はてなキーワード: ハラスメントとは
なんで大学院の研究室なんていうレベルで猿山のボスみたいに君臨するアカハラ教授なんてものが存在してしまうんだろう
どうせ世の中的には大した爪痕も残さず、ハラスメントされた学生に恨まれながら、しばらく後には忘れ去られて干からびて死んでしまう運命なのに
「学歴ロンダ」なんてバカは言うが、他大から院進するのは意外と難易度が高い
そんな基礎力も十分で努力もできるあなたをその研究室は飼い殺してるだけ
まずはハラスメントの窓口に行った方がいい
それと並行して、この研究室で本当に良いのかを自問しよう
潰れるなんてもったいない
あなたは優秀だよ
大学院は鬱に耐えて生き残った者だけだが学位を得られるサバイバルゲーム。割り切って潰れないことに徹したら良い。年限がくればどうせ適当に卒業させてもらえる。まずはハラスメントの証拠を取って研究室を変えてもらうんだ。
有料記事だから読めてないけど、まったく同じ状況ということは、精神科を受診していてうつ病と診断済みということでいいのかな。適応障害ではなくてうつ病だと。
うつ病のときに重大な決断をするなとよく言われるけど、主治医の先生には大学院をやめたいと思ってることを伝えてあるの?
うつ病ではなくて適応障害だったら、大学院をやめるかハラスメントを訴えるかして環境調整をしなきゃ治らんと思うけど、うつ病であれば主治医の先生とよく相談して考えたほうがいいんじゃないかな。
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。
部下が成長しないのは上司の管理能力不足、と言いたくなるのが下っ端の人情だろうけど、現実はそうはならない。
その隣でやる気も能力もない部下がいたら、「あの部下はやる気も能力もない。伸ばしてやろうとしても大変な仕事から逃げる。あんなのいつまでも構ってられない。あいつを採った人事は見る目がない」という評価になるだけだ。
やる気があって努力しても能力が伸びない部下については、上司としても忸怩たるものがあるが、やる気がない部下についてはそこまで面倒見きれんとしか言えん。
「体調悪いから」という理由で逃げるやつを疑ったらハラスメントになるから疑うわけにもいかない以上、「体調悪いから」を使う奴は見限る。それしかできんよ。
どうぞ有給をピッタリ全消化する日数体調悪くしていたまえ。
既に広く知られた話ではあるが、阪神(大阪〜神戸までのエリア)では、エピソードトークに面白さが求められることがある。
※ここでエリアを阪神に絞ったのは増田が阪神出身だからだ。他地域にも同様の文化があれば補足求む。
日常であった些細な話をしようにも、鬱陶しい人間に絡まれると「オチは?」とか言われる。現実の出来事が常にオチるわけねーだろ、と思うが、口を開いた以上何らかのユーモアを含むべし、という圧力がうっすらとあり、それを抑制する力が働かないのが阪神だ。
こうして常に笑いを求められ、笑いが起こることでのみ承認される幼少期を辿った人間の数割がたどり着くのが、いわゆる喋りまくるコミュ障である。
笑わせられない話者はゴミだと刷り込まれまくるので、他地方の人と話した時にリアクションが薄いと不安になり、盛り上げようと焦って更に多弁になる。相手の話す隙がなくなるほどに。
そしてもう一つ出る症状がある。それは真剣な話を途中で茶化してしまうというものだ。これは阪神に生まれ育ち、そのまま生きている人間の大半が当てはまる。
とにかく笑いのない話に耐えられない。途中で茶々を入れて、新喜劇的な明るい雰囲気に持っていこうとする。相手も阪神のノリがあればいいが、なければ空気が読めないとか、最悪ハラスメントと言われることもある。
たしかにユーモアは必要だが、それはあくまで相手との関係性や空気感の上に成り立つものであって、ゴリ押しや安易な茶化しからは生まれない。それでもやらかす。
阪神出身者でも、元々そういう風潮に対して一線を引いていた人や、他地方に出て対話をするということを学んだ人はそこまで重症化していないこともある。しかしある程度自分を客観視できる人でなければ、ほとんどみんな対話ができない人になる。まるで喜劇を常に演じ続けているような、そしてこちらまでその舞台に引きずり込もうとするような、違う世界の住民になっていってしまうのだ。
被告は原告の言動を元にして、それを「あらゆる社会的弱者に対する長年のハラスメント行為(以下ハラスメントと行為と略す)」と表現したと
でも、それは被告が「ハラスメント行為」だと評価したにすぎず、意見の表明だと
裁判所は原告の言動を「ハラスメント行為」だと認めたわけではなく
被告が「ハラスメント行為」だと評価したのには妥当性があるから名誉棄損ではないと
これが被告が原告に対する人事権を持ってて「ハラスメント行為」と認定した上で原告に不利な処分を下した労働訴訟の事例であるなら裁判所は「ハラスメント行為」に当るか否かを判定したかもしんないけど
人間文化研究機構との裁判はまさにそれに該当するはず(処分理由に、日本歴史学協会とオープンレターがあったはずだから)
でもこっちは和解して詳細がわかんない
ってことでよろしいか?
ほーん
じゃあ、今後は女の人に「今般、社会学を専攻する女性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、男性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為が広く知られることとなりました。」
とか書いても体裁が「差別やめようキャンペーン」であれば公共の利益に寄与するしハラスメントでもないんだな
良い判決だな
組織が個人に言って許されるんだから個人が個人に言って許されない訳もないわな
体裁だけ整えれば割と言いたい放題ってことね