はてなキーワード: 絶滅とは
ある日転校生がやってくると聞かされて、隣の席のカピバラらと「かわいいリス系の女子だといいな」と盛り上がっていたが実際来たのは図体ばかりデカいアフリカゾウだった。
当時、クラスをシメていたのはアジアゾウで、彼女は自分よりデカいゾウの存在が気に入らなかったらしく、クラスに「おい、あのアフリカ野郎にヤキいれるぞ」と号令をかけた。
インキャ(インドネシア原産の生徒の総称。おれはスマトラトラ)だったおれは当然調子こいているアジアゾウの策謀には乗らない。回ってきたメッセージつきりんごはすべて無視した。
そしてある日、下校しようとしていると屋上への階段の陰でアフリカゾウがめそめそ泣いているのにでくわした。
泣いている理由は訊かずともわかった。
彼女の自慢の牙が折られていたのだ。
「あいつら……”アタシらがおまえの象牙をぴかぴかのハンコに加工してやるよ”って言って……無理やり……」
なんという無法だろう。まさに動物園だ。いや、動物園よりひどい。数百カ国が批准するワシントン条約などこの学校には無に等しいのだ。
最初はアジアゾウにもアフリカゾウにも与する気のなかったおれだったが、アジアゾウの悪行に怒りが湧いた。
あいつらをステゴドン(ゾウの先祖。更新世に絶滅)の時代に戻してやる!
それからだ。おれとやつらの戦いが始まったのはーー。
前方から俺が歩いてるのが分かってるくせに全然避けようともしないクソ野郎ども
お前ら邪魔くせえだけだからもう今後絶対に公道を歩くんじゃねえぞ
つか俺が気を遣って道の片側に寄ってやってんだから向かいのやつは横一列状態を解除しろや
どう考えてもぶつかるって分かってるくせに目の前に来るまで全く避ける素振りもないやつが多すぎる
しかも中途半端に避けようとして思いっきり肩をぶつけてくるアホすらいる始末よ
三人組で歩いてるときは誰か一人が後ろに着きゃいいだけなのになんで誰もやらねえんだよ?
そもそもお前らみたいな連中はドラクエのパーティみたいに歩いてりゃいいんだよ
それが最善なのに何を血迷ったか通せんぼして歩くとかイカれてるとしか言いようがねえだろ
てめえらのしょうもない会話のために俺が歩くための道を塞いでんじゃねえよ
お前らのお喋りの都合なんかどうでもいいんじゃボケ
この記事は最低な性的搾取観点でのルッキズム万歳の記事であります。
性的搾取に反対のフェミニストやルッキズム否定派はこの記事を読むべき対象者でありません。
その上で文句を言ってきたらただのクソリプマンとして無視します。
Twitterでフォロワー数が多い女性コスプレイヤーを有名コスプレイヤーとして性的に興奮できるかどうかの度合いを採点します。
なぜこんなことを考えたのかというと最近コスプレイヤーが雑誌のグラビア枠に出てくることが多くなっており青臭い童貞の股間を熱くさせたかつてのグラビアアイドルと比肩する存在なのかを確認するためである。
つまりAKBや坂道系にグラビアページを取られて絶滅寸前まで行ったグラビアアイドルの進化系がコスプレイヤーなのかどうか私の股間の熱度で採点し検証したい。
https://tsusshiiblog.com/yuumei_kosupure_rannkingu
性的興奮度★★☆☆☆
可愛くて美人で先駆者という意味で大変リスペクトすべきコスプレイヤーではある。
巨乳であるしスタイルもあるのだが股間はいまいち反応しきれない。
グラビアアイドルというよりはコスプレに対する純度が高くエロ度が低い。
グラビアアイドルの進化系というよりは大成した純度の高いコスプレイヤーというところ。
童顔だがアラサーになっており、そろそろ年齢的にいろいろきつくなりはじめる円熟期。
顔が童顔で個性的なため似合うコスプレと似合わないコスプレの差があり、似合うコスプレを選べてない様子もある。
自家発電用には不向き。
性的興奮度★★★★★
急上昇中のコスプレイヤー。
AKB柏木由紀が若くなってコスプレイヤーになったような存在。
8年前から活動しており年齢は非公開。でも3サイズは公開している。バスト90cm。
とびきりの美人ではないが親しみやすいルックスに反則なナイスボディで股間を熱くさせてくる。
自分がエロい存在だということを自覚しており、下品にならない程度にあざといエロさをPRする能力がある。
自家発電用に向いている。
性的興奮度★★★★☆
急上昇中のコスプレイヤー。
コスプレイヤーというよりはモデル寄りのグラビアアイドルのような活動が多い。
自家発電用に向いている。
性的興奮度★★★☆☆
個人的にはぽっちゃりはあまり好みではないのでストライクゾーンに入ってないボール判定。
会社の元同僚によく似ており、本人ではないのかと疑っている。
年齢は非公開だが、10年前から活動している関係で最低でもアラサーの領域になる。(多分アラフォーだと思う)
グラビアアイドルらしい体型や露出をしておりエロさもある。ボール判定で股間は反応しないが。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★★☆☆☆
コスプレよりもモデルやグラビアアイドルの活動が最近は目立つ。
童貞は股間反応してエロいと感じるかもしれないが、割とよく見る顔立ちなのでエロさの希少価値が低い。
年齢は特に公表していないようだが現役大学生なようなのでそれぐらいの年齢のようだ。
ナイスバディだが男の股間を殺すポージングができない。やや下手。それゆえかエロさも弱い。
性的興奮度★☆☆☆☆
年齢は公表しており26歳。
エロや露出は控えめで、えなこよりはまだ自分にあっているコスプレを選べている面あり。
自家発電用に向いてない。
性的興奮度★★★★☆
コスプレというよりはエロに振り切れている系統。股間にはビンビン来る。
褐色お姉様系なので性的にどうかの好き嫌いはやや分かれるタイプ。
合ってる人には自家発電用に大変向いている。
性的興奮度☆☆☆☆☆
最近はあまりコスプレしておらず、水着などの露出も減っている。
モデル方向に転進か。
当然股間には反応しない。
コスプレイヤーにもグラビアアイドルの範疇にも入らなくなっている。
自家発電用に向いてない。
性的興奮度★★☆☆☆
ちょっと特徴のある顔立ち。
多方面に活動しておりコスプレもグラビアもなくはないがなんとなく中途半端なマルチな方向に進んでいる。
エロい衣装や露出はするがエロいポージングはあまり取らずエロ度でも中途半端。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★★☆☆☆
シュッとしたシャープなタイプの顔立ち。希少価値のある個性はある。
エロ度はほとんどないためストライクゾーンに入ってる人の股間にだけ反応する。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★☆☆☆☆
コスプレの純度が高くエロやグラビアはほとんどしていない。モデルの活動が目立つ。
自家発電用に向いてない。
性的興奮度★☆☆☆☆
やや童顔系統の顔立ち。
コスプレの頻度は多い。
合ってる人には自家発電用に向いている。
性的興奮度★☆☆☆☆
童顔系統。
チラリズム派。エロい衣装やポージングはしないがチラリズムのこだわりが見られる。
自家発電用に向いてない。
ここから先はフォロワー10万人台のコスプレイヤーとなるため割愛する。似たような系統が多い。
思ったよりも女性の有名コスプレイヤーは性的にムラムラさせる存在が少なかった。
坂道系などアイドルやモデル路線に進みたいというコスプレイヤーが多いのかもしれない。
グラビアアイドルの現代版進化系が有名女性コスプレイヤーなのかと思っていたが調査の結果それは間違ったイメージだというのが分かった。
あくまでエロ路線で股間を熱く刺激させるコスプレイヤーが一部いるだけであり、メインストリームとは言い難い実態だった。
したがって股間を熱くさせる存在を求めるならばグラビアアイドルやAV女優が今も優れているようだ。
また有名コスプレイヤーとしてフォロワー数40万人の壁を超えるにはエロ度やグラビアがどうも必要なようだという傾向があった。
togetterやはてなで話題になっている記事は、他でも話題になっているものばかりになって久しい。
昔は、この人はどうやって誰も見つけていないようなマイナーだが秀逸なコンテンツを探してくるんだという人が何人もいたが、
今は絶滅している。
知人の女性の話。
オンラインだけの友だち、というのが男女問わず結構いる人なんだけど、よくモテる。
顔出しはしてないが、ボイスチャットとかはするらしい。
とても気の利く人で、声がかわいいのも手伝ってか、秋波を送って来る男性が多いそうで、ただ夫も子どももいる人なので、本人は「こんなおばさんにお前ら何を期待してるんだw」と笑ってる。
そうした男性は一様に、自分の事をわかってもらいたい、わかってくれれば好きになってもらえる、という考えを持っているそうで、
「私にさらけ出す「自分」の内容で、大まかに2種類に分けられる事がわかった。バカと赤ちゃんの2種類だ」
と言う。
「バカ」は、くだらない駄洒落だとか、小学5年生が言うような事を彼女に言ってしまう自分を隠さない。
要はどちらも幼稚な部分をさらけ出してくる、という事なんだろうけど、「バカ」タイプは脈がないとわかるとすぐに切り替えるのに対して、「赤ちゃん」は脈がないことに気づかないのかなんなのか、あきらめないんだと。
高額なプレゼントを送ってきたり、聞いてもいない自分ちの夫婦関係(例外なく冷えてる)を相談する体で告白してきたり、勝手に彼女との暮らしを妄想したり、会いたいとしつこく言ってきたり、極端なケースだと、離婚して「別れたから」と言ってきたりする。
それ、やべー奴なんじゃないかと思うんだけど、そういうのが一人や二人じゃないらしい。
そうして、せっかく居心地の良かったコミュニティから出なきゃいけなくなるのを繰り返したりしてる。
こう書くと、オタサーの姫っぽいイメージなんだけど、そういう感じの人でもない。
どちらかというと、筋の通ってない事に対しては厳し目だったりするんだけど、赤ちゃんタイプには、そういうのが響くらしい。
「バカ」と「赤ちゃん」のどちらか片方に振り切った人、というのはいなくて、ワインのボトルの裏に書かれてる「甘口/辛口」みたいな感じで「バカ/赤ちゃん」の度合いが示されてるような感じなんだとか。
どちらでもない人っていないの?と聞くと、「たぶん、そういう人は明治生まれがいなくなった時点で絶滅したんだと思う。お義母さんが「大人の男なんてこの世には存在しないのよ」と言ってたけど、最近その意味がわかってきた気がする」と。
彼女の夫という人を私は知らないのだが、旦那さんはどっちなの、と聞くと
「たぶん、知ってる男性の中では一番バカ。割といい大学出てるけど、友だち含めてみんなバカ。お義父さんもバカだったから、お義母さんいつも苦笑いしてた」
「バカ、っていう表現はとても失礼な感じに聞こえるんだけど、バカは馬鹿じゃないので」
話を聞いてるうちに、自分はどう思われてるのか少し気になって尋ねると、
「バカ」っ言われてホッとしてるのもおかしな話だけど、赤ちゃんのイメージが昔のドラマの佐野史郎がやってた冬彦さんで再生されたので。
数年前にジョガーパンツが流行りだして、ズボン/パンツの裾がキュッとしまったシルエットが基本になったことがあったよな。
でも最近はその流行も落ち着いて、服屋に行くと、いろんなシルエットのズボン/パンツが売ってる。
目につく一つの傾向は、やたらと幅が広いシルエットだ。
最近はトップスもボトムスもやたらとダボダボの、オーバーサイズのシルエットが多い。これがとても個人的に嫌だ。
ファッション業界の流行の波かなんかしらんが、身長の低い奴が着ると絶対に似合わないようなシルエットをゴリ押しで流行らせようとするのはやめてくれ!!!
もうひとつ目につく傾向は、細く、短いシルエットだ。
くるぶしが出るくらいの長さ(アンクルパンツ)か、それよりもさらに短くて、脚を釘みたいに細く見せるタイプのやつだ。
シャープに見えるシルエットはそれはいいよ。でも、その丈、冬に寒すぎじゃない???
これからのクソ寒い季節に、真夏みたいに短いスニーカー用ソックスを履かないと見栄えしないシルエットって、無理がない?⁉?
ジョガーパンツ的なシルエットはなんか足首のあたりが落ち着くんだよ。で、冬も寒くないんだよ。
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当な台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。