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やたら100点取る息子 そのカラクリに「自己肯定感上がりそう!」 優しさがにじみ出る「採点システム」
100点をたくさん取るようになった息子。そのカラクリとは…=太陽とケイコムーンさん提供
「3年生になって、息子はやたら100点を取ってくるようになった」。そうつづられたツイートに注目が集まりました。ただ、100点にはちょっとしたカラクリが。投稿した母親に話を聞きました。(withnews編集部・河原夏季)
【画像】100点のカラクリとは?話題のツイートはコチラ 息子がテストに描いたネコの絵にも反応が!
答案を見て気付いたことは
話題になったのは、太陽とケイコムーンさん(@amazakeiko)が4月21日に投稿したツイートです。
100点を量産する息子。しかし、答案用紙には何ヶ所か赤ペンの跡が。よくよく見てみると、あることに気付きました。
それは、「はじめに返すときには点数を書かず、全部直し終わったら100点と書いてくれる」採点システムです。
ツイートには「点数でなく学びを100点にしていくんですね!」「これは良いアイデア!」「自己肯定感上がりそうですね!」といったコメントが寄せられ、「いいね」は4.5万を超えました。
学校が始まって2週間…あれ?
太陽とケイコムーンさんが息子の100点に気付いたのは、3年生になり2週間ほどが経ってからのことです。国語のテストが100点で、その後、算数も100点ばかり取ってくる状況に「あれ?」となりました。
当初は「学期の初めなので簡単なテストばかりなのかな」と思っていましたが、新しい担任の採点システムに気がついたときは「優しい先生なんだなあと思いました」。
1年生の時はよく100点を取っていた息子も、2年生になって担任が変わると採点基準が厳しくなり、数字の書き方や漢字の止めはねなどで減点されていたそうです。
時々ランドセルのサイドポケットの奥から、「限界まで小さく」たたんだ答案を見つけることもありました。
「正直ちょっと答案を開くのが怖かったです。ああ隠したかったのかーと思いました」と笑う太陽とケイコムーンさん。息子は、「見えないようにして、なかったことにしたかった」と話したそうです。
ほとんどは70点前後で、算数の文章問題やきれいに書くことが難しい漢字などが苦手のようでした。
ただ、必ずしも厳しい採点が悪いとも思いません。
「『こんなに厳しく採点するのは2年生までです。いまは基礎を固めるときなので、細部もチェックします』と個人面談の際におっしゃっていました。この先生のおかげで、息子は字をきれいに書けるようになり、硬筆の書き初めで賞をもらえました」
「まーた100点でーす!」
3年生になって100点を取れるようになり、息子はまたテストの結果を見せてくれるようになりました。
「まーた100点でーす!」とふざけることもあるそうです。
回答に時間がかかっていた宿題にも変化がありました。「すらすらっと簡単にやっているように見受けられます。緊張感が解けたような感じです」
歌だのギターだの、自己表現が好きなくせに自己肯定感がとにかくダメで、昔からことあるごとに「俺はやることなすこと全てがクソ、死んだほうがマシ」みたいな感じなんだ
ある程度具体的な数が増えれば自己肯定感上がるんじゃねと思っていろいろやってたけど、チャンネルの登録者数なりカラオケの点数なりが増えても「実際はゴミなのに数だけ取れてしまうのはクソ、死んだほうがいい」が思考のメインを占めるようになっただけなので、これは具体的な他者評価うんぬんではどうにもなんないっぽい
器にデッカい穴が空いてるような感じで、注いでもダメなんだな
じゃあ俺はどうすればいいんだ
私はこれまで、人並みかもしくはそれ以上に女性経験を積んでいて、自分がモテないと感じたことはなかった。
むしろ容姿を褒められる事もあるので、モテる部類だと思っていた。
しかし、マッチングアプリを使ってからは、そんな自信を失うことになる。
それはマッチングアプリのプロフィールに記載しなければいけない項目だ。
マッチングアプリには、検索機能があり「数値化された」「カテゴライズされた」項目を選択して相手を選ぶことができる。
また、相手がどんな性格で、どれだけ相性が良いかという事柄は一切関係なく、プロフィール欄の数値化・カテゴライズされた項目で見切りをつけることができる。
このために、私のたった1つの欠点だけで、マッチング対象から外されてしまうのである。
リアルの恋愛においては、理想のスペックとは違うけど、性格や相性が良いため恋に落ちるということは頻繁にあることだ。
マッチングアプリにはそれがない。
そのため、私は数値化された世界では簡単に足切りされ、出会うことができないのである。
自信を持って生きてきたのに、自分を否定された気持ちになってしまう。
高かった自己肯定感を返せ。
38歳ゲイ。
友達は信頼できる友達が2人いるから積極的に増やしたいとは思わない
趣味はハッテン場巡りと飲み(二丁目も行く)
見た目だけは良いから、誰か釣れるもんで自己肯定感高めたい時は利用させてもらってる。
どんどん世界が色褪せてきている。
酒もセックスも飽きるんだろうな
その時どうしたらいいんだろ
3人兄妹の末っ子です!年の離れた兄が2人います!って言うと「可愛がられて育ってきたんだね~」って言われるの地味に引っかかる。
母は4人兄弟の長女だったから、兄の方を贔屓にしてる感じがあるし、私が今まで過ごしてきた学校生活や進学も、既に兄が経験しているからあまり興味が無さそう。
私が中学生になった頃には兄も就職や就活をしていたから、食卓の話は専らそういう話ばかりでついていけなかった。私だけいつも黙っていたと思う。
兄は兄で「年上を敬え!」とか言いやがるから、私は本音なんて今まであまり言えなかった。兄妹喧嘩がしたかったのに、言いたいことが言えなかったから、一方的な「説教」になってた。
今は兄2人とも結婚して家出てるから両親とゆっくり過ごせるけど、兄がたまに帰ってくると私の居場所って無いなぁって寂しくなる。
この前は、兄2人の幼い頃の話で盛り上がっていた。私は生まれていないから分からなかった。寂しかった。本当は泣きたかった。
私が幼い頃から兄たちは先に進むばかりでもどかしい気持ちだった。ゲームや競走も負けてばかりだった。勝った経験なんて片手で数えるくらい。
これが理由かどうかは分からないけど、今は親の年齢に近い人とお付き合いしている。私の中でやり直しているのかな。
20世紀のオタクというのは、オタクとしてそれぞれの分野にのめり込んでいって、それなりのささやかな成果を得たとしても、それを以て自己肯定感を得たりとか、他人からの評価に結びつけて考えたりという物の考え方が全体的に薄かった様に思う。
オタクは男オタクも女オタクも露骨に馬鹿にされていた時代でもあったから、オタク趣味が私的な楽しみに深くつながっていて社会性と結びつき様がなかったので、それは当然の帰結だったのかもしれない。
そのうちに段々とオタク趣味を「生理的に受け付けない」年齢層(昭和の頃には電車内でマンガを読むことにすら嫌悪と軽蔑を感じる人達が大勢いた)が死んで黙っていくことや社会的実力を失って相手にせずに済むようになってきたこと、オタクたちも年齢が上がって全体的に社会的実力もついて行き、マジョリティにはなれないものの、かつては反発や嘲笑が恐ろしくてできなかった自己肯定的な主張が出来る様になってきた。
その段階になって、自己防衛的に個人や狭いオタク同士のコミュニティで閉じていたオタク趣味には社会性が強まり、オタクであることに対して自己肯定感が持てるようになった。 オタクも世間の嘲笑と軽蔑の視線を覚えている世代と、それが薄れてからオタクとなった世代に別れてきていて、前世紀に受けた嘲りを忘れられない古参オタクの自己肯定感(それは踏みにじられて素直に育つことの出来なかった自己肯定感だ)と、そうでない若いオタクのそれには、かなり違う肌合いを感じるのである。
21世紀の最初の10年はオタクにとっては坂の上の雲を目指す良い時代だったのではないかと思うのだけれど、今やその時代も既に終わり、オタク好みの趣味や表現物が再び卑しく反社会的と見做され、オタクそれ自身もまた卑しめられて当然という扱いに再び変わりつつある。
年収と婚姻率には明確な相関がある。この結果を見ると、多くの人は「年収が一定以上ないと結婚できない」とか、「年収が少ないことによって人々は結婚を諦めている」と主張する。おそらく、この推論は間違っていないのだと思う。しかし、その一方で、逆の因果関係もあったりしないだろうか、と思ったりすることがある。
社会の平均よりも年収の高いコミュニティとかかわることがある。そこに属する人々のプライベートを熟知しているわけではないが、知る限り、婚姻率は明らかに世間平均よりかなり高い。ややもすると、結婚しないという人生なんてこの世に存在しないかのような錯覚すら覚えるほどだ。
確かに、これは件の相関に一致している。しかし、年収の話を一旦忘れても、彼らはやはり結婚というものに対して親和性が高いように見える。彼らは、本来の意味での真っ当な自己肯定感を持ち、他者への思いやりがあるとともに良好な関係を築いている。もっと平たい言葉で言うと、他者を愛し、そして他者から愛される、そういう風に育ってきた人ばかりだ。間違っても人間や人間社会を嫌う人はおらず、むしろその社会ときわめてシームレスに馴染んでいる。そして、そういった他者や社会とのシームレスなつながりによって、高い収入を得られる複雑な仕事を着実に遂行している。
自分の回りの狭い世界の話でしかなく、何の根拠もないことは分かっている。ただ、このような状況を見ていると、逆の因果が部分的にも存在するのではないかと考えてしまうのである。結婚と親和性が高い性格因子を持つ人が、高い年収を得ているのではないか――
人生でいろんなことを失敗してすっかり引きこもっている。
チャレンジは全て何がしかの躓きにより満足した成果がでなかった。
完ぺき主義だとか自己肯定感が低いだとかいわれるだろうが、上手くいかないことに疲れてすっかり学習性無力感のような状態に陥ってる。
解脱には日常の些細な成功で自分をほめろと喧伝されるが、些細な積み重ねは中ぐらいのチャレンジの失敗によって容易に瓦解するのである。そしてそれは以後の小さな成功による心への報酬も減っていくのだ。何回もな。
今回私は、長年の無収入状態を解消すべく小額でも金を稼ぐ気炎が幸運にもチャージ完了した。
対人の仕事は失敗が目に見えているので、接触が少ない気楽な仕事を探した。
とりあえず1000円でも稼ぎたかった。やや流行が終わり気味だがコロナによる置き配の増加でそれなら店員との接触のみで終わるそうだ。
がぜん気持ちが上向いてきた。
小額でも金を稼ぐと言う行動が次への気力を生むと確信していた。
配達動画も見た。店員や客とのややこしい柔軟な対応も少なそうで機械的に行動できそうだ。
自転車も幸いある。
いよし、調べは済んだ。
後は実費がかかるバッグを買うだけだ。無職には初期投資というのは厳しいが、虎の子の蜘蛛の糸の4000円だ。
店舗受け取り…はコロナで中止、か。amazonでの販売…も終わった?
これだよ!この躓きが心を砕いてきたんだよ!
先に確認しろ?そうだね!でも働く気が失せるという結果は一緒だよ!
つど修正しろと人は言う…。もちろんわかる。でもね。失敗で倒れた人の再帰の一回ぐらいは何事もなく平穏に成功したいんだよ。一度思い描いたとおりに成功すれば、次からは自信がついて多少の躓きにも軌道修正もできると思うんだよ…僕はね…。僕は今、倒れているんだ。
僕はただトントンと上手くいく経験をしてみたいんだ。4000円払って自転車こいで300円をもらう。ただそれだけ。虫のいい話だと思うかい。失敗や修正当たり前かい。そうだろうね。でもそうじゃないときもあるんでしょ。僕にはそれはもう思い出せないんだ…。
わかってるんです。amazonで似たようなバッグを買えとか。デビットカードを発行してGoogle Payを経由すれば買えそうだとか。
でもきっとまた届いたバッグの質や大きさを後悔したり、思わぬ見落としで支払いできなかったりでやっぱり買えないとかになるんです。これが経験則からの予測ってやつですよ。熟練の技ね。Google Pay調べても非接触型決済の話ばっかり出てわかんなーい!これは失敗するヤツですぜー!
あーやだやだやだなんにもしたくなーい!
乳がでかいというか、デブ寄りなので乳もあるといったほうが正しい。
比較的不美人でデブで乳もある状態だと、人と比較しがちな思春期の頃などは乳があることに自分のアイデンティティを置いてしまっていた。それがルッキズムに包摂された結果だとか、後知恵の指摘はいくらでもできるが、とにかく自信のなかった思春期前後はデブだろうと乳があり、それが他者から求められることもあるという事実を嬉しく思っていた。
また、根暗陰キャなので美少女のイラストも好きだった。乳のでかいカワイイ女が描いてあると嬉しい。素朴にそういう気持ちがあった。
幸い、今は自分が生きる上で積み重ねたものによって、乳以外にも自分を大切にできるポイントがある。だから昔ほど乳をアイデンティティの置所としてはいないが、宇崎ちゃん前後に始まりたわわに至る巨乳イラストのバッシングは自分の気持ちとして少々苦しいと感じている。題材や文脈に対する不適切性を指摘されるのは仕方ないと感じるし現実にまなざしを受けるこれからの世代への配慮という論理は理解もできるが、まさに現実にあるまなざしによって救われた自己肯定感があると私は知っている。もちろん、乳がでかいことによって不快な思いもした。しかし私にとって、それは足し合わせて得点を出すものではなく、両方とも存在したのだ。そんな自己肯定感はまやかしだというのもわかる。ただ、自分を大事にするために、自分の足で歩いていくために自分が最初に握っていた自己肯定感は「乳がでかい」ことだけだった。
連呼したが、別に乳がでかかったことが重要なのではない。万人に対して正しいわけではないものに自分は救われた、救われてしまった、というような経験は、誰しもあるのではないかと思う。この気持ちの置きどころがなくて、ウロウロしている。