はてなキーワード: 尊厳とは
布団と自分の体に挟まれた部分の皮膚が血行不良で腐り始めるんよ。
これが痛いのなんの。
これを防ぐには、真夜中でも数時間おきに体の上下を入替えてやる必要がある。
だけど、そんな手厚い介護が受けられるのは、相当な金持ちだけ。
寝たきりになって全身が腐り始めて弱ってくると、当然、食事もできなくなる。
そうなると、胃ろうといって、胃に穴をあけてチューブから栄養を摂るようになる。
美味しいモノが食べられなくなると、人生の楽しみはほぼなくなる。
最後は、全身の痛みがひどいので緩和ケアといって、モルヒネを投与されるようになる。
痛みは軽減するけど、徐々に思考力も失われてゆき、心臓が動いているだけのオブジェと化す。
モルヒネが切れたらまた激痛地獄に戻るからモルヒネは止められない。
性的虐待は見つかり難い。
ぱっと見優しそうな善良そうな主婦やサラリーマンに「ところでお子さんを犯してますか?」などと聞けるはずもない。
扉も窓ももちろん鍵も閉まった"家"という密室に忍び込むわけにもいかない。
顔や体にアザでもあれば「やや、これは何事か」と第三者が介入しやすいが、怪我もなく心を傷つけられている子に気付くというのは難しいと思う。
(ふらいと先生のニュースレター参照https://flight.theletter.jp/ )
公園や道端やどこか"外"であれば誰かが助けてくれる、気づいてくれる可能性は家よりは高いけれど実父に家の中でだと気付くのは困難だ。
本当に卑劣だと思う。
感情抜きに話すのがとても難しい。
実父とは生まれてこのかた会ったことはないので実父からの被害については語れない。
私が被害に遭ったのは3〜5歳の間、おむつが取れたばかりの未就学の頃の話である。
母は気付いていたと思う。気付かないはずがない。
毒を煮詰めて濃縮したような母なので敢えて生贄にしていたのではと思わなくもない。
母を目当てにではなくペドが幼女を目当てに母と交際していたのかもしれない。
そんなことはどうでも良いが。
子どもに逃げる術はない。
今でこそどうぞ殺してくださいと思えるが当時は母が殺されるというのは世界の崩壊だった。
犯されたわけではなく乳首を舐めろとかそういうオナニー のお手伝いをさせられたのを覚えている。
母が残業から帰ってくる頃に私を抱き上げ太ももをつねりながら内緒だよと言い、2人で母の車のヘッドライトが近付くのを手を振りながら見ていた。覚えている。早く帰ってきてとママ逃げてというふたつの気持ちでぐちゃぐちゃで、でも笑ったことを覚えている。
子どもがどうやって外に救いを求められるだろうか。
何をされているかもわからないまま尊厳を踏み躙られているのを誰になんて説明すれば救われるのか。
これはそういう行為だとわかってから周囲に助けを求めるのはどれだけ勇気がいることだろうか。
今はもう大人になった私が今被害にあっている子ども達のために出来ることは全くないのだろうか。
勇気を出して助けを求めた子どもを絶対に守るし助けるぞと声を大にして言いませんか。
被害がニュースになった時に被害者の落ち度をあれこれ非難したり加害者に理解を示したり茶化す前に絶対に許さないと声を揃えて言えないものでしょうか。
私はここと匿名のSNSでさらっと告白した以外、誰にも被害の内容も受けたことも告白していません。
当たり前に警察の発表する数字に私が含まれることはありません。
私が被害者だったということは加害者だった、今も加害者かもしれない人間がこの世にしれっと顔して生きているということです。
私が被害を訴えていればその訴えを周りが掬い上げて許さないと加害者を裁いてくれていれば、被害者は私だけだったのかも。
私を加害した昔の一時的に私がパパと呼んだ男性には今可愛い娘さんがいます。
幸せに暮らしていると願いたいけれどそうでなければ被害を訴えられなかった私もまた加害の一端を担ってしまっているのではないかと考えずにはいられません。
どうか加害者を許さない、じゃあどうしていく、子どもが安全に暮らせる国にしたい、じゃあどうしていくと当たり前に大人達が話をする社会になりますように。
よく、愚痴を言う人はアドバイスとかがほしいのではなくてただ「うんうん」と聞いてほしいだけ、という言説がある。
そういう風に考えて愚痴を言う人は実際多いだろう。アドバイスじゃなくてただ聞いてほしい、という状況。
私は人に愚痴を全然言わない人間だが、如上の心性をそれなりに多くの人が持ち、それなりに多く「うんうん」とだけ聞いていてほしい状況があることは否定しないし否定のしようもない。
ただ、相手をまるでロボットか何かのように使役し、ただ一方的に聞かせるだけの状況というのは、人間の尊厳からして間違っているのではないだろうか。
人権のある相手を一方的に使役しているような状況ではないだろうか。たとえばそれを聞いてアドバイスするとか、相手の意向に沿わない話をするとか、そうした「イレギュラー」なことは許されていないように思う。
ただ一方的な愚痴があるだけ。話を聞いてほしいだけ。これって結構ひどいのではないか。人をもの扱いしていないだろうか。
私はこれが嫌で絶対に人に愚痴を言わないし、職務や家庭の問題があれば、相手に応じてもらえるような話題の振り方を心掛けている。
これはもちろん私がそうしているのであって、他者にこれを強要しようだとかは思わない。
一方で愚痴をただ相手に聞かせる人は、相手の時間を強制して消耗させていることにどう考えているんだろうか。
無論辛かったら誰かに頼ることは重要だ。ただそこに、なんというか尊厳のボランティアみたいなただ働きはあってはならないと思う。
誰かに頼るときはその誰かの自発性や尊厳を保って頼らねばならないのではないだろうか。
愚痴を投げつけるだけの人はその辺りどう心理的な折り合いをつけているんだろうか。
私はこれが多分一生わからず、相手がただ話を聞いてほしいだけなのに何度もアドバイス的なことをして人間関係を失敗してきたしこれからも失敗していく。
恋人に対しても何度も何度もこれができず、逆上がりができず夕方公園で1人で練習する子供のような心理的状況になることがある。
フェミニストです。ウマ娘のときから『表現の自由の戦士』の態度に疑問でした。
でもそれなら『表現の自由戦士』は間違ってたってことになるよね?
フェミニストは「女性の権利と尊厳」を守るために、必要なら声を上げる勇気を持つけど。
『表現の自由戦士』が守護してるのは別に表現の自由ではないってことね。
だって、「なんの権利も持たない外野が辞めさせようと口を出してきた」と仰るけど、クレームを入れるのも表現の自由権だもの。
あなたたちが守ってるのは、何?
私も考えてみようと思う。
かつて私もこんな風に読んでいたことがあった。
だけど、ウマ娘やUSJに「このくらい受忍限度だろうが」とか「アウトの境界線が曖昧なお気持ち」と突っ込んでいかないところをみると、この呼び名は誤りだ。ごめんね。
今回もフェミニストの一発言に食ってかかってるし、アンチフェミでいいのではと思った。
でも、スポーツ大会のレギュレーションだとか女子トイレ更衣室問題で必ずしもTERF、フェミニストの敵側に回ってるわけではないようなので、この呼び名も誤り。
多くの『表現の自由戦士』が声を上げた女性に対して露悪的に振る舞うので、ミソジニーが動機なのではと訝しんでる。でもアツギなどの女性担当者を庇うこともあるので、必ずしも当てはまるとは言えないし、言動の表れる第一活動実態と内心の動機は別に判断すべきだ。活躍してるフェミニストだって動機がミサンドリーの人も結構多いし。
ローレンの「ファビョる」発言が炎上したとき、ほとんど『表現の自由戦士』は反応しなかった。
増田も"権利者"と言ってることから、彼らは著作権に関する何かを重視してるんだと思う。ただ、けものフレンズ2が猛非難されたとき(好きなのに…)まったく『表現の自由戦士』は動かなかったよね。ヘイト創作のようなものも、お祭り騒ぎで楽しんでいたようだ。彼らは、罵倒・ヘイト・冷笑・否定と、やめてほしい・注意・クレーム・怒りを分けて扱う。しかし、萌え絵のこの描写が性的消費だ、というレビューには強く反応する。奇妙だ。これは前者のカテゴリーではないのか。
ひょっとして、フィクションや広告も含む芸術に触れるとき、心の中の真面目さを刺激されるのがイヤなのか? それが社会の弱者にダメージを与える可能性を考えたくない、とか。ノブレスオブリージュを放棄して、マジョリティの既得権益である心理的安全性を謳歌したい、と。だとすると『反ポリコレ』の呼称が適切だ。ディズニーやマーベルら、著作権の権利者が自分たちの意思でキャラクターに多様性をつけようとしたり、アニメの聖闘士星矢のキャラの女体化も権利者の同意があるにもかかわらず批判された。批判者と『表現の自由戦士』は層が被っているのではないか。