はてなキーワード: 寒いとは
==== 追記 ====
書いた直後に全然反応がなかったのに、今見たら色々コメントがついていて驚きました。
ブコメを読んだら、結構な数の人が怒っていて、私の中の善良な市民感覚が、「悪いことをしてしまった」という後悔の念を自然と抱かせましたが、落ち着いて考え直してみると、別にそう悪いわけでもないなという気もしています。とりあえず、これが率直なところです。
・「不快」で他人の発言を抑圧しようとするのを表現規制って言うんじゃなかったっけ
・自分の意思にそぐわないからと言って他人の言動を制限しようという発想かー。上手くいきそう?
・自分の不快感のために他人の自由を制限できると思ってるんかな
・不快に思うのは勝手だが、人の発話の自由を制限しようとするのは何様のつもりだろうと思うし、方言の利用を咎めることも更に最悪って感じがする(私は方言コスプレをポジティブにとらえている)
これらの意見は大きくは、自分の不快を理由に他人の行動を制限するのは駄目だ・許されていないという意見だと理解しています。この「制限」というのが、肉体的な拘束や洗脳のように、相手の権利を蹂躙するものならば許されないと思いますが、「不快だからやめろ」と言ったり、ネットに書いたりするのは全く正当な権利だと思っています(アホとかいうのは良くないですが)。こういう自由はむしろ私たちに与えられている非常に重要な権利だと思いますし、これを封じる方がよっぽど表現規制でしょう。一応誤解のないよう言っておくと、私は他人の自由を規制できるとは思っていません。ただ「やめろ」と言うのはありということです。
「上手くいきそう?」については、無理そうって感じです。本文に書いたように、たまたま「なんよ」に連続で遭遇した勢いで書いたので、見通しは特にありません。
・たった100文字のブコメでネイティブの「なんよ」と非ネイティブの「なんよ」の見分けがつくんか!すごいのう〜!うち岡山出身じゃけどようわからんわ〜!!日本人口のほぼ半分は西日本に住んどるって知っとる?
仰る通りで、つきませんね。ただ私の観測してきた「なんよ」使用者数からいって、ノンネイティブが使っているのは間違いないと思ったので、それらの人に届けばいいと思いました。誤算としては、私が思っていたより「なんよ」圏が大きかったことです。でも一定数のノンネイティブには届いたと思います。
他のブコメも含め、関西全域で使われているみたいな主張もありましたが、流石にそれはないんじゃないのとは思います。私は十年ほど関西に住んでいましたが、ほとんど出会ったことがありません。とはいえ私は交友関係が狭いのであれですが。局在しているってのが一番ありそうな気がします。
・「他人の言動に無思慮に追従してしまう主体性のなさへの嫌悪」「「なんよ うざい」、「なんよ 気持ち悪い」が上位に上がるので、軽蔑的な印象を持つ人はそれなりにいるようだ」露骨なブーメランだし釣りなんよな?
これはつまらない意見ですが、トラバにも同様の内容があったので返答しておきます。読めば明らかなように私は不快に思う理由をメインで書いています。そして、他人の意見を参照しているのは論理の補強のためです。つまり、他の人たちも嫌悪しているようだから、その嫌悪は必ずしも独りよがりではないはずだという論理です。これは普通に読めばわかることだと思いますし、こんなのは本筋からずれた瑣末な部分です。もうちょっと文章を大局的に捉える訓練をしては?
・他者への解像度を想像だけで上げようとするとそれは自分の投影になると思う。そういう人なのであろうという想像は自身の内面を紹介するような感じがするので私はしたいとは思わないかな。
==== 以上追記 ====
前から気になっているんだけど、ここ数年「じゃないんよ」とか「違うんよ」とか「必然なんよ」みたいに「〜んよ」と言う語尾(?)を使う人をよく見る。元々は九州とか中国地方あたりの方言なんだろうけど、そうじゃない人も多く使っていると思う。私はこの語尾が嫌いで、見聞きするたびに少しイラっとくるんだけども、今日はてブを見ていたら短時間に三度ほど見てしまって、これは警鐘を鳴らすべきだと思った。
この語尾を使っている人たちが、なんの影響で使い始めたかは知らないけれど(千鳥の影響だと推測しているが)、これは元々方言であって、ノンネイティブの人が使うのは問題ではないが、エセ関西弁と同じで薄ら寒い。ネイティブの人が使うのは別にいい。これは偏見という自覚はあるけども、私はこの言葉遣いをした時点でメタ認知能力に欠けたアホではないかと懸念を抱く。
「なんよ」を使っている人は以下の点について自問してほしい:
2. どのような人の前でそのような言葉遣いができるか?
1で無意識に流行り(?)の口調を真似て使ってしまっていたという人は、この機にやめてはどうか?小中学生の頃に、無意識に他人の口調や言葉遣いを真似したり、お笑い芸人のギャグを真似したりする人がいただろう。子供なら無邪気で済むかもしれないが、大人がしていたら見苦しい。あなたがしているのはそういう無分別な子供じみた振る舞いだ。
2については、そもそもカジュアルな言葉遣いだから目上の人には使わないだろうが、ただ、例えば立場としては対等でも、適切に自分を評価して欲しいと思う相手に、そのような言葉遣いをするだろうか?ちょっとアホっぽいからやめようと思わないだろうか?もしそうならば、あなたは一定の状況下ではアホっぽい振る舞いをしていたことになる。自分の言葉遣いがどういう印象を相手に与えるかにもう少し意識的になってはどうだろうか?
ここまで書いて思ったけれども、私が「なんよ」を不快に思う理由の根っこは、他人の言動に無思慮に追従してしまう主体性のなさへの嫌悪感にあるのではないかと思った。同じ特徴的な言葉遣いでも、例えば一人称に「おいら」を使ったり、語尾が「〜なのさ」の人にこれまで出会ったことがあるが、全く不快には思わず、単にそういう人なのだと感じた(多少面食らったが)。しかし、「なんよ」は私には同じような特徴としてではなく、自分が他人からどう見えるかを認識する能力(メタ認知能力)の欠如、他人と自分を簡単に同一視してしまう自他の境界の曖昧さとして映る。これが一面的な見方であることは重々承知しているけれども、限られた情報から他人を判断する必要上、一定程度は合理的だとも思う。私のような考えを持つ人がどれだけいるかは分からないけれども、google で「なんよ」と打つと「なんよ うざい」、「なんよ 気持ち悪い」が上位に上がるので、軽蔑的な印象を持つ人はそれなりにいるようだ。なんらかの強い理由がなければ今後は使わないで欲しい。
マイナーでほとんど知られてないような映画を答えると、ドン引きまでは行かずとも話題は広がらないしとても寒い空気になるので、ある程度有名で無難なものを言っておきたい、という気持ちはわかる。
映画でも音楽でもそうだが、本当に好きなものを言って「へー、そうなんだ〜…」で会話が終わるよりはまだ無難な答えのほうがましだと思う。
「それってどういうものですか?」と聞き返されたとしても、相手は社交辞令で聞いてくれているだけで一切興味無いだろうし、そこで長々と説明するのも申し訳ない。好き故につい説明が長くなってしまうだろうから。
勿論、マイナーな映画も知っている相手なら本当に一番好きなものを言う。そうではなく、単に会話の話題として出ただけなら、無難な答えを言う。
例えば、そこのあなた。「普段ネットで何見てます〜?」と話を振られて「増田見てます」と言えるかどうかですよ。「増田」の説明からしても相手はドン引きか「へ〜…そうなんですか」と寒い空気になる。「ニュースか猫の動画ですね」が無難ではないですか。そういうもんじゃないですか。
なんだか本当に急に寒くなってきて、
着ると見せかけてまだ着ないそんな着たら暑くなるかもの懸念も恐れなくていいぐらい、
なんだか本当にひんやりしてきたわ。
厚手の物1回洗濯しておかなくちゃね。
そうそう、
こないだね
駅ビルの地下に私が行ったことなくて不思議と引き込まれそうなほど魅力的なその小さなイタリアンレストランがあったの。
私はえいや!と
お店の前の手書きのチョークで書かれたメニューをお店の前からずっと見ていると
そうよあれよあれ、
トランペットに憧れてジャックスカードで割賦して買うあのショーウィンドーを覗く少年を彷彿とさせる
店員さんも警戒させちゃいそうなので一旦離れたんだけど
やっぱり行ってみたかったお店だったので
新たなる私の世界ふしぎ発見が最終回出終わっちゃうって街の噂だけど
一旦離れたけどやっぱり行ってみたいと思ったので
えいや!と私は飛び込み前転を決めてそのイタリアンのお店に入店したの。
もちろん
今回は本当に飛び込み前転を決めて、
私はこのお店に食べたい意気込みをお店の人に伝えたかったの。
1人客と3人組のお客さんがいて
テレビはお店の角のコーナーの上にある町中華テレビ設置ポジションスタイルでバリボーがやってたの!
バリボーの試合のテレビがそれをかき消すほどの活気と迫力で実況中継やってたわ。
向かいの1人のお客さんは
もう食後なのかコーヒーカップを片手にヒーコーを決めていて、
となりの3人組のお客さんは
2人はテレビ観戦して盛り上がっているんだけど
もう1人はテーブルに突っ伏して酔い潰れちゃってるのか分かんないけど
突っ伏して寝ちゃってるようなのよ。
酔っ払って気の毒だなって最初は思っていたけど
あまりにその2人が1人を気にしなさすぎて逆にそれが面白くなっちゃった端から見ていて。
私はお店が一番イチオシするメニューは始めてはいるから知る由もなかったけれど
なので聞く人ぞ聞く!
なぜか店内の冊子の表紙が皮になっているようなそれなんてギュー!いや牛皮?って言っちゃいそうな手触りのいい高級なグランドメニューの中身は
ラミネート加工されたページが連なっていると言う、
で、そのメニュー表にはないお店の外のチョークで書かれた看板に書いてないようなメニューのミートソースパスタを頼んだの。
もちろんルービーもね!
思わずニッコリよ!
そんでさ、
その1人突っ伏して寝ている3人組のお客さんが食べていた
あれどうやって注文しているんだろう?って
人の食べている物を見ると食べたくなっちゃうそれなんてピッツアマルゲリータ?って思わない?
また次の機会でそのピッツアマルゲリータを頼んでみようと思ったんだけど
やっぱりメニューにないのよね。
適当にイタリアン的なものを言ったら深夜食堂方式でやってくれるのかしら?
でもそのとき値段は気を付けて予め聞いておいた方がいいかもしれないビビリ体質だけれども
そそられるわよねー。
私はミートソースパスタとルービーですっかりご機嫌さんだったのもあり
また来店したいと思ったので
実はそこでミステリーハントが出来なかったって理由も半ばあるけれど
そのお店をネッツ、
インターネッツで検索してもぜんぜん違う時間帯で営業してるから
これはまったく信用できないインターネッツですね!って思ったので
あと1人テーブルに突っ伏して寝ている人にウーロン茶でも!って
そんであのお客様からですってバレちゃうと恥ずかしいし照れちゃうので、
その1人突っ伏してテーブルで寝ている人にウーロン茶が提供される前に私はお店を出たの。
まあ酔い潰れて気持ち悪くなってないか心配だったのは以降知る由もないけれど山脈に向かってヤッホー!って叫べたから良かったわ。
自己満足ね!
でもお店のイキフンや雰囲気はとても気に入ったので
また行きたいと思ったのよね。
あちらのお客様からです!って喰らったことはないけれど喰らわせちゃった記念日でもあるわ。
だけど
とてもここから遠いみかんの花咲く丘公園駅前からは遠いのが難点かなー
世界ふしぎ発見だったのよ!
うふふ。
まだね遅くにブランチでも決めようかしら?
まだ未定の予定よ。
いや予定は未定よ。
お水だけ飲んできたわ。
寒いけど、
時すでにね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
お前みたいなターゲット層じゃないキモオジが勝手に割り込んできて勝手に幼女でハスハスできない俺ら向けじゃないって文句付け始めるのクッソ寒いしキツすぎて草
「俺が悪い方向に想像してるだけで実物見たら結構ええんちゃうか?」
そんな淡い期待もあった。
いわゆる『動くとカッケェ』である。
でもそんなことはなかった。
空々しいリアリティ感。
まるで地獄先生ぬ~べ~の枕返しの回を見せられているようだ(妖怪によって平行世界の未来に飛ばされた結果、自分の見たくない可能性を見せられる話)。
「あの物語がこんな続き方をするはずがないだろ!何も理解できてねえなら作るんじゃねえよ!」
そう思いながらシリーズ構成を見た。
WIKIで調べてみる。答えが出る。ビビる。プリキュア5で担当してるのはシリーズ構成。この人こそが『原作』だ。
誰か止めるべきだったんじゃないのか。
無理やり肯定する言葉遊びの仕方はいくらでもあるけど、それをしなきゃいけないって時点で失敗だとしか思えない。
この企画は失敗だ。
プリキュアシリーズの弱み、それは「バトル描写に時間を割かれるためにドラマパートが希薄になりがち」ということだ。
おジャ魔女どれみであれば1分の変身と魔法シーンを除けば残りは全てドラマパートとして描ける。
「現実に起きた問題をどういった魔法で解決するか」は同時に、「現実の問題にどこまで魔法が介入して良いのか」というドラマに繋がっているのがおジャ魔女シリーズの強みだろう。
だがプリキュアはそうじゃない。
どんなドラマがあろうとその回に登場した怪獣・怪人はやっつけることになる。
敵キャラを殴り倒す流れの中で覚悟を決めるドラマはあっても、それは常に覚悟を決めるためのドラマであり、ソレ以外を描写できない。
おジャ魔女では20分使えたはずのドラマパートが、プリキュアでは15分や10分程度になってしまう。
ドラマの背景説明に5分ほどの時間を使うと考えれば、これはドラマパートが半分になったに等しい差があるのだ。
結果としてプリキュアというシリーズは自然と「濃いドラマを描かなくてもいい物語構成」へと傾いていった。
だがそれでいい。
「暴力によって外敵を排除すれば、あとは人間たちが持ち前の善性を発揮して問題が解決するような世界を描く」という明るく前向きで性善説的な世界観がプリキュアの持ち味だ。
この希望に満ちた感覚、「暴力による問題解決を主軸に起き、それに時間を割かれざるを得ない構造」という弱点をひっくり返し強みに変えたような雰囲気がプリキュアシリーズの強みではないか。
オトナプリキュアはそれを自分から投げ捨てるようなことをしている。
人間が勝手に解決するには大きすぎる問題が世界に溢れていては、プリキュアが世界を救うことは出来ない。
これは大失敗だ。
コンセプトを自分で破壊してみせることで一瞬の映えを得ようとするチャチな現代アート的思想。
これをプリキュアにはやって欲しくなかったな。
・仕事で使う道具を全然違う場所にしまうから他の人がそれを使いたい時に道具が行方不明になってて探す羽目になる
・仕事中にどこかに消える。なお戻ってこずに別のことをし始めるのでそれまでしていた作業は放置される模様
・消えたと思ったらロッカールームで私用の電話をしてたりする。別に具合悪い子供のお迎えとか緊急っぽい雰囲気でもなく普通に談笑してる。わけがわからない
・今来てるお客さんとは違う人に使うものを持ってくる。そういう取り違えが多い
・ミスを指摘しても、その人の不注意でトラブルが起きかけても本人は他人事みたいな顔しかしてこない。罪悪感とかないんだろうか
・寒い日に半袖で来て「寒いねえ」とか話しかけてくる。わけがわからない
お子さんが療育通いしてるらしいけど正直これは本人も……?と思ってる