はてなキーワード: 民主政治とは
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http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170921/ddm/016/070/003000c
あとシノドスのフリーライターのレポートもあったが、どれも「医術と呪術を混同する両論併記をやめよ」という趣旨が確認できる。
林智裕についてもそうだが、「これ以上福島県の健康被害について口をはさんではならない。それは差別だ」という論旨であり、
林氏は心無い中傷で県民が傷ついているという批判の中で「呪い」という言葉を使っていた。
本来は全文を読むべきだろうがまず書いておく。
壊滅的な被災のなか、復興への向けて頑張っている人が悲観的な話を聴くのがつらく、実際に精神を病むこともあるだろう。
そうした福島県民を始めとする東日本大震災の被災者の皆様の気持ちは自然であることは認める。
しかし、隣県の新潟県では原発事故についての検証委員会が始動しだしたところである。
私自身、なぜ「子供たちの未来」云々が危険視しようが安全視しようが登場してきており、政治的支配欲が出ているようで非常に不快だし、
泥流による放射線の健康被害から本来定住すべきではない場所だと言われてむっとしたこともあるが、
新潟県知事選当時、県内在住の反原発派から「お前は本当に福島県民か?」というような差別発言は聞かれなかった。
(インターネット上で選挙運動や訴訟活動を行っていることを明記した人物に限定した話ではある)
現在、在日コリアンを念頭に外国にルーツある人物へのヘイトスピーチは違法化された。
この前例に則り、学術会議への異論も福島県へのヘイトスピーチとして違法化され、
事実、在日朝鮮人や沖縄人への民族差別をアナロジーとして、福島県民への差別を説明するレトリックは存在している。
このような議論は被差別民族への想像力の欠如と思われるかも知れないが、対策法で最も懸念されていた問題点である。
しかしポストコロニアルな当事者性を強調することで国や東電の構造的責任が看過されてしまうことはないのか。
実際に被災した地域を二度と同じことを繰り返さないよう防災の観点から引用し検討することすら差別や呪術であり、
野蛮な攻撃とすることは学問の権威化であり、自由を害することである。
こうした声明が突き付けられた以上、このような論理は粗雑過ぎると一県民として明白に考えざるを得ない。
2007年の中越沖地震での放射能漏れが原体験として上げられている。岩手県の震災瓦礫の件はここを改めて意識してほしい。
チェルノブイリは福島第一よりも安全という発言は海外への県の農産物輸出戦略の一環である。
国際的観点から見て廃炉出来ていない原発がチェルノブイリに比して安全だと言えるのか。
ショッキングな発言だったかとは思うが、公人として県政運営のなかで必要な見解だったのであり、
過激さをもって差別発言と断じることは不公平であり、思いとどまってほしかった。
(不幸にも彼は権力基盤上、排外主義を扇動している自民党からしか国政候補へ立候補できなかった。これは彼を被災者レイシストと断ずる根拠になりうる)
私の知る限り、泉田知事が被爆が疑われる人物に意識的に差別的な県政を行ったという情報はない。
四期目を断念した後自ら原発に屋根を作った云々という恩着せがましい発言をしているが、
撤退理由であるフェリー船問題は船を売りつけた韓国企業が東京電力からの度重なる広告出稿を受けた新潟日報と結託しており、
そのような形で追い込まれて撤退した人物が、悪いことばかりしたわけではないという弁明はある程度必要なはずだ。
このような極めて強引なかたちで引きずり降ろされた人物に、撤退後まで完全に無難な言動を求めるのは酷すぎる。
県民の代表が、極めて不自然に引きずり降ろされたなか、このような声明を出すこと意味を想像していただきたい。
最近つらつらと考えていたことだが、やはり政権交代のある民主政治を成り立たせるためには、人々が「合理的なものの考え方ができる」ということが大前提であって、それができない、物事を合理的に考えられない人があまりにも多い社会では、いくら制度だけ整えたところで、政権交代のある民主政治が成功するはずもないのかも知れない。
そして現代日本社会は言うまでもなく、「物事を合理的に考えることができない人」があまりに多すぎる。
行き当たりばったりで大局を見ない、根拠や事実を大切にしない、人を貶すことはあっても褒めることはまずない、そのくせ怪しげな話はすぐに信じ込み、ヒステリックに振り回され集団パニックを起こし、後から「あそこまでギャーギャー騒ぐほどのことでもなかったな」「良くも悪くも大したダメージにはならなかったな」となっても、反省も謝りもしない。
こんなん増田にしか書けないんだけど、超頭悪い人がいたとして、その人に選挙権与えるのはなんで?
選挙の仕組みや政治のことがほとんどわからないし興味もないような、政治経済の授業はいつも寝ていたような人に選挙権ある意味は?
もちろん、近代の約150年をかけて、諸先輩が民主政治を推し進めて男女普通選挙が実現したってのはわかる。非特権階級も選挙で政治参加できるようになった。
それはわかるけど、政治に興味もないし、政治(国政もローカルな政治のどちらでも)を理解するフィーリングもない人が今あふれている。
選挙の日に投票行かずに遊びに行ってしまうような。そういう人たちへ選挙権を持たせる意味は?
折角先人が獲得した男女普通選挙の権利を擲つような層に、どう響かせるか。
別に政治に参加するorしないの自由もあるんだろう。けれど、そこには初めから選択肢すら視えない、あるいは理解しない層がある。
かなり煽り気味に書いたんだけど、実際自分も政治がわからない。
政党があってそれぞれ主義主張があって。市会議員はこれこれこういう会派があって、地域では誰誰さんが誰誰の後援者で。
こういうのは何となくぼやっとわかるんだけど、鮮烈には見えない。見通せない。
それでもなんとか考えて投票するけど。
シン・ゴジラを観てきた。
実際にゴジラが現れたら、本当にこんな後手後手の対応に回るんだろうなというリアル感。
自衛隊が本気で攻撃しても倒せないという、お約束の展開をリアルに描くことで生まれる絶望感。
すごく面白かった。
ところでシン・ゴジラの評価として、エヴァっぽいという声をちらほら聞く。
オーどこに目をつけているんだいキミタチィ。
なぜそれが分からないのか、分かろうとしないのか。
と思うので思うところを書く。
エヴァと言えば言わずもがな、『セカイ系』と呼ばれたジャンルの最高峰である、と言われている。
セカイ系の特徴には諸説あるが、概ね、世界の命運がごく少数の登場人物の意思決定によって左右される物語だとされている。
時として世界の命運を左右するのは、数奇なめぐりあわせのために巻き込まれた、覚悟も力もない少年少女であったりする。
そこで生まれるドラマを描くのがセカイ系というジャンルである。
シン・ゴジラはこのようなセカイ系の特徴を徹底的に排した物語構成を行っている。
ゴジラと戦うのは民主主義の手続きによって選ばれた、国民の代表たる政府関係者と自衛隊である。
何を決定するにも会議を行い、議事録が残り、行動するには法的根拠が必要で、無いなら法案を作るという、民主政治のプロセスが正統に実行されている。
また、ゴジラは確かに脅威ではあるが、セカイを滅ぼす存在ではない。
自衛隊の装備で傷をつけられずとも、米軍の空爆でならダメージを与えられる。
それを使えないのはヒトの都合である。
第2、第3形態のゴジラを自衛隊が攻撃できなかったのは、ひとえに憲法9条下における自衛隊の不自由な運用のためである。
第4形態のゴジラに核を撃ち込めないのは、ゴジラが東京のど真ん中にいるからであって、要するに今まで都市のインフラに投資した金がもったいない、というだけの理由である。
もし東京が壊滅しようと、京都に首都機能を移転し大阪が経済の中心となって、日本という国はつつがなく回っていくだろう。
日本が滅ぶとしたら、劇中で指摘されている通り、株価、円、国債などの暴落によるデフォルトである。
日本の滅亡すらヒトの側の都合で起こる。
滅ぼさないのだ。
そんなセカイを滅ぼさないゴジラと、対策チームは不眠不休で戦っているのである。
なぜなら、誰もセカイを救う力なんて持っていないから。
普通の秀才の集まりだから、不眠不休で対策を立てても、勝てるか分からないのである。
できるだけ多くの協力者を募り、政府の研究機関や民間企業に情報提供し、他国へのコネを活用して、ゴジラを倒す作戦を立てるのである。
それが、セカイを救う力なんて持っていない、普通の日本人達のリアルだから。
なんのために戦っているかと言えば、仕事として、国民の生命と財産を守るために戦っているのである。
避難すれば命は助かるが、それは今までの生活を全て捨てることを意味する。
「簡単に言うなよなぁ」
とボヤかせるのだ。
だから、劇中の所々に見られる、主人公の演説も、ドラマ的な演出もなく淡々と行われる。
聴衆の歓声も、勝鬨の声も上がらない。
作戦決行直前の演説も、演説の内容は重大であるが、その光景はまるで中小企業の社長が朝礼で社員に演説するかのような様子である。
こうして観ると、シン・ゴジラは全然エヴァっぽくないということが分かると思う。
ゴジラが現れようが暴れようが、セカイは盤石だ。
それを倒すのにも、優れたリーダーの英断の下、日本の科学力、工業力、軍事力を集結すれば可能なのだ。
冗談みたいなIQの天才もいらないし、自己犠牲の特攻も必要ない。
国を守る覚悟のなってない、思春期の少年少女の出番など、どこにもない。
庵野はどうしてエヴァの映画を作るのを放って、これを撮ったんだろうか。
少年少女の意思決定が、そのまま人類の滅亡を引き起こしたりする。
そういう話の持つ面白さは、そういう面白さとして存在するが、きっと庵野はもう飽きたんじゃないだろうか?
それより、ヒトの社会の営みの豊かさ、力強さに惹かれてるじゃないだろうか?
そう言いたいんじゃないだろうか?
物語の全編から、もうセカイ系なんてやめよう、エヴァみたいな物語なんて作るのやめよう、というメッセージが伝わってくる。
そりゃ同じ人が作ってるんだから、同じような演出になるのは当然だろう。
上っ面ばかり見て、どうこう言われて、庵野も気の毒だね。
先日、『選挙カーがはた迷惑な大声で名前を連呼する理由を知った時のこと』という文章を書いた。
予想外の反響を得て、驚くとともに、うれしくも思う。
そもそも記事を書くきっかけとなったサイバーメガネさんも、さっそく内容をフォローするように
『無党派層はコスパが悪くて当てにならない』というエントリを書いてくださった。
なぜ、反響があったかといえば、おそらく、あの頃の自分と同じように選挙の現場を見たことがなく、
「なぜ、反感を買うだけなのに、選挙カーは騒音をまき散らしているのだろう」と疑問に思っていた人が多かったのだろう。
中には、「ああいうばあさんは、もうすぐいなくなるだろう」という趣旨のコメントもあったが、僕はそうは思わない。
そもそも、あれはまだ橋本龍太郎が総理大臣をやっていた頃の話だ。
つまり、かれこれ20年近く前の話なのだが、その後も状況にさほど大きな変化はなかったことは、いくつかのブコメを見るだけでも分かる。
次の20年で変わるかといえば、そうでもないだろう。なぜそう思うかを、書いていこうと思う。
あの頃、「無党派層」という言葉はすでにメディアに登場していた。
(wikiによれば、大阪府知事に横山ノック、東京都知事に青島幸男が当選するという「珍事」が起きた時に注目され、流行語大賞をとったそうである。
その前に「日本新党ブーム」を経て、細川内閣が誕生したころには、まだメディアではメジャーな言葉ではなかったのか)。
無党派層に心情が近かった当時の僕も、「ああいうばあさんみたいなタイプの人は、いずれいなくなるのだろう」と思っていた。
だが、少なくとも20年程度では、いなくならなかった。
思い起こしてみれば、あの当時から、「応援しているのに、なぜウチのほうに選挙カーがこないのか」と苦情をいうのは、必ずしも年寄とは限らなかったのだ。
その渦中に身を投じてみれば分かるが、選挙というのは一種の「お祭り」である。
であれば、選挙カーという「神輿」は、自分の家の近所に来てくれたほうが楽しかろう。
お祭りというのは、参加する者にとっては楽しかろうが、部外者にとっては迷惑で騒々しいだけだ。ハロウィンを見ればわかる。
最近、高知県では、新住民からの「よさこい祭りの練習の騒音がうるさい」という苦情が増えて、祭りの伝統を守りたい人々は対応に苦慮しているらしい。
祭に参加して騒ぎたい人々と、外側にいて「うるさい」と感じる人とは、どうしても対立する。
それは、祭りのルーツがどうとか、そんなこととは、おそらく関係がない。
僕はあの頃、お祭りに参加して盛り上がるのは年寄りのやることだと思っていた。
だが、実際にはそうでもなかった。
古臭い祭りにはそっぽを向いても、なにか面白そうな新しいお祭りあれば、こぞって参加するという人たちが、世の中には相当程度いるのだ。
既成政党による「ドブ板選挙祭り」にはそっぽを向いている若者が、国会議事堂前でSEALDs祭に参加したって、なんの不思議もない。
お祭りといえば、あの選挙事務所でバイトをしていたとき、幹部がにわかに、ちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあった。
総裁とは誰のことなのか、僕はにわかに判じかねたが、それは当時、自民党総裁にして総理大臣でもあった橋本龍太郎のことであった。
事務所の関係者は「総理」でも「首相」でも、ましてや「ハシリュウ」でもなく、「総裁」と呼んでいた。
総裁が応援しに来てくれるということは、つまり、その候補者や選挙区を党本部が重視している証拠なのだが、、
橋本龍太郎という人は日本の歴代総理には珍しく、その端正なルックスで女性人気がきわめて高かった。
慶応大学在学中に第一期東宝ニューフェイスに誘われたこともあるというから、「政治家にしてはイケてる」というレベルではない。
当然、「集客力」も高く、事務所としては、願ってもない応援弁士なのである。
今でいえば、小泉進次郎の人気が、近いものがあるのかもしれない。
当日は、それはもう「お祭り騒ぎ」だった。バイトも支持者も大勢駆り出された。
事務所の幹部は警察官やSPと打ち合わせに余念がなく、事務所の司令塔たる候補者の長女は、誇らしげな顔をしていた。
実際、当時の橋本龍太郎は、「本日、○時に、橋本龍太郎総裁が、応援演説に来られます!!」と呼びかければ、
「エッ、うそ!? マジ? こんなトコにハシモトソーリがくるの? じゃ、ちょっと見ていこうかな」
などと騒ぐほどの人気があった。
「もし、総裁が演説している最中に暴漢が襲いかかって、それをウチの先生が体を張って守って、ケガして運ばれたりしたら、明日の新聞の一面になりますかね?」
「ああ。そうなったら先生は、もう当選確実だな。お前、いっちょやってみるか?」
僕らは、大分親しくなった事務所の下っ端幹部と、そんな軽口をたたいたりした。
定刻になると、ちょうどライブの最前列でファンを押さえるスタッフのように、バイトや運動員が群衆を抑えている前に、黒塗りの車列が到着した。
SPに囲まれながら降り立った橋本龍太郎は、思った以上に背が低かったが、確かに二枚目だった。
「世の中には、選挙になると、消費税率は下げて福祉の水準は上げるなどと、夢のようなことを訴える政党もありますが、
私には、そんな魔法使いのようなお約束をすることはできません」
などと語りかけるイヤミな調子には、好き好きがあっただろうけれど。
当日、街頭には大勢の支持者が動員されていたけれど、それを上回る人々が足を止めた。
それがきっかけで自民党候補者に投票したひともいるのではないだろうか?
だが、なにより、事務所に集う人々は、「総裁が来てくれた」「予想以上に人が集まった」という事実に興奮し、
例のばあさんは、街頭には来ていなかっただろうが、
「自分の支持する先生のために、橋本さんが応援に来てくれた」という事実に喜びを感じ、
ますます「近所の人に、投票してくれるように頼む」という彼女なりの方法で、お祭りを楽しんだことだろう。
「お祭りだなんて、とんでもない。選挙というのは、冷静に過去の実績や提示された政策を比較検討して、適切な候補者に投票すべきだ」
という人もいるだろう。それは、おそらく正論だ。
だが、そういう正論を唱える人たちが、政策とやらにどの程度つうじているのか。
数多ある課題の、すべての軽重を判断して、どれが適切な政策が判断することが、果たして可能なのか。
それに、どんなに「政策」が素晴らしかったとて、口先だけでは何とでもいえる。
政策はもちろんのこと、きちんと有権者に呼びかけ、汗を流している人を選ぶべきではないのか、という話にもなる。
そもそも政策など判断しかねるという大多数の人は、「難しいことは分からないけれど、あの人ならば大丈夫」という人に、判断を託すことになろう。
そして、「あの人=政策を作成、判断し、実行する人」というのは、つまり「権力者」だ。
かつての世の中では、文字通り血で血を洗う抗争をくぐり抜け、数多の屍の上に生き残った者が権力を握ったのだろうが、
そんなことで無闇に人の命が奪われるのはよろしくないということで、選挙というお祭りで権力者を選ぶようになったというのが、つまり民主政治なのだと思う。
「あの、お偉い先生も、私の一票があるから、大きな顔をしていられる」「私の一票のために、頭を下げてくれる」
そのことに喜びを感じられる人が、選挙というお祭りに参加する。
選挙カーを待ちわびる老人(のような人)とは、そういう人たちではないかと思うのだ。
そして、「お祭り」を利用して権力を上りつめようとする人間は、冷めた傍観者たちに参加を促すよりも、
「お祭り気質」な人たちを盛り上げることに注力した方が、効率が良いことを知っている。
時に、「権力者」という個人ではなくて、「戦争法案をつぶす」とか、そういう思想だが理念だか、そんなようなものを「ご神体」にしてお祭りが催されることもあろう。
多分、それがSEALDsだ。
彼らは初期の目的を達することはできなかったが、多分、世の中を意図的に動かそうと思えば、お祭りのような手段を使ってエネルギーを結集することが必要なのだと思う。
そんなこととは関係なしに、僕らから全く見えないどこかで、いつのまにか物事が決まっていく世の中は、多分、今の世より住みにくかろう。
僕はそんな世の中に住みたくないし、世の多くの人が、そう望んでいると思う。
だから僕は、「選挙カーを待ちわびる老人(のような人)」は、そう簡単に消えないと思うのだ。
消えるべきではない、といえるかもしれない。
選挙のやり方は変わっていけば、騒音をまき散らす選挙カーのような方法は使われなくもなるだろう。
選挙ではないけれど、今もネットでは、「炎上」という名のお祭り騒ぎが日夜開催され、それに参加する人もいれば、眉を顰める人もいる。
僕の粗末な頭では具体的に想像できないけれど、仮にネット選挙が今より進化したとしても、
選挙カーの連呼とは違う種類の「騒音」に悩まされ、うっとうしくなる日がくるのだろう。
ところで、僕はハロウィンに仮装して参加したことがない。今後もたぶん、参加することはないだろう。
だが、心の片隅に、あの、屈託なく仮装して楽しんでいる人たちを羨ましく思う気持ちがないかと聞かれると、全くないとは言い切れない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
http://anond.hatelabo.jp/20131201171613
に対する別人による投稿です
http://anond.hatelabo.jp/20131201171613
を書いた君。君だよ、君
君は「ブコメがオオゲサ」って言うけど
わかってないな、君は。それともわざとボケをかましてるのか?
あの極端な表現は、君程度の人でもオオゲサだとわかるように
あえてオオゲサに書いているんだよ、アレは
あえてな
「ナチスの一党独裁が進行中」みたいなことを書いている人(オレじゃない)が
それこそバカだ。なわけねーだろ
共通経験などをもとに高度なコミュニケーションが交わされる文化のことを
http://en.wikipedia.org/wiki/High_context_culture
たとえば、気心の知れた仲間同士では
自分に対して注意を向けてほしいときに、ささいなことをとがめて
「おい、なんすんだ。殺すぞてめぇ」「やってみろ。刺すぞおめぇ」と
「愛してるわ。殺したいくらい」「ぼくもだよ。殺してくれ」
のように親睦さを確認するような会話もハイコンテキストなコミュニケーションだ
言葉では殺人の意思を通告しているけれど、実際には殺人事件にならない
なぜならお互いに殺しあうことは絶対にないという
石破発言に対するネット反応も同じだ
それは否定派も肯定派も同じで
はてブという場所はその両者が可視化されやすい形で表現されるから
当然ハイコンテキストなメッセージがたくさん抽出されやすくなる
(で、増田はハイコンテキストカルチャーに駆逐された情弱が集まりやすく君のように空気の読めない無骨で不器用な人が集まりやすくなる、などと書くと君は怒るのだろうな。もちろんこれは挑発的な冗談だ)
簡単に言えば
はてな的に言うなら「はてなの集合知」としてのはてブが機能したというわけだ
だから現時点でのオレの結論はこうだ
あえて大げさで極端な言説を唱えることがトレンドとなっていた
なぜなら、石破発言は石破という政治家の発言という意味を超えて
ハイコンテキストな文脈で現代日本の社会的な閉塞感や政治的な対立を象徴するテキストであり
石破はハイコンテキストな文脈で現代日本の社会的な閉塞感や政治的な対立を象徴する存在である
それらに対してあえて大げさで極端な言説を唱えることは
もう一度冷静になって
「石破をいますぐ殺害しないとヤバイ」とか「石破より安倍がサタン」みたいなコメントは大勢になっていない
この差がわかるかな?
これは発言を撤回しないなら安倍ちゃん政府の側で石破をコントロールしろ
もし、石破を野放しにしている安倍もダメだという共通了解が成立していたら
「そもそも安倍がヒットラー」「安倍氏ね」的なコメントがハイコンテキストな文脈で次々と出てくるはずだ
だがまだそこまで事態が進行していない。
野党にとっても石破発言を無力化し世論を味方にする絶好のチャンス
誰がどの速度でどのように動くかによって政治状況が動く
そして安倍ちゃんは「デモは憲法で保障された表現活動で政府としてはテロとは認識していない」と発言すれば一見落着
とにかく先手をとって動いた側が有利になる
と、ここまで書いて最新ニュース(12月1日 18時7分 NHK)を2時間前に確認したら
「『テロだ』と言ったわけではないが、テロと同じだという風に受け取られる部分があったとすれば、そこは撤回する」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131201/k10013486071000.html
撤回した。
予想できた発言撤回だけど、案外早かったと思う。おそらく
が発言撤回の動機の決定打だろう
これで石破は傷つきながらも「失言でクビになる」という最悪の事態を回避することができた(かもしれない)
石破の保身はできた(かもしれない)が、秘密法案の運営はこれから困難になるだろう
これでもう石破は簡単にはデモを批判できなくなる
秘密法案反対デモを自民党が世論として受け止めざるを得ないということだ
これで秘密法案は一時棚上げになるか強行採決になるかの二者選択になる
もう修正を話し合うという段階ではない
経済問題に移行した場合、景気回復すれば安倍政権は長期安定するが
結局秘密法案みたいな外交治安案件に政局を移さざるを得なくなり
そうなると野田政権末期のように一点突破で領土問題を話題に振るなど
それをみんなが夢中で見て楽しむことになるだろう
私としては
そんな事態にならないことを祈るばかりだ
>政党としてパッケージ化してる以上、生活に直結する経済政策で票を稼いで、他の所でおかしなことを言っても受かるのも今回の選挙で自明だし。そもそも、政治家になれるほど金や地盤を持っていて、選挙で受かりたいから~って言ってる以上、一般人と全く違う行動原理、価値判断であるのは明らか。
ってことですよね。
現状の日本の民主政治の中ではそういった金や地盤がある人が受かるための政治をしてることも否めないでしょう。
少なくともその国民の票のために動いてるわけで、自分勝手なことだけしてるわけではないわけで。
それが今の民主政治でしょ?
で、何が言いたいの?民主党も自民党も、何か大きな力で勝手に動いてるだけで、
別にいいけどさ、何の罪でもないけどさ。
選挙によって民主政治が成り立ってるんだからそれに参加するだけだろ。
皆が皆、面倒だから、ってしなかったらどうなるか、ってだけの話。
一方で選挙に行かない理由はなんなんだ?
単に、面倒だ、興味がない、どうでもいい、ってだけでしょ?
別にそれに対してとやかくいうことはないけど、そんな理由にも関わらず、
一端の意識の高い理由を付けてみたり、
行った人間を馬鹿にするのがどんだけ低次元な話かくらいは理解した方が良いよね。
まあ、周りもそういう低次元な人間ばかりだから気付かないだろうけどね。
議論の余地があるかないか、はっきり論拠を示して欲しいけどな。
ま、同じように馬鹿にするコメントで、すぐ消して逃げるだけなんだろうけどな。
つまりは何も論拠もなければ反論も出来ないだけということだ。
じゃあ、もう民主政治やめればいんじゃね?
個人の意見が反映さえ無いといやないんだろ?
お前が独裁政治作り上げればいいじゃん?
別に、その後実際文句言っていい、悪いとかの話なんてしてないでしょ。
この選挙制度の元、意見を表明するために投票する権利があるわけ。
その後の議論はもちろん議会で決めるよ、選ばれた人が。
それが民主政治。
その権利すら放棄してるんだからその後どう決まろうがお前関係ないだろ、って。
もちろん、投票した上で自分の思った方向と違う方向に行く場合もある。
その場合、文句行ってもいいか、って言ったら、別にその場合も一緒で、
文句言おうが言わまいが決まったことは決まったこと。
余りにおかしなものが出てくれば、それはまた、世論という多数決の力で訂正されるだけ。
お前らみたいに選挙も行きません、ひきこもってます、みたいなやつらが何を言おうと何も変わらない。
唯一意見を反映させることが出来る投票する権利さえ放棄するなら、もう何も文句言うなよ、うっさいだけだから、
という話。
政治の事は本当によくわかっていないのだけれど、橋下という人を筆頭にして年金等の既得権益の見直しをしたい一派が居るらしい
その一派は扇動のようなやり方で人を焚きつけているようで、結果としては既存の権益は見直されるが
実力主義の世の中になり、煽られている人の大多数が被害を被るらしい
ところで私には一切の実力及び能力はなく、他人に誇れるようなアピールポイントは持たない
橋下派による革命というのが本当に起きるのであれば、起きた先で淘汰されるのは目に見えている
私を取り巻く状況は今より悪くなるだろう
だが、現状よりは改革後の方が公平である様な気がするので、どちらかと言えば改革を支持したいと思っているのである
このように自身にとって不利益でも理に適った側を支持する、というのは資本主義下の民主政治において推奨されていないのだろうか