はてなキーワード: パン屋再襲撃とは
小学生:
(これ以外思い出せん)
中学生:
悲しい予感(吉本ばなな) 模試か何かの試験問題になっていて、何故だか刺さった。小説っていいなと初めて思った。
高校生:
大学生:
グラスホッパー(伊坂幸太郎) 講義室の忘れ物を勝手に読んだ。面白かった。
室井佑月の何か
田口ランディの何か
森博嗣のS&Mシリーズ、四季シリーズ、Gシリーズの一部
人間失格 (太宰治) 見栄を張って、全集借りてきてここだけ読んだ
龍は眠る、レベル7 (宮部みゆき) 嫌いな小説がある、というのを宮部みゆきで初めて経験した。
慟哭(作者思い出せん)
思い出トランプ(同上)
社会人:
伊坂幸太郎の色々(ゴールデンスランバー、モダンタイムス、チルドレン、サブマリン、マイクロスパイアンサンブル、アイネクライネナハトムジーク、砂漠、ラッシュライフ、オーデュボンの祈り)
吉田修一の色々(太陽は眠らない、森は生きている、怒り、悪人、横道世之介、静かな爆弾)
原田マハの色々(楽園のカンヴァス、暗幕のゲルニカ、たゆたえども沈まず、キネマの神様、本日はお日柄もよく)
赤い竪琴 その他色々 (津原ヤスミ) 図書館で赤い装丁の本が気になって手に取ったのがきっかけ
グレッグイーガンの何か ここで薦められた奴
命も要らず、名も要らず(作者思い出せん)
博士の愛した数式(同上)
花戦(同上)
老人と海、武器よさらば(ヘミングウェイ) 上司がなんか言ってたから読んだ奴
サリンジャーの何か(バナナフィッシュ云々が収録されてるヤツ) 漫画のバナナフィッシュを昔読んだのをふと思い出して読んでみた
もっと読んでるはずだけど、なかなか思い出せんな。
漫画とゲームとエロ動画にはもっと時間割いているけど、結構読書家じゃろ?
https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801
村上春樹の作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちとしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間が村上春樹の真似したら中身がない駄文にしかならないって小学校で教わらなかったのか。
つーか村上春樹の文章は別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。
というこの3点が村上春樹の文章でもっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレと解釈しうるものも混じるので注意。
実例を挙げてみる。
四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。
正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。
1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージが閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの他外多いからな。ここでの「他外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。
また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章の連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章を音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである。
つまり、別に「うまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉はあんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。
とはいえ、個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹が発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやすい文章で圧倒的リーダビリティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策を村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。
で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である。村上春樹の比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当にパラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。
そして何より、「100パーセントの女の子」である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。
こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹の小説は比喩・モチーフ・物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。
じゃあ、「村上春樹の作品はふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹の作品には「答えがある」ものが、地味に多い。
たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性と出会い、ふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人とセックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。
だけれど、この作品の問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファーの可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばしてしまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである。
その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFOが釧路に降りる」でふわふわとゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教に勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。
勿論、これらはあくまで「そういう解釈が可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け』自体が断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルでガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。
たとえば、『ノルウェイの森』で主人公が自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品の主人公が「普通」なわけない。基本的に信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。
(なお、なんなら村上春樹が自分の作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)
ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品のなかにはある。
このように、村上春樹のメタファーやモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである。
増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分が作品をちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから「村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。
……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタのひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。
たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間が経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。
だから、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから。
マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田の元ネタは加藤典洋と石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。
「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。
小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章がうまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章」であるはずだ。
じゃあ、増田が考える「(小説の)文章がうまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章がうまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージの情報量が多いってことだから。
具体例を挙げてみる。
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そのころのマコンドは、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』の冒頭。大佐が子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。
津原泰水『バレエ・メカニック』1章ラスト。昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親が世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。
「お父さんは?」
「ここにいる」君はおどける。
「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」
彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」
理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ、自分が腰掛けていたのが青山通りと 表参道が形成する交差の、一角に積まれた煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。
作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せな笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこから生まれる余韻の美しさですよ。
あるいは(佐藤亜紀『小説のストラテジー』からの受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説のラスト。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
ふわーっと情景描写がホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間や空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである。
散文として時間や空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章がうまい」と認識する。自分が村上春樹の文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。
村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味で村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的な私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。
日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話やモチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現がうまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章がうまい」と表現しうるとき、もっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイは面白い」と言及されることと無関係ではない。
ちなみに、増田は津原泰水やナボコフの文章技巧には翻訳を村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。
ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述の運動」を増田なりに表現したもので、元ネタは佐藤亜紀『小説のストラテジー』です。