皆様、はじめまして。私がなぜこの文章を書いているのかということから、聞いていただけないでしょうか。
私たちは、白人の権利や安全に関心があります。白人主義者です。そして全ての差別がなくなり、みんなが安心して暮らしていける社会を求めています。
ところが、私たちはなぜか、レイシストと呼ばれるようになってしまいました。レイシストという言葉を少し調べれば、殺せ、犯せ、殴れといった言葉と一緒に使われるので、とても怖くなってしまっています。そしてなぜ、そう呼ばれるのかが、全く分かりません。私たちは、黒人の人たちとも、平和的に共存したいと思っています。ただほんの少しの場所、プライベートな領域では、安心して過ごせるように、安心・安全という問題意識を理解してもらい、どうすればいいのかを一緒に考えて欲しいと言っていただけなのです。
私は、自分は差別問題に関心のある方だと思っています。差別というのは、白人黒人問わず全ての人間を苦しめる、不自由で非合理的で非人間的な枷であると考え、批判しています。こうした差別への批判は、世界中の様々な平和的運動の伝統における中心的な思想であると考えています。
ところが、近年、差別をめぐる議論はとても窮屈になっています。最近ある人が「Black Lives Matter」に対して「白人も含めた全ての命が問題では?」と主張しました。そのことには賛否両論があって構わないはずです。ところが、その人はレイシストと呼ばれて、犯せとか殺せとか、ナチであるとかとまで言われて、激しいネットでの暴力を受けています。
オリンピックを見れば分かるように人種的な差は存在するし、全ての人の権利が主張できないのはおかしい。なのに、そういう人への罵り言葉の代表が「レイシスト!」です。人種主義者(レイシスト)と認定したら、何をしてもいいかのようです。私たちは、こうした攻撃は不当であり不正義であると考えますし、自由な言論の空間が必要だと考えます。
「安全の側面から、白人専用スペースで私たちの安全を保障して欲しい」と表明することが差別に当たると、私たちは言われてきました。議論の焦点は多くの場合、一部のレストランや公園など個人的にくつろぐためのスペースであって、それ以外の公的空間から黒人を排除したいという話は、ほとんど聞いたこともありません。
実際に、歌や踊りで有名になり皮膚を白くする手術を受けた「黒人」スターには、もちろん、白人専用レストランなどを使って構わない、ただ、むき出しの黒人そのものがそこに入ることは、耐え難いのです、とネットで表明しただけで、「レイシストめ!」と罵られ、黒人差別だと断じられてきました。黒人そのものが問題なのではない、それに便乗する犯罪者が問題なのですと言えば、犯罪被害を軽視したり妄想扱いしてくるような発言もありました。「そこまで黒人が怖いなら、専門医にみてもらってください」などと、実際に起きている犯罪を無視して多くの非難が寄せられました。
私たちが求めているのは、自由でオープンな議論です。その場を、〇〇が提供してくださることに感謝します。このようなプラットフォームの存在を有難く思います。〇〇という場は、議論の場を提供してくださっているだけで、議論の責任は私たちの側にあることを確認しておきたいと思います。いくつかのオープンな議論の試みを行いたいと思います。議論は、SNSなどで活発におこなってくださって構いません。どうかよろしくお付き合いください。
【海外発!Breaking News】自転車に乗って遊んでいた5歳児、隣人の庭に入った途端射殺される(米)
https://japan.techinsight.jp/2020/08/masumi08140638.html
あれだけ多様性の大切さを訴える動きが活発になったアメリカ社会も未だに生まれ変われていない。
私は、茨城県南のつくばではない市に住んでいる。茨城在住ではない人は茨城について魅力度と納豆ぐらいのイメージしかないだろうが、つくば市は茨城の市というより「筑波研究学園都市」として馴染みがあるだろう。約300の研究機関、2万の研究者を擁し、そのヤバさたるや時に「悪の組織」などと言われるレベルである(実際には多分悪の組織ではない。JAXAの見学とか楽しいし)。秋葉原からつくばを45分で繋ぐつくばエクスプレスが走り、キャンパス敷地内をバスが走るクソやべえデカさの難関国立筑波大学があり、国際会議場があったりもする。茨城にこんな重要そうな場所があっていいのかと思う。
私は、つくば市に原因不明の憧れを持っている。上につくば市の良い(と思われるところ)を挙げたが、それらが理由ではない気がするし、幼い頃から日常的につくば市に行っているのでつくば市への幻想は砕かれていると思う。実際にはホイホイその辺の歩道をロボットが走っていたりはしないし、他の市よりは発展してはいるものの都会を名乗れるほどではないし(なんなら筑波山ふもとあたりはクソ田舎)、国際会議場のレストランの冷やし中華はマズいし、あと交通の便がめちゃくちゃ悪い。つくばエクスプレスはあくまで東京との行き来に便利なのであって、現地民が使うには駅の場所が微妙だし高い。乗ったことないけど通学で使ってた友達がやりづらそうにしてた。あとイーアスへの交通の便も悪い。
それなのに、私はオシャレな街を思い浮かべるとき、渋谷や横浜、名古屋などではなく、曇り空の洞峰公園近くの道路や、日が落ちた後の竹園などを思い浮かべる。3DSのNintendogs+catsの街みてぇな雰囲気のところに住みてぇなと常日頃思っているのだが、それと同じノリでつくばのことが思い浮かぶ。もしかしてつくばってなんかの開発のモデル都市とかになってたりする?よくわからん
自分の住んでいる市が嫌いなわけではない。故郷なわけだしむしろ好きな方。研究学園都市に比べればクソ田舎だが。
田舎者なので先程挙げた渋谷などのようなゴリゴリの都会への馴染みが薄いというのもあるかもしれない。それに比べてつくばの安心感たるや。両親は結婚する前、つくば近郊で働き、つくばのアパートで同棲していた。私は幼い頃はつくばにピアノのレッスンに行き、その発表会をイーアスのホールでやり、シネプレックスつくばに映画を見に行き、国際会議場まで入試を受けに行った。多くの場所がメチャクチャ馴染みがある、かといって自分が住んでる市ほど詳しくはなく、僅かな「特別な場所」感が残っている。つくばは私にとって東京よりも身近な都会なのだ。クッソ高えビルとか巨大な画面のついたビルとかヤバいほど歩いてる人とかに慣れていない私にとってはこのぐらいがちょうどいい。私の家の前歩道の白線すらないし。
これからも世界に羽ばたいてくれ筑波研究学園都市。あとはバス多くしてどっかにアニメイトとかデカめの映画館とか建ってくれたら最高。上映館が少ない映画は柏か水戸まで行かないと見られないことが多いし、シネプレックス死にかけてるし。
住みたいかと言われれば交通の便から微妙だけども、いつか1日かけてつくばをゆっくり見て回る日を設けてもいいかなと思っている。観光名所などではなく、幼き日のピアノ教室だったり、今はもうないアジトオブスクラップの近くのパン屋だったり、母が馴染みだったと言って連れていってくれた洋食屋やケーキ屋だったり。そこで美味しいオムライスを食べながら、受験説明会の時に国際会議場で食べた冷やし中華はクソ不味かったなあと感慨に浸りたい。
なぜか「脈絡もなく風俗に行かないアピールした男」を前提に話が進んでいるけど、
川上氏は別に「脈絡もなく言いだした」とは言ってないんだよね。
となると、女性に「風俗に行ったことがあるか」と聞かれたときになんて答えればいいのかって話になって、
YESと答えれば「金で女を買う女性差別主義者」になって、自慢げに(そもそもこれが主観でしかないが)NOと答えると「買おうと思えばいつでもカネで買える立場に酔ってる女性差別主義者」になってしまうんよね。
申し訳なさそうにNoと答えればいいの...?でもその場合でも「行こうと思えば風俗に行ける」ことには変わりないわけで・・・
物づくりをする人の中には、アーティストタイプの人とクリエイタータイプの人がいる。
アーティストタイプは「表現すること」自体に重きを置いていて、
クリエイタータイプは「表現したものを通して人の心を動かすこと、表現のその先」を目指している。
アーティストタイプの人は自己表現が目的だから、評価どころか、誰かに見てもらえなくてもいい、見せるために作っているわけではないという人もたくさんいる。「作ること」それ自体が喜びであり、楽しいのだ。
逆にクリエイタータイプは、他人に見てもらってリアクションを得ることが前提にある。広告やweb、装丁など「デザイン」と分類されるものに携わる人はこっちだ。顧客の求めるものに応え、見る人がどういう気持ちになってほしいかを重視して、ものを作る。書籍として販売されている商業作家もほとんどはこっちだろう。(一人でひっそりと作り続けたものがたまたま誰かの目に留まって商品化されるケースもあるので「ほとんど」と書いた。)
私は根っからのクリエイタータイプで、物心ついた頃から絵は描いていたけれど、ただの絵ではなく「紙芝居」や「絵本」や「着せ替え人形」や「塗り絵」を手作りして他人に楽しんでもらうという、ちょっと珍しい遊び方を幼稚園児時代からしていた。絵を描くこと自体ももちろん好きだけれど、それを見た人が喜ぶ顔を見るのが何より好きだった。
同人誌ではよく、「感想をもらって嬉しいか否か」「いつもどれくらい感想を貰うか」のような、感想についての議論が時折取り沙汰される。
人の目に触れる形で世に出した以上、多少のリアクションは欲しいという人が大多数だが、感想はいらない派も少なからず絶対数存在する。これは前述した二つのタイプがあるからだ。
どっちが良いとか悪いとかの問題ではなく、表現のベクトルが違うのだ。
アーティストタイプの人の中には、他者から(たとえ肯定の言葉であろうと)何かを言われた瞬間に物づくりをやめてしまうという人も稀にいる。自分が一人で作り上げた小さな世界に、知らない人が土足で上がり込んできたような、そんな気持ちなのだろう。感想を送ったらブロックされた、お気持ちツイートを書かれた、という人もたまに見かける。
こうやって作り手にもタイプが混在していて、かつ「ネット」というそれが表出しにくい状況だと、読み専で感想を送る側のオタクにとっては、送った方がいいのか悩むのももっともだろう。一度送ったら筆を折られたなんて経験があれば、二の足を踏んでしまうのは当然だ。
ここの見極めは大変難しいのだが──反応がいらないという人は、自分の作品の宣伝や告知をほとんどしなかったり、「感想いらないです」と明言したりしていることも多いので、そこで見分けていくしかない。
ただ、製本やグッズ化などなんらかの形にして即売会で頒布している作家に関しては「見てほしい、リアクションがほしい」人が大多数ではあるので、臆することなく感想は送ったほうがいい、と、私は思う。
私は同人では二次創作BL界隈に身を置く腐女子だが、関東のイベントだとだいたい安定して誕生日席、インテだと繰り上がって壁配置になる程度の中堅サークルで活動している。いつも通販・イベント・再販合わせて一作品500〜1000部くらいの部数を頒布しているが、貰える感想は10以下。内容によっては1つしか来なかったときもある。
来ないのだ、意外と。
本を出すときは「受け入れてもらえるだろうか、楽しんでもらえるだろうか」と不安で仕方ないので、最初の一つが来ると心から安堵する。一つ貰えるだけで飛び上がって喜んでしまう。十通も来たら「今日が命日…」なんて思う。描いてよかった、と自分を肯定できる。
私が送らなくてももうたくさん貰っているだろう、なんて思う必要は全くない。貰ってない。感想を送れ。
また、一度送ったからもういいだろう、みたいなことも思わなくていい。好きだと思ったらその度に伝えていい。
貰う数が少ないから、作家側は何度も感想をくれる人を次第に把握する。HNを書かなくても文体でわかったり、「以前〜というような感想を送った者です」とだけ書いてもすぐに思い出せる。
何度もくれる人にはそれだけ愛着というか、親しみのようなものが湧く。この人のためだけに一冊書き上げたい、何かお礼をしたい、スケブを描きたいから一度顔を出して会いにきてよ、と思うことすらある。
この人だけは絶対にリアクションをくれる、という安心感が生まれる。そうすればそれだけ、作り手は本を出し続ける。
感想を送れ。
…とまぁ、送るか否かで悩んでいいのはあくまで趣味の同人界隈の話で、商業作品に関しては100%感想を送っていい。作家に直接送れないときは、amazonや楽天ブックスなど媒介業者のレビュー欄に書くといい。レビューを読んで購入するかどうかの指針にする人もいるからだ。本が売れないと商業作家は死ぬ。感想を送れ。
感想問題が話題になるたびいつも思う、同人作家かつ商業作家かつ商業クリエイターの三足の草鞋を履いているオタクの独り言でした。
元増田みたいな連投与太話がなろう作者に効いてると思ってるのが痛いな
で、なんて答えれば正解なの?
地元路線に乗り入れて走ってる某社の車両、外観はステンのシルバーに青帯が締まって見えて悪くないが
水回りのタイルを連想させるピンクの内装ボードは好きになれない…
それ以外が悪くないだけに惜し過ぎる
元増田読めよ
んで「行かない」やつは困った顔してちびちび酒飲んでるんだよ
そこで「どうして行かないのか」って川上なんちゃらみたいなのが聞くんだよ
「なんか信念があるのかと何か理念でもあるのかと」
だからな
しらねーーーーーーーーーーーーーよ
そんなことかんがえてねーーーーーーーーーーーよ
というより、別れてしまった。俺は別れたくなかったのに。
本当に心地いい関係だった。
それなのに、なんでなのかな、と思う。
そのとき彼女は、「え…」と本当に驚いた顔をして、理由をしきりに聞きたがった。
俺も最初ははぐらかしていたけど、酒も入っていたし、彼女のことが本当に好きになっていたから、
嘘をつきたくなくて、でもやはり言いたくはなくて、「どう思う?」などとごまかしていた。
やっぱり女の子というのはすごくて、長い時間を一緒に過ごすと、こちらの思惑など見透かされているようだった。
「海外に転勤?」とか「東京に行くんでしょ」と言っていた彼女に、「そうかもね」と笑いながらごまかしていたら、
「あー彼女できたんだ」と言われてしまった。そうなんだけど、彼女っていうか婚約者なんだよね。
「まあ、そんなとこかな」と言ったら、「もう結婚じゃん」と言った。おお、そんなことまでわかるのか。悔しいなあ。
そんなこんなで、その日最後に寄ったバーで、割りと洗いざらい話してしまった。
ただ、最後まで結婚はしないという体でしのいだ、というか言えなかった。それがせめてもの誠実さの表現だと思った。
彼女の前では誠実でいたかった。むしろ、彼女だけを愛していたかった。痛い奴だった。
でも、彼女はもうわかってたようだった。今思えば、俺を見る目がとてもさみしい目をしていたような気がする。
その夜、ホテルに戻ってから、何事もなかったかのようにセックスをした。
彼女は俺の方を見ずに、「結局どれが本当なの」と尋ねた。
「○○は、どれがいい」
「海外に行くんだったら、私を泊めてよ」
「そうだな」
「で、本当は?」
「……本当は、東京に行くんだ」
それから、俺は誠実な態度をとることはできなくなった。
誠実な人間が、真実を知りたがっている者に対して嘘をつくというのは、矛盾だからだ。
言ってしまった、と思いながら、もはやどの嘘なら彼女を傷つけないのかわからなかった。
結局俺は、「彼女が浮気相手であり、本命は東京にいる。そして、彼女と出会ったのと同時期くらいから
本命とも付き合いだした」ということを事実だと思わせたような気がする。
本当と嘘が入り混じって、最悪のクズ男が出来上がっていた。今思えば、だが。
そして次の日、笑いながら家に帰り、いちゃつきながらご飯を食べ、何回もセックスをした。
この日までは、彼女もあまり気にしていなかったような気がする。
「もうすぐ会えなくなるのかー」
「会えないならどうする」
ああ、会いたくなるような関係をまだ維持できているんだと思って、
少しおしゃれな雰囲気の近所の店でご飯を食べ、家でセックスをした。
彼女は、俺に、家に置いてあった下着を持って帰るように言った。
なんで、と言っても、いいから、というだけで、有無を言わさず持たされた。
玄関先で、少しだけ機嫌の悪そうな顔をしていたけど、いつも通りキスをして別れた。
でも、あの顔が引っかかっていたから、「大丈夫だった?」とラインをした。
返事は帰ってこなかった。それから3日後、ラインもブロックされたようだった。
こうして、俺たちは会わなくなった。つまり、俺は彼女に会えなくなった。
彼女は、俺がクズ男だったということに気づき、今頃はマッチングアプリで次の男を探していることだろう。
ああ、なんと素晴らしい。
なんのために、あの時間を一緒に過ごしたのだろう。
どうして、俺は本当のことを言う気になり、そして、最後まで本当のことは言わなかったのだろう。
嘘をつきとおすか、本当のことを言うか、どちらかにしなければ苦しいだけなんだと、
本当は、
本当は?
本当は、一つ決めたことがあるんだ。
今度からは嘘をつき続けようって。本当のことを言っても嫌われるだけだからね。今回みたいに。
そりゃ真実は頭を使わないから言いやすいよ。けど、それが相手にとっては不快なこともある。
でも、その子は、本当のことを言ったのにね。
その子が嘘をつくような子だったら好きにならなかったのにね。
どうして誠実でありたいと思ったの?
その子の幼さに、愚直さに、応えたいと思ったんじゃないの。
そう、応えたいと思った。
でも、結局は「応えてあげる」という傲慢さでもって、その子を支配できると考えていたに過ぎなかったのかもしれない。
「嘘をつくのをやめて、真実を話してあげた」のだから、あなたは私のことを嫌いにならないよね?むしろ好きになってくれるんじゃないか、と
そう
考えていた、