はてなキーワード: バイアスとは
自分は貧乏だけど将来のこと考えて中学生の時からちゃんと勉強していい高校、いい大学を出ていい企業に入った。今は金銭的には不自由のない生活をしている。だからこそ過剰な自己責任論はいけないと思いつつも、努力してこなかった故に低所得になってしまうのは自業自得だろうと思ってしまう。テスト期間中にカラオケに行ったり、友達と遊んでばかりいてろくに勉強せず学生時代を過ごせば、まともな職業につきにくいのは中学生でも分かるだろうと思う。それに、学歴は無くたって社会人になってからも資格を取ったり努力して給与を上げることはできる。よくある公務員の非正規との給与差だってそうだ。正規と非正規なんて責任の重さや福利厚生が違うんだから給与差なんて当たり前なのに。非正規が嫌なら正規雇用になれるよう努力するか別の職場を選べばいいのにどうして文句を言いながらその選択をし続けるのか、理解できない。もちろん病気や働けない事情がある人には不自由のない生活を送るため十分な支援が必要だと思うが、富裕層の税金を財源に一律低所得層の支援に当てるというのは感情的に納得できない。俺が幼い頃からの努力の積み上げで稼いだ金なんだが???
何故、あの時遊んでいた人たちや、不満ばかりを言って人や国のせいにしたり改善しようとせず自ら低所得を選択しているような人たちへの支援が必要なのか。
限界集落のじいさんばあさんとか見てると、やたら皆元気に働いてるんだよな
自力で何とかしなきゃ死ぬ環境で働いてると人は元気になるのかただの生存バイアスなのかはわからないけど、どっちでも結果は変わらないからいいと思う
そこで私は「女の子はなんだかんだいってもピンクが好きでしょ」とバイアスがかかっていたことに、やっと気づいたと思う。
しかし、よくよく考えると自分が小学校低学年の頃には水色を選ぶ女の子が多数派だったと思い出した。大体の理由は「ぶりっ子と思われたくないから」だった。
先日、金魚すくいのアルバイトをすることになり、子どもにはポイ(金魚すくいで使う網)の枠色を選ばせてあげるんだけど、女の子の半数以上が水色を選んだからちょっと驚いた。
そこで私は「女の子はなんだかんだいってもピンクが好きでしょ」とバイアスがかかっていたことに、やっと気づいたと思う。
しかし、よくよく考えると自分が小学校低学年の頃には水色を選ぶ女の子が多数派だったと思い出した。大体の理由は「ぶりっ子と思われたくないから」だった。
ピンクが女の子らしさの象徴であり、それが好きだと表すこと=異性に媚びている
それは屈辱であるし、苛められるかもしれない。自意識過剰…。しかし小学校は閉鎖的で、小さな小さなコミュニティで上手くやっていくには色々と気を遣わなければいけないのだ。
もちろん水色が本当に好きな女の子も多かったと思うが。
女子校に入ると、ピンクが好き!ふりふりした可愛らしいものが好き!という子は増えた。ここで異性は存在しないから、どんなものが好きでも「あの子はそういうスタイル」で片付けられるのだ。仕草や声音がとても可愛らしく、共学ではぶりっ子と囁かれたかもしれない子も、女子校では「もう誰に媚び売っているの」と笑われながらも、女子も愛想の良い子が好きなので結構好かれていた。
女の子が周りの女の子を気にせずピンクも水色も何の色でも選べるようになったらいいなと思うがそれが難しいんだな。
ちなみに男の子はほぼ水色を選んでいました。なんでだろうね。個人的には男の子の方が「男の子らしく」を強要される場合が多い気がする。
俺も好きだ
例えば生まれてこの方緑色のりんごしか見たことがない人は、りんごは緑だと認識する
でも所変わればそれは赤だと認識されている
これは両方のりんごを見なければ、その観測範囲の外を想像するのは非常に難しい
いや想像はできるんだが
「観測範囲」の厄介なのは、似たような認識の人が固まりがちなところだ
「私の周りでは皆そう言ってる」状態だと、その観測範囲から逃れるのは非常に難しくなる
ネットで異なる意見を検索してみたらどうだろうか? しかしこれが難しい
検索スキルが無いと声の大きい範囲の意見ばかり見えてくる、観測範囲がインターネットになるだけだ
「ネットde真実」とか、「マスコミが世論操作している」と言ったものもこのズレによって生じる
統計を調べてみたらどうか? これも中々難しい
データを適切に読み解くのは至難の業だ、どのような調査をしたかどうかもイマイチ書かれていることが少ないし、そもそもそういう統計がある方が稀だ
一つ対策があるとしたら、観測範囲の外の存在を常に意識することだと思う
無知の知に似ている
自分の主張の中に観測範囲によるバイアスが働いていないか注意し、場合によってはそれをピンポイントで調べる
もっと重要になるのは「こういう認識が存在するだろう」という仮説だ
仮説を立てて、実際そういう認識の人が居るか調べる
見つけたら、どのくらい居るかという量についてはそこまで追い求めない
量を調べるのは非常に難しい
ひょっとしたら、100人居たとして、99人は1人の意見に同調しているだけかもしれない
せいぜいわかるのは「1人いる」「2人いる」「それ以上居る」くらいだ
まあ、観測範囲問題的な発言をしちゃうのは、そういう注意が疎かになり油断した瞬間に起こるんだけどね(そしてブクマカに拡散される)
巷に溢れているアスペルガー対策の本には、経営側、職場側からアスペルガー症候群に歩み寄る内容が非常に多い。
それは方向性としては正しい。私も上司や先輩という理解者を得たからこそ、ここまでやってこれた。
しかし、こうした姿勢は、経営側に対し、アスペルガーの人間をなるべく職場に入れず、排除しようとするインセンティブを与えてしまう。
過剰なる保護の訴えは、常にそれを排除する結果となるのである。なぜならば、採用コスト、教育コストが高くつくからだ。これを我々アスペルガーは忘れるべきではない。
我等アスペルガーは、常に人を苛立たせる存在であることを忘れるべきではない。我々が存在することで、周りは常に我々の無神経な言動に対する我慢というコストを支払い続けている。我々は呼吸する度に、無神経という毒をばらまく呪われた存在だ。
故に、我々は常に己が属す組織に対して貢献をしているか。貢献できることは何かないか?と自らに問うべきなのだ。
では我々が貢献できることは何か?その力の根源となるものこそ、己の好奇心とそれに付随する知識である。
仕事への知識の適応。これは奴に聞け。そのポジションをいかに獲得するかで生き難さは大分軽減される。
しかし、ただ一つ、心しておかなくてはならないのは、我々がどんなに貢献をしているつもりでも、我々の評価は常にマイナスのバイアスがかかっているということだ。決して健常者と同様に評価されることはないし、それを期待しない方が絶望せずに済む。故に貢献を鼻に掛けるなど自殺行為以外の何物でもない。
しかし、我々は貢献をし続けなくてはならない。往々にして我々は、己の得意分野以外何一つ満足にこなせないことが多い。
己がばらまく毒素と己が積み上げた貢献でようやくイーブンなのだ。しかし、往々にしてその貢献は自己満足に終わる醜悪なものであることが多い。
理由は簡単だ。何をもって貢献とするか常に理解している人間はもはやアスペルガーではないからである。
故に我々は無神経という毒素の他に、自己満足というヘドロもだしていないかと常に自問しなければならない。
我々は何をもって貢献とするか常に自問自答しながら、低評価という鉱山を毒の息を吐きながら掘っていくしかないのだその先に宝を見つけるまで、掘り進むのをやめるわけにはいかないのだ。
https://note.mu/sumomodane/n/nda55d2cf494e
この人が哀れなのは、「自分は客観的なデータで女性の問題点を指摘してる」と思い込んでること。その無知がかわいそうすぎて泣けてくる。
そもそも因果関係と相関関係の違いわかってるのかな。統計データの上でAとBが同時に発生してたとしても、Aが原因でBが起きたということにはならないんですよね。Cが原因でAもBも起きた、ということはよくある話。そこを証明するのってものすごく厳密なデータが必要なんですが、そのところをこの人は頻繁に「思います」と繰り返す。それでは結局、どこまでいってもそれって妄想でしかないんですよ。
妄想を語るのは別にいいんです個人の自由だ。しかしなまじっかデータで客観性を見せようとしてるのがたちが悪い。たとえば上の読む価値のないゴミ記事内にある「賃金は上昇してるのに上昇婚の傾向は強まっている、だから日本人女性は高望みしている」という話、まあ一見してそれっぽく見えますがデータ無しで語っていいなら「賃金の上昇率は男性より女性のほうが高いが未だ賃金そのものは女性のほうが低い。それにくわえて平成以降の不況の波を受けて女性は男性よりも1人で生きていけなくなったから生きていくために結婚しなければならなくなった。女性は21世紀になっても男性に依存しなければ生きていけない被害者だ」みたいなことも、データを出さないならサクッと言えるんですよね。
なぜなら現実世界は「簡単に数字をだせる世界」よりもはるかに複雑だからです。無数の社会要因が無数の領域に影響をおよぼしてるので、その間にある因果関係を明確にするのはものすごく大変な手間ひまが必要になる。そのために統計学というのは理論を洗練化させてきたのに対して、この人はその指摘に対してこれですよ。
https://twitter.com/incel19/status/1144045814727106560
因果関係については、rctやコホート研究みたいな「過去のある時点から未来に予測を立てて観察」しないと統計学的に証明できません。
すももさんは、データを見て「恣意的に解釈」していますが、あくまで論理でなく感想文だと書くべきです。
「遊ぶことの魅力が、結婚の魅力に勝ったのでは?」
まあこういうときに一番無難なのは「ご指摘ありがとうございます、勉強し直してみます」とかだと思うんですが、そういった社交辞令を言えないくらいに無知をつつかれるてプライドが傷ついてしまったんでしょうか。
↑もちろんこれは根拠ゼロの邪推なのでまったく正しくはないでしょう。本人からの否定が入れば一瞬で覆る。でも同時にこれはこの人がやっていた「ある断片的データを元に適当にストーリーを作り上げる」と変わらないわけですね。なにせ厳密な根拠は存在しませんので。
このひとが思ってるほど「データを使って社会を論じる」って簡単なことではないですよ、というお話しでした。
もちろん、別に他人を説得したいのではなく、「適当な言葉でもいいから同意してくれる仲間を探してる(=客観的なデータはどうでもいいからちやほやされたい)」だけなら別にどうでもいいです。一生女性から軽蔑されるんだろうなと思うだけで。
多様性とかジェンダーフリーとかの価値観が世に浸透しつつある昨今
ネットのインタビュー記事とかでも、キラキラしたリベラルな人たちが
「古臭い価値観なんて捨てよう」「男らしさ女らしさに囚われるのはやめよう」
…と言った類の主張をよく見かけるようになった。
うん、まあそれ自体はとても良いことを言っていると思う。素晴らしいことだ。
…だがその一方で、こうも思ってしまうのだ。
『結局この人らがリベラルな生活を送れるのはこの人らが金持ちだからなんじゃねえの?』…と。
旧来的価値観やセクシズムなぞどこ吹く風の、余裕ある生活を送ることができる。
生活のミクロな単位で旧来的価値観やセクシズムに縋らないととても生きていけない。
いや別に、頭ごなしに「貧乏人にリベラルな生活は絶対無理無理無理」と否定するわけでは無いが…
ただ、上記のごとく「古臭い価値観なんて捨てよう」「男らしさ女らしさに囚われるのはやめよう」
という主張を見て「感銘を受けた!自分もリベラルな人間になろう!」と即反応するのはちょっとどうなのでしょうか。
『自分はこの人らほどの金銭的余裕があるのか?』という思考を挟む必要があるのではないでしょうか?
「リベラルと金銭的余裕」というテーマは、もっと語られるべきだと思うのだがなあ…
まあ要するに何が言いたいかというと、
あ~~~~金持ちになりてえなあ~~~~~~~ってことです。