はてなキーワード: エレベータとは
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昔、オートロックのマンションに住んでたことがあって、その時にエレベーターがすぐあってやけに長くポスト見てる奴がおるなぁとか思ってたんだけど、そういうことだったんだな。
自分の部屋が9階とか10階とかだったんでエレベータ待つ時間が結構発生するんで、自分はそれがタルいなぁと思ってできるだけ相乗りするようにしてたんだよね。別にはそのオートロックマンションに限らず、デパートとか社ビルとかでも基本そうしてたんで。同じ感覚でやってたんだけど、それが迷惑だった、と。
コロナ落ち着いてた頃だから11月くらいだったかな、上司と飯食いに行って「最近の新入社員は飯に誘っても全然ついてこないし、5年次くらいまでの若手に『金なら俺が出すからなんか若手でうまいもんでも食って来いよ』って言っても断られる」みたいな話を上司がしてた。それに対して自分は「まぁ最近の若い子は会社のやつと一緒に飯食うって感じでもないっすよ」みたいな話してて。自分も上司と飯食いに行くの好きなわけでもないけど。奢りだし、一人の外食だとあんまり良いもん食わないし、上司の顔立てとけば仕事でポカしても許してもらえるし、みたいな打算モリモリで行った食事会でそういう話をしてた訳。上司もその打算モリモリをたぶん分かってて、上の者の親切心としてやってくれてるだろうなと勝手に思ってる。
ただ、今回の話で何て言うか、こっちが親切心だと思っていたのがそもそも現代的には時代錯誤なんだなあと思ってちょっと寂しいというか、バカらしいというか、
自分がこれまでこう「やらん善よりやる偽善だ」と言うのかな、なんかこう「小さくても人のためになんかやったほうが良いだろ」って思ったことが無意味どころかマイナスなんだなあって思うとすっごい虚無。
結局、その自分の親切だと思ってやってる事が、それを受けてる人からすると単なる迷惑だと思われるんだったら、その親切しなくて良いって言うか、意識的に他者に働きかけること自体を辞めるべきなのかなって思う。
34歳半ば、人生の急な方向転換に苦しんでいる。
昔から恋愛に縁遠く、数少ないデートも楽しむことができなかった私は一生独身で生きるんだろうなという思いをもっており、独身で生きるための準備を着々と進めていた。
20代半ばで一人暮らしを始め、20代後半には必死で勉強し知識とスキル、そして経験を身につけ、転職を経て一人生きていくには十分な年収を得て、資産運用も順調に進んでいた。
仕事は自分にとっては天職といえる職業で技術を身につける日々が楽しかった。一生このまま過ごせると確信していた。
それが突然崩れた。
両親があと半年後にこの家を出て、別の家に引っ越すという。ずっと実家にいた一つ下の弟も彼女との同棲のために家を出るという。
生まれてからずっと過ごしてきた実家がなくなってしまうこと、親が老後に備えたアクションを取ったこと。
実家は玄関前に急な階段があり老人には辛い家なのでいつか手すりなりエレベータをつけなきゃな、いつか介護のために戻ってこようと思っていたが、まさか家を出てしまうなんて。
そして改めておじいちゃんおばあちゃんの域に差し掛かった親を直視する。
まだ60代半ばで健康そのもの、旅行に趣味にと楽しくはつらつと生きているが、あと何年このままでいられるだろう?
元より親が老いたら世話をするつもりだったが、そのあとは?親が死んだあと、私は平静でいられるのか?
その時ともに悲しみと痛みを分かち合う肉親の弟のそばにいるのは、弟が築き上げた大事な家族だ。老いて若い頃のタフさも健康も無い私は、弱った心で一人で痛みを抱えて数十年生き続けることになる。
それから1ヶ月半、ずっと不安に苛まれて涙の止まらない日々が続いている。
二人で新居で暮らす両親、弟の新しい家族。一人取り残される自分。いつかいなくなる愛おしい親。
望んで一人でいたはずだったのに、帰りを待っていてくれる家族と故郷がなくなることを実感してしまったら駄目だった。なぜ今までちゃんと想像しなかったのだろうか。つくづく自分の甘さと幼稚さに呆れる。
長く元気でいてくれた祖母も同時期に体調を崩した。命に関わるものではないけれど、いつもにこやかで賢くキビキビ動く尊敬すべき祖母が痛みに苦しむ姿はとても可哀想で涙が込み上げた。
不安を解消するためにひたすら考えをメモにまとめて有益な情報を求めて検索を続けるが、それがさらに不安を煽る負のスパイラルになる。
時代は変わり、世代も移り変わっていく。高齢者はこの世を去り、かつての中年は高齢者になり、若者は中年となる。
そして世代が変われば元の家族は強固な1グループではなく分割され新しい形にフォームチェンジし、自分の家族は自分で築き上げなければいけない。
のんきで物分かりの悪い自分は、あと半年で35になろうというタイミングでそれに気が付かされることになった。
どうしてこうなった。去年の10月までは順調に機嫌良く自信を持って幸せな人生を歩んでいたのに。
少し悩んだ結果、今慌てて婚活を始めている。
20年近く温めてきた人生計画を短期間で方針転換することは苦しい。短時間で出した結論が正しいのかもわからない。
でも、同じ痛みを支え合える人が欲しいと思った。自分を愛してくれる親がいなくなっても励まし合い、褒め合う人が欲しいと思った。
もうすぐ高齢出産の年齢になるので悩む時間も無いしそもそもできるかわからないが、あわよくば私も子供を持って、父母や弟と同じ親になり、同じ苦労を体験する仲間になりたいと思った。
ダメでもともと、せっかくだから一度くらい恋愛したり他人と並走する人生を考える機会があってもいい、いい人がいなければ結婚は諦めて今まで通り独身で生きることにしようと思っている。
幸い、恋愛すべきだった年代で費やした時間は無駄にはなってない。もし婚活がうまくいかなくても金は鎧または道具となって私を支えてくれる。
人生何が起きるかわからない。思ってるほど理解も覚悟もできてなかった。
自省をこめて。
上の通り。
自分は気を付けていたがコロナに感染した。旅行も言っていないし、居酒屋にも一切行っていない。今年の夏に入って外食もほぼしていない。気を付けていたがコロナに感染していた。
世間では居酒屋は深夜まで繁盛しているし、旅行やナイトクラブ含め自由に遊び歩いている人がいるが、そのようなモラルが欠如している順に感染してくれればいいのにと切に思った。
彼らが自分でリスクを払っているといえばそれまでだが、気を付けている側が馬鹿なんじゃないかと思えてくる。
たとえば、やむを得ず電車に乗ったとき、スーパーでレジ並ぶとき、自宅マンションのエレベータに乗るとき、そのリスクをある程度押し付けれられるのだから。
シンドラー・エレベータの事故が多発していたころはエレベータに恐怖心を感じていたが、今はすっかり忘れちまった。
今調べてみたら、オーチス・エレベータって名前に変わってた。
このタイミングでオリンピックを開催するべきじゃないと発言していた人が、オリンピックで素晴らしいパフォーマンスを発揮したアスリートたちに賛辞を送ると途端に飛んでくる「手のひら返し」の揶揄。
Twitterでは #手のひら返し がトレンド入りしていたし、オリンピックを今開催すべきじゃないと言っていた蓮舫議員やモーニングショーの玉川徹氏、ミヤネ屋の宮根誠司氏に対しては個人のみならずWEBメディアさえもが手のひら返し叩きをしていた。
この、オリンピック開催に反対していた人にはオリンピックを楽しんだり、金メダリストにおめでとうという資格がないという根拠はどこから来るのか。
それは、手のひら返し叩きをしている人たちが、オリンピック反対派はどうしてオリンピックを今開催することに反対していたか?という文脈を一切無視していることが原因だろう。
オリンピック賛成派と反対派の利害は一見すると真正面から対立しているように見えて、実はお互いの利する部分と害する部分は一致していた。
つまり、オリンピックの開催によってもたらされる「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットと、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットは、賛成派・反対派 両者が共に抱えているメリット・デメリットであった。(コロナは存在しないから五輪を開催すべきとか、商業主義の五輪はそもそも開催すべきじゃないとか、そういった意見の人もいるとは思うが今回の趣旨に反するので今ここでは論じない)
オリンピック賛成派は、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットが、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットよりも上回ると考える。
オリンピック反対派は、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットより、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットが上回ると考える。
ここで重要なのは、オリンピック反対派も、オリンピックを開催することによって得られる「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリット自体は否定していない、それどころか肯定している、ということだ。
手のひら返し叩きをする人たちは、この「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットを否定した人間が選手を応援するなというロジックで手のひら返し叩きをしてくるが、そもそも反対派は「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットを否定してはいない。肯定している。プラスの要素として捉えている。この部分は賛成派も反対派も変わらない。
じゃあ何が違うのか。それはただ単に、オリンピック開催によってもたらされるプラスの要素とマイナスの要素を比較した場合、どっちが大きいか?という問いに対する考えの違いでしかない。
上記の思考の過程をきちんと認識しないで手のひら返し叩きをすると、賛成派・反対派にもたらされるメリット・デメリットに非対称性が生じてくる。
現在、オリンピック反対派の意見は聞き入れられず、オリンピックは開催された。そして、アスリートは素晴らしいパフォーマンスを発揮し、一方で五輪関係者から感染者が相次いだ。
「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットと「コロナの感染拡大リスク」というデメリット、どちらが上回っていると考えるかは人それぞれ違ってくるとは思うが、このプラスの要素とマイナスの要素が日本国民にもたらされた。
ここで考えてほしい。オリンピック賛成派は、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットと「コロナの感染拡大リスク」というデメリット、この2つを受け入れることができている。
対してオリンピック反対派はどうか。もしも、手のひら返しの主張にのっとり、オリンピック反対派は五輪を楽しむ資格がないとしたら。
オリンピック反対派は、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットを背負わされているにも関わらず、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットは受け取れない。
オリンピック賛成派は開催によって発生するメリット・デメリットどちらも受け入れる事ができるのに対して、オリンピック反対派は開催によって発生するデメリットだけを受け入れメリットは受け取れない、という非対称性が生じているのだ。
オリンピック反対派は、五輪開催前から「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」ことをプラスに評価し、「コロナの感染拡大リスク」をマイナスに評価した。オリンピック開催前も開催中も思いは一貫して変わっていない。五輪開催前から、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」ことをプラスに評価していた人間がいま選手を応援するのはごく自然なことだし、応援しているからといって、感染が拡大する今このタイミングで開催する事に賛同しているわけではない。何の手も返していない。
本来なら賛成派・反対派 両者がマイナスの要素・プラスの要素どちらも受け取れるはずだが、手のひら返し叩きによって反対派はコストを払っているのにも関わらず、リターンが一切得られなくなる。
この理不尽な非対称性は税金で考えるともっとわかりやすい。 週刊ポストは、東京五輪の都民1人あたりの負担額は「10万3929円」と報じた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e89dbd2770e4a83754c843ad60520b39f95aa1ac
オリンピックは税金の無駄遣いだからやめたほうがいいと開催に反対する人も数多くいたが、彼らはオリンピックの「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というプラスの要素を否定したのではなく、「一人あたり10万円の税負担」というマイナスの要素が大きすぎることに対して不満を表明していただけだ。
しかし、手のひら返しの論理を当てはめると、税金の無駄遣いという理由でオリンピック開催を反対していた人たちも、オリンピックを楽しむ資格はないのだろう。一人10万円という金額を負担させられ、その人達のお金を利用することで開催が可能になったオリンピックに対して、「金メダルおめでとう」と言ったら手のひら返しと批判されるのは、あまりに理不尽ではないだろうか。
例えばこれがマンションの積立金の話だったらどうか。今までに入居者全員が毎月支払っていた積立金を使ってエレベーター設置するという話が出た場合、賛成派と反対派に意見が別れ、最終的に賛成派の意見が通ったとしよう。
仮にあなたが反対派だったとして考えてみてほしい。エレベーターは積立金を使用して設置するので、反対派の人たちが払ったお金も費やされている。そうして出来上がったエレベーターに、反対派のあなたが乗り込んだところ、賛成派の人に「設置に反対していたのだからエレベータを使う資格はない!今さら手のひらを返すな!」と言われたら。
反対を選択した人は、エレベーター設置反対の要望をはねのけられ、自分たちが払っていた積立金を使用され、結果できたエレベーターを使用することもできない。