はてなキーワード: 助手とは
勤め先は20床弱の老人病院(診療所)という場所柄なのだろうか、月に数名の患者様が亡くなられる。
つい先日、出勤したら患者様が亡くなったところだという。90余歳のお婆さん、大往生だった。
最後の研修とばかりに初めてエンジェルケアにご一緒させてもらった。
「もうお茶が飲みたいって言ってくれないんだねぇ」と語りかけ、
その言葉にハッとさせられ、後悔の念がこみ上げてきた。
起きている時はほとんど常に人を呼び、
「お茶が飲みたい・ベッドを上げてくれ・あれを取って・これをこうして…」
そんな要求が絶えない方だった。
寂しいのだろう、とみんな思っていた。自分も。おそらくそうだったのだろう。
呼ばれて飛んで行けばその場で用事を考えたりもされていた。
忙しい時などは「ちょっと待っててくださいね」と言って後回しにしてしまうこともあった。
今考えれば、もっとお願いを聞いてあげられたのではないだろうか?
寂しいのなら、もう少しお話を聞いて差し上げることもできたんじゃないだろうか…?
ご遺体をを拭きながら自分の狭量さに恥ずかしくなってきた。本当に今更な話だった。
他の患者様もいらっしゃるので全てのご要望を叶えて差し上げるのは無理だ。
だけどもう少し患者様の気持ちになって、もう少しの優しさを持っていれば。
そう心がけていれば、もしかしたらこんなに後悔はしなかったのかもしれない。
仕事で接する方だけではなくて、日ごろの人間関係にも同じ反省を。
もう少しの優しさと思いやりを持って身近な誰かの声に耳を傾けるような、思いを推し量れるような、そんな人で在りたいと思った。
中学1年の7月のことだった。私が朝学校に行くと、仲良しだった子が近づいてきて唐突にこう言った。「もう、ごずっちと口きけないんだ」 意味が分からなかった。転校でもするのかと尋ねても違うと首を振る。「もう決まったことだから。じゃあ頑張って」 そう言って彼女は去っていった。
彼女の言葉は少なくて詳しい事情はまるで分からなかったが、悪い予感のようなものがあった。これはもしかしてあれじゃないか。どうしようどうしよう。背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。教室へ向かう階段を登りながら、もうこのままずっと教室に着かないで欲しいと思った。知るのが怖かったのだ。
教室のドアの前に立った私は蒼白だったと思う。頭の中に色んな想像が駆け巡り、手のひらはじっとりと汗ばんでいた。ひざも少し震えていた。私は意を決して教室のドアを開ける。いつもと変わらない教室。でも私が入った瞬間、少しだけ空気が変わるのが分かった。スタートと悪魔がせせら笑った気がした。
私はいつも通り「おはよー」と声をかける。だが挨拶は返ってこない。私の存在を無視してみんなはおしゃべりを続ける。目さえ合わせようとしない。女子も男子も私がいないかのように振る舞っている。私は深く息を吐いた。泣いて騒ぎ出しそうな気持ちを必死で鎮めようとしたのだ。
昨日まで楽しかった学校が拷問のように感じられた。誰からも話しかけられない。こちらから話かけても無視されてしまう。なぜ私なのだろう。何遍も考えてみたけど思い当たる節はなかった。実際のところ大した理由もないのだろう。何となく選ばれ何となく無視されているのだ。
私はこの状況をできるだけ軽い感じで受け入れようとした。これは思春期の少年少女にありがちな他愛のないお遊びなんだ。こういうときは慌てず騒がず嵐が過ぎるのを待てばいい。恐らく長くても半年がせいぜいだろう。2年になればクラス替えもある。ちょろいちょろい。当時の私はそんな風に考えていた。
無視は1年生の間ずっと続いた。正直少し長いなと感じていたが、無視はあくまでクラス内だけの話で、他のクラスの子や部活内では普通に話をしていたので、思ったより辛くはなかった。学校は勉強をする場所だと割り切ればどうということもなく、そんな自分の強さに少し驚いてもいた。
2年生になる際にクラス替えがあった。掲示されたクラス割を見ると、1年の時同じクラスだった子は4人だった。それも大人しそうな子ばかり。私はほっと胸をなでおろした。慣れてきたとは言え、無視されるのはやはり心地良いものではない。私は解放感を胸に新しい教室へと向かった。
私は教室に入った瞬間、既視感を覚えた。空気の流れや重さが変わる感じ。暗黙の了解に支配された教室。それは9ヶ月前と同じだった。私は自分の席に着いて隣の子に話しかけた。「おはよー。私ごずって言います。よろしくね」 隣の子は目を逸らした。私は四方に話かけたが全員同じ反応だった。
血の気が一気に引くのが分かった。寒くもないのに体が震えていた。何なのこれ。怖い。怖いよ。早く教室から逃げ出したい。家に帰ってベッドに入って布団を頭からかぶって、世界からの情報を一切遮断したい。そんな気分だった。でも私は動けなかった。覚悟?諦め?違うよ。怖くて悲しかったんだ。
無視は一体いつまで続くのだろうか。2年生は修学旅行をはじめ色んな行事がある。中学生活を謳歌し思い出を作るにはうってつけの学年だ。それなのに初日から無視の洗礼だ。私は肩を落としながら部室へと向かった。部活だけが私のオアシスだ。もし部活が無ければ私は登校拒否を選んでいたかもしれない。
オアシスは見るも無残に踏み荒らされていた。3年生を除いた1-2年生部員が私を無視し始めたのだ。このときの絶望は筆舌に尽くしがたい。もう学校に私の居場所はなくなってしまった。その日を境に私は部活に行かなくなった。
家に帰ってから枕に顔をうずめオンオン泣いた。枕カバーが涙とよだれと鼻水でべちょべちょになっても泣き続けた。夕食のとき目を真っ赤に腫らしていたら、お母さんが心配して「目どうした?泣いたの?学校で何かあった?」と聞いてきた。実は1年生の頃から無視されているんだなんてとても言えない。
「泣く練習してたんだ。演劇部に転部しようと思って」と私は苦し紛れの嘘をついた。お母さんは「そう…何かあったら相談しなよ」と言ってそれ以上何も聞かなかった。これは私の問題だ。お母さんを巻き込むわけにはいかない。登校拒否だって絶対するもんか。私はそう固く決意した。
私は1日も休まず学校に通った。行事があるたびに孤立していたので、担任から「牛頭さん、クラスのみんなと仲良くやってる?」と探りを入れられたが、「大丈夫です」と突っぱねた。一方で私は毎日誰かしらに話しかけるようにしていた。どこかに突破口のきっかけがあるはずだと信じていたのだ。
突破口などなかった。私とクラスメイトの間にはマジックミラーがあるのではと思うほど無視は徹底していた。正直頭がおかしくなりそうだった。何度も登校拒否を考えた。転校も考えた。でも私は何も悪いことはしていない。逃げるような真似はしたくない。無視する連中に人生を左右されたくないと思った。
恐らく3年生になってクラス替えがあっても無視は続くのだろう。そう確信した私は中学を見限り、進学する高校を考えることにした。担任に頼んでうちの中学からの進学者が少ない高校をリストアップしてもらった。どこも私の学力では難しい学校ばかりだったが、毎日の目標ができて私は嬉しかった。
それからというもの、勉強を聞くために職員室に足を運ぶことが多くなった。どの教科の先生も私の質問に快く応じてくれた。時たま内緒だぞと言ってお菓子をくれる先生もいた。考えてみればそれはごく普通のことなのだけど、 1年半以上も普通の反応をもらえない私にはそれがとても新鮮に思えた。
3年生になってクラス替えがあった。半ば覚悟していたが予想どおり無視されたときは思わず笑ってしまった。ひとり笑う私をクラスメイトは不思議そうな目で眺めている。だから私は大声で叫んでやった。「無視生活3年目!落ち込んだりもしたけれど私は元気です!」 最高に気持ち良かった。
3年生になると周りが受験モードに移るので、以前ほど孤立は気にならなくなった。休み時間に勉強したり、図書室で勉強したりする人の姿も増えてきた。その頃、私は職員室の常連になっていて、放課後は先生達とコーヒーを飲むことさえあった。先生はみんな私に優しかった。
年が明け受験シーズンに入った。滑り止めの私立高校は受かっていたが、そこはうちの中学からの進学者がそこそこ多い。絶対に行きたくはなかった。本命の公立高校は共学でレベルがやや高い。先生からは「ボーダーだからランクを下げた方がいい」と言われていたが、私が受験校を変えることはなかった。
合格発表はお母さんと見に行った。高校は受験生と報道陣で混み合っていた。私は人波の隙間から自分の番号を探した。するとお母さんが先に見つけて「あった!あったよ!」と騒ぎ始めた。私は「もー!自分で見つけたかったのにー」と言いながらも、お母さんに抱きついて一緒に喜びを分かち合った。
私もお母さんも笑顔で車に乗り込んだ。でも運転席のお母さんが「お祝いに何か食べて帰ろうか」と言った瞬間、私は感情が抑えきれなくなり、声を上げて泣き出してしまった。助手席で嗚咽を漏らす私の背中をお母さんが優しくさすってくれた。そこで私の感情のダムは決壊した。
気づくと私は今までのことを洗いざらいお母さんに話し始めていた。話すにつれ、お母さんの顔は驚きから困惑に変わり、さらに悲哀を帯び、最後は私と同じ泣き顔になった。お母さんは何度も私にごめんねと侘び、私も同じようにお母さんにごめんねと言い続けた。お母さんは痛いくらい抱きしめてくれた。
その後、私は学校に行き担任に合格を伝えた。あと一番気になっていたことを聞いた。「私以外の合格者は何人ですか?」「男子が4人で女子が牛頭も含めて3人だな」 念のため名前も聞いたが、同じクラスになったことがない人ばかりだった。もう大丈夫だ。これでもうお母さんを泣かせなくてすむ。
卒業式は何の感慨もわかなかった。私の卒業式は合格発表の日、あの車内で終わっていたからだ。式が終わって教室に戻ると、クラスメイトはアルバムに寄せ書きをしたり写真を撮り始めた。その様子を尻目に私はさっさと教室を後にした。私に声をかける人はいなかった。
下駄箱で靴を履いていると「牛頭さん」と声をかけられた。1年生のとき私に「もう、ごずっちと口きけないんだ」 と言った子だった。この期に及んで私に一体何の用だろうかと思っていると、彼女は「あのね…ごめんね」と言った。なぜかその言葉で、私とお母さんが流した涙が汚されたような気がした。
「ごめんねってそれあんたの自己満足でしょ!自分が後腐れなく卒業したいからって今更ごめんねは無いでしょ!こっちはようやく解放されたのに最後の最後で味噌つけないでよ!」 私は思い切り啖呵を切って、走るようにその場を後にした。
帰り際、校庭脇の焼却炉に卒業アルバムを投げ込んで、私の中学校生活は幕を閉じた。…なお、高校に入学してから10ヶ月近く経つが、無視されることもなく、バカな友達に囲まれ毎日楽しく過ごしている。おしまい。
俺は、プログラマーだ。
地方に転勤してきたはいいものの、知り合いもおらず、出会いもなく、それどころか転勤してきて2ヶ月目で
長期のデスマ状態だった俺は、つかの間の癒しを求めてサイトを見ていた。
3歳下の女の投稿があっていた。顔半分が隠されてはいたが、まあいわゆるデブギャルの写メも載っていて、
俺はそれにメールを送った。顔は可愛かった。金髪で、もちろんおっぱいもでかそうだった。
体重は言おうとしなかったが、Gカップであること、写メの顎の感じ、チラッと映った首もとの感じなどから、彼女はなかなかのデブなのではないかと思った。身長も170cmと高い。もしかしたら体重3桁行ってるんじゃないかと思うくらいの巨体だ。
丸い顔、たぷたぷの二の腕、巨大な胸、突き出した腹、踵を付けて立てないくらいの太い足にしか魅力を感じ無い。
デスマ真っ最中のつかの間の息抜きとして始めたメールだったが、いつの間にかはまっていった。彼女は同じ市の、車で30分くらいの所に住んでいた。
写メは、(デブ専の俺にとっては)滅茶苦茶可愛らしく見えたし、仕事(デザイン系)をひたむきに頑張る姿勢や、ギャル系の格好をしているわりには性格も柔らかく、思いやりのある優しい子だと感じた。そしてなにげに頭もよかった。とにかく、俺のタイプの女の子だったのだ。
彼女も俺を好いていてくれたように思う。よく、プリクラの画像や普段の写メなんかもくれた。たまには谷間なんかも。
メールをはじめて3ヶ月くらい経った頃から、彼女から言われるようになる。
「会いたいな」
「いつ終わるの?」
『来月には』
来月には、と言いながら半年が経った。彼女の誕生日も、クリスマスも、正月も、バレンタインも過ぎた。
俺はずっと泊まり込みで仕事をしていた。深夜に交わす彼女とのメールだけが支えだった。
本当は、会えたのだと思う。寝る時間を削れば。でも伸びきった髪を整える暇がなかったし、流行の服だって持っていない。
そんなくだらない理由で俺は、完全に仕事を終わらせるまではメル友でいたい、などと自分勝手なことを言った。
彼女は俺とのメールを辞めようとしなかった。ありがたいことだと思う。でも、たまに卑屈なメールも来た。
『違うよ、ぽっちゃりは大好きだよ』
「うそつき。でも、気を使ってくれてありがとう」
『嘘じゃないよ』
そんなことを不安に思う彼女が可愛くて仕方なかった。ころころとよく笑い、前向きで、美味しいものが大好きで。そんな彼女が愛しいと思うようになった。
だが、優しく、素直で、礼儀正しく、話も面白く、可愛くて、ぽっちゃり。そんな理想の女そのものの彼女にどんどん惹かれていったし、メールは心から楽しかった。
そして、俺たちは11ヶ月かかってプロジェクトを終わらせた。
スタート時から3人が減り、2人が入院し、1人が自殺未遂した地獄のプロジェクトだった。その夜、久々に家の風呂に入った後仕事が終わった、と彼女に言った。彼女は驚きながらも喜んでくれた。
ちょうど翌日はどちらも休みだ。初対面を果たそうではないかと言うと、彼女は言った。
「嬉しいなあ、やっとだね」
『待たせてごめんね』
「待っててよかった!でも、会ってがっかりするかも」
『どうして?まだ体型気にしてるの?』
「うん…」
本心だった。一刻も早く、その豊満な身体を抱きしめて、結婚を前提に付き合ってくれというつもりだった。
きっと婚約指輪は特注だ。入るウエディングドレスはないかもしれない。それでもきっと世界一かわいい花嫁になるだろう。
馬鹿らしいが、そんなことまで考えながら、待ち合わせ時間まで車を走らせた。勿論美容室にも行って、新しい服を着て。
待ち合わせ時間に着いたが、彼女らしき姿は見当たらない。電話をかけると、彼女が出た。
『着いたよ』
「私も着いてるよ」
『どこ?』
「ゴミ箱の横らへん」
そして同時に、俺は泣きそうになった。
神を呪いたくなった。
なんなんだ、それは。
細い首は。浮き出た鎖骨は。ベルトで絞めつけられた60cmもなさそうなウエストは。
スキニーに包まれた長い棒のような脚は。太ももの間の隙間は。
誰なんだ、このどう見てもBMI17程度の、痩せ型の女は。
『ねえ、やっぱりデブでいやだった?会いたくない?』
俺は、車種と車を止めている場所を教えた。声は震えていた。
彼女は、枯れ木のような脚を動かしてこちらに歩いて来ると、助手席の
彼女は泣きそうな顔をしていた。頬はこけている。
俺は何も言えなかった。
本当に俺が好きだったということ、自分の体型にどうしても
自信が持てなかったこと、だから会うまでに内緒でダイエットしてキレイになって
だが、相当無理な食事制限をしたため拒食症気味になってしまったこと。
『ちょっとはマシになったかな?」
とこっちを伺った彼女は、どこにでもいるキレイなお姉さんだった。
盛り上がる頬の肉も、たるんだ二重あごもそこにはなかった。
"美人でモデル体型の女の子とメル友だったが会ってみるとマツコ・デラックスだった"
その衝撃以上のものを覚えた。
何を話したのかも覚えていないが、気づけば俺は一人車を走らせていた。
もう、携帯は鳴らない。
去年の11月くらいにに某所で書いたものなのだけど、人の目に当たる事が殆ど無かった。
さっき風呂入ってぼんやりしてたら何となくこれの事を思い出したのでここに投げ込んでみる。
文体がやや気持ち悪いのはその時の精神状態と投下した場所でのキャラこんなだから。
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なんだかんだでもう10年は病んでて最近調子良くなってきたから社会復帰できるかな、と思いきや転落してまたニートもどきな日々を過ごしています。
数年前に某富士の麓に研究所がある自動車会社に派遣で行くことがありました。長期という話だったので御殿場の駅前の新築アパート借りてさぁ心機一転がんばるぞー、と働き始めました。
ところがこれがまた劣悪な職場な訳で…。
なんとか方式とかいう効率的な職場方針の大本だけあっていろいろと効率的です。工場じゃなくて研究所だから少しはマシかな、と思っていたらそうでもなかった。
なんていうか怖い。
期日がタイトなのはデフォルトとして、結果も求められる。失敗は許されない。
実験するんですよ。私は派遣の丁稚だからプロパー(自動車会社の正社員)さんにアゴで使われて実験のセッティングをして実験をしました。赴任一週間目だったと思います。
や、プロパーさんに「これくらいできるよね?」みたいな感じで早口でメモ取る余裕もなくあれこれ一方的に言われて「じゃ、忙しいから後は任せた」みたいな感じでさっさとどっか行っちゃうのです。
どうしろと?
実験と言ってもここでの実験は所謂物理学的な実験で私がバックグラウンドに持っている化学の実験の知識なんかクソほどに役に立ちません。
でもやらないと、ということで役に立たないメモと記憶を頼りに実験したら見事失敗。
部長(昭和の悪しき風習を未だに引きずってる感じのするオヤジ)と面談になってプロパーさんは胃に穴が開いてそうな顔をして
で、その部長さん、プロパーさんだけじゃなく私にも面談だと呼び出してきました。
実験を失敗させた「戦犯」だしガミガミ言われるのかな…と思いきやこう言ったのですよ。
「オマエ○○にいたんだろ?使えない奴だな。そんなだから半年でクビになるんだよ」
○○というのは栃木と埼玉に研究所を持つ自動車会社です。栃木の方に半年勤めていました。これも派遣なんですけど。
しかしそれは面倒くさい事に巻き込まれてそれに対して正論言ったらさらに面倒くさいことになってそれにカチンときたので更に言ったらパワハラまがいのこと喰らって、それが元でメンヘラが悪化してノックダウン、派遣元判断で強制退去と言う経緯があります。
面倒くさいことがなかったら多分長く続けることができたと思います。職場環境は今まで勤めた中でもずば抜けて良かったですし、今でももし機会があればまたそこで働きたいと思うほどです。
話を戻しましょう。
部長はその○○に何か執着があるのかそれ以降ことあるごとにそれを引き合いに出すようになりました。一番酷かったのは私の歓迎会という席で無理矢理酒飲まされそうになって断ったら「だから○○辞めさせられたんだよ!」と曰った事でしょうか。
それが切っ掛けという訳じゃないのですがそれから仕事場に行くたびにMP(メンタルポイント)が削られていくのがわかりました。実験は相変わらず上手く行かないし、新卒の小五月蠅いガキっぽいのがゴミを見るような目で無茶なことやらせたりでMPはどんどん減っていきます。
そして…某月某日、MPが尽きました。
朝起きても動けない。恐怖と不安で押しつぶされて身動きができない。今でも仕事決まって行こうとするとこの恐怖と不安の発作が出ます。それの始まりでした。
三日間全く動けず。
何して何食べてどうやって生きてたかは正直覚えてないです。寝て起きると汗びっしょりでクタクタで、それでもインターネットはやっていたらしいです。どんだけ好きなんだよインターネット。
三日目の夜携帯電話が鳴る。相手は派遣元の研究所担当の営業さん。
「完全にお怒りで…」
「明日何が何でも出社でき・・・」
「そうでなければ解雇wldajkfdhafasfa」
覚えているのは薬入れにあった向精神薬,睡眠薬全てを出して、冷蔵庫からスクリュードライバーの缶をだしてビーカーに注いで薬を全部飲んで布団敷いてメモに走り書き的な遺書書いて寝ていた。
…らしい。
発見されたときの状況がそうだったらしいのでそうだったのかもしれない。
電話の途中で思考がシャットダウンされた後の記憶は本当に無く、次に気がついたときには病院らしき場所でやたらでかい注射が打たれる瞬間だった。それを見た数秒後また意識が暗転。
次に気がついたときは当時所有してた車の助手席に座っていて、父が車を運転していた。何十年ぶりのマニュアル車でしかも外車なのに…申し訳ないと思ってまた意識が暗転。
次に気がついたのは実家の目の前。父が「降りろ」と言うので車から降りようとしたら足に全く力が入らず顔面からダイレクトに着地。まぶたが切れて血がどくどく出るわ眼鏡に傷がつくわ背伸びして買ったオサレ服屋のシャツに血がつくわで散々だった。
それから記憶がはっきりするのに一週間以上かかった気がします。
記憶がはっきりしないときに派遣元のコンプライアンス部長とかいう人が来たらしく、お金沢山あげるからもう金輪際関係はありませんさようならみたいな念書を書かされたようです。
実際体験して思ったことは「死は自動的」であるということ。行うときは本当に無意識に自動的に執り行われます。
死ぬ死ぬ喚いているうちは死にません。だって死ぬって宣言する時点でリミッターが働いているから。私も死ぬ死ぬ詐欺よくやるから解るけど、実際喚いている時は本当に苦しい。辛い。誰かに(辛さ、苦しみを)わかって欲しい。そうやってレスポンス貰ってようやく自分の中に空いた穴が満たされるのです。
少し前にUstreamで自殺実況して本当に死んじゃったって事件あるけどあれも本当に自分の苦しみをわかって欲しかったんでしょうね。でも場所とオーディエンスが悪かった。
煽られ罵られ貶された末に彼がとった行動は「本当に」死ぬことだった。
多分怒りからきた衝動だと思う。そりゃ怒るよ。こっちは真剣に苦しいのに「早く死ね」とかナチュラルに匿名掲示板のノリで煽っちゃ。
基本的にメンヘラの人は怒りを自分自信に向ける。自罰的な人が多いって言うのだろうか。この場合だと
「死ねなかった」→煽られる→「くそ!死ねなかった俺が悪いんだくそ!くそ!くそ!」→衝動的に「行動」に移す→運悪く「成功」
怒りで死んじゃったら救われないよ…。
匿名掲示板という特殊環境と群集心理というのもあったのかもしれないけれど、あの場にいたオーディエンスは本当に悪質だと思う。正直、IP調べて書き込んだ奴らを自殺示唆で立件してもよかったんじゃないかとすら思っています。
自殺願望者にとって死は救いです。ギャグでも何でもなくて本気で死ぬことによって苦しみから解放されると思っています。
でも基本的に人間っていうのは自死に対してはリミッターが働いてしまう。だから苦しみから解放されず辛くて苦しい時を過ごさざるを得ない。で、その苦しみや辛さを知って欲しいからある人はリスカ写真あげるかもしれないし、死ぬ死ぬ詐欺する人もいるかもしれない。
今時珍しい(?)、他人の車を羨み蔑む同僚に対してどう振舞おうかという話。
移動は主に自転車や電車。車には興味もなく、特に乗りたいとも思わず、
19才で一応免許は取ったものの、ペーパードライバーとして過ごしてきた。
けど、都会と違って地方は足になる車がないとなかなかキツくなってきたのと、
業務で取引先等に行く際に社用車に乗る機会が出てきたので、さすがにペーパーの
ままではまずいなと思い、半年前に自分の車を買おうと思い立った。
中古で、予算は150万円以内。いい車はないかなーといろいろ物色していたところ、
ある日、毎日通勤で通う道にあるマツダディーラーの中古車展示場に置いてあった
ロードスター(NC1型)を見て一目惚れ。もうこれしかないと思った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC#3.E4.BB.A3.E7.9B.AE_.EF.BC.88NC.E5.9E.8B.EF.BC.89.282005-.29
後付で、買いたい車の条件として考えたのは以下の4点。
1.マニュアル車 → 最初に乗らないと、この先もう一生乗らないだろうと考えて
2.外観がカッコいい車 → スポーツカー or スポーティーカー
3.運転していて楽しい車 → 絶対的な速さは求めない。ハンドリングに定評のある車
4.若い今しか持てない車 → 2シーターでもOK。実用性はあまり考えない
で、ネットで探すこと約2ヶ月。マニュアルで、運転席がフルバケットシートの
ソフトトップ(幌)車を買った。最初はエンストや坂道発進でいろいろつまづいたり、
あまりに荷物が載らないことに戸惑いつつも、最近はようやく運転にも慣れて、
ビギナーなりに運転を楽しめるようになった。
問題はここから。
会社の同期の1人が、事あるごとに自分の目の前であからさまにロードスターの悪口を言う。曰く、
「荷物が載らない車なんて意味あるの?」
「こんなクソかっこ悪い車良く乗ってられんな」
「リクライニングできないシートなんてクズだわ」
買って間もなく助手席に載せたときは、自分はまともにマニュアル車を運転できないのに
「シフトチェンジがまだまだ」と評論したりと、まあ散々な言い様。
きっと羨ましいからわざとこんなことを言っているんだろうと好意的に解釈しているものの、
自分なりに考えて選んだ、アイデンティティを反映したモノを思いっきり否定されるというのは、
なかなか応える。
でもその一方で、友人のコンパクトカーやミニバンに乗るたびに、実用性の高い車にこだわる
同期の言い分も理解できる。不便なのを織り込み済みで乗っているが、かといって趣味車万歳と
開き直れない自分がいる。
2年半前、彼女は会社にやって来た。そして、僕の下に付いて一緒に研究開発業務を担当することになった。
彼女は僕より10歳近くも年下で、タバコを吸っていて、そして長年付き合っている彼氏がいた。だから僕は恋愛感情を抱くはずもなく、仕事を教えたり一緒に作業したりしながら、普通に先輩として接した。
派遣社員は入れ替わりが激しい。何人も僕の後輩として入って来て、そして辞めて行った。彼女もまた、いつか僕より先に辞めて行くのだろうと、ぼんやりと思っていた。
初めこそ頼り無かった彼女だが、持ち前の頑張りですぐに自ら進んでてきぱきと仕事をこなせるようになった。やがて僕の直下から離れて自分のテーマを与えられるようになった彼女は、助手から仕事仲間になった。彼女はよく僕に相談した。時には一緒に愚痴を言い合ったりもした。当時仕事を辞めようかと悩んでいたが、彼女に頼られることで僕自身もずいぶん救われていた。
彼女の成長は著しく、3年目に入る頃には工場や取引先とも率先して交渉して段取りを纏められるようになった。そういうのが苦手な僕よりもはるかに上手で、僕は彼女を見るのが眩しかった。娘の成長を見守る親の気持ちってこんなのかな、と思った。
12月に入ってすぐ、上司が彼女と僕を飲みに誘った。その前に大きなイベントがいくつかあったので、お疲れ様の会みたいなものだろうと思っていた。彼女の家庭のこと、彼氏のこと、彼女が周囲をどう見ているのかなど、それまで聞いたことの無かった話をいろいろ聞いた。見た目もあって子供っぽいと思っていたが、人間関係も自分の人生も冷静に見ていて、ずいぶん大人だなと思った。別の女性をライバル視していて「今年は勝てる最後のチャンスなので勝ちに行く」と宣言したのは意外だった。鈍感な僕は、まだ何も気付いていなかった。
中旬に差し掛かった頃、彼女が今月いっぱいで辞めて半年後には結婚すると聞かされた。寝耳に水だった。既に彼女がそこに居るのが当たり前になっていたので、なかなか実感が湧かなかった。それから2週間、年末の慌ただしさもあって、詳しい話は訊けないまま過ぎていった。ただ、これまで何度も経験したよりもずっと淋しかった。
残り2日の今日、突然仕事中に涙が浮かんできた。気を紛らわせようと、必死で仕事に集中しようとした。この期に及んで初めて、僕は彼女が好きだったことに気がついた。まったく、鈍感にもほどがある。初めて会ったときからのような気もするし、仲間として認識し始めた頃からのような気もする。まあ、気付いたところで初めから行き場のない気持ちではあったのだが。
明日は最終日。みっともないところは見せられない。ていうか客観的に見てキモい。だから、いつものようにニコニコしている先輩として見送るために、今夜だけ泣いておくことにする。そして、心から「お幸せに」と言おうと思う。
今日の午後6時頃のことである。
私の携帯電話に着信があった。
携帯電話が鳴ることは珍しかったので、
知らない番号なのにも関わらずに出た。
『もしもし、俺だけど』
――・・・・・え、誰?
私はその状況に動揺していたので、
名前を聞くことを忘れてしまった。
『もう少ししたら着くから、外出て待ってて』
そう言って電話を切られてしまった。
電話番号を見てみるが、
やはり見たことのない番号だ。
電話帳には入っていない。
果たしてこの人は誰だろう。
なぜ私の電話番号を知っているのだろう。
というか本当に来るのだろうか。
そんなことを悩んでいるうちに、
家の前に車が止まった音が聞こえた。
部屋の窓から覗いてみたところ、
見知らぬ赤い車が止まっている。
私はここまでしても見当がつかなかった。
ずっと家の前で待たせると面倒なことになるので、
携帯電話と財布だけを鞄に閉まって、
恐る恐る助手席へ乗りこんだ。
その瞬間話しかけられた。
『元気だった?』
――どちら様ですか!!
ここまで至近距離でも全くわからないということは、
赤の他人なのだろうか。
もしかしたら親戚?それとも友人の友人?
頭の中は?マークがぐるぐるしていた。
車の中での出来事は緊張やら混乱やら不安やらであまり覚えていない。
しかし24歳でO型だとか、
プロポーズしたけれど振られただとか、
教師になりたかったけれど止めただとか、
そういう他愛もない会話をしてくれたことは覚えている。
――約30分後、
いつのまにかレストランに着いた。
どうやらここで食事をご馳走してくれるらしい。
ここまで来て拒否するのも勿体ないと思った私は、
申し訳ないと思いながらも食事をいただくことにした。
食事を待っている間、私は名前を聞くべきか迷った。
この不信感を取り払うのためにも名前を聞くべきだと思ったが、
レストランに連れてきてもらって、
今更「Who are you?」というのも失礼な気がする。
なので私はそれを避けた質問をしてみた。
それでも男はあまり自分のことを話そうとはせず、
私の話を引き出そうとしているようだった。
話を聞いても思い出せない。
――お腹がはち切れるかと思いました。
食事が終わって男にどこへ行きたいか聞かれたので、
私は家に帰りたいと言った。
すると男は笑って、わかりましたと言った。
私はこの時ずっと心の中に留めておいた質問をしてみた。
『あの、私あなたが誰だかわかんないんですけど』
男は『だろうね』と言った。
『名前は?』
『・・・言えないなー』
『親戚?』
『さぁ?』
『友人の友達ですか?』
『さぁね』
何を質問しても誤魔化されるので、もう諦めた。
私が黙り込んだのを見計らったのか、男は言った。
『×××(私)ちゃんは俺のこと知らないだろうけれど』
『俺はずっと昔から知ってるよ』
『十何年も前から』
――何このホラー。
無事私を家まで送っていただいた。
『ごちそうさまでした。気を付けてくださいね』
私は疑問を抱えたまま車を降りようとした。
すると左腕を掴まれた。
(本音を言えば、この時殺されるのかと思った。)
沈黙の中で男は何か言いたげだったが、
『お元気で』と言い残し、
私は車から出た。
そのまま振り返ることなく家の中へ入った。
――そして今に至る。
※知らない人に着いて行っちゃいけません。
私はサボり魔である。筋金入りで予後不良の。
幼少の頃から厭なものから逃げ続け気がついたら三十路になってた。そんな私はサボり癖が元で精神を病み社会生活を送れない体になってしまった。
ふつうの精神疾患なら投薬と適度な休養で概ね治るはずなのだが、私の場合はサボり癖という精神疾患の根元になるものがあるので質が悪い。投薬も5年以上続いているし、休養も自分でもうイヤだと思うほど取った。でも治らない。ある程度回復したと思い就職活動して仕事を始めるが長続きしない。そしてクビになってまた精神的にダウナーになり休養が必要になる。こんなのを何度も何度も繰り返した。真面目に職歴書いたら30近くになるんじゃないだろうか。20代もそんなのに翻弄され暗黒の時代、黒歴史になった。気がつけば三十路である。もう後はない。
少しづつ焦りだしてきた私はふと考えた。何故こんな風になってしまったのだろう、と。
私のサボり癖の根元を語るには幼少の頃からの話をしなければならない。
私がまだ幼稚園にも入る前の事だ。当時の私は英語に非常に興味を持っていた。よく買い物に出かけた横浜駅のジョイナス地下駐車場は英語でブロック分けされていて、それを見て初めてアルファベットという物に触れた。何故か判らないけどアルファベットが非常に気に入ってしまい英語という物に少しづつはまるようになった。
ある日TVで英語教室のCMをやっているのを見て母に「これかよいたいー」とせがんだことがある。母はその申し出に協力的で父に頼んでみる、と言ってくれた。それを聞いてワクワクしていたのを覚えている。
しかし父は「まだ習い事するなんて早い!」と、私の幼い願いを一蹴した。英才教育なんて言葉があった時代か判らない。グローバル化のグの字もまだ無い時代だったし英語の将来性を見いだせなかったのかもしれない。ともかく私の願いは絶たれてしまった。
そのことについて父を恨むつもりはない。でもちょっと根に持っている。だってもしその時英語教室に通っていたら私の人生は大きく変わっていただろうと思う。飽きっぽいけどのめり込む時はとことんのめり込む私のことだ、通訳とか外資系でエリート・・・なんて言わないけど少なくても英語には不自由しない人生を送れたかもしれない。
ある春の日のこと、私は父に呼び出された。そして「出かけるぞ」みたいな事を言われ、半ば強引に車の乗せられて駅前のダイエーに連れて行かれた。何が起こるのか全く判らない私、何も言わず私の手を引っ張る父。?マークを頭に3つくらいグルグル回しながら連れられて行き着いた先スイミングスクールの上の階の階段を下りた先の小さな部屋だった。父は「ほら行け」と言わんばかりに私をその部屋に置いてどこかへ行ってしまった。
何ここ何が起きるの?
幼いながらも恐怖した。
部屋には私と同い年くらいの子供が数人いた。大人も何人かいて、何か冊子のような物をを配っていた。私の順番がきて冊子を渡される。そこでようやく理解した。冊子の中身は全て英語だった。
父がどう心変わりしたのか判らないけれど、私は数年越しに英語教室に通うことができたのだった。
しかし、だ。
それは遅すぎた。
小学校3年の私はもうすでに英語に対する興味を失っていた。正直、いまさら?だった。
それから4年間英語教室に通った。楽しいこともあったし、友人もできたけど根底にあったのは「苦痛」だった。
その苦痛が形としてでることがあった。それは「逃避」。有り体に言うとサボリだ。一人で自転車でダイエーに行くのでサボることがバレることは基本的に無かった。何度か買い物に来た母親にサボってコロコロ読んでるところを目撃されて大目玉を喰らったことがあるがそれでもサボる事は止まらなかった。年数が経てば経つほどサボリはエスカレートしていき週一回の教室に月3回サボるなんて酷い事態になることも多々あった。何が厭だったのかは今となっては思い出せないがサボりたくなるくらい苦痛だったのは覚えている。
初めの頃は問題もスラスラ解けて楽しかったのだけど、ランクが上がって難しくなってくると少しずつ「苦痛」になってきた。苦痛になると私は逃避を始める。サボリ始めたのだ。きっかけは些細だった。友人が「今日サボんね?」と言ってたのだ。それに乗ってしまって後はそのままズルズルと・・・。これも週二回の教室で月数回しか通わない程になり公文の講師のおばちゃんに「ちゃんと毎回来なさい!」と毎回言われたものだった。
それから中学に入って少しして英語教室は辞めた。学校でも英語の授業が始まったしこれ以上受ける意義を当時の私は見いだせなかったのだ。
公文はサボリながらも中学卒業まで続けた。高校受験の時はさすがに真面目に公文で勉強した。でもそれは友人が周囲にいっぱい居たからであって、私一人だけだったらどうなっていたかは判らない。
一番の志望校じゃなかったけど目標にしていた地元の公立高校に入学した。
高校時代は楽しかった。今までの人生で一番楽しかった。友人もたくさん居たし、心から楽しいと思える授業もいくつかあった。そのせいもあって驚くことに三ヶ年皆勤で卒業式の時に表彰されメダルを貰った。
なんというか極端だな・・・と。
しかし、その影にも私の逃避、サボリ癖はあった。
高校では三年間図書委員だった。特に理由はなかったけれど図書委員になっていた。
図書委員の活動は図書室の貸出係の業務と月一回の委員会活動があった。貸出係は昼休みと放課後に当番であったのだけどこれに私は全くでなかった。当番は殆ど放課後だったのだけど、早く帰ってゲームしたい盛りだった私はとにかくサボってサボりまくった。たぶん3年間で10回出てないんじゃないかと思う。委員会は強制参加なので仕方なく出たのだがその時よく「貸出係をサボる輩が居ます。ちゃんと出ましょう!」とほぼ名指しで委員長に言われることがあった。挙げ句には「てめぇいい加減にしやがれ!!」とキレられたこともある。それでもゲームがしたい、寝たいばかりにさっさと自転車で家に帰る自分が居た。救いようがない。
この頃まではサボっていても何とか回っていた。学力はそこそこあったしテストでも苦手科目の数学以外はそれなりの点数を取っていた。
しかし、だ。努力する者としない者。その差をまざまざと見せつけられることになると当時の私は知らなかった。
高校二年の冬のこと。そろそろ大学受験も視野に入れなければならなくなってきた。周囲でも予備校に入学して対策を講じる者が増えてきた。
私も「予備校かー、どうしようかなー」と脳天気なりにも意識し始めていた。ある日、図書室の前にあった予備校案内のチラシを見て何枚か持ち帰り検討し、その中から一行選んで入校することにした。両親は特に何も言わずに入校を許可し私は予備校に通うことになった。
地域ではマイナーな予備校だったが友人もいることが判り喜び勇んで予備校行く・・・はずだった。
予備校は私が想像していた以上に過酷なモノだった。英語は毎回英単語テストがあったし数学は高校よりもずっと高度だった。正直ついていけなかった。ついていけない結果はテストでダイレクトにアウトプットされる。志望校合格ランクDとかEとか当たり前だった。
今までどうにかなっていたモノがどうにかいかなくなってしまった。劣等生。そんなレッテルを貼られた気がした。
高校3年になって予備校に行かなくなった。辞めたわけでなくサボるようになった。劣等生な自分を認めるのが厭だった。劣等生であるという事実を突きつける予備校に近づきたくなかった。英語の授業は友人が来いとうるさかったので月に数回出た。数学は全くついていける気がしなかったのでチューターの人に怒られるまで殆ど出なかった。高3から受講し始めた化学は授業がすごく面白かったし得意科目で余裕でついていけたのでこれだけは出席率が高かった。それでも7割ってところだけど・・・。
がんばった者とがんばらなかった者
逃げなかった者と逃げた者
大学受験--
無論私はボロボロだった。無惨だった。
センター試験で自己採点。数学は2点だった。得意の化学でも5割いかなかった。
死を覚悟した。
一般入試が始まった。
私は高校担任教師の薦めで無名のFラン大学の化学科を受けた。目標にしていた大学は「絶対に無理だからやめろ」と言われた。返す言葉もなかったので大人しく言われた大学を受験した。
結果。補欠合格。
はは、引っかかちゃった。
当時の私は安堵した。浪人生活をしないで済んだから。浪人は落第者で敗北者だと思っていた私は本当に喜んだ。
でも、気がつかなかった。おまえは運が良かっただけだ。
だって・・・「努力したのかい?」
大学生活が始まった。中学からずっと同じの友人が一緒の学校だったので初めはよく一緒に登校した。学科は違ったので登校と昼休みくらいしか一緒ではなかったけど知る人が居ない学内ではとても安心できるものだった。
大学1年の授業は楽しかった。特に有機化学と分析化学が好きだった。2年から生物化学の授業があってそれを目標にしていきたいと思った。
しかし、異変は訪れる。とある教科を落としてしまった。有機化学の概論。難しい授業だったけど好きな授業だった。ただ落としただけなら来年取り直せばいいだけなのだが、この授業はとても大きな、そして致命的なものがあった。
偏屈で有名だった生物化学の教授が設けたハードル。私はものの見事にそれに引っかかってしまったのだ。
何かが壊れた。
大学2年。目標の生物化学を受講できず腐った。さらに悪いことにほかの授業が難しくなった。特に物理化学は私が苦手だった物理の概念が入って手に負えなくなってきた。
苦痛になると訪れる甘い囁き
「逃げちまえよ」
それにあがらえる訳がなかった。
初めは大学内の図書館で本を読むだけだった。それから街のゲームセンターになって・・・兎に角大学に近づかなくなった。金だけは親から必要額貰っていたので不自由はしなかった。適当に旅に出て時間つぶして家に帰るとかざらだった。
その差は歴然と表れる。
いままでどうにかなっていたものがどうにかならなくなった。
背中に火を付けられたような感じがした。
兎に角焦った。
焦って勉強をする。でもついていけなかった。下の学年の授業を受けることも多々あった。誰あいつ落とした上級生?だせぇ。そんな声が聞こえてきた気がした
「ニゲチャイナヨ」
でも逃げると今度は留年だ。
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
14歳の少年は逃げずに立ち向かうことを選択したのに20歳のアホは逃げることを選んでしまった。
不安焦燥感、誰かに笑われてる感覚、必要以上に自分を責める。木の棚にカッターで何度も切りつけて酷い跡が残ったこともあって母親にそれを見られて酷く心配されたことがあった。
ロクな精神状態じゃないときにロクな思考はできない。
真っ暗な夜道の中をひたすら逃げているような状態だった。
次の年の春。私は留年した。
その日私は父親に叱責された。この後どうするんだ、と
ロクな精神状態じゃなかったので思考は回らず兎に角逃げることしか考えられなかった。
がんばるから、がんばるから
この時はそれで何とかなった。
留年生活のことは正直覚えてない。思いだそうとしても頭がアクセス拒否をする。
唯一判るのは焦ってどうにもならなかったこと。そして逃げ回っていたこと。
翌年、再び私は留年した。
二度目の父との対話。
今度はなかった。
そして社会に放り出された私は働かなければならなかった。当時は引きこもりもニートという言葉もなかった。父親には働けと強く言われたので働くしかなかった。
ハローワークにあししげく通って何度も何度も追い返されてとある会社の研究所に拾われた。
そこは農薬を作っている会社の研究所で初めはそこの農場のアルバイトと言うことで面接を受けた。
でも、せっかく化学のバックグラウンドがあるんだしということで話が少しぐらついた。
とっさだった。とっさに私はこう言った。
何でこう言ったのか今では判らない。
しかしそれは項をそうした。「じゃあそういうことなら勉強する意味も込めて」と研究所の助手で採用してくれることになった。
運が良かった。
研究所での仕事は本当に楽しかった。学校で習いきれなかった事も学べた。とにかくがんばったので会社も評価してくれた。
「今はアルバイトだけどがんばったら正社員にもするよ」なんて総務の部長さんが冗談めいて言ってくれた。
本気にしてがんばろうと思った。
でも、なんでなんだろうね。上手く行かないときはとことんうまくいかない。
入社して少し、変な奴が研究所にいると言うのを知った。
「同じ位の歳だし仲良くしたら?」と言われてそいつに会いに行った。
すんげぇイヤな奴だった。
京大大学院卒というのをさりげなくアピールしてFラン中退の私を見下してくる。
正直あんまり関わりたくなかった。
なんでだろうって。
殆ど歳同じなのにあのいけ好かない奴は京大大学院卒で正社員、私はFラン中退でバイト。この差はなに?
それがずっとこびりついて離れなかった。
それはそいつと顔合わせなくても研究所内に居るだけで考えてしまう。
「苦痛」だった。
とにかくとにかく苦痛だった。
また別の日、通勤のバスに乗っていると不思議なことが起こった。
降りるべき停留所に近づくにつれて妙に息苦しくなるのだ。そして頭が真っ白になって「ニゲロニゲロ」って告げてくる。
そして降りるべき停留所が来た。
降りられなかった。
こんなことは初めてだった。なにが起きたか判らなかった。
その日は慌てて次のバス停で折り返して事なきを得た。
それから数日同じ事が何度も何度も続いた。症状はエスカレートする。降りるバス停が延びていき遅刻が酷くなる。それを上司に注意されたら今度は体調不良で休むととっさに電話で言うようになってしまった。
さらに数日して何とか出勤できた日、所属部長に呼び出された。
怒っているわけでなく本当に心配しているようだった。なので症状を正直に話すと
「無理はしないようにしてほしいけど、勤怠が悪いと正直こっちも困る」
と言われた。
その日早退し精神科を探した。
小さなクリニックで老医師がこう言った。
「そりゃウツだ」
そう診断され一日三日分のホリゾンを貰った。
ホリゾンを飲んだけど少しぼんやりしただけであまり変わらなかった。
それからも朝の戦いは続いた。負け戦ばかり。
「大切な話があるから明日は必ず来るように」
と
翌日。何とか私は出社した。
そのまま会議室に連れて行かれた。
そこには研究所の所長と所属部長が居て3対1の面談が始まった。
「単刀直入に言う。辞めてくれないかな?」
総務部長がそう言った。
あぁ、クビか。
後は事務的に話は進みその日のうちに私は解雇された。
どこも悪いところではなかったけれど、必ず不思議なことが起きた。
朝起きて家を出ることはできるけど電車やバスで最寄り駅に近づくと呼吸が荒くなって怖くなる。頭は囁く「ニゲロニゲロ」と
そんな状況に陥り全く出社ができなくなってしまったのだ。
最長で半年、最短で一日。これはクビになるまでの日数。
職歴は正確に書くと30は行くんじゃないかと思う。
ここ1・2年はさらに酷くなり、部屋から出られなくなってしまった。
朝起きてその時点で恐怖発作と「ニゲロニゲロ」という囁きが頭を支配する。
精神科にはもう6年かかっている。
はじめはホリゾンだけだったけど今は抗鬱剤3種類と抗不安薬、睡眠薬まで貰って飲んでいる。
挙げ句には自立支援の申請をして精神障害者手帳まで交付された。
ふと思った。何でこうなってしまったんだろう、と
最近また会社をクビになったので少し考える時間ができた。で、考えを整理するためにこれを書いている。
結論を言うと私のこの病気の根元は「サボり」だと思っている。
「苦痛」からの「退避」。小学校の頃の英語教室からずっと続いているこの癖。これが原因じゃないかと考えている。
おそらくこれは正しい。
正しいことは判ったが対策がわからない。
生来のサボり魔たる私はどうしたら正常の社会的な生活を送れるのだろうか?
そもそも私の病気は何だ?
精神科で投薬治療は受けているがこれだけでは改善にいたっていない。というかここ最近悪化しているとすら思う。直近でクビになった会社では不安の恐怖、あと鬱的思考から自殺をほのめかすメールを送ってしまい大騒ぎになった。
年々悪化しているこの「現象」
いったいこれは何なんだ?
どうしたら治るんだ?
どうしたら社会的な生活を送れるんだ?
だれか、教えてほしい
車の営業をしてるという男と会った
ジムで鍛えました、って書いてありそうな体を「ステキですね」とほめたわたし
会う気はなく始めた出会い系だったが、うまく流れに乗せられて会うことに
男はガキのように「スカート!スカート!」と言うが、誰が価値もわからない男の言うことなど聞き入れるか
サーフで来ると言うので、それらしい車の助手席のドアを開けて・・・激しく後悔 うわー生理的に受け付けない
なんというか、エキセントリックな印象を受ける耳のでかい、口の歪んだ男がいた
ごめんなさいしたかったけど、まあ車のナンバー控えとけばいいかと食事へ行った
向かう道すがら、男はひたすらわたしをほめる
きれいですね、ほんと色が白いですね、胸が大きいですね
あーありがとうございます はやくはやくはやくはやく
今日は10時にはお送りしますねー (でもほんとは今すぐにでも帰りたい・・・)
店へ到着し、中へ入るとけっこういっぱいで 男は気にしていたが、わたしにはむしろ安心できる気がした
注文してからも、男はずっと質問ぜめ&ほめるほめる
どうして登録したんですか、きれいすぎてSって感じだな、ほんと色白いですね、胸大きいですね(ああああああ まじうぜえ)
食べ物が来てからは食べることに集中
男はひとしきり終わったようだったので、話させておこうとこちらから聞いてみる
営業ってどんな感じで一日を過ごすのですか、それって頭使いますよね 等々
食べ終わっても、まだ30分しかたっていない まずいこのまま車に戻りたくない あ、マンゴードリンクおいしそう これ飲みたいですうー
と、ドリンクが運ばれる お、でかい よかった これでまた30分はかせげる
体鍛えるにはねえ とか 子供を育てるには転勤がないほうがいいとか
あ、子供いるなら子供の話をさせておこう お嬢さんですか、かわいいのでしょうね 等々
さっき歩いてるとこみたけど、ほんとウエスト細いですね いくつですか? いや、秘密です♪(触らせないぞぜったいに!!)
男伝票を手に持ち出たがるが、わたしお水のおかわりをいただく そしてまたゆっくり座って、微笑んで時間稼ぎ
さっき10時には帰すっていったけど、営業の手の内を使えば 断れなくすることだってできるんだよ
(何?でもそれって、断ったらわるいかもーって相手に思わせることができる場合でしょ? わたしふつーに断るよ いやですって)
また会ってもらえますか?いやでも断られそうだな、はっきり言うタイプでしょ? ○○さんはそう思うんですねー(大人のな・が・し方♪)
男笑って伝票を持って立ったので、もうこれ以上時間稼ぎはできない
レジが混んでいたので、ごちそうさまでした にっこり と言い外で待ってますと伝える
急いで車の所に行き、ナンバーを控える
このまま逃げて帰ろうかと思っていたら、男出てくる わたし笑顔で迎える
では少しドライブしますか というのでええ、ジムとか気になりますねという 残りあと15分
運転しながら、いやほんとにきれいだ、また会ってくれますかと繰り返す男
そちらは見ずに、前を向いたままありがとうございます んーそうですねを繰り返すわたし
気持ち悪いというか、生理的嫌悪感をいだくというか、恐怖感を覚えるというか、とりあえず男を見てはいけないと思ってた
なんで夜なのに色つきめがねなんだよ わけわかんねーし
もうすこしだけつきあってくださいね、などというので時計を見る あと3分
おいおいおい もういいだろうよ と思ったけど車のナンバー控えたし 携帯あるしなんとかなるかと思いなおす
やっと元の場所に戻り、車から降りる
手を振って別れた後、確実に車が逆方向に走り去るのを見てから、わたしも動き出す
そしてすぐメール また会いたいだと?まあそうだろう しかし無理だ
丁重にお断りのメールを出してからもう一週間
メール拒否はせず、毎日4-5通来るメールを無視し続けたら やっと今日になって来なくなった
鏡見てからまた会いたいとか言ってこいよ
しかも 仕事に対するスタンスとか エロのスタンスとか 違いすぎ
Sはあんたの願望じゃねーの?自分がSとか書いてるくせにさ
キモい顔というニーズがあるときだけ、あんたの存在価値があるんだよきっと
よく営業できてるよね
わたしが特別、苦手な類の顔、声、話の内容なのかも
無理な人間関係を保っていたことがなかったから、あんなタイプは知らなかった
http://anond.hatelabo.jp/20100607214034を書いた奴に大学の先輩である私から忠告しよう。
君は「ちょうえりぃと」といわれる職場に就いたという。
しかしながら真の東大生なら知っているはずだ。書かないだけだ。
大蔵省が財務省になり、司法試験がロースクールになり、ゴールドマンサックスが訴追された今、
もう一つ覚えておくとよい。
日本の組織はだいたいどこでもそうだが、35歳くらいまでかけてじっくり人を見る。
35くらいで、官庁なら有力局の総務課補佐→官房主要課の補佐→大臣秘書官となる者が現れ
同じように会社なら会社ごとに異なるしかるべきポストを与えられる者が出てくる。
その者こそが真のえりぃと。
それまでは試行錯誤の中で自らの中にリソースを営々と積み重ねることが必要だ。
そのリソースの積み上げ計画をしくじった大半の東大卒は、もはやただの一兵卒に過ぎない。
すなわち、18年積み上げて得た東大卒という看板は、同じ18年で朽ち果てるということだ。
んー、ここまでは前振りな。知ってる人だけが知ってる常識だから35歳になったら思い出してくれればいいや。
本題は、君が欲しがってるうらやましい生活なんだけど。
そっちは35歳の審判よりよっぽど簡単だよ。
いまの君が持っているものを土台にすれば、これから10年くらいガマンすればなんとかなるよ。
参考までに俺がやったことを書いてみよう。
1000万の借金がなかっただけで、あとは状況は変わらん感じ。
まず、とにかく金を貯めろ、借金は早く返せ。
資産運用しろ、そのための頭脳だ。10年後がターゲットだから1年で資産倍増みたいなバクチはせずこつこつ行け。
信用には事欠かないから、俺はマンション買って人に貸した。千万の位のレバレッジを賭けられるのは不動産投資くらいだ。
風俗とか絶対に行くな、金の無駄だ。今のエロ本は高品質だから我慢しろ。
車を買うのは都内なら馬鹿だ。北海道ならしょうがないが、可能な限り安い車にしろ。
君が書いているように、君に絶対的に足りてないのは資本だ。だったらそれをまず埋めろ。
俺は就職して10年で5000万の投資資金と、2部屋のワンルームマンション(うち1部屋は借金完済)を貯めた。
ちんちんに余剰資本をかけるのはその後だ。30過ぎてからで十分だ。
会社の女はどんなに美形の一般職でもやめとけ。人間関係が面倒だし35歳の審判を下す連中はそういうへまは見逃さない。
合コンは諦めろ。まともな女を引っ張ってくる幹事はその頃にはもう結婚してる。
ネットが手ごろだ。SNSでもツイッターでもよいからとにかく手を出しまくれ。
受験勉強と同じだ。簡単な問題を数をこなしていけば、難しい問題はいずれ解けるようになる。
30人くらいデートに誘えば、後半は3人に2人くらいのペースでベッドに持ち込めるようになる。
その前提として、美味いレストランと高級ホテルはしっかり頭に入れておけ。
山手線内のどの駅で待ち合わせしても、電車に乗らないで女性好みの美味い飯屋にエスコートできるくらい研究しろ。
30過ぎたら売れ残りばかりとかという妄言は気にすんな。今の女は計算高い。10くらいの年齢差は話術と金でどうにでもなる。
俺の場合は、30過ぎてから某六大学卒の超巨乳の弁護士とか、卒業したての美人女医とか、キー局ではないが女子アナとか
20人くらいと寝た。チンチン乾く暇もないうっはうはであった。それくらいはなんとかなる。
で、飽きたので、付き合ってた女子アナと遜色ない美しさの、東大の後輩と結婚した。
女が欲しければ、結婚は遅らせろ。自分に配偶者がいる不倫とかエネルギーの無駄だから。人妻を食うのは美味いがな。
金を貯めれば家も買える。「デカい家に住んで夜景みながらシャム猫を撫ぜつつブランデーを傾けてる」ってな。
さほどでかくはないが、東京タワーがどーんと見えるタワーマンションを買った。
猫は飼っていないが、クリュッグをシャンパングラスに注いで飲みながら「下々が下界をうごめいておる・・・」と呟くくらいはできる。
そうそう、女子アナと女医は東京タワーを見ながらベランダでバックからやった。女子アナの声は通りが良いからタワーマンションによく似合う。
まあ、たいしたことはないが、普通のサラリーマンでもここまではできた。
「日本人のあらかたに妬まれ嫉まれる暮らし」というほどかどうかは分からんが、まあそこそこ楽しくやってる。
35歳の選抜も無事切り抜けたよ。
あとな、頭の悪い増田が、親の力がないとどうのこうのって書いてて、あれはウソだから。
うちの親は日本を代表する級の大会社の常務までやったけど、子供には今んトコなーんにも経済的にはメリットなす。
基本全部自前だから。
ヒントになるかどうか分からんけど、がんばってな。
http://news.livedoor.com/article/detail/4757321/
がんの一種・子宮肉腫で死亡した慶応大病院(東京都新宿区)の女性患者(当時26歳)の両親が「誤診が原因」として大学側に賠償を求めた訴訟で、診断した同大医学部の向井万起男准教授が「妻がこの病気になれば子宮を取る」と遺族に説明していたことが7日分かった。向井氏と担当医は「良性の偽肉腫」と判断して女性の子宮を摘出しておらず、両親側は向井氏の発言を「摘出の治療方針を決める義務を(分かっていながら)怠った証拠だ」と主張している。同日に千葉地裁松戸支部(森邦明裁判長)であった第2回口頭弁論で、両親側は発言を引用した準備書面を提出。
まず年齢がポイント。女性の場合、子供が産めるか埋めないか(本人が希望するかどうか)で治療方針は大きく異なる。向井千秋さんはもう恐らく子供産む意思はないだろう。
26歳の女性は、医師の強い勧めにも関わらず、子宮の温存的治療を強く望んだ可能性がある。その場合、現代の医療では、絶対に患者の意思を無視することはできない。それこそ訴訟になるし。
そもそも病理診断は絶対ではない。一流の病理医が自信を持って診断しても、死後解剖で「およそ8割正しければ超一流」といわれるほどの世界。医療崩壊論ではなんども言われていることだろうけど、「結果だけで判断されるようになると、医療はあっという間に崩壊する」。
医師は、常に不確実性と闘いながら、なおかつ近年のIC重視の流れの中で,患者の意思を最大限に尊重しながら、方針を決めていく。死後「癌だった」ことが分かった→「じゃぁなんで癌の治療しなかったんだ」→「医療ミス」って論理の飛躍が激しすぎるだろ。診断・治療は統計的事実にのっとり行われる。確実絶対ご安心、ニコニコ病院なんて世界中のどこにもありえないんだよ。
なんどでも言うが、結果だけを求められると、医療はすぐにでも崩壊する。
両親側の書面や弁護士によると、女性死亡から約2年後の06年11月7日、病院側は遺族を呼び説明会を開いた。向井氏は治療経過を説明する中で「私、女房(向井千秋・宇宙飛行士)がこの病気になったら子宮を取っちゃいます。まず、子どもをあきらめちゃう」と述べた。
多少軽率にも感じるが、向井医師の発言は当然と言えば当然。乳がんでの乳房除去と違い、出産適齢期を超えた女性では、子宮摘出に関しての躊躇は(ないとは言えないが)大きくはないだろう。
双方の書面では病理診断部長の向井氏を巡り、病院側が「病理医であり、治療方針を決める主治医ではない」として、そもそも方針決定の義務がないと主張。両親側は「地位・年齢が(助手だった担当医よりも)上の向井氏が実質的に決定権を掌握していたとみられる」と指摘する。
ここの両親側の指摘にはポカーンとしてしまった。一体お前は何を(ry
病理医の意見は最大限尊重されるし、病院によってどの程度の権力を握っているのかは異なるけれど、決定権を決定的に掌握しているのは主治医ですから。チーム医療が進もうがどうであろうが、これは絶対的に変わらない。
また、病院側は書面で「転移は全く見られず悪性(子宮肉腫)を疑わせる事情はなかった」とし、死亡は「全く予想外」と反論している。【西浦久雄】
向井先生が有名であるが故にたまたまニュースになってるだけで、こんな話日本中にゴロゴロ転がってるんだよ。医療に幻想を抱き、結果だけを求める国民と、それを煽るマスコミが癌であることは間違いないけれど、家族を失う悲しみ、悔しさを怒りにすり替えて医療側を叩くのは、もういい加減やめにしよう、ホント・・・
republic1963氏が「あるある」と楽しんでいるモテキ。
angmar氏が大ッ嫌いなモテキ。
y_arim氏が壁に叩き付けたモテキ。
超絶美人でスタイリッシュな女性が読んでいるらしいモテキ。http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20100130
オタク、二次元、リア充、草食系、肉食系、イケメン、美女、童貞、非童貞、処女、非処女、みんなに開かれている漫画とか紹介されているモテキ。http://www.cyzo.com/2009/08/post_2579.html
開かれているだろうか。「真の非モテ」にも開かれているだろうか。かつてmasao_hate氏に噛み付いたような真の非モテ達のような人間にも開かれているだろうか。
y_arim:本当に生まれてこのかた異性とかけらも縁のないキモいやつについてどう思うか久保ミツロウに聞いてみたいな。
y_arim:コンビニ店員くらいしか異性と口利いたことなさそうな極まったひとってたくさん見かけるんだよ即売会とかで……。そういうひとらはモテキ読者から見てどうなんだろうな―と思った。
開かれているかどうかは別として描かれてはいる。超非コミュがたたってアシスタント達に敵対され捨てられた漫画家・小野坂オムである。
ネタバレになるが主人公の藤本は彼の読者であり、ヒロインの1人土井亜紀とともに彼を訪ねるシーンがある。
このシーンを私は忘れない。まずオムの描写である。チビでプルプル顔をゆらしながら土井亜紀の胸を服の上から透視する漫画家スコープ・ピィ~ンとかいうキモイ変態描写である。
ふざけてんのか?
そして藤本と土井亜紀は友人関係という事になっているようだが二人にはあきらかに下心が透けて見える。特に藤本は照明助手の明るくてかわいい自称処女や、美人のインテリキャリアウーマンにモテはじめて調子乗りまくりである(たぶんネットみのもんたってこういうヤツ)。土井亜紀のほうは藤本に気があるのは序盤から変わりないが調子乗りまくりの藤本のほうは土井亜紀と「俺とは釣り合わないだろう」とネガティブ垂れ流しつつ「折りあらば付き合える(フッフッフ」とか宇野常寛的レイプファンタジーをかましているDQNなのである。
で、この藤本だがいきなり「オム先生可哀そうだなぁ・・そうだ、土井亜紀と先生ならお似合いなのでは」と土井亜紀をオムに紹介、土井亜紀とオムをくっつける作戦を始める。そして土井亜紀は皿洗いやカレー作りを藤本とともに行う。オムはプルプル顔を振るさせながらカレーを食べて和んだ表情を見せる。
ここだ。
ここの藤本「うわぁ・・・オム先生が解けていってるー、きもー(オムはキモ顔でキモ表情)」という侮辱的ギャグ表現。ここにy_arim氏の疑問に対する答えが詰め込まれている。これが久保ミツロウとモテキ読者による真の非モテへの視線そのものなのだ。
作者の久保ミツロウはオムについて「ただのキモイヤツ」としか描写していない。久保の描けない部分、この3人の関係とオムの内面について、替わって真の非モテである私が解説しよう。
まず藤本はなぜオムに土井亜紀を紹介したのか?実はこれ藤本の下心にほかならない。本当は「オム先生より自分のほうがモテる。オム先生と土井亜紀が釣り合うわけがない」と思っているのだ。土井亜紀を紹介した真の理由、それは「かわいそうなオムに好きな女を譲る優しい俺」自己陶酔と土井亜紀への印象アピールである。そして土井亜紀のほうもそれを本当は見抜きつつ藤本に対して家事上手で女の子らしい一面アピールを行い「キモいオムみたいな人にも優しい自分」で藤本への印象アップを試みているのだ。「キモいけど可哀そうまオムを2人で助けよう」という美しいテーマで共犯する2人の下心。
一方オムはリアルなキャバクラ漫画を描いている人物である。ここでいう「リアル」とは「描かれたリアル」である。この手のあるあるネタの宝庫は現実よりもむしろ書籍である。もちろん「キャバ嬢が教える男の落とし方マニュアル」「小悪魔な女になれる、恋の切り札」みたいな恋愛本を山ほど読んでいるに違いない。それをネタに漫画で表現しているからゆえの「リアル」なのだ。このオム先生が藤本と土井亜紀の下心を見抜いていないはずがない。しかし「もう駄目だ」「誰か生きてていいと言ってくれ」「誰か1人でいい、僕の手を握ってくれ」状態のオムは土井亜紀の笑顔とカレーに和んでしまった。そしてその瞬間の描写は「きめぇぇぇぇぷぎょゎ~~」的なものなのだ。
オムのぷるぷると和む表情、あれは「だめだ、和んではいけない、すがってはいけないんだ」という戦いの表情であるにもかかわらず。
これが真の非モテ陵辱漫画でなくて何だと言うのだ?真の非モテの「だめだ、でも・・」と戦っている表情にぷぎゃーするのなんて、非実在少女の「イヤッ・・悔しい・・でも感じちゃうビクッビクッ!」で射精するのと同じようなものではないか。こんなもん読んでたら似非非モテヘイトとミソジニーを同時発症してしまいそうだ。
もう一つ、非モテ藤本とモテ島田の関係。なぜか非モテにはイケメンの友人がいる事が多いように思う。一見するとそれは「俺はモテる。くやしいだろ~オラオラ」と「あぁ羨ましいモテないもうダメぽ」な共依存に見えるがそれほど単純ではない。モテとしては非モテがはがゆい存在なのだ。非モテは絶望ぶっていながらそのルサンチマンの背景には純愛しているリア充幻想がある。しかしモテのほうは失恋も浮気も経験していてプチミソジニーであることが多い。モテのモテ自慢の真意は「非モテは絶望とか言っているが、いい年してまだ純愛幻想に浸っているのだろう。お前の絶望はヌルい。世界に愛はない。お前は一生それを知らずに死ぬなんて幸せだな」というイビリであり、非モテのモテ話受容には「そうか、世界に愛は無いのか・・。ならば絶望する必要もない」という安心感が隠れている。・・のだが藤本と島田の関係にはそれがない。ポジティブでバカでいいヤツ島田とネガティブだけど純情で優しい藤本として描かれている(一応藤本が好きなキャリアウーマンを島田がトイレで喰ったみたいなシーンはあるのだが・・)。これはヌルすぎる気がする。百合オタの「女の子同士の無償の愛の共同体幻想」男verと言ったところか。このヌルい設定のままでもモテと非モテの関係を描写しようとするなら「非モテのモテ期」と「モテの非モテ期」を同時に描く、という手もあったように思うが島田はそうそう結婚してしまったので望めそうにない。
っていうかこの漫画いろいろ大雑把すぎる部分が多いのだ。サブカル設定の藤本なのに中学以降二次元でしかマスターべショーンできない設定「オタク」っぽかったりするのだ。ありえないだろこれ。モテない人って二次コンなんだっけ、みたいな、うどんもそばもまぁ同じようなもんだろ、みたいなめちゃくちゃさ。女ってケータイ小説でBL消費している森ガールみたいな感じだ。
y_arim:そりゃなんか倒錯した変態趣味だな。 RT @rdnt: でも心を抉られるのが何故か心地よくてモテキを読んでる俺 #mokradio
なぜ非モテがモテキを読むのかというのは、なぜ非モテはリア充を羨望するのか、とかオタクによるサブカル嫌悪、に近い気がする。私はハルヒやグレンラガンを限定版でDVD集めているキモオタであるが、音楽はtoeもnano machineもvenetian snaresも聞く。Sigur Rósやmúm好きがたたってアイスランド語のアカウントを取ったこともあるくらいである。これは自分がキモオタなのにリア充の「かっこいい」を「かっこいい」と感じてしまうからなのだ。おそらくオムも自分がキモいと思われていることをわかっていながら三次元の土居亜紀をかわいいと思ってしまったのだろう。頭ではわかってるのに欲望がついてきていないのだろう。階層社会について宮台は「断念とリスペクト」を奨励したが・・これコミュニケーションとかサブカルチャー受容とか性癖については変態しか生み出さない気がする。断念は可能でも自分のことを死ねと思ってる人たちを求めてしまうとかリスペクトするとか羨望するとか嫉妬するとかそれ自体倒錯した変態趣味なのだ。y_arim氏はかつて「非モテと敵対する。僕は女の子と仲良くなりたい」と言ったが(y_arim氏は言ってもいいと思うが)これを本当の非モテが言ったとしたらどうだろう。例のTogetterのように生理的な問題として「口も利きたくない」と思われている相手に対して「仲良くしたい」とか求めたり「こっちだって口も利きたくない」と反撃したりする羨望と嫌悪の同居こそ未成熟っぽいというかACっぽくないだろうか。死ねと迫ってくる人々についてはそれが自分よりもどんなに人格的・能力的に優れている人物だったとしても「死ぬかどうかは自分が決める」と言うしかない。ルイズも俺がラノベに入ったらキモがるんだろうなと思うなら破り捨てろ。リンコも俺の事嫌いなんだろうなと思うならDSごと叩き割れ。もっと嫌いなもの同士拒絶し合えばいいのだ。それがミソジニーというならもうそれはしょうがないと言うしかない。モテキとその周辺を見てそう思った。
12月末に友人に紹介されて始めたのだが、職場環境が悪かったので無理矢理辞めてきた。
先月に友人が辞め、私に仕事を教えられる人がいなくなった。
元々人の入れ替わりが激しいらしく、衛生士さんも入ったばかりの人ばかり。
まだ基本的なことしか解らないため、出来ることをやるしかない。
出来る作業をやっていると院長に「そんなことは後でやればいい」と言われ、
じゃあ何やればいいんだと。聞いても答えは曖昧。
院長は院長でありながら院内のことが解らないことが多い。
あそこで仕事をしたのが2ヶ月だったが、ずさんな経営体制が見え隠れしていた。
(ほとんど隠れてはいなかったと思うが)
遅かれ早かれ、あの医院は潰れるんじゃないかと思う。