正直イカ娘が実在したらあれくらい愛でても不自然じゃないレベルの可愛さがあるだろ。
ありとあらゆる危険がある。
それを知ったイカ娘は海に帰ろうとするが、もはや野生では生きていけない体になってしまっていた。
もう相沢家にひきこもるしかない。
食事とゲームしかしないうちに、目はうつろになり、笑うこともなくなった。
とうとう寝たきりになってしまう。
視線はずっと虚空を見つめている。
話しかけても返事はない。
今ではぼくがイカ姉ちゃんの身の回りの世話をしている。
以前イカ姉ちゃんの周りにいた人間は皆、イカ姉ちゃんを守ろうとして殺されてしまった。
ある日、お風呂でガリガリになったイカ姉ちゃんの体(もうぼくが簡単にだっこできるくらいに軽いのだ)を湯船につからせると、イカ姉ちゃんがぼそぼそと何かつぶやいた。
驚いて耳を寄せると、
「殺してくれなイカ…?」
「海に帰りたいでゲソ…」
イカ姉ちゃんは延々そう繰り返していた。
しかしイカ姉ちゃんはもう野生では生きていけないのだ。
力のないぼくができるのは、唇を噛み締めてうつむくことだけ。
「たける…」
顔を上げると、何年ぶりかイカ姉ちゃんの目に光が宿っていた。
違った。
それは涙だった。
枯れ木のような手が、見た目に似合わない力強さでぼくの腕を掴んだ。
「海を見せてくれなイカ…?」
夏の盛りはとうに過ぎて、落ち着いた日差しがぼくたちに降り注いでいる。
人気もなく荒れきった町を、イカ姉ちゃんをおぶって歩く。
思い出の場所をいくつも通りかかるが、イカ姉ちゃんの反応はない。
イカ姉ちゃん一人のために起こった争いによって、この町はすっかりゴーストタウンと化してしまったからだ。
「いつもより時間がかかってなイカ…?」
「まだでゲソか…?」
いつもより、だなんて。
にじむ視界をぐいと拭う。
遠回りをするのも時間切れのようだった。
「ようやく…着いたでゲソね…」
絶え間ない波音と、人っ子一人いない砂浜。
夕日のおかげでイカ姉ちゃんが血色よく見える。
目にも、弱々しいながら光が戻ってきていたことに初めて気づく。
「下ろしてくれなイカ…?」
慌てて、でも丁寧に、そっと、砂浜に下ろす。
イカ姉ちゃんは、起き上がることすらできなかったことが嘘のように、よろよろと海に向かって歩き出した。
一歩一歩、踏みしめるように。
無言の小さい背中は、手助けを許さない、何者をも寄せ付けない強さをまとっていた。
長い時間をかけてようやく波打ち際に辿り着くと、イカ姉ちゃんはゆっくりこちらを振り返った。
頬がこけた顔で微笑む。
ぼくはたまらず駆け寄り、イカ姉ちゃんを抱きしめた。
「たける…苦しいでゲソ…」
ごめん。ごめんねイカ姉ちゃん。
こんなことになってしまって。
「涙は…海の味がするって、地上で、初めて、知ることができて、よかったでゲソ」
優しく、ゆっくりと、ぼくを引きはがす。
「たけると…みんなと会えてよかったでゲソ」
最後にもう一度微笑み、イカ姉ちゃんは海に体をゆだねた。
すると、どこからかタコのような頭をした女の人が現れ、
「……」
ぼくに悲しそうな笑顔を向けた後、波間にたゆたうイカ姉ちゃんの額に手のひらを当てる。
ぼんやりと光り始めたイカ姉ちゃんの体が、ほろほろと海に溶けていく。
すべてが終わった後でぼくに渡されたものは、イカ姉ちゃんの腕輪だった。
そう言い残すと、彼女はいつの間にかいなくなってしまっていた。
浜辺に残されたのは、ぼくと腕輪だけ。
彼女が誰だったのかなんてどうでもいいことだ。