はてなキーワード: パイとは
Vtuberが生主になってるじゃんみたいな話は、別に生だろうが動画だろうが面白いことやってくれてればそれでいいわけで、ライブバンドとスタジオバンドどっちも価値あるねって感じであり、それでもあえてバーチャルの意義みたいな話につきあうとすれば、被るものがお面でも着ぐるみでも、それを被ることでかつてできなかった何かをできるようになった人がいたり、演者がそれを被ることで生身の人の顔に抵抗がある観客が楽しめるようになるならバーチャルの意義は全然あるじゃんってことなんだよな。あと並行してVケットで盛り上がってるようにあっち方面もまたバーチャルの進歩である。
それはともかくVtuberの生主化なわけだが、別に生でやらねばならんという縛りが偉いさんとかからあるわけじゃなく生の方が見る人が多いってだけである。いやそんなわけないだろ一回一時間以上ある上に丁寧な編集もされない生配信は発表側にとって省力なだけだろとか言う人がいるがそれは実際の視聴者とは違う感覚であり、にじさんじの雪汝さんとかは本来動画メインでやりたいのだがしばらく活動した結果生の方が見られるので悩みましたが若干生のウェイトを増やしますという宣言をしたわけで、同じ配信者でも動画コンテンツと生配信コンテンツで生の方が見られるのなら消費者の数的需要はそっちが上だということなのだろう。ただし歌動画なんかは生、ないし生の撮って出しよりも編集とか映像とか整えた動画がめちゃくちゃ見られるので、トークは生、歌は動画が人気なのかもしれん。まあ需要には量ではなく質的需要というものもあり、にじさんじの運営が"エンタメコンテンツの良し悪しが「再生回数」や「登録者数」=認知度だけで測れるとは考えていません。ファンの「熱狂度」や「熱量」=人気度をメインに良し悪しを判断すべきだと考えて事業を展開しています”とか言ってたように、移り気な視聴者を一時的に千人獲得するより根強いファンを一人得た方がいいのではって視点もあって、そう見た時にはもしかしたら動画コンテンツの方が有効なのかもしれない。これは実際は分からなくて、トークを武器にするスタイルなら、根強いファンを得る方向でもやっぱ生の方がいいとかになるかもしれん。オールナイトニッポンもカモンファンキーリップスも生でやってる方が嬉しいってファン多いだろうから。月ノ美兎がおめシスみたいな技術力を得た時が見たいとは思うが、使いこなせず生が一番となってもおかしくはない。
しかし生配信という需要にこたえるようになったらVtuberは先細りではないかみたいな批評家の懸念は長くあり、実際有名なバーチャル配信者も生での視聴者数が逓減する傾向がある。生配信という形式は飽きが早いとか、Vtuberコンテンツを楽しむファン数のパイは一定なので食い合っても仕方がないとか。俺もそこは認めねばならんかもな~とか寂しさと共に考えていたが、一年以上同じ人をメインで見ているとそういう傾向が見えるだけで、だいたいどのグループでも期待のニューカマーの初配信とかに集う人数はバチクソ増えており、どうも俺らの懸念なんかは的外れでVtuberに興味を持つパイ自体が拡大しとるようである。タイトルでは生主としてのVtuberが流行ったと書いたが、より正確に言えば、Vtuberは生形式が主流になった事により(気難しいオタクの予想とは逆に)視聴ハードルが低い文化となり成長傾向が続いていると言えちゃいそうなんだな。
まあ男だろうが女だろうが関係なく、そもそも自分の希望や意思を無制限に叶えようなんて思ったら、それこそ無限に近いリソースが必要だからなあ
昔貧困JKが炎上したことがあったけど、例えばアニメや声優の専門学校に行かせたところで、それこそ100人いたら99人は夢なんか叶えられず単なる無駄金になるのがわかりきっているわけで
誰しも限られた時間や予算や能力の中で(少なくとも本人の中では)できるだけ良いと思える選択をしている
ジェンダーでそれが歪められることはあるし問題でもあるだろうけど、そもそもパイを増やす努力をしないことには単なる奪い合いにしかならないんじゃないかと思うと、どうしても冷ややかな目で見てしまう部分はある
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。
『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたとき、マジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネな意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。
『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノが監督した作品が、ドラマの1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。
なんてことをメモしていたら、タランティーノに子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二に子供が生まれたり、タランティーノに子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。
といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。
というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプなフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい。
書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたとき、ある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノがドラマシリーズを制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノが劇場用長編映画をデジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。
タランティーノがつくるNetflixのドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言が最近あった。自身の監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダ、アルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストーリーについての妄想を語っていた。
①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合のストーリーになるだろう。
②ビルはいかにして巨悪となったか。エステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔的人物のオリジンを描く物語。
③ハンス・ランダはナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件を解決してゆく物語。
④アルド・レインは戦後どうなったか。教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。
なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分の作品世界を相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノ・バース」だ。もちろんタランティーノの世界がMCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストーリーはすでにコミック化されていることだし、劇場用映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセント・ヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。
で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。
話を元に戻そう。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画、タイトルからしてこの有り様なものだから、映画監督クエンティン・タランティーノのいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスターや予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神(タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からはほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。
タランティーノは、過去の映画や音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分の映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかにタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングなものとして消費された文化の「エキサイティングな感覚」自体をそのまま現在に再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノの映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からは郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端。
冷房の効かない校舎の中、テストを制作したらお互いで解き明ってダブルチェックするというルールのせいで強いられる付き合い残業。
その中で黙々と読み進めているが、とてもつらい。
私の担当分10冊のうちあと3殺、夏休みが終わるまでに読み終るかも分からない。
夏休み明け抜き打ちテストというワーカーホリックな主任の思いつきが無かったところで、読み終わっていたかは定かではない。
学校が指定したのが全20冊、それを皆で分担するはずが1人また1人と理由をつけてパイを押し付けていき、いつの間にか私がその半分を背負うことになった。
昔読んだことがある本が3冊あったので実際は40日で7冊読めばいいだけなのだが、自分の意志で買った訳でもない本をこの年になって読むのはなかなかにやる気が削がれ後回しにしてしまった。
3冊目が読み終わる頃に「これ……10冊分の読書感想文採点するのも私か……」と気づいてしまったのがよくなかった。
そこで気持ちが萎みきってしまい文字が全く頭に入らなくなった。
なんでこんな目に会うんだろう。
滅びればいい。
書きたいやつはブログでやってろ。