はてなキーワード: 絶滅とは
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。
セックスの快楽のためなら、いくらでも自己中心的に残酷になれるのが、人間と言う生物なのだと気が付いた。
いろんな社会問題や、あるいは殺人事件などの犯罪、最終的には戦争さえも、最終的にはそこに繋がっているのかもしれないと思った。
「不倫」は社会的に激しく非難されるようになった。結婚相手を裏切って快楽をむさぼること、結婚相手がどう思うかを考えずに自己中心的にセックスの快楽を求める、その残虐性が、社会的に理解され、批判されるようになったのだろう。
「児童ポルノ」が禁止されるのも、その裏にある性的な残虐性が社会的に理解された結果と考えた方が腑におちる。
そして「セクシーなポスター」も同様に批判にさらされるようになった。
セクシーなポスターを見てフェミが騒ぎだして「性の商品化が云々」とか、「性的搾取」「性的消費」などと騒ぐけれど、いまいちピンとこなかった。
弱い者が搾取される構造は性の問題に限らないし、女性本人が納得して商品化しているものを攻撃できる理由もよく解らなかった。
そうじゃなくて、セクシーなポスターなどの、性的な興奮を促すようなものには、本質的にそこには何らかの残酷さ、残虐性が伴うのだろう。そう考えると、フェミがその残虐性に敏感に反応して自己防衛しようとするのは、当然のことなのかもしれない。
次は何だ?
うつ病の何割かは、性的な残虐性の被害者なんじゃないかとも思う。
どんなに仲が良い幼馴染みの友人でも、自分に彼女ができてセックスできるようになったからって、幼馴染みの友人にセックスの快楽をおすそ分けしてあげようなんて話にはならない。童貞をバカにしながらセックスに励むのが人間という悲しい生物なのだ。
あるいは、セックスして中出しして子供ができて子供を産むこと。生まれた子供がどんな時代に生き、どんな苦労をするかも解らないのに。それが残虐な行為でなくてなんなんだ。
酒を飲んで騒ぐやつが居るからだ。
職場での飲み会というのは、断りにくい。断固断るという姿勢が必要だった。
職場の上の人間が、新型コロナウィルス感染拡大を尻目に「特に自粛要請はないから大丈夫だろう」ということで今週の月曜に決行することとなった。
正直、皆もいい大人なんだし、平均年齢40代の飲み会だから皆わきまえているだろうと思っていた。
甘かった。
新型コロナウィルス対策は、入店の際のアルコール消毒だけである。
「え? 皆マスクを外したまましゃべるの? この至近距離で……」と、驚いた。
密集密接密着の三密状態で皆大声で喋りだした。
換気などはされていない。
狭い部屋に密集した状態で皆叫んで笑っていた。
酒が入ったらもう止まらない。誰も新型コロナウィルス対策など守りはしない。
自分の箸で直接食う。
酒を回し飲みする。
大声で笑い、叫び、会話をする。
どうしたらいいのだろうか。
とりあえずトイレに逃げた。他の部屋はどうなのだろうかと思った。
他の部屋も全員マスクを外して大声で笑って叫んでいた。
逃げたい。
逃げ出したい。
「酒を飲むなと言ってるわけではない。少人数で短時間。会話をするときはマスクをして。換気をして。座席は斜向かいに」
と言ってた。
しかし結局二時間エンドレスで飲み会は終わらなかった。皆座席を移動して密集し、マスクをせずに喋りまわった。
本当は「お前らが酒を飲んで騒いでるから感染者が増えるんだ馬鹿野郎どもが。基本的な感染対策も守れないなら酒なんか飲むんじゃねえ」と言いたかったに違いないのだ。
そして、木曜の今日、尾身先生の言うことを無視した結果、全国で最大の感染者を出してしまった。
そして体調が絶不調に悪い。
ビクビクしながら体温計を毎日見ている。
そうしないと中止できないのです。
お願いです。
それが心からの願いです。
性欲とはしょせんどうしようもないものであるが、それを無邪気にPRすることはとても無粋で思慮が浅い行為だとは思う。
「個人的には○○がおすすめです。~」って言う人と「おすすめはあなたの好きなものがわからないとおすすめできるものはありません」って言う人がいるわけじゃん
後者に絶滅してほしいんだよね せめて「過去の質問見てプロファイリングしてみましたが、たぶんあなたはこれが好きでしょう」とか言えよ 回答できないのにわざわざ悪意ある回答しちゃってさ
例えば「プログラミング言語勉強したいのですが何がおすすめですか」と聞かれてさ
「個人的には○○がおすすめです。~も~もできますし流行ってますし仕事にもなりやすいし。一般的には、ゲームが好きなら△△、コンピュータっぽいオタク感が好きなら□□、インターネットが好きなら☓☓だと思いますよ」とか答える人と、「あなたが何をしたいかに寄りますので答えられません」と答える人いるわけじゃん
後者に絶滅してほしいんだよね 仕事だと良い質問しないとコストかかるから後者のように教育していくのが正しい時もあるだろうけど、前者の方が推奨だろ基本的に
後者はまず無駄に攻撃的だよね 質問者は悪気なんて無いんだよ 楽してるかもしれないけどさそんくらいいいじゃん 敵意向けるレベルの答え方するようなレベルではないでしょ
後者は生真面目とかそういうことじゃないと思う 立場にもよると思うけどこの質問は明らかに前者みたいなもの求めてる可能性が高いと思う
今日は静かですが忙しいですけどそんな午前中よ。
隣の部署というか会社というか私が前いたところは創立記念なんたらで全体でお休みなのよ。
守衛さんとなんかそんなことを話しながら、
じゃあ誰もいないなら私も帰っちゃおうか?って思うけど、
私はさっさと自分のことをやって、
またその隣の会社の部署に借り出されないから今日はいいわねダッシュで帰れるわ!って
オラの方が上回ってっぞ!って言う速さで宇宙一を競えるほどよ。
あいにくちょっとは電話番しなくてはいけない掛かってこない電話をじーっと見つめている要件と言えば、
ファクシミリ送りましたので、
って確認の電話はポケベルやPHSよりも早くに絶滅してほしいものだわ。
届いているのか届いてないのかは向こう次第じゃない。
分からないけど。
ファクシミリって言うのもいつまで使われ続けられるのかしら?と言う
一抹の不安を感じながら、
この世の中でこんな古い機械を使っているところ私だけかも自慢出来ちゃうぐらい
端から見たらそれって、
私今でもガラケーなんですよねって、
薄ら寒い何自慢高分からない古き良きを楽しむのもあなたは良いかもしれないけど、
あの古いもの使ってる自慢ってたまに聞くわよね。
ガラケーで使ってるアドレスから自分のツイッターのアカウントのユニークなメールアドレスにメールを送信すればツイートできる機能はとても便利だったけど、
急に11月を目前にして寒くなってきたように、
ガラケーでツイート出来ていたメールのその仕組みは廃止されたみたいなのよ。
その機能が無くなった途端に
窓から投げ捨てたノキアの端末は今はもう思いでお星様になってしまったわ。
一瞬だけ私もノキアを使っていたら謎のキャリアウーマン的な寒空のもと寒々とした寒いことやってたけど、
あのノキアの端末はたった数年前だってだけなのに懐かしい香りがするラララな。
古きを知り良きを知るの
故きを温ね新しきを知るって
まるで温故知新を地で行くような感じね。
何書いてたか忘れちゃったわ。
違う会社なのに私のデスクのプリンターは隣の会社のネットワークに繋がっている不思議さを兼ね備えつつ
うふふ。
今日はお昼抜くか軽めにと言うことになるかも知れないことを予想しつつ、
朝はしっかり食べておこうと思って、
こういうのが手軽ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!