はてなキーワード: 落語家とは
食レポで行きつけのラーメン屋を紹介するっていう話で、かなりの大御所落語家さんがゲストだった時のこと。
細身で筋肉質な人なのでラーメンなんて食べるものだろうか?と、かなり懐疑的にみていたというのはあった。
よく女性芸能人なんぞが体型維持だかなんだか知らないが出されたもの手に持ったまま食べる気配を見せなかったり、一口かじるだけでそのままの食べ物がいつまでも画面に映り続けてたりして、あまり品がよろしくないと常々思っていたからだ。
ましてやラーメンなんてものはカロリーや塩分の塊のようなもので制限されている人も少なくない。
どうせお茶を濁す程度に食べて終わるのだろうと思って眺めていた。
そうして湯気立ち上るラーメンが運ばれてきて、まずは見た目や具材のレポート。
昔ながらなラーメンのシンプルさをさすがのボキャブラリで過不足なく褒めていた。
目を奪われたのはその直後、実食のシーンだ。
どうせ数本を申し訳程度にすすって終わりだろうと見ていると、おもむろに箸いっぱいの麺をもちあげたではないか。
予想を裏切られたことに驚きつつも顛末を見つめていると、その直後の行動の鮮やかさに本当に驚かされてしまった。
残りの麺をさっとどんぶりに戻した。
それで何事もなかったかのように「うん。やっぱりこの味だね。」というようなコメントを一言。
その流れが余りにも鮮やかで一瞬何が起こったのか把握できなかった。
何がすごいのかといえば、何より絵的にまったく破綻がないことだ。
上下させて不意にかじりつくので、意識的に見てなければ麺を戻したことにまず気がつかない。
そこにさすが落語家といわんばかりの啜り音だ。
ひとかじりしかしていないことなんて、おそらくその場にいた人すら全く気づいていないだろう。
実際隣で見てた嫁に「今の見た?」と聞いてみても、まったく何のことかわからないようなキョトン顔。
おいしく食べたに違いないと信じて疑ってすらいなかったのだ。
さらに実際にはわずかしか麺が口に入っていないのだから、箸を置くと同時にはじまるコメントにも淀みがない。
バカみたいに口いっぱいに頬張る姿を全国に晒す必要もないのだ。
行きつけの店なのだから別にしっかりと味わう姿を見せる必要もなくて、一言「この味だね。」が慣れ親しんていることに対する十分すぎる説得力。
そこから店主との昔話みたいな流れで食レポ自体は終わりなのだけど、当然ラーメンが出てきてそれを美味しそうに食べてみせるという絵がなければ馴染みってことの説得力は生まれないし、それこそ健康にでも気を使ってるのかなんて思われたら興ざめもいいところなわけだ。
思い返してみれば何をとってしても完璧だった。
落語家の師匠がテレビに出たいと悩んでいる弟子に対してこんな話をした。
1つ目は、美味い飯を食ったり、趣味に興じたり・・・自分だけで押せて幸せになれるスイッチ。
2つ目は、他人にほめられたり、他人に押してもらわない限り幸せと感じられねぇスイッチだ。
自分で押せるスイッチの喜びはささやかでわずかだが自分の好きなときに押せる。
とめどなく押してほしいと思うしやみつきになる。
押してもらえないと不安や不満が湧き出てくるし自信もなくなってくる。
次第にスイッチを押してもらうためならなんでもしたいと思うようになる。
そこでウケるためならなんでもやりたいと思うようになる。
自分の全てを売り払ってでも、とにかくスイッチを押してほしい!!ってな。
気がつくと大事なモノを失ってるかもしんねぇ」
「ど、どうすればそうならないんで済むんです?」
「分けるんだよ、お客さんに出すものと出さないものを。出すものが"芸"だ。
舞台に上がり続けたきゃ、ちゃんと"芸"を磨くこった」
http://anond.hatelabo.jp/20150416201757 へ
増田の悩みはとっくに解決済みなのだ。たった一行で解決方法を書くことができる。しかしいきなりそれを書いても素直には受け止められないだろうから、先にこんな話を紹介しよう。
「俺は入門する前から上手かった。とても上手かった。上手すぎて誰も俺の落語を理解できなかった。
稽古した結果、俺は下手になった。下手になったおかげで、客は俺の落語を理解できるようになった。
だが下手じゃ悔しい、下手なままじゃいけないと思って、もっと稽古した。そのおかげで、俺は人並みになった。
今俺は、人並みでいるために稽古している」
真剣に勉強すればするほど、自分の知識があやふやであいまいなものであることに気づく。実は自分が何も知らなかったことに気づく。
どんな分野でも、第一級の大家と呼ばれる人はみな、驚くほど謙虚なものだ。
それは彼らが、自分の業績が先人の膨大な遺産の上に成り立っていることを知っているからであり、未解決の課題が山のように広がっていることをありありと眼前にしているからだ。
責任感や使命感の薄さが目立ち、興味本位の生き方をしている傾向の強いタイプです。好奇心や本能的欲望に振り回されやすく、自分は今何をすべきかと云う事が、良く掴めていないタイプであるとも言えます。人は人、自分は自分と割り切っていて、他人の言動には、殆ど干渉しないでしょう。又、一寸変った面白い事でも有ると、すぐに付和雷同する傾向がある、御祭り好きの楽観主義者です。今後は、もう少ししっかりした目で、社会機構や自、他の言動と云うものを見直して行く必要が有ると思います。
趣味や嗜好、ギャンブルなどの延長線上に恋愛や結婚もあると云ったタイプです。うっかりすると、一体何が本命なのか、見当の付かないような事になり兼ねませんので、いい加減な考えで、恋愛や結婚をしない事が、貴方の為でもあるし、相手の為でもあります。貴方の場合は、恋愛や結婚と深刻なくらい真面目に取り組んで、丁度良い按配だと思います。
職業適性
無味乾燥な堅い職業を避ける事が、先ず第一です。例えば、警察官、刑務官、検事、判事、弁護士などのような治安や法律関係の仕事。キーパンチャー、オペレーター、単純労働者のような仕事です。貴方に向いていそうな職業は、落語家、漫才師、コメディアン、漫画家、エロ文学作家などに代表される、軟派の芸能、芸術、文芸家とか、企画宣伝などの仕事のように思えます。
対人関係
人付き合いにおいて、最も心すべき点は、人を騙したり、騙されたりしない事だと思います。自、他共に甘い点と、正義感に欠ける面が有って、自由奔放で我儘な貴方のようなタイプが、最も陥ち入りやすい弱点だからです。
お笑いについてはコンテンツ見れば見るほどハードル上がっていくんだろうね
お笑い芸人のトークとか見てて、この人本人ってムチャ沸点高いんじゃね
日常生活クスリとも笑わずムッツリして過ごしてそうだけど幸せなんだろうか
でもその孤独と渇望が新しいネタを生むのか。そりゃ落語家も自殺するよな
とか思う
異性の好みについては童貞の頃はワンピースみたいなくびれロケットおっぱいオンリーだったけど
貧乳ぽっちゃり。それもまた善し。とかだんだんストライクゾーン広がっていく感じ
そういえば音楽なんかも、聞いてるだけだとどんどん好みが先鋭化されていくけど
人とセッションしてくと課題曲こなすためにジャンル周辺の曲も聞いていくと
まあよく言う、本を読むだけでは知識は腐るとかそういう感じ
お笑い界には、約10年毎に「エース」と言われる存在が出現した。
これは業界内でも割と常識で、普段から使われている言葉でもある。
https://twitter.com/s_hakase/status/8555903607382016
この定義に照らすと、残念ながら、さまぁ~ず、雨上がり決死隊、くりいむしちゅー、ネプチューンなどは入らない。
具体的には、以下のような人たちだ。
(テレビ世代以降のタレントに限定し、落語家や噺家は含めないこととする)
比較的近い世代に固まることもあるが、おおよそ10年に一組は「エース」が出現する。
一時期は、ロンドンブーツ1号2号が最も近くにおり、特に田村淳の才能はエースたちと肩を並べるほどであったが、いかんせん芸を磨くことをしなかったために、中途半端にまとまりすぎてしまった。
そして、数年前にこのポジションに立たされようとしていたのがオリエンタルラジオだったが、実力を伴わず、本人たちも認めるように、それは作為的なトレンドであった。
今一番近いところにいるのはタカアンドトシかなと思うが、少なくとも現在のところ、ナインティナインほどの爆発的な人気とは言いがたい。
そのナインティナインもすでに40歳を過ぎ、次代のエースが待たれるところだが、ここ数年その気配を感じることはできなかったし、今後も疑わしい。
これは俗にいうテレビの衰退が原因だろうか。
1日だけそれっぽい気分になるだけでは不十分だと思って読むといいかもしれない本。
兵隊の目から見たいろいろの記録。落語家の話なのでいろいろ笑えて読みやすい。
戦争中に民間から出かけて山をさまよって終戦後は捕虜になって無事に戻れた人の現地記録。これを解説したのが山本七平の日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条でこちらから読んでもよい。
この時点で入手できた情報を全部集めて真面目に検討すれば勝ち目がなかったことはわかっていたという話。
戦争するには情報の集め方と扱い方を知らないとどうにもならないことを知るための本。
「江戸しぐさ」の隆盛に危機感を覚えて、ふと”杉浦日向子 江戸しぐさ”でググって見た。
検索結果を見て軽い絶望を覚える。杉浦日向子のファンである事を表明しながら「江戸しぐさ」を褒めている人の多い事に。
検索上位に杉浦氏の著作から類推して「江戸しぐさ」は怪しいとしているblogがある(2007年に「江戸しぐさ」の怪しさを指摘している!)のが救いだが。
へたをすると歴史の捏造を確信犯的に行っている存在した証拠も無い「江戸しぐさ」と、考証を重ねた上で江戸時代を想う杉浦日向子氏のスタイルはどう考えても相反するはずなのに。
杉浦氏が存命ならば「江戸しぐさ」にツッコミを入れてくれただろうなと妄想するしかないのが悲しい。
そういえば「江戸しぐさ」がメディアに現れるようになった頃と、杉浦氏が闘病生活に入った時期が一致しているように思う。
落語が描く江戸の庶民の生活も「江戸しぐさ」は否定する。それなのに「NPO江戸しぐさ」に協力してる落語家も増えてきたらしい。
石川英輔も何やってるんだ。もうやだ。
プロレスという興行がある。
スポーツ風なんだけど、オリンピックの種目ではレスリングであり、プロレスはスポーツではなく、スポーツの技をおもしろおかしくアレンジして、敵と味方に分かれて、戦いをショーアップする何かだ。
当然、子供はそれを真似るわけで、技をかけあってみたり、どちらかがあらかじめ勝利するストーリーを描いて、お互いに演じあったりもする。
あえていうと、成熟したプロレスファンは、プロレスでは死者やけが人がでないこと、興行は連日続くので、善玉も悪玉も安全かつ翌日も興行できるようにお互いに配慮し合っていることを暗黙の了解とした上で、プロレスを楽しんでいる。
熟すほどにプロレスに精通していない子供が真似したらどうだろう。
最近はテレビ放映も少ないので、そんな真似する子供も激減したかもしれないが、お約束を理解していない相手に力を誇示するためにプロレス技を使ったら、きっといじめに近いものになるのではないだろうか。
あと、わざとけんかのようなことをする人はいると思う。当事者たちの間では、一種のプロレスであって、周りを面白がらせるためにあえて遊んでいる人。炎上屋といえばいいのでしょうか。
ネットの表層的な部分で発言している人の中にもいるだろうし、人前では複数人でわざといじめのような状態を楽しみ、当事者しかいないときに本音を話す。
そんな衆目を集めるための行動も部外者がかかわろうとしたときにお約束が通じない状態を体験して、いじめのような状態になってしまう。
続いてテレビで気軽に見ることができる娯楽のひとつのお笑いについて。
うっかりした勘違いを笑いに変換することもあれば、貧乏やだらしなさや見てくれを笑いに変換することもある。
あと、ことば遊びもそれになりうる。
笑いと不愉快は紙一重で、不愉快に近づくほど笑いの効果も大きくなる。
プロレスで死人やけが人がでない程度に激しく技を繰り出すのと同じく、訴えられたり消されない程度にきわどいことを触媒にして、笑いを構成するほうがより、お笑い芸人として面白いという評価が得られるはずだ。
しかしながら、お笑いにも構成作家がいて、面白さを増幅するストーリーを描き、批判を受けないようにネタを確認したり、許可を取っていたりする。
ラジオで落語家さんが、このテーマで20分で新作落語を考えてくださいと無茶をいわれていたときは、本当に切羽詰まった様子で、できた落語もそんなに面白くなかった。
高度なお笑い番組ほど、何人もの構成作家がバックに控えていて、より多くのリハーサルを行いつつも、何度も練習した様子を見せずに質の高いお笑いを作るものだ。
今のテレビで、許可もなくシロウトをドッキリにかけることはあり得ないし、放送できない。
一見、シロウトが笑われているようでもプロの劇団員や名の知れないお笑い芸人の卵がシロウトのフリをしている。
子供がお笑いの真似をすると、構成作家の創作もなく、リハーサルもなく、責任者のチェックもなく、お笑いの良くない部分が全開となった状態で、笑いが作られる。確かに笑いは取れるが、負の側面が多すぎるお笑いができあがってしまうのだ。
誰かを傷付けたり、失言であったり、暴言だったりする。お約束が守られていないお笑いも、いじめに近いものになってしまうのではないだろうか。
華やかな舞台で活躍する人たちは、人知れず練習しているし、ずっと舞台に立ち続けるための配慮があるということを断固として子供たちに教えたい。
https://twitter.com/#!/NATSU2007/status/201694249895477248
@akatukikuya そうはならないのが「非対称性」なんですよねー。「芸のためなら女房も泣かす」は歌舞伎役者や落語家のことらしいですし。結婚しても酒と博打と女の修行を積んで「仕事」に精進するのが男の生きる道。女は良妻賢母以外の道は許されないけどね。
男の生きる道が複数あって女の生きる道が一つしかないなら
だが、このフェミクラスターは仕事に生きる道しかないと言っている
これでは男も女も生きる道は一つしかないということになってしまい、
男は複数の道があるけど、女は一つの道しかないという言葉と矛盾する
前にこのフェミクラスターを論理的だと評している人がいたけど、
これのどこが論理的なんだろうか?
どこをどう読んでも論理的とは思えないんだが
「ネタにマジレス〜」って言うけどさ、場違いという意味でその言語を使ってるなら、ネタを言った方も相当な場違いだよ。
プロ(お笑い芸人とか落語家とか)は求められて(お金をもらって)ネタを言うのに、
でマジレスがきたら「ネタにマジレス〜」とか言って相手のせいにする。
ていうか何様だよお前。
ゴミみたいな人生しか送ってこなかったお前に、真正面から向きあってくれたんだ。
そう思うと、マジレスしてくれた人の方がよっぽどネタとしては上質じゃないか。
なんといってもゴミにマジレスだもん。よほど酔狂じゃなきゃ出来ないぜ。
気に障ったんならさぁ、「ネタにマジレス〜」とかお決まりの空気に頼って逃げてないで、
お前の言葉で、お前の笑いのセンスで、真正面からマジレスを打ち返せよ。
マジレスしてきたヤツを攻撃するでもなく、自分のカスみたいなプライドを守るでもなく、
それが出来るのが「面白いヤツ」だよ。
出来ないヤツはただのアホでワガママなだけだよ。そんなヤツが言うことが面白いわけないじゃん。
そりゃマジレス来るよ。