はてなキーワード: 土俵とは
2021年が始まって早1週間が経過した。エッチイラストクリエイターや自撮りグラビアアイドルたちによるエッチな作品が日夜生み出される昨今のSNS界隈において、この1週間は眼福そのものであったと言えるであろう。
それは今年の干支が丑であり、巷にウシ柄ビキニの作品が多数アップロードされたからだ。
通常、干支の動物はビキニの柄にはなりづらい。トラなどの柄から元の動物が想起できるものもいれば、ネズミやウサギ、イノシシなどと言った単色かつ色遣いも地味でビキニ化してしまうとそれだけだと何が何だかわからない動物もいるが、どれもビキニとして製品化されることは稀有である。つまり干支とエッチなクリエイティビティの相性はあまり良くない。
しかし、12年に一度だけエッチな土俵に無敵の横綱が現れる。そう、丑年だ。しかもおめでたムードと暇が重なる年始にのみ、大量のウシ柄ビキニを拝むことができるのだ。
なんなら通常のビキニよりもエッチさが一段上になる上、着用者自身が豊満なボディである必要すらない。太かろうが細かろうがウシ柄ビキニを着用するだけで何故かエッチな雰囲気がでてしまう。
では何故ウシ柄がそんなにエッチ、扇情的であるのか、改めてここで考えていきたいと思う。
牛として最初に想起されるものはおそらくホルスタイン種であり、ウシ柄のビキニもこのホルスタイン種の柄をモチーフとしている。4つの胃袋を持っており、飲み込んでは口の中に戻し、飲み込んでは口の中に戻すといった反芻を繰り返してエサを消化していく。そして乳牛として飼育されるため乳や乳首が大きいというイメージがある。ウシそのものは四足歩行の哺乳類で、それ自体にエッチなイメージは全く無い。つまりウシ単体ではエロにはならない。
「小さな本体で大きな威力を発揮」したビキニ岩礁の原爆実験に因んで命名された、ブラジャーとパンツの2つのパーツから構成されている女性用の水着である。元来から肌の露出が大きく、パンツサイドの紐化、ブラカップの縮小といった工夫がなされ、水着というよりもただのエロアイテムとなる場合もある。ただし装着されていない場合はくちゃくちゃの布であり、どこが足を通すところでどこが首を通すところなのか判然としないので、間違えて着用してしまう声優なども枚挙にいとまがない。よってこれも単体ではエロいものではないと言えるだろう。
古来より女体には神秘のパワーがあると信じられている。多くの文献に女体にまつわる様々な儀式が取り上げられ、絵画が隆盛を極めれば裸婦は必ず登場する題材となった。皮下脂肪が多く曲線的で柔らかく人間の原初ですらあり、権力者の衰勢にすら関わってくる。それが女体だ。ストレートのオスは絶対に女体に逆らえないように作られている。セックスは女体がないとできないから。つまりエロスの根源はここであると言えよう。
「エロくないホルスタイン種の柄」の「エロくないビキニ型の水着」を「エロスの根源である女体」が着用するとエロくなる。
個人的には、現実のルッキズムよりも最悪な地獄だと思っているよ。
増田の機能がよくわからないから、リンクとか引用とかは出来ないんだけど
別の増田についた、現時点でのトップブコメを見て言及したくなって書いてます。
ホッテントリみてれば、なんとなくアレだなってわかってくれる、と思う。
生まれつき変えられない身体特徴ではなく、容姿を自由に変えられるバーチャル世界ならセーフ。
っていうのは、とっても的外れ。
そう思うなら、今すぐ理想の自分の3Dアバター作って動かしてよ。
普通の人は3Dモデルを作るどころか、キャラデザインを起こす能力すらありません。
それでも、可愛くて魅力的で皆にチヤホヤされるアバターが欲しいなら
死ぬほど努力して技術力を付けるか、理想のモデルが出来るまで、大金を払って3Dデザイナーさんとかにお仕事を依頼するしかありません。
チヤホヤされたいなら、美人になりたいなら、死ぬほど頑張って化粧の技術を上げるか、プロのメイクさんにお願いするしかありません。
もちろん、生まれガチャによって、生まれつき美人な女性もいるかもしれません。
だとしても、化粧や着飾ることからは逃れられない。
チヤホヤされる外見か、そうではない(いわゆるブス)か、によって、同じ発言をしても影響力が違う事です。
化粧をしてないと、人々が話を聞いてくれない。
窮状を訴えても、可愛くないと助けてくれない。それは酷い地獄でしょう?
バ美肉も結局のところ、最終的には、いかに金と時間をつぎ込んで可愛いを目指すか、と言う地獄にしかならない。
しかも、全員が同じ土俵からスタートできるのだから、「生まれつきブスだった」なんて言い訳が使えない。
費やした金と時間だけ、美しくなり、愛され、満たされる。
ルッキズムから解放された世界と言うのは、発言者がどんな身体特徴であろうと、皆の発言が均質に影響を持つ世界。
誰が言ったかではなく、何を言っているか、それだけで評価される世界。
アバターなんてなくても、楽しくコミュニケーションが出来る世界だ。
なぜ自民がどれだけダメでも野党(特に民主)に票が流れないのか、の話がここんとこバズっていたけれど
イデオロギーの話が多くて、割と重要だと思うのに地方組織の話があまり出てこないので、私見をまとめてみた。
地方の有権者は国政の問題より、自治体の運営実績を判断基準にしている人がけっこういるのだけれど、この層をほとんど取れていない。例えば2019の統一地方選の結果(リンク先)見れば一目瞭然で、対抗軸が自民VS自民(県連)かVS保守系無所属ばかり。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_election-local20190408j-01-w600
統一地方選はそれだけで普通の知事選より8%投票率上がるから、本来野党に有利なはずなのに土俵にすら上がれていない。知事のうち野党系(民主以外&元野党現無所属も含め)は相乗りまで加えても11(山形、岩手、東京、埼玉、大阪、静岡、石川、長野、滋賀、愛媛、沖縄)。民主除名→自民推薦の青森入れても12。うち、東京・大阪・滋賀は地方政党。
元々民主党は国政選挙のための政党で、地方は国政選挙の下請くらいの扱いをされていた。例えば2009年の地方選ではその地方の問題ではなく政権交代を中心に訴えたし、国政候補者選定も地方議員からの抜擢より公募が重視された。そのうえ政権喪失後は中央で数合わせの離合集散するたびに、地方組織はダメージを受けて立て直せないまま弱体化していった。
対して自民は、この手の離合集散から無縁だったおかげで地方組織は温存されたし、影響力を失うこともなかった。公明党がいるのも大きいが。結果地方での存在感は、大げさに言うと自民系の内紛の際の数合わせのコマか、国政選挙の時だけ湧いてくる連中、にまで落ちてる。
おまけに、中央と地方の人材の流動性も自民より弱い。地方組織が弱いから地方で絵が描けず、中央から人も来ず、勝負できずにジリ貧の悪循環が続いてる。野党で例外は維新(大阪限定)ぐらいか。「大阪」があるからそれがショーウィンドウ兼補給基地になって中央でも存在感を維持できてる。
これらのために地方から上がってくる情報の質と量と多様性が自民に遠く及ばないことも、民主政権の失敗の原因の一つになったと思う。陳情や会食もはてなだと嫌われているが、地方から情報を吸い上げるパイプにもなっているわけで、それを否定するなら代替システムを用意すべきだった。この懸念は政権奪取前に一度議員や秘書と話しする機会があった時に言ってはみたんだが、どうも危機感をもっていないようだった。
残念ながら、当時の民主が選んだ「生の情報不足をメディアと理論で代替する」方法は地方との軋轢になって噴出したし、思い込みで動く口だけの連中というイメージを広めてしまった。
政権を失ったあと民主が取るべき方針は、地方組織を地道に構築して知事の座を取って実績を積むことで、野合して看板掛け替えることではなかったんじゃないか。自民が強くなったわけじゃない。保守系無所属知事の増加が、「自民も野党も支持できない(でも強いて言うなら民主以外)」って声の反映だと思うし。
どぶ板しろとは言わないが、特に民主系はもっと地方に張り付いて運動家以外の声を聴いて「野党も地方を救える」って絵図を書いて実践する体制作れないとこの状況は変わらないし、なにかの間違いで政権取れてもまた失敗する可能性が高いと思う。
田舎で100人程度の学年だったが、喫煙率は2割程度、原付所有率は1割程度とヤンチャしている人間の割合は少なかった。
シンナー常習や補導歴のある人間は片手で足りる程度だったように思う。
まぁ、団地住まいを筆頭に教育投資をロクに受けず育った児童が多い小学校出身者が半数以上を占めるとそうもなる。
という自分も同じく団地住まい出身者であったが、なんとか染まらず過ごせた。
中学に上がってから出会った別の小学校からの子ども達は格の違う人間が揃っていた。
医者の息子、市議の孫、両親とも教師の一人っ子、と田舎の上流家庭の子息であり、総じて小学校の頃から塾に通い、学外の硬式野球にも通い、文武両道を地で行く集団であった。
今で言う三塁ベース生まれの人間であっても、私立中学の選択肢がほぼ存在しないのは田舎の常である。
「彼らのようになりたい」自分は奮起できた。
同じ塾には通えなかった(入塾テストに落ちた)が親に懇願し別の塾に通い、学力を伸ばすことができた。
彼らから”(そこそこ勉強が)できるやつ”と認められた時は自尊心が大いに満たされた。
しかし同じ土俵に立つ勇気も学力も最後まで持てなかったため、進学先は誰も見向きをしない県外の高専という選択肢を取り、疎遠になってしまったが。
一方、ヤンチャな人間は暴力を示すことでしか自身の優位性を誇示できない。
これまでもそうだったし、相手が少人数であったり貧弱な体格をしていれば、そうなっていただろう。
しかし相手は集団であり、社会的地位ある親を持ち、加えて学力・体力ともに秀でていた。
これでは迫害もイジメも起こらず、ただお互いに関わらないという選択肢が取られ、どちら側の人間も学外での活動に精進し、学内ではトラブルのない平和な学年でった。
さて、彼らが同学年でなかったら自分はどうなっていただろうかと思うと、身の毛がよだつ気分になる。
学内では秀でた人間に擦り寄ることで、ヤンチャな人間からは徹底的に距離を取ったおかげで暴力にさらされることもなかった。
つまるところ、運が良かっただけである。