http://anond.hatelabo.jp/20160925060352
あの山頂からの荘厳な風景は、あの山が過去や未来とつながってる時にしか見られないものなんじゃないかな。
だから宮水の巫女や入れ替わりの相手しか、ご神体のあるあの景色は見られないのかもしれない。
町から見上げた時の、何の変哲もない山の印象や、年寄りや小さな孫が軽装で登れたことと、
竹井10日あたりがメガバイトクラスの文量書いても全然売れないって状況になってエロゲ作家から小説家に転進したころからエロゲ業界の崩壊は始まっていたので、今更感というか、ついに滅びのときが来たって感じがするわ。
オンライン小説は、「なろう」単純に文のみか、「ソシャゲ」の音楽付の豪華版になったのがエロゲ文化の進化系と思っているので、まぁこのまま行けばいいんじゃないの?とは思う。
スキルに見合わない現場に投入されて辛い思いをしたりやりたいことが身につかない現場に参画させられてとても辛いシステムエンジニアを生み出すお仕事
洋の東西や時代にかかわらず逸品として名が残る作品は作者の変質妄執性を窺わせる大変気持ちの悪いものばかりである
だからキモオタは神が創りし生きる名作ということで胸を張って生きてほしい
あぁ気持ち悪いって最高だなあ
縦だけど、リア充っぽいオタクについては時代は大きな問題じゃない
大手SIerの下請けで請負契約という名の偽装派遣みたいな人身売買業が主な生業になってしまった。
最初はITのスキルを身につけて給料アップを! と入社してから頑張ってみたが、方針が間違っていたことに気がついた。
下請けの中小SIerは、大手のSIerにどれだけ人を投入できたかで売上・利益が決まる。
技術を持っている社員は売りやすいことは間違いないが、中小SIerの管理職になると技術は不要。
大手のSIerにどれだけ人を投入できる能力が必要とされる。技術は社内で評価されない。
1990年代以前アニメの女性キャラってだいたい恋愛脳で、パラメーターにはいわゆるヒロイン属性に分類される個性しか与えられず、結果立ち居振る舞いも概ねワンパターンだった印象。
たとえオタクの操り人形であってもそれぞれが違う個性を持ち、異なる意思を持って、時に予想の付かない動きをしてくれてる、今の方がはるかにマシでは。
高齢出産でつらい思いをするのは親じゃなくて子供だって事なんでわからないのかな
そもそも高齢出産自体完全に親のエゴだし障害をもって生まれるリスクも高い(まだ目に見えて障害者だとわかる障害者ならまだいいが発達障害などの目に見えない障害だったら目も当てられない)のに産みたいから産むみたいないい歳して(そもそも子供欲しい結婚したいと思ってるなら若い時なにしてたんだ?)ワガママな理屈で生まれた子供がどんなつらい思いをすると思ってるんだ?親は先に死ぬけど子供はその後もずっと生きていくんだぞ?
な~に言ってんだか、全然ピンと来ないな~。
そう考えると昔のオタクは大体普通の学生だったけど今のオタクは大多数が女の子とも遊んだことのない底辺の拠り所になったんだと思う
というか某美少女アイドルアニメに至っては、ファンの大半が女性であると聞く。
それに人気アニメ映画を観に行ったり、イベントにでも行ってみたら、オタクカップルを非常によく見る。
そういうのに赴いてみたら?すぐワカルことだと思うけど。
今回は裏サンデー
知りすぎている気もしなくはないが。
ギルド仲間が実は人工AIで、その人工AIを守るために人権を得るっていう理屈はまあいいとして、その後がぶっ飛んでいるな。
いや、人工AIではなくて、人間というものを再定義するっていう理屈はまだいいんだが、そのためにやることが黒い鳥を使って仲間を犠牲にしているわけだからね、事実上。
一つの教祖ができる、その人格形成含めてそれっぽいエピソードをちゃんと作っているのは感心する。
辻褄がある程度あればいいみたいな作風。
女からしても女のおっぱいは格別だし(相撲取りのおっぱいなら並ぶかもしれない)
男の部位とは比べられない
二の腕揉ませてくれる方が良い
一部週刊誌は嗅ぎつけてるけどまだ表立ってない
知名度はある
ファンなのですぐ分かる
周囲もなにも言わないけど、新婚当初はいろいろ言ってたり関わりがあった。それがぱったり無くなってしまった
騒ぎ立てるのは違うと思う
ただただ凄い心配になる
ツラァ…
幸せに…なってほしい…
端的に言って、思いのほか面白かったです。
監督の過去の作品から憶測して「どうせまた雰囲気だけの恋愛映画だろう」と思い、
あまり乗り気ではなかったのですが、
実際にはそうではなく、非常にエンターテイメント性に富んでいて、
過去作とは段違いの人気があるのも素直にうなずけましたし、見に行って本当に良かったと思います。
その上で、気になったことが主に二つありました。
それは、恋愛作品としての欠点と、恋愛以外のストーリー上の欠点です。
前半のコミカルな入れ替わり劇から、後半のシリアスな展開へといっきに変える重要な部分であるだけに、
こまかいことではありますが、違和感のようなものが最後まで残ってしまいました。
今が何年かというのは、嫌でも目や耳にする機会はたくさんあるはずですし、
もし何月何日という日付が同じで気づきにくかったとしても、曜日がちがうはずです。
テレビで彗星のことを見て、それを思い出せなかったのはすごく不自然に思えます。
ただし、このことについては、設定上の説明はいちおうされていると思われるので、
「入れ替わってるあいだは、まるで夢の中にいるように、意識や記憶があいまいになる。」
というような説明が何度かあったので、
おそらく、日付のちがいに気づけなかったり、彗星や糸守の惨事のことを思い出せないような、
ただし、この入れ替わりの能力自体が、糸守を惨事から救うためにあるとしたら、
記憶があいまいになるように働く力は、その目的に反したものになってしまうので、
その矛盾を解くために、さらなる説明が必要になる気はしますが・・・。
そういえば、入れ替わった瀧が、朝、制服を着て学校に行こうとして
四葉に「なんで制服着てるの?」と言われるシーンがありましたが、
もしかしたらあれが、「曜日がちがっているけど気づけない」ということを
表現したシーンだったのでしょうか。
さじ加減の難しい部分ではあると思います。
そして、恋愛作品として、はっきり欠点と言えるのがこの部分です。
入れ替わる前までの二人は、せいぜい胸を揉んだり、都会の生活を楽しんでいただけで、
入れ替われなくなり、シリアスな展開になったとたん、
「お前が世界のどこにいても、必ず会いに行く!」などと言い出してしまうほど、
たしかに、急にもう会えないと知って、もういちど会いたいという気持ちが盛り上がるのは、
瀧は三葉のことを好きになっていることを先輩から指摘されていますし、
ということは、入れ替われなくなり、会えなくなる前から、
すでに二人は好き合っていたということになるのですが、
そうなった理由もわからないですし、それらしい描写も何もなかったように思います。
自分一人では行き詰ってしまっていた問題を、入れ替わってる間に相手が献身的に解決してくれたなら、
そうやってお互いの心の深いところまで知るうちに、
相手を大切に思う気持ちが芽生え、それが徐々に好きという気持ちに変わっていって、
ラストシーンでようやくそれが最高潮を迎える、というような展開であったならば、
おそらくもっと納得できたでしょうし、感動できたのではないかと思います。
でも実際には、瀧は自分の感情から机を蹴って意地悪な同級生たちを威嚇してみせただけですし、
三葉は、興味本位から先輩との仲を取り持って余計なお節介を焼いただけでした。
これだけではとても、お互いの心の深いところまで踏み込んだことにはならないと思います。
にもかかわらず、ストーリーの中盤ですでに、二人の恋愛テンションはマックスになってしまう。
これでは、観客は置いてけぼりにされた上にどん引きされてもしかたありません。
結局、この問題は、監督自身の恋愛に対する価値観から生まれているのだと思います。
ささいな出来事でも惹かれ合い、出会ってしまえば恋に落ちるのは当然、ということでしょう。
宮水の神様から与えられ、三葉のご先祖様たちから受け継がれた、
「時を超えた入れ替わり」の能力のことなのだと、いちおうは理解できます。
本人たちの意志とは関係なく無理やり結び付けられた二人というのは、
もし、瀧と三葉がその「運命」によって惹かれ合っていただけなのであれば、
糸守の人々を救うことができた時点で、その必要はもう無くなってしまうことになり、
五年後に再会した時に、お互いを「運命の人」とすぐに認識できた理由が説明できなくなってしまいます。
このように、「運命の人」という言葉自体は、この上なくロマンチックな響きのようではありますが、
実は本来のロマンスとは異なるものだというジレンマを併せ持っています。
だからこそ、その「運命」によって惹かれ合った二人が本当の恋に落ちるための理由、
いわば「運命の人のジレンマ」を埋めるためのプロセスが、本来であれば必要なのです。
また、運命の人かどうかはともかく、
誰かを好きになるために、第三者が納得できるような客観的な理由というのは、
じつはほとんど無いのだろうと思いますし、必要も無いでしょう。
たんなる直感や一目惚れといった、本人だけにしかわからない理由であったとしても、
本人さえ納得していれば、何の問題もありません。
そう考えると、瀧と三葉が恋に落ちた理由も、べつに無くても良いのではないか
と、思えてしまうかもしれません。
ですが、ことフィクション作品においては、それではダメなのです。
監督や脚本家という第三者によって、観客という別の第三者が見るためにつくり出された
ですから、その第三者が納得できるだけの理由が、絶対に必要になります。
もし本当にリアルな、つまり理由の無い恋愛を描いた作品にしたいのであれば、
監督や脚本家がつくり出したものでもなく、観客が見るためのものでもない、
実際に恋愛をしている二人のありのままを撮ったドキュメンタリー作品をつくるべきです。
そうではなく、あくまでフィクション作品をつくりたいのであれば、
たとえ恋をしたことが無い人でもそれが「リアル」だと感じられるような「リアリティ」、
わかりやすく言えば、たとえ「ウソ」でも「リアルっぽい」と思わせる説得力であり、
もしそうでなければ、リアルにおいて「理由の無い恋愛」をしたことのある人にしか、
これは恋愛だけでなく、たとえば、殺人や戦争などの表現に置き換えてみると、
たとえどんなにリアルでも、
実際に殺人や戦争を体験した人でなければ、理解も共感もできないような表現を、
フィクション作品に用いることは悪手なのです。
そもそも、今作のようにオカルトやSFなど、リアルではない世界観を扱っている作品で、
それは一つの作品の中で各要素における「リアリティのレベル」が合っていないことになるでしょう。
恋愛体験の異なる人たちのあいだで論争になっているようですが、
そのこと自体がすでに、恋愛をテーマにしたフィクション作品として、
この作品が大きな欠点を有していることの顕れである、と言えると思います。
恋愛作品としての欠点が、監督自身の恋愛観に因るものであるとすると、
今後の作品において何度でも繰り返されることになってしまうのでしょうか。
今回は、監督のその間違った恋愛観を表現するための設定や伏線の副産物として、
エンターテイメント性の高いストーリーがたまたま生まれてしまっただけだとすると、
今作のヒットは、ただのラッキーパンチだったということになってしまうでしょう。
できれば、そうならないことを願いたいと思います。
今回はコミックウォーカー
ラノベはほとんど読まないので分からないが、少なくとも漫画に限っていえば、最近の異世界転生や、異世界に飛ぶモノはほとんどこのステータス表示だとか、ゲーム的演出をやるよね。
元がゲームの世界で、そこに飛び込んだからっていう理由はまだいいとして、これといって大した理由もないのにこの演出やるのもあるからね。
メタ的にみて分かりやすいってことなんだろうけれども、私の印象としてはこれは発明というより、怠慢だという印象のほうが強くなる。
まあ、それはともかく本編の話をしようかな。
とはいっても、理解者に拾われるだとか、モブキャラによるディスりだとか、フィクションにありがちな差別的発言だとか、ここまで材料が軒並み凡庸だと個別に評価できることが少ない。
んでもって、ゲームのステータス表示を参考にどう立ち回るか、みたいな話になってきていて、ここも極めて凡庸。
もちろん、全く同じだというつもりはないけれども、例えばパンケーキの素材が高級品だろうが、トッピングが多少違っていようが、美味しさという評価にほぼ優劣はつかないんだよなあ。
それでも美味しいといってくれるのは、パンケーキが大好きで現在進行形で食べたいと思っている人だけ。
もっと画期的な部分で個性を出して、明らかに他と違うパンケーキを提供しなければ覆らない。