここでまず第一の議論に入ろう。先日、プリキュア好きのアホな若者が未成年者略取の事件を起こした際、プリキュアを見るような成人男性は幼い女の子を誘拐しかねないから監視すべきかという議論があった。ここで、金銭目的ではない幼女略取事件を起こすための決定要因はロリータ・コンプレックスの存在にあるとする。これはいいだろう。
おそらくコミュ障・ロリコンの人間はプリキュアを見ている。それは否定しがたい。相関も出るだろう。コミュ障でミリタリーが好きな人はエリア88を好むかもしれない、そういった趣味傾向の行先として当然の帰結であろう。しかし、リア充・ロリコンは、上記の社会的プレッシャーによりプリキュア好きを公言しないか、もしくは好まないもののそれは文脈理解の不足によるもので、コミュ障と同じだけのアニメ文化の洗礼を受けた上で見てみると、その人間の本質的な趣向はプリキュアを是とする可能性がある。プリキュア視聴という因子は、リア充でロリコンの人間を識別する能力を全く持たないと考えられる。
そこで、プリキュア視聴の幼女略取事件発生に関する精度が高いためには、コミュ障の条件付けでは相関があるものの、リア充の条件下では相関が出ないと思われることから、そもそも幼女略取を起こすのはコミュ障であってリア充は起こさないかもしくはとても可能性が低いという前提が必要だ。しかしこれは確認されていない思い込みである。過剰な前提である。コミュニケーション力の有無によって幼女性愛傾向が決まるというのは過剰な前提だ。そもそも幼女に話しかけてつれさってどこかで何かしようという行為はコミュニケーションによって成立しているように思われる。
であるから、現在の情報をもとにプリキュア視聴によって幼女略取を推定できると考えられるとは思われない。しかし研究対象としては興味深い。本当にコミュ障でプリキュアを見てという人がほとんど幼女略取事件を起こしているのか、それとも実はリア充で、社会的理由によりプリキュアを見ていない者が、ロリコンなので幼女略取事件を起こすのか。報道などを総合する限りは、野球選手で幼女にイタズラした事件なども含め、必ずしもコミュ障だけがこの手を事件を起こしているとは思われない。私の直感では、「プリキュア視聴」の識別能力はさして高くないものと思われる。私はここでことさらプリキュア好きな人を擁護したいのではなくて、我が子を守ろうという社会的行動にあってプリキュア好きを調査する行為はおそらく無意味であって、それよりももっと他の面を充実させることで犯罪抑制を図ってもらったほうがよいだろうという思いから述べたものである。
次に第二の議論に移りたい。
最初に述べたようにリア充クラスタにおいて、アニメ好きというのは集団からの集中攻撃を受け、個体として排除される可能性を生むほどの強烈なタブー因子である。それでは、人生のある時点においてコミュ障クラスタからリア充クラスタに移動した人間においてはどうであろうか。これは一般には「大学デビュー」などと称される現象として観察されている。
これは私の話である。高校時代はエヴァやガンダムW、3x3アイズやああっ女神さま、ロードス島戦記といったそんな世代だ。コミケは所要で行きそびれたが、今から考えると正解だったか。萌えとかいう言葉はなかった、と思う。大学に入った当初くらいはエスカフローネやウテナを見ようとしていた記憶もある。しかし内容については一切記憶が無い。私は結果として、アニメ好きを決して公言せず、周囲に同調して「この年齢でアニメ見るとかヤバい」「twitterのアニメアイコンキモい」とか言い始めるようなそんな人間になっていた。実際には周囲の人間は、「こいつちょっとオタクくさいよな」とは思っていたかもしれないが、リア充クラスタというものは、大学レベルで就職なども視野に入りポリティカリー・コレクトな発言を志すようになると、「僕はリア充クラスタに入信したいです!過去のことは水に流します」という気持ちでありさえすれば受け入れてくれるものである。そしてなれないおしゃれな服を買ったり、カラオケではやりの曲を歌ったりするのである。高校まではバカにしていたような、軽薄な恋歌を。そうやっていると、「彼女」が得られるのだ。現代日本社会において、古代ローマ帝国における「ローマ市民」を意味する社会階層に移ることができる。
ところで彼女を得たり、彼女を得るための努力をしたりしているうち、軽薄だと思っていた恋愛の歌が、実際に経験してみると自分の気持ちや彼女の気持ちをわりとうまく表現しているということに実感が至り、そうそう軽薄といってバカにすべきものでもないなとも思う。とはいえ思ったこと感じたことを書いただけで、より深い洞察はどこにもないが。ショッピングも、自分がその中で役割を演じる主体となってみると、無駄な時間と思っていたそれがわりと楽しいものと感じる。買ったものが無駄であることに変わりはないが。
結局のところ彼女に最高のプレゼントを購入し、サプライズ込みの記念日を演出する自分がいながら、その傍らでそれを冷めた目で見つめている自分がいる。オタクコミュニティの言説への親和性はその後もずっと高く、それになんとなく寄り添う気持ちは持ち続けている。
ところがだ。たとえばネットで、オタクへの攻撃的言説があったとしよう。両世界を知る人間としては私は言うが、そのほとんどは謂れ無き差別、思い込み、妄想のオンパレードで、リア充側に理があるといったことはほとんどない。実のところ私と同様に二つの世界を移った人間が、コミュ障的世界への決定的決別を宣言するがために、わざと理不尽な攻撃を繰り出しているのではないかと思えるほどである(そもそもネット系ツールで自分の主義主張をかましてしまうような人間が、オタク文化に一度も染まったことがない可能性はどれほどなんだろう。はてなならまずそれはないと言い切れるが、twitterなら真っ当な人間もいるのかもしれない)。ここでわたしは実名世界ならば「まあまあ」といったところでお茶を濁すところだ。一方匿名であれば、コミュ障側への深い理解と共感、リア充の身勝手さへの反感を述べるのである。それができるのがネット世界であった。わたしの年齢だと、大学くらいから徐々に浸透してきたものだ。
ところがそれに対する反応はどうか、「上から目線だ」「こいつオタク装ってオタクじゃねえ(やはり短期間でも離れると会話についていけなくなる世界だ)」「とにかくむかつく」というような、つまり、リア充がリア充そのものの発言をした時よりもよりいっそうの猛烈な反発をくらっちゃったのである。うん。くらっちゃった。僕はコミュ障のオタク達を助けたかっただけなのに・・・
ここでは韓国において、日本のリア充にあたるのが「反日」、コミュ障が「親日」と考えよう。親日っていうのがいるのかいないのかわからないと言われるかもしれないが、私は少なくともそれなりに知っている。しかし強烈なプレッシャーがあり口にだすことができないという。社会で生きていくのに困難さすらともなう、場合によっては転向を要求される、転向しさえすれば許される。これがコミュ障クラスタと似ていないと言えようか。一方、反日クラスタの中では、ちょっと過激すぎて理不尽とも思われるような反日的発言(日本の高校生のバットは圧縮バット、みたいな)が容易に許される、やや知的に劣等な面が見られる。そう、これがリア充クラスタだ。「親日」側は日本の「コミュ障」よりもはるかに強烈に弾圧され法律まで持ちだされて言論封殺されているような環境ではあるが、構造としては似ている。
そこで李大統領は、就任前の経緯や就任当初の発言を見るに基本的には「親日」側の人間であるように思える。韓国政界でもそのように攻撃されていた。であるが、そこは韓国だ。私が実は井上喜久子姉さん(17)が好きなんですーなんて口が裂けても言えないのと同様に、李大統領も本来の親日発言をすることはできないのだろう。した瞬間に引きずり降ろされる。しかしそれでもなんとかしてやりたい。僕はもうアニメ好きには(親日には)決別してしまったように社会的には行動していたとしても、自分は自分として評価されなくてもいい、ただし何か一つでもアニメ好きの人たちが嫌われない、少しでもよく思われるように、こちらがわ(反日側)の内部からそのクラスタを説得できるようなことができないものだろうか・・・
アニメが危険なものだなんて証拠はないって言わなければ(過去の記憶だけにとらわれず前向きに行こう)、でも僕自身はアニメ好きなわけじゃないって付け加えないとねリア充の人たちから疑われるし(従軍慰安婦への謝罪が不十分だ)、あとアニメ好き側の人も振る舞い方を少し気をつけたほうがいいよねって書こう(天皇陛下に来てもらって謝罪をするなど大胆な行動が必要だ)、そうするとリア充側も納得するだろうし・・・
で、もちろんリア充の方に向けて発言してるわけだから、自分はアニメを支持するわけではないっていうニュアンスをちゃんとただよわせなきゃ(来たいなら来ればよい)、そうしないとむしろ自分が攻撃されてしまうしね・・・
それで猛烈な反発を食らってしまった。ほんとは僕はあなた方のために行動したかったのに・・・(日韓関係の専門家を集めて、真意が伝わっていないと不満をもらす)
どうだ、見事にハマっているわけではないか。李大統領はかつてオタク文化にハマったコミュ障住人で、ある時点でリア充クラスタに移ったのだがあの時のオタク文化に恩を返したい、そんな義理堅いやつなんだ。だけどそんなことしてオタク側から猛烈に反発くらっちゃったわけなんだな。
という壮大な妄言はここで終わりです。