はてなキーワード: インスタント食品とは
20代で貧乏だった頃、毎食チキンラーメンを食べていたことがある。
実家が微妙に健康志向であったので、子供の頃から袋麺やインスタント食品自体を口にする機会があまりなかったからだろうか。大学生の頃、自分で稼いだ金で食べるインスタント食品やファストフードがめちゃくちゃ美味しかった。
会社勤めを始めた後も、零細に勤めてたのと、そもそも薄給で若者を働かせることが常態化していた業界だったので、慢性的に金がなく、それが不健康な食生活に拍車をかけた。
なけなしの給料は、社会保障費と家賃と光熱費で消えていき、その残りで書籍を買うような生活だったから、夕飯を抜いたりすることが常態化していた。
そんな生活の中で、すごく重宝したのがチキンラーメンだ。当時、袋麺は5つセットで200円台、セールなら198円とかで買えたので、安い時に買いだめて、しょっちゅう食べていた。
ある時、ひょっとしたら、毎食チキンラーメンでもいけるんじゃないか?と思って、本当に毎食食べるようにしてみた。
基本的に、食へのこだわりがなく、昨日の晩ごはんが今日の晩御飯と同じでも気にしない性質だったので、チャレンジ開始後は順調に家にあるチキンラーメンを消費していた。
でも思いの外、終わりはすぐにやってきた。
5日目の昼、14食目のチキンラーメンが美味しく感じなくなったのだ。そしてチキンラーメンを口に入れること自体を身体が躊躇し始めた。
まずあの濃厚な香りが美味しそうだと感じなくなった。そして無理矢理口に入れても、飲み込むことができなくなった。麺をすすっても喉を通らないのだ。
その時は無理矢理食べ切ったが、次の15食目、その日の晩はもう無理だった。あんなに好きだったものが目の前にあるのに、どうしても食べられないのだ。空腹を感じているのに、目の前のチキンラーメンを食べることを身体が拒絶するのだ。
もっと空腹になれば、食べられるかもしれない。そう考えて、水以外は摂らないようにしてみた。空腹は最高の調味料というではないか。ましてやチキンラーメンは調味料ではない。食事なのだから、もっと美味しく食べられるはずなのだ
翌朝は頭痛と空腹で目が覚めた。
チキンラーメンの袋を開けると、あの濃厚な香りが、頭痛を悪化させ、吐気を感じさせた。まだ身体はチキンラーメンを受付ないらしい。つまり空腹が足りないのだ。水で空腹を紛らわせることにした。
その晩、身体の震えが止まらなくなった。熱はないのに悪寒と頭痛がする。水を飲めば落ち着くが、チキンラーメンの匂いが少しでもすると、頭痛が悪化した。
布団にくるまって寝ようとしたが、コメカミが脈動するほどの頭痛で寝られない。心臓の音が部屋に響く。安いワンルームの壁の向こうの生活音が鮮明に聞こえてくるような気がする。
なんでこんなに苦しまねばならないのだろう
思いたったように始まったこの生活は、唐突に終わりを告げた。学生時代から付き合っていた、県外に住む彼女が、翌朝訪ねてきたからだ。どうも前の晩、電話をかけてきた際、電話口の僕の様子があまりにもおかしいので、様子を見にきたらしい。
僕はあまり覚えていないのだけれど、あとから聴いたところによると、耳元で喋られると、頭に響いて、頭痛が酷くなるとか、空腹でチキンラーメンが食べられないとかいって、泣いたり怒ったりしていたらしい。
僕の部屋にやってきた彼女は、酷い顔で布団に包まる僕と、ゴミ箱に突っ込まれた大量のチキンラーメンの空袋と、食べるのを断念して流しに放置されたどんぶり、散乱するミネラルウォーターのペットボトルを見て、何かを感じたのだろう。
とりあえずコンビニに走り、スポーツドリンクとゼリー飲料とプリンを買ってきて、少しずつ僕の口に押し込み、寝かしつけ、流しに放置されたチキンラーメンを片付け、部屋の空気を入れ替えた。
空腹は感じていたので、彼女にそういうと、とりあえずシャワーを浴びて服を着替えるように言われた。浴室の鏡に写る自分の顔は、眼だけギョロッとしているように見えた。
僕たちは、ゆっくり駅前商店街を歩いて、普通のうどん屋に入って、僕はたまごとじ、彼女はキツネうどんを注文した。先に運ばれてきたのはキツネうどんだった。彼女は七味を手にとったけど、なぜかうどんにはかけず、そのまま僕から1番遠いテーブルの端においた。
僕と彼女は、あまり話すこともなく、ゆっくりとうどんを食べて、店を出た。その足で駅に向かって、彼女はひとこと
「また来週」
とだけ囁いて改札をくぐって帰っていった。
今でも年に数回、チキンラーメンを食べる。
けれど、なぜあの時チキンラーメンだけでイケると思ったのかは思い出せない。
スーパーで「完全食」という文字を見るたびに、これなら5日目を超えられるかもしれない、という思いが頭をよぎる。でもいまさらそれに挑むほど、僕は若くはないのだ。
[土曜日]
13:00 平日の疲れにより前日から眠り続け、この辺りでトイレに一度起きる。食欲は無く、そのまま再度眠る。
15:00 今週も眠り続けてしまった現実に絶望しながら起床。動かぬ頭で細々と最低限の家事をする。
18:00 小腹が空いてくるので食料の買い出しにスーパーへ行く。
19:00 適当に買ってきた店屋物で食事。ネットを眺めている内に時間が過ぎる。
23:00 体が重い。風呂に入る元気はないのでそのまま就寝。
[日曜日]
10:00 とりあえず目は覚めるが何もする気が起きないのでそのまま布団の中にいる。眠って起きてを繰り返す。
14:00 体を起こす。インスタント食品で朝昼を一緒に済まし、前日やりきれなかった家事やら片づけをする。
16:00 夕方になると耐え難い眠気が襲ってくる。こうなると何も考えられず椅子の上でうたた寝。
19:00 貴重な休みを何もせずに終えるいつもの週末に絶望しながら目覚めて夕飯を食べる。
23:00 何をするでもない内に気が付けば深夜。布団の中へ。
趣味や楽しみは何も無くなった。家庭を持つ機会などあろうはずもない。
2.必要以上に調味料を増やしてはならない。2種類までにせよ。
3.珍しい調味料を使ってはならない。さしすせそ+コショウ、一味までにせよ。
4.必要以上に刃物を使わせてはならない。調理後の盛り付けのみにせよ。
5.必要以上に手間をかけてはならない。レンジの使用は1回までにせよ。
6.必要以上に容器を使わせてはならない。1つまでにせよ。
7.必要以上に時間をかけさせてはならない。10分までにせよ。
我々に具材を切ったり和えたり謎の調味料に漬け込んだりさせるな。
冷蔵庫に1日寝かし足りさせるな。
なんどもなんどもレンジを使わせるな。
・お湯をかけて待つだけで食べられるインスタント食品
という、手軽さに圧倒的に特化した連中だ。
諸君らの健闘を祈る。
適応障害ですね〜
仕事続ける?休む?辞める?
あ、休む感じね
じゃ、二ヶ月休職する感じで良いですかね
完全に昼夜が逆転した
寝付けない、2、3時間で目が覚めるとか不眠の気はあったけど、休み出してから、眠くなったら寝る、目が冴えたら起きる、とかいう自堕落な暮らしをしているから完全に自業自得
実際寝てる以外何もやることがない
やることないというか、休職中に資格とるとか、転職活動するとか、やるべきことはあるはずなんだけど何にもやる気が出ない
たまたまAmazonやら何やらでレトルトご飯とかインスタント食品とか買い込んだタイミングだったから一ヶ月ゴミ出し以外で外に出てない
昨日家の玄関に桜の花びらが落ちててもう桜咲いてんの?!って超驚いた
会社からは後日休職の手続きの連絡するってメール来てから一ヶ月音沙汰がない
貯金尽きる前に傷病手当とか手続きしたいんだけど期末期初の忙しい時に催促するのもなんか悪いしな…
は〜〜〜この先人生どうしようかね〜〜〜
どうしようもねぇ〜〜〜〜
これだけで面倒くさい洗い物が2つ出る事を意味する。
ついでに、包丁を使う場合、分量の配分が細かくて材料に余りが出る可能性が高く、残った材料を保存して置いて後日別の料理に使わなければならないような手間もかかる。
しかも包丁を使う食材はたいてい生もので、一週間放置すると腐ったりするものが多い。
包丁を使わず、後腐れなく材料を使えて初めて、簡単レシピと呼べるのだ。
という事で、一人暮らしを20年続けた俺が、真の簡単レシピを紹介する。
・冷凍肉
・トマト缶
・材料を全部鍋にいれて水入れて煮る。
以上。
・冷凍肉
・トマト缶
・シチューの素
・材料を全部鍋にいれて水入れて煮る。
以上。
・冷凍肉
・トマト缶
・カレーの素
・温泉卵
・レトルトごはんと温泉卵以外の材料を全部鍋にいれて水入れて煮る。
以上。
以上
・カップラーメンを作る。
・カップラーメンを丼にあける。(ラーメンのスープがドレッシング替わりになって便利)
冷凍野菜や冷凍肉の種類と、スープやシチューの素の種類を工夫することで、相当なバリエーションが確保できるため飽きもこない。
洗い物は「鍋(またはフライパン)」「おたま」「丼」だけである。(箸は割りばしを使う)
※なお、手持ちのレシピは当然これだけではなく、冷凍大根おろしとスーパーの総菜コーナーの天ぷらを利用したおろし天玉そばや、冷凍ホウレンソウラーメン、まぐろのたたきとしらす丼など、和洋中問わず数々の国の料理をマスターしている。
これらの材料は、ほぼすべて業務スーパーで手に入るため、買い物もらくちん。
我ながら独身力高い。
食事には特別関心があるほうではない。どちらかというとご飯よりお菓子のほうが好きだ。
この10年くらい朝は抜き昼は適当にその辺で済ませ、夕飯も帰りにどこかで食べるか家でコンビニ飯だ。
今まで料理らしい料理はほぼしたことがなく、オムレツとか野菜を肉と炒めただけのものとかそれくらいしか作れない。
今日はスーパーに行っていつものように惣菜でも買うつもりだったんだが、たまたま見かけたあるインスタント食品の名前が気になった。
「シュクメルリ」とはなんなのか。パッケージの写真はシチューっぽい見ためだ。裏を見ると必要な材料が書かれていた。
ずいぶん簡単そうだ。
パッケージには「ジョージアの郷土料理」とも書かれていた。ジョージアとはどこなのか。アメリカにそんな州があった気がする。
そのまま棚の前でスマホで検索したら、ジョージア州ではなくてジョージアという国のようだった。昔はグルジアと呼ばれていたとわかった。
グルジアという国名には少し聞き覚えがあった。なんか格闘技強めな国じゃなかったっけ?
ロシアの南、トルコの北に位置するようだ。なんとなく地理的な雰囲気もイメージできてきた。
ここにきて俺の心はワクワクした。
そのまま思いつきで「気ままにグルメシュクメルリ」と、鶏のもも肉、サラダ油、玉ねぎ、牛乳を買って帰った。
よく考えたら包丁がなかったので100円ローソンにも寄って買った。包丁だけ買うと怪しいやつだと思われないか怖くて意味なくトングとかおたまも買った。
さて、下準備だ。まずは玉ねぎを切る。玉ねぎを切るなんて何年ぶりか。ひょっとして学生時代以来かもしれない。
適当に切ってざるに入れ、少し水に浸すことにした。なんとなくそうしたほうがそれっぽい気がしたので。
つぎに鶏肉だ。食べやすそうなサイズに切って、ここでふと自分なりのアイデアを盛り込みたくなった。
料理初心者がやらかすあるあるのひとつだとどこかで聞いた記憶もあるが、どうしてもやりたくなった。
軽く興奮状態の俺はすぐさまスーパーに戻って薄力粉を買ってきた。
前にYoutubeで見かけた、鶏肉に小麦粉をまぶして焼いてるのが美味しそうだったのを思い出したからだ。
買ってきた薄力粉を、鶏肉が入っていたパックにぶちまけてそこに切った鶏肉を置いて手でもんだ。
下準備ができたのでいよいよ調理だ。
まずフライパンに油を引く。俺のイメージは薄力粉をまぶした鶏肉の表面がパリっとした感じになるというものだった。
なので油を大量に入れてみた。油であげる感じに近くなるはずだ。
薄力粉をつけまくった鶏肉を、大量の油をひいたフライパンにそっと置いていった。
一瞬いいかもと思ったけど、すぐに水分がたくさん出て薄力粉がどんどん鶏肉から分離してしまった。
水分と油と薄力粉がまざったような謎の液体ができてその中で鶏肉が焼かれていく。
失敗した。卵でつなぎが必要だったんだろうか?鶏肉の水分を取るべきだったのか?でも動画では薄力粉しかつけてなかったけどな。
とりあえず余った薄力粉を鶏肉の上にパラパラまいてみたりした。たぶんすぐにかき回したのもよくなかった。
部分的には衣っぽくなってる箇所もあったのでとりあえず良しとした。
次は玉ねぎの投入だ。ここで俺はまた失敗する。
最初の予定では鶏肉に衣がついたら油は一度切るつもりだったが、忘れてフライパンにそのまま玉ねぎを投入してしまった。
これはそうとう油っぽくなってしまうなと思ったけどそのまま続ける。
その後はもう大してやることはない。水を入れ煮込み、牛乳を入れさらに煮込む。・最後にシュクメルリの粉を入れればそれで出来上がりだ。
ただ自分としては本当は玉ねぎに少し色がつくくらいまで炒めたかった。
でもそれだと後で玉ねぎが溶けてしまうのかもなと思ったので早めに煮込みに移行した。これは正解だったと思う。最後まで玉ねぎはその形と歯ごたえを残してくれた。
しばらく煮込んで次は牛乳を入れていく。450mlのパック牛乳は余らせそうだったので大量に入れた。
残った牛乳は薄力粉を買った帰りにセブンイレブンで買ったホットコーヒーに入れてカフェオレにして飲みながら調理を続行した。
煮込むにつれて色がめちゃくちゃいい感じになってきた。大量に入った油と煮詰まってきた牛乳によってスープは全体的にクリーム色になってる。
さすがに油が気になってきたしアク取りも忘れていたので、せめてとスプーンで上澄みの黄色いとこをすくっては捨てた。時既に遅しかもしれないがなにもしないよりはましだろう。
ある程度上澄みを避けて味見したら、材料と塩コショウくらいしか入れてないのになんか美味しかった。
そして最後の仕上げに「気ままにグルメ シュクメルリ」の粉末を投入する。
一気に匂いが出てきた。ニンニクが効いてるのがシュクメルリの特徴らしい。
ただ完成したのはパッケージにあるシュクメルリとはだいぶ違うものに見える。牛乳を大量に入れたせいで見た目は普通のクリームシチューに近い。
でも味としてはクリームシチューよりはスパイスを感じる。あとニンニクが効いてる。
まあ雰囲気が出ればいいのだ。なによりシチューっぽいだとしても自分で作ったということに気持ちが昂ぶる。
付け合せは食パンだ。
出来上がったシュクメルリ(風ななにか)を皿に移し
何度もひっくり返しながら両面がこれもう焦げてない?くらいまで焼く。
家はトースターがないけどどうしてもトーストしたかったのでこうやった。
ちなみにVフォーベンデッタという映画の主人公がやってたのを真似したつもりだ。(映画ではバターが異常に使われてたけどさすがにそれはやめておいた)
ガリガリになった焦げ目のついたトーストと、ぼてぼてのクリームシチューっぽいシュクメルリ、彩りとしては暖色しかなく、量を作りすぎたのもあってハッキリいって全然美味しそうには見えない。
だが味のほうはたくさん失敗した割にはそれなりに美味しかった。
反省点は山程ある。
俺はシュクメルリを食べながら、次はあそこをこうしてみようとか色々考えていた。
楽しかった。
簡単な料理を1品作ってみただけで(しかもインスタント食品だ)時間もあまりかかってない。
仕事中の自分は小賢しくていやだし、オフの時もだらしなくて好きじゃない。
初めてのシュクメルリはなかなかヘビーだったので、少し期間を置いてまた挑戦しようと思う。
気ままにグルメがまだ一袋残っているので、今度は牛乳と油を減らして、彩りになりそうな野菜を検討してみようと思う。
追記:昨日の夜に勢いで書いたんだが、その後Youtubeでシュクメルリを作ってる動画をいくつか見てみた。
なぜか人によって材料も工程も全然違うのでなにが正解なのかはよくわからなかったが、恐らく元々の料理はかなり素朴なもので、それに様々なアレンジが入ってるようだった。
松屋のメニューにもなっていたらしく去年くらいプチブレイクしていたというのも知らなかった。
日本のシュクメルリはチーズを入れてたりしてよりリッチそうな(そしてカロリー高そうな)レシピが多いみたいだけど、自分としてはシンプルに鶏肉を食べる方向で再挑戦してみたいと思う。
不思議なもので、料理だと時間を使っても罪悪感があまりないというか、スポーツと一緒でなんか良いことをしてるような気分になれる。
自分の作ったものを誰かに食べてもらうという機会はきっとこの先もないだろうけど、俺が俺のために作ってやるというのもけっこういいもんだなと思った。
今日は家にこもってるわよ。
いや多分コロナのたぐいではないから安心してほしいんだけどちゃんと履いてるわ。
ひどくなったら薬を飲むってやつを繰り返しているんだけど、
痛みが辛くて夜も寝れなくて、
でもだんだんと薬を飲んだら
どのぐらいの時間で効き目が出始めるとか、
どのぐらいの時間で効き目がなくなってくるか、
なんとなくわかってきたので、
よく寝れるように逆算して就寝時間に痛みの無いようにしているわ。
でもあとお薬が5錠しかなくて、
それまでに改善してくれることを願うけど、
こればっかりは待つしかないみたいなのよ。
とりあえず薬が切れることが恐怖だわ。
籠もってるからこそ
ゲームやりたい放題、
なんかそんな気力はなく、
ただただじっとして過ごしているだけよ。
これしか、
チャンスタイムってことにするわ。
あと常備食も常にやっぱり常備しておくことも大切だわ。
インスタント食品とか、
意外とお米はあっても炊くまでの気力がなかったり、
やっぱりカロリーメイトとかそういうのもある程度常備しておいたほうがいいわね。
今日の教訓よ。
常備したほうがいいわねって
冷蔵庫の食料もそろそろ底をつきそうよ。
今日はこのぐらいにしておくわね。
ひっそりと残っているリソースを削りながら過ごす感じもたまにはいいわね。
いや!
よくない!よくない!
それかけて食べたら美味しかったわ。
味の濃いものが恋しいわ。
あれは強力すぎて今は敬遠したいところよ。
それをガブガブ飲んだわ。
飲んでるつもりでも
体内は水分不足担っているようで、
まあ気をつけるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
スーパーでユッケジャンウマーメシが半額大量なので1個買ってきた
なるほど、思ったほどおいしくはない
というかカレーメシの○○メシシリーズは元々ものすごくおいしい食べ物ではなく、「○○にご飯入れたときのアレ」という記憶をネタに食べているものである
だもんだから、カレー味ラーメンにご飯投入とか、カップヌードルにご飯投入とか、そういうオリジナルを思い出しやすいものはおいしく感じやすい
その点、今回のような「インスタントユッケジャンスープにご飯投入」というのはオリジナルの思い出が無いに等しい
明らかに粗末で体に良くない味がするし、食べた後の尿なんてすんごい臭いになることがある。
でも自分もハンバーガーや牛丼はよく食べるし、食べること自体を否定したいわけじゃない。
「粗末で体に悪いもん食ってんな」という自覚を持って欲しいということだ。
まさに「スマホのスピーカーで音楽を聴く時代」を象徴する存在だろう。
音がペラッペラであることを認識したうえで楽しんで欲しいということだ。
何も感じずただのバカ舌・バカ耳で楽しんでいるのとでは全く違う。
以前どっかの音楽評論家がYOASOBIの音を酷評したとき、大バッシングを受けていた。
基本的にその評論家は事実しか言っていないが、それが事実であることを理解できない人が多すぎたのだ。
チーズバーガーがジャンキーすぎると言われて「そんなわけない!」とキレてるようなもんである。
結局何が言いたいかというと、
俺は底辺高校を出て2年間浪人して地元の県庁に高卒枠で滑り込んだものの、頭の悪さとコミュ力の低さ故に仕事ついていけなくてSADを発症してしまい、辞めてからは廃人みたいな生活をしていた。
ワイパックス依存になってた俺の生活は酷いもので、親と言葉も一切かわさずインスタント食品と菓子パンを貪り、昼夜逆転し、当時のpornhubでシコって寝るだけのゴミみたいな生活だった。ブクマカのように気に食わない意見に対しては感情で噛み付くカスみたいな事を2chで励んでるくせに自分が正義だと真剣に思っていた。まともな精神状態ではなかったと思う。
そんな俺のもとに「運動と瞑想しない者の末路はいつも悲惨だ。恐ろしい恐ろしい」という一文が舞い込んできた。
書いてて面倒くさくなってきた、とりま、先生ほんとうにありがとう。1人前とは言えないけれど、なんとか仕事してます。先生がいなければまだあの生活を続けてました。本当にありがとう。
今日、家族が所用でいない。自分、一人だ。仕事から帰ってきて、適当に夕食作って、チューハイの蓋を開けようと思った時に、そうだ飯食ったらどっか行こうと思いついた。ストゼロをそのまま冷蔵庫に戻した。
飯食べたら、着替えだけもって自転車でスーパー銭湯へ向かった。家族が車使っているので、クロスバイクしかない。
数年前にできたスーパー銭湯。入り口前で案内を見ると、岩盤浴プランだとリクライニングコーナーでゆっくりできるらしい。クーポンだと1,500円ぐらいなので、ちょっと贅沢してみることにした。岩盤浴は初めてだ。
風呂に軽く入って、館内着に着替えて岩盤浴コーナーへ。おっさん一人で浮かないだろうかと心配したが、老若男女、そして家族から一人からカップルから友達までと色々な人がいて、おっさん一人でも問題なさそうだ。
とりあえず眠いので、リクライニングで一時間ほど仮眠する。さて初めての岩盤浴へ。見様見真似でスタートする。徐々に温まってくる。15分ぐらいすると汗びっしょりである。そしたら涼しい部屋へ直行する。
あーなんか気持ちいい。またリクライニングで仮眠して、今度はロウリュウなるものすごい温かい風が当たるのを体験。お兄さんが暖かい風を当ててくれる。皆で拍手して、なんか一体感あっていいな。
さて帰ろうかと思ったが、腹が若干減ってきた。帰って、インスタント食品でも食べようかと思ったが、緊急事態宣言も終わったし夜のラーメン屋も悪くないなと思って、Googlemapで検索すると幹線道路沿いに行けば夜遅い時間でもあいている。
さっそく直行する。こんな時間だが、会社帰りのスーツ姿のリーマン、若いカップル、よく分からんおっさんと繁盛している。
ラーメン。美味しい。学生時代、部活で夜遅くまで残った時に、よく食べに行ったラーメンと似ていて、なんか懐かしい気分になった。もう戻れない日々だけど、本当に楽しかった。
毎日あーだこーだ集まってたのに、もう集まることは人生で一回もないんだもんあ。懐かしいな。完全にウルウルきてしまった。
780円のラーメン。すんげー美味しいっていうわけでもないけど、なんか幸せな気分にさせてくれるラーメンだった。有難う。
最近年度末進行で帰宅がこんな時間だ。家にあるインスタント食品や休みの日にイヤイヤ作った作り置きを貪り、シャワーをおざなりに浴びて、布団にくるまっていると涙が出てくる。
こんな時に、可愛いお嫁さんがいたら、と夢想する。家に帰ると明かりがついてて、部屋は暖かい。キッチンにはお嫁さんがいて、ビールを飲んで待ってると体に優しい野菜がたっぷり使われた和食なんかが出てくる。テーブルに2人でついて、気持ちの優しいお嫁さんが「今日はどうだった?大変だった?」なんて聞いてくれるから仕事が終わらないだとか上司が無茶しか言わないとか愚痴を言う。そのあとはわかしてもらったお風呂にゆっくり入って、ほかほかのままベッドに入って、となりには柔らかくていい匂いがするお嫁さんがいる。そして、おやすみなさい、明日も頑張ろうね、なんて言ったくれたらどんなにいいか。
驚くべきことに、こんなことを夢想しているのはヘテロセクシャルの女だ。女の私でさえ激務にやられるとこんな旧時代的なジェンダー感のお嫁さんを求めてしまうのだから、男性はいわんやだろう。このまま満たされない日々が続くと、内面がKKOになりそうで怖い。
夫婦でホームレスの取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為は奇行と捉える人がいても不思議ではない。
現在は夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトのきっかけは妻である私の原体験が基となっている。
20年以上前、新宿駅の地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。
今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌を安値で売る者すらいた。
その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボールの小屋だった。秘密基地の様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であることをうっすらと理解した。
そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである。
これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。
興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネットの検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。
検索結果は田舎のホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。
2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事を支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である。
初めて会う相手に自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去の情報を他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情を配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。
これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦の第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。
A氏はホームレス支援の活動として、インスタント食品や保存が可能な食材、周辺のパン屋、農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動は不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。
我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒、作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものを揃えていた。
食材と日用品を仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。
A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。
A氏からのアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。
失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。
(おじさん達の家の棚の写真)
(おじさん達の竈の写真)
(おじさん達の物干し台の写真)
おじさん達は森や河川敷に個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。
ダンボールや古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。
突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。
一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。
それはそれまでの日常では出会ったことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。
自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。
2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。
おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。
このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。
「家がない」ところから「生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。
興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎の河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、
それまでの偏見と先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。
車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。
おじさん達の暮らしは時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。
勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。
家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的な安心があることは否めない。
我々夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人々を3年継続して取材を続けられているのは、この安心が得られないような状況で、人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。
我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれた生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。
出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ。
ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。
その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活と普遍的で同じであるかという事を探していきたい。
取材を始める前に我々が抱いていたような偏見や先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。
今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心の生活からは程遠い。
不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ、惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。
おじさん達と同じ立場の人には見知らぬ人に暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。
取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレス」から「不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は
彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間で生活する力を持つ、普通の人々であることにもっと目を向けてほしいと思った。
いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。
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こちらの投稿のベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります。
筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。
これを描かれた筆者は更に若い中学生や高校生が、社会の偏見でホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。
華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図を勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。
夫婦でホームレスの取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為は奇行と捉える人がいても不思議ではない。
現在は夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトのきっかけは妻である私の原体験が基となっている。
20年以上前、新宿駅の地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。
今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌を安値で売る者すらいた。
その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボールの小屋だった。秘密基地の様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であった。
そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである。
これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。
興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネットの検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。
検索結果は田舎のホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。
2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事を支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である。
初めて会う相手に自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去の情報を他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情を配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。
これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦の第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。
A氏はホームレス支援の活動として、インスタント食品や保存が可能な食材、周辺のパン屋、農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動は不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。
我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒、作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものをを揃えていた。
食材と日用品を仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。
A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。
A氏からのアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。
失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。
(家の写真3枚)
おじさん達は森や河川敷に個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。
ダンボールや古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。
突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。
一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。
それはそれまでの日常では出会ったことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。
自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。
2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。
おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。
このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。
「家がない」ところから「生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。
興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎の河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、
それまでの偏見と先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。
車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。
おじさん達の暮らしは時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。
勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。
家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的な安心があることは否めない。
我々夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人々3年継続して取材して続けられているのには、この安心が得られない時に人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。
我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれた生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。
出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ。
ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。
その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活と普遍的で同じであるかという事を探していきたい。
取材を始める前に我々が抱いていたような偏見や先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。
今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心の生活からは程遠い。
不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。
暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。
取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレス」から「不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は
彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間で生活する力を持つ、普通の人々である。
いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。
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こちらの投稿のベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります。
筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。
これを描かれた筆者は更に若い中学生や高校生が、社会の偏見でホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。
華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図を勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。