はてなキーワード: か抜きとは
収入、労働時間、家事・育児の時間をある特定のパートナー間で男女平等にする必要はないし、そもそも不可能だよ。
上に挙げた事は、あくまで国や地域で平均した時に男女平等である事を目指しているわけであって、全家庭が仕事も家事も平等にやろうって事じゃない。
・男だから稼ぐべきとはしない
・女だから家庭を優先するべきとはしない
くらいのことで、結果的に「男が稼いで女が家庭」になっても、個人の意思や能力、得意不得意で決めたなら立派な「男女平等」だ。
よって、個人間で「割り勘したから男女平等」とか「残業しないし収入も低いから男女平等ではない」というのはおかしな話だ。
私の夫は働いていない上に家事は半分もしていないが、私はそれでも「男女平等」だと思っている。男とか女とか抜きにして私と夫の意思と能力で決めたのだ。
それでも夫のことを見下したりはしない。夫は夫で出来ることをやっているので、結果が私の1/10もなくてもそれでいい。個人を尊重するとはそういう事だ。
そりゃ使うだろうけど、そんな革新的か?って話。
AlphaFoldが昔は2年かけて決定してた構造解析を数分に短縮ってやつとか、次元の縮約には主成分分析と特異値分解しかなかったところに、新星のように速くて高性能なUMAPが出現したときの衝撃に比べると、便利だけどなんに役立つの?
って感じしない?
ジャンルにもよるけどさ、自然科学って、90年代2000年代には測定器の性能が爆上がり。しかし、吐き出す情報の数が桁違いになり情報を処理しきれなくなった。
すげーデータはあるけどまとめられない、人間が理解できるところに落とし込めないって感じ。
多変量解析だヤッホーい、コンピュータならそれができる!というムードだったけど、情報爆発に解析技術が追いつかなくて、結局、ちゃんと考えて実験しないとダメダメ
それが、2000年代から2010年代にかけて、実験の目的とか意味とか抜きに、「とりあえずディープでポンすりゃよくね?アクセスログとかに比べりゃ科学のデータなんかビッグでもなんでもねーから」って感じで、計算機科学の連中が革新的な技術をくれた。
でChatGPTに話を戻す。
でも、科学の世界で困ってることって、言語情報をどう処理するかじゃなくない?分野にもよるだろうけど。
ChatGPTをどう活用するかみたいな話が盛んだけど、営業ならコールセンターくらいやってくれるだろうけど、それ以上どうなんだろ。
結局、営業って、人脈と人の心にどう入り込むかで仕事してるでしょ?AIが接待ゴルフしたりしてくれるわけじゃなし。
採用面接や人事考査したり、だれをどこに配置するって決めたりは高いかもしれないけど、そういうのってホワイトカラーは絶対にそういう仕事を手放さないでしょ?責任をとるのは誰だ的な話で。
も無理。経理は置き換わるかだけど、経理ってそもそも入力が文字情報じゃない。会計ソフトで十分。
理屈とか抜きで使い分けれて使いこなしてる単語があるものだけどその理屈を、どういうニュアンスで使い分けてるの言語化と言われると難しいだろう。特に方言。
逆に初めて知ったのが書き言葉からだと、たとえば絵本程度であっても、その言葉のニュアンスを真に理解してる自信がないみたいなことある。
たとえば「それはたいそう美しい人で」の「それは」みたいなやつ。絵本とかで死ぬこと聞いてるので自分がなんか物語書くときでも構文して使い所はわかってしまうわけだけど、強調の意味なのだとそれっぽい説明もできそうだが、真のニュアンスってのはわからない。わからないままにみんなの使い方を真似てる感じ、という意味では発達障害がよくいう擬態に通じるものもある。
絵本で知るんじゃなくて絵本で使うような言葉も家庭で積極的に乳児期から話しかけに取り入れてられてれば結果は違ったかもしれない
元増田氏( anond:20230203192604 )の対応は大変誠実だと思うので、特に言及する事はないのだが、
表題のようなことを思ったのでつらつらと書く。 anond:20230205085517 みたいなこと言う人もいるし。
ベートーヴェンの交響曲だとバラ売り不可なのはどう考えても第5番だ(いわゆる「運命」。運命と呼ぶのが正しいのかについては深入りしない)。
あまりに有名な冒頭の「ジャジャジャジャーン」を楽曲全体でいろんな風に使いまわす形で曲が構成されており、最終楽章だけ聞いてもあんまりピンとこないのだ。あんまりメロディックでもないし。
むしろ第1楽章だけ、の方がまだ演奏機会があると思う。
このへんのバラ売り可能不可能は交響曲というジャンルの中でも色々で、それこそゆるいセットリスト的な感じで楽章と楽章の関連性は希薄なものも少なくない。
そーゆーのは結構バラ売りされる。なにしろ曲の構成とか主題の変容とか抜きにして「それ単体で聴いてもカッコイイ」というプリミティブな良さってのは大きな武器なので、
作曲者の意図がどうあれ、バラ売りはされる。そういうものだ。ベートーヴェンの交響曲第7番のノリノリでダンサブルな終楽章( https://www.youtube.com/watch?v=uPRpUXlBel4 )とか。
で、ベートーヴェンの第9に戻るわけだけど、
第9はそれまでの交響曲に対してパンクというかメタな構成の曲だ。
第5みたいな緻密な主題の展開とかは3楽章まででやり尽くしてしまう。
そのうえで、終楽章で突如ソロボーカルたちと大編成の合唱がぶち込まれ、
「こんな曲じゃなくてもっといい曲やっちまおうぜ!」(乱暴に言うとそういう歌詞だ)つって歓喜の歌が始まるのである。
極論、第9を続けて聴く意味というのはその「今までの交響曲のありようを覆すメタでパンクな仕種」を味わうことにあるので、
直接それまでと歓喜の歌に繋がりがあるわけではない。
んで、歓喜の歌は単体でアガる曲(そーゆー魅力があるから後の世に残っている)なんで、そこだけ聞くのはむしろ全然アリだし、
なんなら3楽章までは手の込んだ退屈な導入にすぎない(暴論)。
ブコメの人、なんで第9を引き合いに出したのか、正直謎。
単体で楽しめるカッコいい部分がある長い曲は、全曲を聞く楽しみもあるけど、そこだけ聴いて楽しんだって、全然問題ない。誰だってそーする。おれもそーする。
ふと思ったんだけど女の人ってなんで創作に関して物凄く繊細というかセンシティブというか 何かそんな感じなの?
とりあえず男性の作家と読者が多い界隈を「男性系」。女性が多い界隈を「女性系」としよう。
女性系は二次創作同人誌の注意書きだとかの話題もそうだし、オリジナル作品にしても物凄い熱意とこだわりがある。
たまにここに小説書いてる人が「私はどれだけ創作に捧げているか」みたいなエントリ書くよね。
俺はコミティアにたまに行くんだけどエッセイ漫画描いてる人で「私と創作」みたいなエッセイ作品描くのは必ず女の人だった。
あと、かなり前に絵に関してtwitterで女性系の人が「画風トレス」って問題にしてて「私と似た画風で描かないでください」とか塗り方が似てるつって怒ってた。
それは極端かもしれんけど、男性系ではこの作家さんはこの上手い作家さんが好きなんだな って当たり前にわかるくらいに真似て描いてても、特に問題になることもない。
こういうのはエロだとかBLとか抜きにしても女性系のほうが「掟」みたいな厳しく堅苦しいイメージがある。
描きたいから描く、作りたいから作るというのは男性系も女性系も同じなんだけど、女性系の人は「創作してる私」というのを特別なものとして考えてるような節がある。
これは女性だから、というか女性系界隈が持ってる世界のように思う。BLで隠れる必要があった とか理由も聞くけどそれよりももっと根源的に界隈特有の力学で発生してる現象だと思う。