はてなキーワード: 王権とは
「女の子はみんな夢見るマリーアントワネット」って話聞くと違和感をもつ。
小さい頃は確かにドレスに憧れたけど、読書をしないことやダンスや演劇に興じるって理解できなかった。
「錠前作りばかりに興じて、重度の真性包茎で不細工でのろま」とバカにされてもルイ16世の方が理解できた。
「ルイ16世か王妃マリーアントワネットに生まれ変わらなければなりません。しかし歴史は変えられません。」
っていわれたらルイ16世を選ぶ。
例え、王権についた時点からルイ14世からつづく財政困難と戦争への莫大な出費を減らそうと努力しても実らなかろうと、
婚前に当時の不衛生な手術に耐えて王妃に無事「初夜」を迎えさせても愛されることなく、非難の的となる浪費をやめさせようともしても無駄としても、
本を読む楽しさと自ら当時の高級なガジェットを作り出す喜びは、着飾る喜びと比べて色あせることがないと思う。
ヨーロッパ中世とはどんな時代だったのかを、独自性と一般性を交えて、絶妙なバランスでまとめている。
本書の主要な記述の中で、特に気になったところだけ簡単にメモ。
・封建制度が成立するまで
→ローマ帝国崩壊後、ゲルマンによるヨーロッパ治世は次々に短命に終わった。(東ゴート、フランク、西ゴート、ヴァンダル王国)。背景にはゲルマンが信仰するアリウス派とローマ人が信仰するカトリックという宗教面の対立があった。上手く国がまとまらないままに、9世紀頃からノルマン人の侵入が始まる→略奪による領土の荒廃→国防は機能せず、地場の権力者が城壁を作ってごく小さなテリトリーの防衛を行う→そこを中心に農民があつまり、商人があつまり、騎士が集まる。自治の中心が地場の領主にシフト(国王の形骸化)。
→ヨーロッパの騎士はドライな権力関係で主君とつながる。日本の武士は忠義で主君に仕える。従って「二君に仕えず」が絶対だった日本とちがって、ヨーロッパは一人の騎士が複数の主君と契約を交わすのはざらだった。戦争の時でも、ヨーロッパの騎士は「●日間まで出陣する」と契約書に書いていれば、たとえ戦闘は継続していても、途中で帰ってしまった。
→地中海商業は破壊されずに維持された。一方で、話し言葉としてのラテン語は、人々にリテラシーを身につけるボトルネックとなった。
→皇帝の方が一段上。皇帝はキリスト教の神に認められた支配者。
「騎士道」の盛衰
→封建制の発達とともに、先頭の仕事が少なくなった兵士たちの間に生まれた。騎士が時代遅れになるのは、1400年頃の100年戦争期あたりから弓矢や大砲の技術が発達しすぎて、鎧の防御では間に合わなくなったためだ。彼らはぜいたくを美徳とした点において日本の「武士」とは違う。また、騎士は無学だった。文字が読める人間はほとんどいなかった。
「十字軍」の疑問。なんで、400年以上も前から取られてたエルサレムをとつぜん取り返そうとしたのか。
→背景にはヨーロッパ全土へのキリスト今日のて。土着の神々をキリスト教の「聖者」として吸収(例えば、サンタクロース)。
十字軍の帰結。
→封建領主に対する王権の強化。代わりに法王の権力は結局十字軍が失敗したことから凋落。
なぜその後イギリス、フランスがまとまってきたのに、ドイツはまとまらなかったのか。
→ドイツの皇帝は海外侵略に熱心で、内政をおろそかにしていたから(特に地中海遠征。たとえばフリードリヒ一世(1152-90)のシチリア遠征)
次期主席が習近平では「大変革」など望むべきもなし、と香港専門家ら
ダークホースが王権を手に入れたが背後にいるのは利権巣窟特権階級
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香港「りんご日報」(21日付け)によれば、習近平の軍事委員会副主席入りは「ダークホースが王権」を手に入れつつあるが、かれは高級幹部一族の「太子党」出身であり、特権階級の権利を擁護し、独裁体制を維持させることに汲々とする連中が支持基盤である限り、大変革なんぞありうるシナリオではない、と冷淡に分析した。
2007年にいきなり上海書記に抜擢された習は政治局入りを果たしたダークホースで、しかも翌年三月に国家副主席への三段跳び、四段飛びと異例の階段を駆け上った。
習が「改革派」「開明派」として知られた習仲勲の息子であることから、「政治改革に大なたを振るい」、あるいは「“中国のゴルバチョフ”になるかも」という淡き期待は消し飛ぶだろう、と同紙は続けた。
2012年党大会で、習近平は党総書記と党軍事委主任となり、2013年に国家主席となることは、いまや規定の方針だが、江沢民が最後まで「国家軍事委員会主席」(形骸だけで党軍事委主任が事実上の統帥権)を、三年保持して軍へのにらみをきかせたように、バランス上からも胡錦濤は、2015年まで「国家軍事委主任」のポストは手放すまいという観測もあがっている。
他方、香港の有力紙「明報」は同日付けで、尖閣諸島衝突問題に言及し、「結局、中国があまりに驕慢だったため、日米両国の同盟をかえって深化させ、中国を非友好国としてあつかい始めたことは『外交的失敗だった』」とする時殷弘教授の談話を引用し、「中国外交の失敗」と題した林華保のコラムを掲げている。時殷弘は中国人民大学アメリカ研究センター主任。
(林華保は有名なコラムニスト)
通巻3110号
人は自分が有能であることの証明は容易に行なうが、無能であるという証明は難しい。
今現在の人間は過去の可能性の発露である、君は君の可能性の発露を今生きている。
まあ大雑把に言えば、生きるということは生物が保持している遺伝情報の最適化であるのである。
要するに自分に発露しうる可能性がこれ以上無いという証明は、そのまま死刑宣告であるからである。
故に、我々は価値観の多様化という安全弁を設けた、世界に一つだけの花であり一人ひとり違う種を持っていいのだよ、君は君のままでいいのだよ。
こういった価値観の多様化は1と2の間に無限の値をとる哲学であり、理性的に両者の差異を自覚しにくくすることに成功したのである。
しかし、この哲学は多くの1を土台にしたものであることは2である我々には本質的には理解されていなかった。
我々は結局2であることを自覚することもなく1である人々の犠牲の上に漫然と社会を運営していたのである。
ここでの1とは発展途上国を指す。
物質面で言うならば、それはつまり国際競争力であり技術力である。
この世界では金が無ければ物は手に入らないのである。
つまり物資を得ようとするなら方法は二つだ、安いものを高く売って差益を得るか、武力で奪うかの二択である。
我々は価値観の多様化という一種の欺瞞によって、この美しい世界の理屈を間違ったまま認識した。
世界の様相は全く変わっていないのに、我々は自ら産み出した新しい認識によって世界の構造が変わっていったかのように振る舞い、誤って学習した。
古代→中世→近代→現代という古典的歴史認識は我々を誤った結論に導き、これを信じる宗教を育んでいる。
しかし、現実はどうであろうか?
1と2は決定的な違いがあり、1という数字はどれだけ優秀な観察眼をもってしても2より少ないのである。
特異な君はそれだけでは無価値である。
たったこれだけの当たり前の現実すら歪んだ我々の視点からは認識できない「タブー」となっている。
かつてタブーだったものは何か?
古代→中世→近代→現代という古典的歴史認識とは全く別の意味で世界は多様な価値観に満ちている。
そこには1と2という単純な違いがあるだけである。
野生的直感が勝利する時代が来ているのだ。
野生的直感は1と2を理性によらず選別することができる。
人権の時代は終わった。
万物に平等な人権などはなから存在しえないのだ。これからは(というか世界はいつもそうだが)人間は生きているだけで価値があるわけではないのである。
中国を見よ、インドを見よ、あるいは道を踏み外しかけているがアメリカでもいいだろう、人権なぞ存在しなくとも国が発展すればそれで良いのだ。
彼らは我々がやったのと同じように、安価な労働力と確かな技術力で他国の経済を壊滅させ己の利益を得ているのである。
一般的に生物は自らより多くの子をなす、生き残るにはそれらと戦う、生きるという本質は奪うことであり、それしか無いのである。
弱ったもの、劣ったもの、本質的に無気力なもの、無産者、これらを不要なものとして切り捨てる時がきた。
我々は2であらねばならない、あまねく万物は生きるために2であろうとしそのために死力を尽くして戦っているのでありそれが正しい姿だ。
不能者を抱えて弱りきった我々の国家は野生的にあくまで合理的に、不要なものを捨て去り社会を形成する必要がある。
いや、国家の枠が無かったとしても我々が生きるために無能なものはいらないのである。というより、そのような余裕のある国家ではなくなったのだ。
この新しい野生的で至極当然な価値観は若い世代に確実に浸透している。
朝方、夢の気分を引きずりながら、また貨幣のことを考えていた。そしてソグド人のことを。そしてイスラム文化を。
(ア)貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。その信頼の形成方法が貨幣の作り方だと、なんとなく思っていたが、ではそれらと国家や国家の幻想とはどのように関係があるのか。そのあたりで、(a)トウサクしていた。
私は、何かを考えるとき、反ヘーゲル・反マルクスの仮説を立ててみることが多い。あるいは反キリスト教・反ギリシア哲学。が、やはり、商品と呪物は決定的なのだろう。呪物商品が最初にローカルに貨幣化され、それを(b)エンカクには信頼で組織化するのだろう。そして呪物商品は、国家幻想と女に関係を持つ。女はそれ自体が呪物商品化されるというか、先日、高島先生の盗賊皇帝の話を読み直しながら、女こそ(c)リャクダツ品なんだなと思いを深めた。しかし、女は物ではない。そのあたり、女の、女集団の意識化がある。
このぼんやりした思考とパラレルに、ウッフィーの貨幣化について考えた。基本的にはそんなものはないだろうと思うし、ベネトンの話などは要するにバイラルなのだが、なぜウッフィーが貨幣ではないかといえば、(イ)貨幣は匿名化されなくてはならない。では、なぜ貨幣は匿名なのだろうか? 信頼と呪物の関係において匿名の意味はなにか? 直感的には交換の本質から出てくるのだろう。
ところで、このあたりでさらにマルクスの労働の価値について再考する。いろいろ考えたが、ようするに(ウ)労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。呪物の呪術性を媒介として、使役の公平な交換性としてあるのだろう。というか、これは社会生物においてごく遺伝子的なレベルでフレームワークは存在するのだろう。つまり、生物種の持つ社会的な使役の交換の必然がどのくらいかによる。
これは、当然ながら、公平を権力化した使役との対照に置かれる。しかし、国家の権力の幻想も実はウッフィー的な幻想の(d)イタクではないのか。そのあたりで、ウッフィー=貨幣という考えそのものが間違っていることに気がつく。おそらく貨幣は貨幣なのだろう。
そして、(エ)貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。つまり、寄生的に国家の幻想に媒介してくる異質な富の集団こそが国家を幻視させる、あるいは、国家を家族幻想から引き離し、阻害する要因ではないのか。つまり、吉本隆明がいうような親族から王を疎外するのではなく、外部の貨幣が王を疎外するのではないか。より正確に言えば、(オ)家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう。
設問
(一)「貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。」(傍線部ア)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(二)「貨幣は匿名化されなくてはならない。」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか。説明せよ。
(三)「労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(四)「貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。」(傍線部エ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(五)「家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。(句読点も一字に数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)傍線部a、b、c、dに相当する漢字を楷書で書け。
a トウサク b エンカク c リャクダツ d イタク
なんかこの文章昼間もあったよね。
消したの?
なんのつもりか知らないけど人の書いた文章を何回も増田に載せるのってキモいわ。
調べてみたら昨日の夜中も同じようなの載せてるね。
http://anond.hatelabo.jp/20100611232824
意味がわからない。っていうか薄気味悪い。
■次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 なお、出題の都合上、一部改変した箇所がある。
朝方、夢の気分を引きずりながら、また貨幣のことを考えていた。そしてソグド人のことを。そしてイスラム文化を。
(ア)貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。その信頼の形成方法が貨幣の作り方だと、なんとなく思っていたが、ではそれらと国家や国家の幻想とはどのように関係があるのか。そのあたりで、(a)トウサクしていた。
私は、何かを考えるとき、反ヘーゲル・反マルクスの仮説を立ててみることが多い。あるいは反キリスト教・反ギリシア哲学。が、やはり、商品と呪物は決定的なのだろう。呪物商品が最初にローカルに貨幣化され、それを(b)エンカクには信頼で組織化するのだろう。そして呪物商品は、国家幻想と女に関係を持つ。女はそれ自体が呪物商品化されるというか、先日、高島先生の盗賊皇帝の話を読み直しながら、女こそ(c)リャクダツ品なんだなと思いを深めた。しかし、女は物ではない。そのあたり、女の、女集団の意識化がある。
このぼんやりした思考とパラレルに、ウッフィーの貨幣化について考えた。基本的にはそんなものはないだろうと思うし、ベネトンの話などは要するにバイラルなのだが、なぜウッフィーが貨幣ではないかといえば、(イ)貨幣は匿名化されなくてはならない。では、なぜ貨幣は匿名なのだろうか? 信頼と呪物の関係において匿名の意味はなにか? 直感的には交換の本質から出てくるのだろう。
ところで、このあたりでさらにマルクスの労働の価値について再考する。いろいろ考えたが、ようするに(ウ)労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。呪物の呪術性を媒介として、使役の公平な交換性としてあるのだろう。というか、これは社会生物においてごく遺伝子的なレベルでフレームワークは存在するのだろう。つまり、生物種の持つ社会的な使役の交換の必然がどのくらいかによる。
これは、当然ながら、公平を権力化した使役との対照に置かれる。しかし、国家の権力の幻想も実はウッフィー的な幻想の(d)イタクではないのか。そのあたりで、ウッフィー=貨幣という考えそのものが間違っていることに気がつく。おそらく貨幣は貨幣なのだろう。
そして、(エ)貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。つまり、寄生的に国家の幻想に媒介してくる異質な富の集団こそが国家を幻視させる、あるいは、国家を家族幻想から引き離し、阻害する要因ではないのか。つまり、吉本隆明がいうような親族から王を疎外するのではなく、外部の貨幣が王を疎外するのではないか。より正確に言えば、(オ)家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう。
設問
(一)「貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。」(傍線部ア)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(二)「貨幣は匿名化されなくてはならない。」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか。説明せよ。
(三)「労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(四)「貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。」(傍線部エ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(五)「家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。(句読点も一字に数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)傍線部a、b、c、dに相当する漢字を楷書で書け。
a トウサク b エンカク c リャクダツ d イタク
朝方、夢の気分を引きずりながら、また貨幣のことを考えていた。そしてソグド人のことを。そしてイスラム文化を。
(ア)貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。その信頼の形成方法が貨幣の作り方だと、なんとなく思っていたが、ではそれらと国家や国家の幻想とはどのように関係があるのか。そのあたりで、(a)トウサクしていた。
私は、何かを考えるとき、反ヘーゲル・反マルクスの仮説を立ててみることが多い。あるいは反キリスト教・反ギリシア哲学。が、やはり、商品と呪物は決定的なのだろう。呪物商品が最初にローカルに貨幣化され、それを(b)エンカクには信頼で組織化するのだろう。そして呪物商品は、国家幻想と女に関係を持つ。女はそれ自体が呪物商品化されるというか、先日、高島先生の盗賊皇帝の話を読み直しながら、女こそ(c)リャクダツ品なんだなと思いを深めた。しかし、女は物ではない。そのあたり、女の、女集団の意識化がある。
このぼんやりした思考とパラレルに、ウッフィーの貨幣化について考えた。基本的にはそんなものはないだろうと思うし、ベネトンの話などは要するにバイラルなのだが、なぜウッフィーが貨幣ではないかといえば、(イ)貨幣は匿名化されなくてはならない。では、なぜ貨幣は匿名なのだろうか? 信頼と呪物の関係において匿名の意味はなにか? 直感的には交換の本質から出てくるのだろう。
ところで、このあたりでさらにマルクスの労働の価値について再考する。いろいろ考えたが、ようするに(ウ)労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。呪物の呪術性を媒介として、使役の公平な交換性としてあるのだろう。というか、これは社会生物においてごく遺伝子的なレベルでフレームワークは存在するのだろう。つまり、生物種の持つ社会的な使役の交換の必然がどのくらいかによる。
これは、当然ながら、公平を権力化した使役との対照に置かれる。しかし、国家の権力の幻想も実はウッフィー的な幻想の(d)イタクではないのか。そのあたりで、ウッフィー=貨幣という考えそのものが間違っていることに気がつく。おそらく貨幣は貨幣なのだろう。
そして、(エ)貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。つまり、寄生的に国家の幻想に媒介してくる異質な富の集団こそが国家を幻視させる、あるいは、国家を家族幻想から引き離し、阻害する要因ではないのか。つまり、吉本隆明がいうような親族から王を疎外するのではなく、外部の貨幣が王を疎外するのではないか。より正確に言えば、(オ)家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう。
設問
(一)「貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。」(傍線部ア)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(二)「貨幣は匿名化されなくてはならない。」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか。説明せよ。
(三)「労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(四)「貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。」(傍線部エ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(五)「家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。(句読点も一字に数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)傍線部a、b、c、dに相当する漢字を楷書で書け。
a トウサク b エンカク c リャクダツ d イタク
少し水洟が出る。いよいよ花粉症だろうか。朝方、夢の気分を引きずりながら、また貨幣のことを考えていた。そしてソグド人のことを。そしてイスラム文化を。
(ア)貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。その信頼の形成方法が貨幣の作り方だと、なんとなく思っていたが、ではそれらと国家や国家の幻想とはどのように関係があるのか。そのあたりで、(a)トウサクしていた。
私は、なにかを考えるとき、反ヘーゲル・反マルクスの仮説を立ててみることが多い。あるいは反キリスト教・反ギリシア哲学。が、やはり、商品と呪物は決定的なのだろう。呪物商品が最初にローカルに貨幣化され、それを(b)エンカクには信頼で組織化するのだろう。そして呪物商品は、国家幻想と女に関係を持つ。女はそれ自体が呪物商品化されるというか、先日、高島先生の盗賊皇帝の話を読み直しながら、女こそ(c)リャクダツ品なんだなと思いを深めた。しかし、女は物ではない。そのあたり、女の、女集団の意識化がある。
まあ、それはそれとして。このぼんやりした思考とパラレルに、ウッフィーの貨幣化について考えた。基本的にはそんなものはないだろうと思うし、ベネトンの話などはようするにバイラルなのだが、が、なぜウッフィーが貨幣ではないかといえば、(イ)貨幣は匿名化されなくてはならない。では、なぜ貨幣は匿名なのだろうか? 信頼と呪物の関係において匿名の意味はなにか? 直感的には交換の本質から出てくるのだろう。
ところで、このあたりでさらにマルクスの労働の価値について再考する。いろいろ考えたが、ようするに(ウ)労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。呪物の呪術性を媒介として、使役の公平な交換性としてあるのだろう。というか、これは社会生物においてごく遺伝子的なレベルでフレームワークは存在するのだろう。つまり、生物種の持つ社会的な使役の交換の必然がどのくらいかによる。
で、これは、当然ながら、公平を権力化した使役との対照に置かれる。しかし、国家の権力の幻想も実はウッフィー的な幻想の(d)イタクではないのか。そのあたりで、ウッフィー=貨幣という考えそのものが間違っていることに気がつく。おそらく貨幣は貨幣なのだろう。
そして、(エ)貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。つまり、寄生的に国家の幻想に媒介してくる異質な富の集団こそが国家を幻視させる、あるいは、国家を家族幻想から引き離し、阻害する要因ではないのか。つまり、吉本隆明がいうような親族から王を疎外すのではなく、外部の貨幣が王を疎外するのではないか。より正確に言えば、(オ)家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう。
設問
(一)「貨幣は一種のインナーグループの信頼から生まれる。」(傍線部ア)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(二)「貨幣は匿名化されなくてはならない。」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか。説明せよ。
(三)「労働というのは他者への使役の蓄積として貨幣化される対価なのだろう。」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(四)「貨幣と国家の幻想のあいだに、富を生み出す集団が寄生するというのは、実は寄生ではなく、国家というものの本質ではないのか。」(傍線部エ)とあるが、どういうことか。分かりやすく説明せよ。
(五)「家族と王権の差異に疎外性があるのではなく、ある家族的な王権が交易的に存在するとき、外部の貨幣集団の寄生的内在が不可欠になるのだろう」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、百字以上百二十字以内で説明せよ。(句読点も一字に数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)傍線部a、b、c、dに相当する漢字を楷書で書け。
a トウサク b エンカク c リャクダツ d イタク
立憲主義とは権力の制約のあり方の話で、絶対主義と対置されるべき物である。
民主主義とは権力の所在の話で、君主主義と対置されるべき物である。
立憲主義と民主主義は、絶対王政から市民の多数派へと権力を移行させる過程で発展して来た。
王権神授説を前提とする絶対王政に対し、貴族達が、立憲主義により王権を制約した。
立憲主義により弱体化した王・貴族から、市民が、民主主義によって権力を奪取した。
そういうわけで、今は立憲民主主義が多くの国で採用されるところとなっている。
立憲主義はいかなる権力であれ制約するので、民主的権力に対しても制約的に働くからだ。
立憲主義がもとより王や貴族から権力を奪うための手段に過ぎないと考えるならば、民主化が達成された今日では、もはや立憲主義は廃止すべきとの考え方もあるだろう。
しかし、民主主義体勢下の権力にも抑制が必要であると考えるならば、なお立憲主義は必要な枷といえる。
さて、民主主義というのは全国民による統治を理念として掲げているが、実際には多数派による統治に過ぎない。
「最大多数の最大幸福」は、最大多数に含まれない物の存在を前提としている。
一人の王、数百人の貴族による統治に比べれば、国民の半数以上による統治が「大幸福」を導くことは明らかであろう。
多数決原理よりも多数に権力を行使させうる現実的な手段が見つからない以上、多数決こそが「最」大多数の「最」大幸福を実現する手段である。
しかし、そうであるならば、民主主義によっても少数者の幸福は実現されない。
多数派が行う少数者への配慮などというのは、国王や貴族が国民に対し道徳的(あるいは自益的)見地から善政を布くことと原理的に相違ない。
立憲的でない民主主義体勢下の少数派は、絶対王政下の国民が善き王を期待するのと同程度にしか、幸福を期待できない。
多数派がひとたび牙を剥けば、少数の共産主義者やユダヤ教徒は迫害され国外に逃亡する他なくなるのである。
民主主義は、少数派の犠牲の元に多数派の幸福を実現する危険を孕む。
多数派の幸福のみならず、社会全体の幸福さえも、少数派の犠牲によって増大しうる。
「社会全体の利益のためには、一部の人々が犠牲になっても良い」と考えるならば民主主義を採れば良い。
そう考えないならば、立憲民主主義を採れば良い。
http://anond.hatelabo.jp/20090402020114
意外に思うかもしれないが、
日本というのは、個人性の強い文化なのだ。
とりあえず、Wikipediaの「爵位」という項目を読んでみてくれ。
欧州の爵位に共通しているのは「爵位」という名誉は何らかの貴族の家系そのものに対して与えられているのではなく大本の爵位(官職)が担当する行政区域(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているもので、爵位の保持とは言い換えればこうした領域の保持の事という点である。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を実効支配する人物こそが爵位を名乗るに相応しい人物という形になる。
こうした点は家柄そのものに与えられる称号である日本の爵位制度とは大きく異なるため、注意が必要である。例を挙げれば、ある一つの家が複数の爵位を保持している状況は日本においては制度的に考えられない。しかしヨーロッパの場合はその爵位の担当する所領を保持していることが爵位の保持と同義であるから、ある家が7つも8つも爵位を保持していることは全く珍しくない。こうした複数の爵位を保持する家の場合、もっとも重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることすらある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B5%E4%BD%8D
「神のもとの平等」という建前のある西洋では、
「高貴さ」は王権神授説的な「神の代理人」として合理化されており、
「立場」に由来しているものとされている。
(あくまで建前上の話である)
一方、日本では、「現人神」がいたり、「生き仏」がいたり、カジュアルな「ネ申」だっているわけで、
神性を含む「高貴さ」は、「血統や個人の振る舞い」に由来している。
つまり、西洋に比べ個人性が強いのである。
だから、元増田がいうような
「総理大臣とは役割である」という考えは、
日本ではそもそも馴染みがないのだ。
あるいは一般論で言えば「ノブレス・オブリージュ」でもよいが、
「高貴なる個人が、そうでないものを導く」という価値観である。
それが「ニュータイプ」だったり「イノベイター」だったりするわけだ。
(追記注:西洋的にはノブレス・オブリージュは「高貴な立場にある人間が・・・」であり、個人性は建前上、消されている)
こういったものは建前上、西洋では受け入れられない。
つまり、
「高貴さは、その人個人に由来するのではなく、立場に由来する」
ということにしているのだ。
日本はそうではない。
王権神授説的な
「高貴さは、その人個人に由来するのではなく、立場に由来する」
という考えは輸入しなかった。
日本では、「高貴さは、その人個人に由来する」のが当たり前であり、正義なのだ。
今までの話を一般化すれば、
「日本という物語は、個人を神格化することで受け継がれている」
ということになる。
だからこそ、「総理大臣とは役割である」という考えは、
日本では建前にもならないわけだ。
やっと言いたいことがわかったのでまともに話ができるかもしれん。
俺はその反論1の質にしか興味がない、というか、その例1を引き出すための挑発として最初の質問を仕掛けてる、という側面があるんだよね。で、案の定真っ先に例1で応じてんだから世話がない。
だったら釣られた俺が馬鹿だったし、あんたも相手を間違えた。それだけのことだな。
あと、興味はないとはいえ一応指摘しておくと、その例1例2例3といくつも用意するやり方においては、例1と例2と例3が矛盾対立するようなものであってはならないはずだろう。でなければ、ためにする議論になってしまう。話者に一貫したスタンスというものがなくなってしまうからね。
言いたいことはわかる。ただし、俺のスタンスはいわばメタなもので、「この前提は絶対に正しいからまず認めろ」というのがまず嫌なんだよ。むしろ、「あんたが絶対と信奉している価値観は別に万人が無条件に認めるような絶対的なものではない。あんたと相対立する価値観にもそれなりの合理性があるはずだ、例1、例2、例3など。さて、どこを議論の出発点にしようか?」ということを誰に対してもまずやる。逆に言うと、俺が信奉している価値観を正しいと押し切る根拠なんてどこにもないと思っているから、価値判断の源泉については「見せろ」と言われなければ見せない。宗教論争になるのがいやだからね。
ちなみに、こんな話もある。細部は違ったかもしれん。
釈迦が人に「神はいるのか」と問われて、「いない」と答えた。ところが、次に人が来てまた同じことを問うたとき、「いる」と答えた。これを見ていた弟子が「どうして矛盾する答えをするのか」と問うと、釈迦は「あの二人が『神』という言葉のもとに思い描いていたものは違うではないか」と答えた。
別に自分を釈迦と並べているんじゃなくて、「神」の定義が違う人間が二人で言い争うのは嫌だということね。相手の土俵を推定して、相手の土俵でものを言わないといかんだろうと。
あんたに納得してもらいやすい話を選んだつもりが裏目に出たというだけだよ。正直、あんたのことを当初の言動から「学校の勉強なんか役に立たん、英語とコミュニケーション能力だけがあればよいのだ!」的な反知性主義者だと想定したもんでね。さすがにそれが釣りだとは想像できなかったが。
俺が言いたいのは、あなたのように公平性を重んじる価値観からは、英語を採用する理由は全く出てこないだろうということ。言語の性能(性能というより習得の容易さだな)はその中の例示の一つにすぎない。
廃止と言わぬまでも、量を減らせとは言っただろう?なし崩し的にゼロになってしまう論法だから反対したわけだ。正直、「上を下に合わせさせる」というのは暴力的だと思う。
「情報工学」全般の話をしているのに企業社会だけを想定する必要などなかろう。大雑把な言い方をすれば、大規模情報システムだけがITの全てではないということだ。
だいたい、Cやアセンブラが使える人間がJavaやらC++を覚えて標準的な書法で書くことは、好き嫌いはともかく本質的には難しいことではないわけで。道具の使い方を覚えるということに対して「必要があればやるけれど、必要がなければやらない」というのは非常に当たり前の立場だと思うがね。
で、どのC++のクラスライブラリが重いというのか、とか、C++とFORTRANについての議論については、君は全面撤退ってことでいいのかな? 具体的に質問に答えなくなっちゃったからなあ。
どっちでもいいよ。だいいち、数値解析の専門家がC++で書いたコードと普通の数値実験屋がCで書いたコードの性能の比較なんて問題は非常に枝葉末節じゃないか?そもそも、「普通の数値実験屋」がどういう奴かという範囲の取り方でいくらでも恣意的な結論が出てくる話だから、議論して実になるとも思えない。
そもそもそんなことを言えば、FizzBuzzすら書けない奴がCで書いたコードより速いコードをPerlなんかで書くことさえできてしまうかもしれないが、そんなの別に自慢にもならないし、(たとえば)数値計算でPerlを使っていい理由になんてならんだろ。俺も論旨を混乱させた責任はあるが、そもそも話がずれすぎている。俺が言っているのは、「速いコードを書くことが理論的に可能かどうか」ではなく、「速いコードを書くために本人が持っているべき素養」の話をしているわけで。
そしてそもそもこの話自体「素養」というものが必要か否かという点から分岐したものだから、その意味でもこの話は必要なかろう。
以下蛇足。
あと、ギリシャの民主主義については明確に誤解。ギリシャに伝統を引いてくるのは反王権主義者が持ち出した大義名分的なものであって、明治維新で倒幕派が天皇を担ぎ出したのと同じこと。
それ相当偏った歴史観じゃね? ためにする反論なのか、それとも本気なのか、どっち?
俺はむしろ君の方が相当偏ってると思うけどね。だって古代ギリシャの民主政が途絶えてから一体何年経ってたわけ?それに、市民革命の基盤になったのはむしろ封建議会の方なわけで(これもいちゃもんはつけられるけど)、これはむしろゲルマン文化のはずだよ。それをどうギリシャ文化の伝統と理解するのかかなり不思議。明治維新だって王政復古を唱えていたが、どう考えてもあの政体は西洋からの輸入品でしょ。同じことだよ。あんな政体が歴史上日本に存在したことはなかった。なんで戦前、あんなに後醍醐天皇があんなに高く評価されたと思う?
いや、貴族階級は言いすぎだろ。市民階級でいいと思うんだが、そこは。元々民主制って始まりはそういうもんだろ。惣とか寄合から近代民主主義を導けるというならやってみてくれよとしか。
ちょっと調べてみたが、貴族階級は余り適切でなかったようだ。そこは撤回。
導けるわけがないから聞いてるんだよ。ただし、始まりはそういうもんに決まっているが、それが本当に現代と連続性があるのか、と俺は聞いているわけなんだが。
そもそも、都市が自治を行うのはギリシャのポリスじゃなくても歴史的に普遍的な話なわけで(英語版Wikipediaを引いたら戦国時代の堺が挙げられていてびっくりした。さすがに思いつかなかった)、誤解してるかも知れないけど日本の江戸時代でさえ町役人って町人階級だからね。つまり、民主主義にとってはギリシャ思想が必要不可欠なものであるという根拠はますます疑わしいと思うんだ。だいたい、それを言い出したらアメリカはなんなの?あれこそ、草の根民主主義たる植民地自治政府の発展じゃない?
あと書き忘れ補足
あと、ギリシャの民主主義については明確に誤解。ギリシャに伝統を引いてくるのは反王権主義者が持ち出した大義名分的なものであって、明治維新で倒幕派が天皇を担ぎ出したのと同じこと。
それ相当偏った歴史観じゃね? ためにする反論なのか、それとも本気なのか、どっち?
ギリシャの民主政というのは市民階級(貴族階級と言おうか)だけのものであって、そんなことを言えば日本の惣とか寄合の方がよほど民主的かもしれない。
いや、貴族階級は言いすぎだろ。市民階級でいいと思うんだが、そこは。元々民主制って始まりはそういうもんだろ。
惣とか寄合から近代民主主義を導けるというならやってみてくれよとしか。
未熟なハンターは迷惑なだけじゃなくて危険なんだよな。人を間違って撃つおそれがあるから。
ネット見てると疑似科学叩きとか歴史修正主義叩きとかやってる人がいるけど、後者はともかく前者についてはそういう意味で俺はかなり苦々しい思いがあるんだよね。なぜなら、疑似科学ハンターやってる人間自身が科学的思考法をろくすっぽ理解してなかったりして、これもまた科学哲学をろくに理解してない「科学主義者叩き」の温床になってたりする。で、そういう奴らが科学であろうと歴史学であろうとあるいは科学哲学であろうとそういう分野への偏見を増殖してるんだから、専門家にとっては迷惑この上ない話だよ。
それで、君は何が目的なのかな?ウヨあぶり出しとか言ってたけど、わかっててわからんふりをしてるのか、本当にわかってないのかどちらなのか。
俺が言っているのはあくまで「君の意見には反論がいくつも考えられて、たとえば例1、例2、例3・・・」という話だ。君はその中で、俺が「例1」まで言ったところでそこに延々と噛み付いて、それを元に反動主義者だとかウヨ認定だとかしてくれてるわけだよね、俺に。正直、確かに「例1」は粗雑な議論なんだが、自己啓発厨やネトウヨみたいな反知性主義者なら一番簡単に料理できる論法なんだよ。ところが君は反知性主義者じゃなくて素朴近代主義者だったわけで、その意味ではかえって逆効果だったかもしれん。ただそこを見誤ったというのはディベートの戦術としての問題ではあっても、勝ち負けで議論しているわけではない俺としては別になにも痛くないわけだ。
これがわからんのだったら、正直本気で頭が悪いと思うぞ。君はswitch文で最初のcaseに引っかからなかったらswitch文を抜けると思ってるのかね?
で、いつまで撤回した仮定を引きずるわけ?w
つまり、君が絡まなくなるまでだ。
別にITに限ったことではない。だが、英語である必然性はないと言っているんだ。むしろ、近代科学の初期の頃にラテン語が用いられたことに比べてこの点では退歩している。英語という言語は公平ではないし、習得が容易なわけでもないんだから。
ナショナリズムの浸透によって各国で自国語が用いられるようになり、第二次大戦の時にヨーロッパの有力な科学者がこぞってアメリカに亡命したことが結果的に英語一極支配を作ったというだけのことだ。つまり、英語支配というのはアメリカのナショナリズムの勝利ということなのだ。
で、それを「韓信の股くぐり」で受けいれるというのなら俺は反対しない。しかし、文化資本(英語も文化資本あるいはそれと類似の構造の産物だぞ?)による階層格差を否定する君が、「英語帝国主義で構わん」というのだから、これは明らかなダブスタだろう。それを俺はおかしいと言っているんだ。
底上げをすることと、古典をやめるなどして内容を減らすことは全然関係がないだろう。それからもう一つ、俺は「普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンする」なんて話は一度もしていない。
それは、特にアセンブラが必要でもないケースでか? ちょっと勘弁して欲しいなw まあ仕事としてうまくやれてるならそれでもいいけどさ、特殊ケースだろ?
特殊ケースじゃない。大多数の人にとって計算機やプログラミング言語というのは単なる道具だからだ。字を書いてる人間はいくらでもいるが、みんなが書道を習っているわけではないというのと同じこと。計算機自体が目的ではないのだから、不便を感じなければ勉強しない、他にすることはいくらでもあるという人は多い。だから、それ以上の領域は趣味と考えるべき。その意味で、明らかに筋の悪い無駄なコードを書かないようにするための感覚だけが身に付いていればそれでよしと考えるのは割と普通のこと。
以下は枝葉末節。
具体的に挙げてくれる? 君の議論の最大の弱点って多分具体性がないことだから。
いや、君の「役に立つ」の基準がわからんと、また筋違いな方向から噛み付かれるだろうからうんざりしてるんだよ。君は何をもって「役に立つ」としているのか、それを挙げてみてくれ。率直に言えば、普遍的な観点から「役に立つ」なんて断言できるものはほとんどないと思うが(洋の東西を問わず)、絞ってくれれば答えもできよう。
そりゃ「影響」はしてるだろうがな。別にキリスト教の神である必然性などない。/いや、親鸞の書いたものは当然古語で書かれてるでしょ?
一神教文化圏で「神」といえば論理的に当然限定されるわけだが。まして、冠詞がある欧米語では"the God"のようにそのことは明示される。で、日本の古典というのは君にとって親鸞以外読む価値がないのか?ちなみに親鸞というのはむしろ江戸時代以前の過小評価の反動で明治以降に過大評価されているんだが。正確に言うと過大評価というより、君のような近代主義者が、日本にプロテスタンティズムの代替物を無理に求めた結果親鸞を再発見したということだ。
いや君がニュートンを引き合いに出したんでしょうに。民主主義に関してはギリシャにまで遡って意義深い書籍を見つけることは出来るだろうなあ。
さすがにニュートンより古いものを引用する奴はいないからなあ(ガリレイとかならあるかも)。あと、ギリシャの民主主義については明確に誤解。ギリシャに伝統を引いてくるのは反王権主義者が持ち出した大義名分的なものであって、明治維新で倒幕派が天皇を担ぎ出したのと同じこと。ギリシャの民主政というのは市民階級(貴族階級と言おうか)だけのものであって、そんなことを言えば日本の惣とか寄合の方がよほど民主的かもしれない。
いや、空気は王と言うより神か。
まぁいいや。それは単に王権・権力のあり方のバリエーションがある、ってだけの話だろ。王様じゃなくて貴族会議が統治してるのかもしれないし、生徒と二級生徒(c)蓬莱の二分なのかもしれない。問題は階層の断絶があり、そして暴力があたかも水が流れるように上から下へと流れていくことにある。
もちろん階層間流動はある、が階層自体が問題なのだし、移動が困難な個人/層もある、ということを忘れてはならない。
(このさい本家インドのカーストは世襲制でスクールカーストは移動できるんだから云々の話は省く。たとえ話をたとえ話であると理解できない人はry)