はてなキーワード: 仙人とは
そういうのに憧れてたんだ?それは残念だね。
俺は反対に、霞を食って生きる仙人という究極の大人に憧れるんだけど、未だにその域には達していないね。
どうやったらなれるんだ。一応職歴なしは貫いてるんだけど。
和歌山県の共生舎で鹿を捕獲・解体するブログエントリがあった。
★山奥ピエールの「山奥ニートだけど小説書いたり俳句詠んだりアナログゲームやったりブログ更新したりで毎日が忙しすぎる」
「鹿が捕まった」
https://megalodon.jp/2017-0606-1950-11/yaba-raiko-shusaku.hatenablog.com/entry/2017/06/06/161301
「グロ注意!」
https://megalodon.jp/2017-0606-2004-43/neetnoippo.hateblo.jp/entry/20170606/1496721713
こういったのって、山奥ではあたりまえに行われているか、
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070300/071400/documents/shikakanrihokaku.pdf
https://deepmind.com/research/alphago/alphago-vs-alphago-self-play-games/
いやあ、スゴイ。衝撃。これはカケツも泣くわ。
碁だけではなく、大げさに言えば、ヒトとは何か、人「間」とは何なのかを問い質されているかのようだ。
碁がわからない人にもなるべくわかるように書くとですね。
普通は、というか今までの人間の常識では、いきなり接触するのではなくて、少し間をあけて近づくのが常識。
一間とかケイマとか。
そういうのがない。いきなりフルコンタクト。(Games 1の10手目、12手目ナニコレ?)
それから、関心があちこち飛びまくる。
普通は、というか今までの人間の常識では、とりあえず局地戦を何らかの形でまとまらせてから次に行くんですよ。形を作る、というか。暫定的な結論をつける、というか。
ここは実利を与えるけど、その代わり外向きの厚み、勢力はもらうよ、とか。とりあえずどっちの石もすぐには死なない形にはする、とか。石通しの繋がりは確保しておく、とか。
それが全然お構いなし。
戦いの真っ最中に、全く別の場所で戦いを起こす。で、そこも途中で放置して次に行く。で、思い出したように前の戦いに戻る。と思えばまた放置。
それを繰り返すので、今まで見慣れた形がほとんどでてこない。わけがわからない。どっちが勝ってるのかさっぱり不明。
で、格言っていうのがありまして。だいたいこういう考え方でやれば間違いないよ、みたいなやつ。
「ツケにはハネよ、ハネにはノビよ」とか「もたれて攻める」とか。
全部無視。
この格言っていうのは、何となく理屈じゃなくて感覚的なもので、しっくりくるところがあるというか、少し碁がわかってくると、モノの道理というか、「道」というか、そういうものに感じるようになっているんですよ。今まではそうだったんです。
水は低いところに流れて行く、みたいな感じで。物理でいうとエネルギー保存則的な。細かい経過はともかく、最終的にはそうなるんだよ、という大きな流れがあるように感じてたわけです、我々人類は。
嘘だったんですよ。まあ、全部じゃないですけど、かなりの面で。
人間の感覚なんて全然あてにならない。ということをAlphaGo先生は、つまり神は我々に教えてくれたわけです。
そういう人間の感覚っていうのは、最適解ではなく、次善の策なんでしょうね。わからんなりに大コケしないためにはこうしておけばそんなに間違いではない的な。
で、これまではその感覚をより体得している人が強い。達人。仙人。そのレベルの戦いだったわけです。
それが突き詰めれば、穴だらけだった、と。
で、これをもう少し拡大解釈すると、人間社会にも適応できる可能性に気づくわけですよ。
つまりですね。
空気を読みつつ、間合いを取りながらの人間関係は決して最善のコミュニケーションではない、とか。
一つのことを形にまとめる前に、その時々でもっとも重要と思うことにあれこれ同時に手を出していくというやり方の方が良いかもしれない、とか。
多分、高次元の能力を持った人はそれが良いんでしょうね。実際そんな気もするし。
いろいろ手を出す、と言っても、脈絡無いわけでは無いんですよ、ホントは。遠いところで実は関連があって、今手を出しているところも、実は遠い場所での事柄とうっすら関係している。だから、ここはあえて結論を出さずに、先に別の事業を進めておく。その進捗具合によって方向性を変える、という柔軟性がいるんでしょうね。
それで、やっぱり違うと思えば、これまでの労力は無視して大きな投資もあっさり捨てる。サンクコストは気にしない。
さらに敢えて踏み込んで例えると、
理解できない能力の者から見ると、パーソナリティ障害だったり発達障害、ADHDみたいに見えることもあるんでしょうね。
もしかしたら、発達障害的な特性って能力さえあるなら最適な行動様式なのかもしれないですよね。
まあ、あってるかどうかはともかく、そんな様々な由無し事を、問い直し、突きつけてくるだけの衝撃がAlphaGoにはありますね。
そらカケツも泣くわ。
で、なぜこのような人の常識を問い直すようなことが、チェスや将棋でなく、碁で起こるかというと、それこそが碁というゲームの奥深さ、面白さだと思うわけです。
で、それに目をつけたGoogleは本当に正しい選択をしたと思います。
人生は苦しい。
そのあまりの苦しさから、人はみな「億万長者になりたい」と願う。
例に漏れず、私も早速「億万長者になりたい!」と初詣で願ってきた。
また、そのための取り組みをしていないこともない。
だが、最近は『億万長者になったつもり生活』をしてみてもよいのではないか、と思えてきた。
そもそも、私の考える億万長者とはなにか?
株をたくさん持っているおじさんであり、
要するにサラリーマンのように週5勤務でなく、年収300万円程度の生活を維持でき、
望まなければ人に会わなくともよい生活を送っている人たちである。
「じゃあ初めから仙人になりたいと言え!」という話だが、私はたとえ7億円を手にしても
15:00 バスで繁華街へ。無駄にカフェへ入りカフェインをとる。
18:00 野菜炒めセットと豚バラ、スーパーマリオRPGの中古を買って帰宅。
20:00 ゲームをする。大人になってからやっと回復系キャラの重要さを知ることができた。
00:00 就寝。
といった生活を送るにちがいないので、
ここでは「億万長者 ≒ 無職やニートと同じような生活を送る人」とさせてほしい。
本音で言うと「人がこわい」だが、建前を話しておくと、
とある精神疾患を発症してしまい、世間一般の生活を送ることが難しいからだ。
そんな夢のある夢のような夢でしかない夢を実現するには、たくさんのお金を持つしかない。
そう考えていたし、今もそう考えている。
世間から離れたいのに世間一般の考えを引っ張ってくるのは癪だが、
億万長者になることは難しい。というかほぼ無理である。
会社勤めで目指すなら、年収1,000万は必要だろう。キツい。そして飲み会に出なくてはならない。
起業をしても望みは薄い。部活でさえ後輩を持ったことのない人間に、果たして上司が務まるのか。
ならば相続はどうだ? 奨学金なしで大学に入れてくれた親父には本当に感謝しているが、おそらくそれほど遺産はない。
よし、株だ! 始める前から長期投資派なので難しい。FXは言わずもがな。
現在無職。雇用保険を計算に入れると、あと1年は慎ましい生活を送れる貯金はあるが、
実用的な資格もなく、実務経験もほとんどない。そもそもフルタイムで働けない。
「アフィ」という文字列を見ただけで、激昂する読者もいるかもしれない。
アフィリエイトの悪評はご存知の通りである。ここではあえて弁明もしない。
だが、そんなアフィリエイトでさえ、月10万円の生活費を稼ぐのは至難の業だ。
事実、開始4ヶ月目での収益はたったの1,000円である。お年玉の方がまだ高い。
実際、そのほとんどの時間は様々な学習に割かれており、実作業時間を考えれば、
また有象無象のアフィリエイターたちの数ヶ月目の報酬実績を見れば、悪くない滑り出しではある。
1年後にはなんとか10万円ほどをコンスタントに稼げているであろう。
そんな生活を送っているためか、最近は『億万長者になったつもり生活』を夢想している。
それはなぜか?
私は先ほど、人に会わない理想の生活を書き記したばかりだが、本気の本気で億万長者になった妄想を
眠りに落ちる前にひたすら繰り返す生活を何年も続けた結果、このような知見が得られた。
「寂しい」である。
そう、億万長者は寂しいのだ。
アーリーリタイア、つまり30代40代半ばで隠居生活に入った人たちのブログを読んでも、
なぜか?
「寂しいから」だそうだ。
会社へ行かなくていい生活とは、つまり会社へ行かない生活であるから、
町内会にでも参加しない限り、同人活動を行わない限り、人に会う機会がほとんどない。
だから、億万長者には「(そこまで稼げないが)人と会うことができ、楽しく続けられる仕事をする」人が多い。
これを億万長者でないままやってみよう、というのが『億万長者になったつもり生活』である。
そのメリットとはなにか。
億万長者なのだから、投資や貯蓄のための余剰資金をガンガン稼ぐ必要はない。
億万長者なのだから、絶えず話の行方に気を使い、いつ応答を求められるかに怯える飲み会に出る必要はない。
億万長者なのだから、資産を減らさない程度の、寂しくならない程度の仕事でいい。
スーパーマリオRPGだって100周くらいしてもいいのだ。
あいかわらず人は怖いけれども、週5フルタイムでないのなら、いくらか続けられはするだろう。
なんてことを言いつつも、なったつもりにもリスクはあるし、
踏ん切りだってなかなかつかない。
「え? 今さら?」
「もうみんな知ってたぜ!」
「義務教育で習っただろう?」
物事を始めるのであれば、できるだけ早いほうがいい。
そして正直、私はまだ若い。
時間というチャンスがある。
なったつもり生活とは、そのチャンスをみすみす捨てることだ。
もったいない教の信奉者でもある私にとって、これほどもったいないことはない。
「し、しかし……」と思い悩みながら、その悩みをこうして長文にしたためながら、
そのてんびんを私はひたすらに凝視している。そろそろ目が痛くなってきた。