はてなキーワード: 植物とは
先日なんとなく読み始めたら思ったより面白かったので少しだけ紹介する。
聖書には2つあって旧約聖書と新約聖書である。旧約聖書にユダヤ人であるイエス・キリストが新しい解釈をつけたもの、それが新約聖書である。なので、ユダヤ教の原典は旧約聖書、キリスト教の原典は新約聖書という関係になっている。
旧約聖書も新約聖書も拝めている神様は1人である。日本語の聖書では「主」と表現される。ちなみに西洋圏の聖書では「YHW」と表現され、読み方は様々である。有名なのでいうと「ヤハウェ」とかがある。よく日本で宣教活動をしているエホバの証人という宗派があるが、このエホバは「YHW」を「エホバ」と発音しているのである。
一般的に旧約聖書の神様は厳しく、新約聖書の神様は優しいと言われている。これには背景があって、ユダヤ教の戒律を守ることは当時非常に大変で、心身が非常に疲弊した人々に対して神様の息子であるイエス・キリストが救いの手を差し伸べたのである。この時の教えをまとめ、旧約聖書にくっつけたものが新約聖書である。旧約聖書の神様がどう厳しいかというと、例えば、信者の信仰心を試すために彼の息子を生贄に捧げるよう要求したり、ルールを守らなかった祭司の息子を焼き殺したりなどがある。ちなみに息子の生贄に関しては、その信者は非常に敬虔で、実際に殺す直前まで行ったため、神様が「お前の敬虔さは分かった。殺さなくていい。」と言って生贄を止めたという話がある。
余談だが、キリストを神様と思っている人がいるが、実はキリストは神様ではなく神様の息子である。
1. まず神様が世界と人間を作り、人間は反映するも大洪水でノアの方舟に乗った人間が生き残り、その末裔にはイスラエルの民がいる。彼らはエジプトに移住した。
2. エジプトで奴隷になりかけたイスラエルの民はモーセに率いられエジプトを脱出し、約束の地カナン(現イスラエル)へ向かう。
3. モーセが神様から色んなルールを授かったり、異民族と戦争したりしてカナンへ移り住むことに成功。
4. イスラエルを建国し色んな王様のお話が展開される。(有名なのはダビデ像のダビデ)
5. その後色々
この中でモーセがエジプトを脱出するときの話が良かったので紹介。
モーセはエジプトで奴隷になりそうになったイスラエルの民を救い出すためにエジプトのファラオと対立することになった。モーセは神様の啓示を受け、イスラエルの民をエジプトから連れ出さないと行けなくなったとファラオに告げるのだが、ファラオは貴重な労働力がなくなるのでこれを拒否した。ファラオが神の力を軽視してることに怒ったモーセはファラオに対して神の力を見せつけることにした。ここからモーセvsファラオのマジック対決が開幕するのである。
ラウンド1
モーセはまず杖を蛇に変えることで、神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じように変えてみせた。
→ 引き分け
ラウンド2
モーセは杖を振り上げ、ナイル川を血で真っ赤に染め上げることで、神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じように染め上げた。
→ 引き分け
ラウンド3
モーセは杖を振り上げ、エジプトにカエルを大量発生させることで神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じようにカエルを大量発生させた。
→ 少し勝ち
ラウンド4
モーセは杖を振り上げ、エジプトにブヨ(アレルギー性のハエ)を大量発生させることで神の力を見せつけた。ファラオお抱えの魔術師たちには真似できなかった。
→ 少し勝ち
ラウンド5
モーセは杖を振り上げ、エジプトにアブを大量発生させることで神の力を見せつけた。ここではファラオお抱えの魔術師たちは登場しない。
→ 少し勝ち
ラウンド6
モーセは杖を振り上げ、エジプトの家畜に疫病を蔓延させ死滅させることで神の力を見せつけた。ここではファラオお抱えの魔術師たちは登場しない。
→ 勝ち
ラウンド7
モーセは杖を振り上げ、エジプトの全ての人に腫れ物を発生させた。ファラオお抱えの魔術師たちは腫れ物のせいで外に出られない。
→ 勝ち
ラウンド8
モーセは杖を振り上げ、エジプトに巨大な雹を降らせることで神の力を見せつけた。しかし、ファラオの臣下たちはみな避難した。そしてエジプトの様々な人や動物が死に、収穫間近の麦もだめになった。これにはファラオは相当のダメージを受けた。
→ 大勝利
ラウンド9
モーセは杖を振り上げ、エジプトにイナゴを大量発生させた。ファラオの臣下たちは負けを認めるもファラオは頑なに認めない。エジプトのあらゆる植物は食べつくされた。
→ 大勝利
ラウンド10
モーセは杖を振り上げ、エジプトから太陽を奪うことで神の力を見せつけた。みんなパニック。
→ 大勝利
ファイナルラウンド11
モーセは杖を振り上げ、エジプトの全ての動物、人間の嫡男を殺すことで神の力を見せつけた。
これにはファラオは負けをついに認めた。
→ 完封
こうして晴れてモーセはイスラエルの民と共にエジプトをでることを許されたのである。
もはや息をする植物みたいな感じだなよな
菜食主義の神様が人間にだけ効く、遅効性で致死性が高く人間の体内に蓄積する未発見の毒素を動物の肉にこっそり発生させる。
世界人口が激減して人類が居住する領域が縮小し、自然が戻って野生動物が増える。
残った菜食主義の人類は家畜をすべて手放し農耕によって食糧をまかなうことになるが、動物を攻撃することができないため田畑を荒らす野生動物を追い払うことができない。そのため農耕を捨てて自生する植物の採集にシフトする。
やがて食糧となる植物を求めて移住を繰り返すようになる。人口は少ないままで維持される。
動物を殺さずに植物のみを食べる人類は長い年月の中で植物を食べることに特化した消化器官と、捕食者を傷つけずに逃げるための感覚器官と運動器官、防御のための固くて厚い皮膚と毛皮を発達させる。
ヴィーガンが肉を食べないことを他人にも要求するのはアニマルライツ(動物の権利)とかそういう話らしいが
草木を切り払い動物を放逐して開拓し、人間が恣意的に所有権を決めた土地に住み、何を目指すというのだろう。
動物の権利が認められた世界では、動物は人間と同じく生まれながらにして自由権(財産権など)・社会権(生存権や教育を受ける権利)を持つのだろうか?
それとも動物は権力者たる人間から限定的な権利を与えられるのだろうか?
猫と花が違うという感性の所以を説明することを求めるのが「植物はいいのか?」という質問の意図じゃないのか?
そのうえで自分の感性と向き合った結果の説明として「無痛であるからかわいそうではない」、と言うのは別に理屈破綻していないのでは?
「猫を殺すのと花を詰むの」を同等に考えるのはハッキリ言っておかしいと俺は考える。
そこの根本にあるのは理屈じゃなくて感性なのに、ヴィーガンはその場その場で「植物は痛覚がないから違う」「無脊椎動物は」って変に理屈をこねるのが嫌われてるんですよ
俺は5というか種差別主義者なのだが、動物と植物に対する愛情が異なるのは当然だが、どちらを殺すのも社会的な悪と見なすべきではないという考えだ。
人間が動物を大事に思う権利はあるが、動物が殺されないとか大事にされる権利はない。
俺だって無闇に動植物を殺さないし、殺さない方がまともな人間だと感じるが、感情と社会を動かすイデオロギーの是非は別々なんだよ。
※個人の見解です。善悪を述べていますが、そもそも善人も悪人も人類全てに生きる権利も幸せになる権利も不幸になる権利もあると考えています。ただし俺に被害を与えるものには厳正に対処・抗議します。
# | ラベル | 分かる度(5点満点) | 説明 |
---|---|---|---|
1 | 動物愛護 | 4 | 屠殺が残酷だという理由から動物食を辞める人々。「殺すために育てる」ことに思いがあるのは理解できる。俺はそれでも食いたいから食うが、実際の屠殺場を見たらもしかして思うところがあるかもしれない。 |
2 | 動物愛護(強) | 2 | 屠殺が残酷だという理由から動物食する人を罪人として咎める人々。確かに【屠殺を無くす】のならば人類がせーので肉食を辞める必要がある。しかし生命を食べるのはこの世の定めで、多くの人間の体には動物食が必要であるため、なくすのは自然ではない。「食品ロスの縮退」もしくは「狩猟生活への回帰(ただし非現実的)」を訴えるべきであると考える。 |
3 | 健康理論 | 3 | 動物を食べない方が健康だからと動物食を辞める人々。押し付けないだけいいが、実際には健康を害する人間の方が多い(しかし誘惑と戦うので頑固になり止まらない)。家族友人からすれば当人には健康でいてほしいのでできればやめていただきたいが、人間には個人で死ぬ自由も与えられるべきだと考えるため、難しいところ。 |
4 | 健康理論(強) | 0 | 動物を食べない方が健康だからとインフルエンスし動物食する人を罪人とする人々。ハッキリいって金の亡者。ファッションヴィーガン。最も憎むべき悪。人殺し。 |
# | ラベル | 分かる度(5点満点) | 説明 |
---|---|---|---|
5 | 命の不平等 | 1 | #1,2への反論に「植物は食べてもいいのか」という人々。「牛食と菜食」転じて、例えば「猫を殺すのと花を詰むの」を同等に考えるのはハッキリ言っておかしいと俺は考える。どちらにも本当に同程度悲しみを感じるのであれば、氏の感性には何も言えない。そうでなく反論するための詭弁としているだけなら、ただ人を叩きたいだけの愚か者、議論の邪魔、人類の足を引っ張る者。 |
6 | 嘘やめろ | 5 | #4に対して、人が苦しむ嘘により金を得ようとしている連中に対する言及をする人々。人格攻撃にまで行くのは悪へ足を突っ込むことになるが、問題点のみ毅然と指摘することは必要な活動だと考える。(俺はめんどいからしないけど) |
https://hokusyu.hatenablog.com/entry/2019/05/28/004203
…われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。…
まったくエヴァンジェリストの言い回しでありジハーディストの自己正当化の論理である。預言の民が他者に対しても邪教を崇拝しないよう勧め、ときにその宣教も暴力的なものになるのはやむを得ない。路上に爆弾を設置し無辜の異教徒を殺戮することも時には仕方がないのである。われわれは涜神について問われることは覚悟しなければならない。邪教を信仰した結果正しい宗教の信徒に殺害されることは受け入れなければならない。本当にそう言えるのだろうか? 私ならばそうした人とは距離を取りたいと思う。
ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手をギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。
違和感は後段に進むにつれ強まり、個人的にはここで最も強まる。適当にググってWikipediaの肉食#仏教の項でも見てくるといい。
釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからであると記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている。(肉食を否定する大乗仏教においては豚の好むキノコを使った料理とされている。)
生き物の殺生を禁止する仏教において肉食が禁止されていない事は矛盾であるとように思われるがこれは当時の肉食に関する宗教論争と関係する。仏教の起こった当時のインドにおいては仏教だけでなくジャイナ教などの多くの宗派がアヒンサー(不殺生)を標榜していた。特にジャイナ教においては畑を耕すことによって虫が殺されることなどを指摘し、肉食する、しないにかかわらず生存する限り間接殺を免れぬことを理由に、無食による自殺を最上の行とした。これに対して仏教は間接殺を理論的に突き詰めることの限界を理由に中道を掲げ実際に生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が、殺す所を見なかった肉、供養のために殺されたと聞かなかった肉、自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた。さらにここで重要なのは古代仏教において比丘はあくまでも家庭の余った食事を物乞いすることによってのみ食を得るため、肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たないことにある。
仏教において「ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか」「肉食をするより肉食をしないほうが倫理的とは言えないのではないか」という主張は釈尊から直々に出ているのである。開祖がやってたことは正しいに決まっている。日本の「反ヴィーガン」空間において先に挙げた2点への非難が他国よりもはるかに強いこと、またその理由をぜひ直視していただきたいものである。これはヴィーガニズム崇拝者が「公の論理」でも「文明人の倫理」でもなんでもよいが崇拝しているドグマが旧約聖書(というのは、仏教の創始よりも後に書かれたものであるが)からの引き写しでありヴィーガニズムは倫理的に進歩した集団でもなく単にキリスト教系の新興宗教でしかない事実を裏付けるものであると言えるのではないかと思う。反論があるものなら聞きたい。
Anno Domini をまるで異教徒がすべて同意したかの如く common era とか改称しようとしている輩と一緒に地獄へ落ちてしまえ。
資本家と労働者の対立を、畜産業者と飼育動物に展開したようなもん。
で、なんであいつらがあんなに叩かれるかというと、単純に主語のでかい話をしているからだ。
飼育動物の扱いが酷すぎる、で止まってれば、そうですね、で共感されてただろうに、動物の権利とか言い出すからこじれにこじれる。
あのなあ、動物の権利とか言い出すなら今度は肉食動物と草食動物との階級闘争させるんか?
共産主義の亜種だけあって次は動物内の階級闘争させる感がある。
そして闘争が絡むなら、俺の予測ではヴィーガンは今後内ゲバやらかすだろうな。
肉食動物をぶっ殺すべしと主張する右派(現に出始めてる)と、肉食動物を草食動物に改造しようとする左派とで。
どっちが優勢になるかは知らんが、どっちみち言えるのは万が一ヴィーガンが優勢になると、当たり前だけど食物連鎖は狂いに狂って草食動物が爆発的に増える。
そしたら当然植物が激減して砂漠化が大進行するけど、どーせヴィーガンどもの中でそこまで考えてそうなの、一人もいねーんだろうな。。
ヴィーガンに限らずだが、どの生命なら食べてよいかを論理的に解決する手段はない。
「なぜ食べてはいけないか」を論理的に話すことは出来ても、「何を食べてはいけないか」ということは論理の世界にはなじまない。
動物の権利だと言っても、権利を持つ生き物との境をどの様に定めるかは「共感」あるいは人間の都合である。
「植物は苦痛を感じないから食べてもいい」というのは、生きながらに切られて焼かれる植物の反応が人間や動物の反応と違うから共感できないということである。
植物には共感がわかないからもやしの様に日光を奪ったり、コルヒチン処理(種無しの果物)のように次代の命を奪っても気にもとめないのである。
一方、牛乳や鶏卵は痛みも意識もないだろうに親牛・親鳥に思いを馳せて権利云々というのである。
それは管理・強制・搾取されて生きる動物の苦しみに共感できるからである。
魚卵を食べるのも豆を食べるのも次の代の命を奪うという点で同じはずなのに片方は許されて片方は許されないのである。
つまり、何を殺して食べていいかというのは共感の世界である。共感の世界に論理を持ち込むのは命の選別を正当化する行為でしかない。
理屈をつけようとすればするだけ差別論者の理屈に近づいていくしかないのである
(反論に対しては論破しようと思ってませんが、ガキみたいにどうして?何が違うの?みたいな質問を投げつけまくる所存でございます)
あんまり詳しい人っていうわけでもないから、俺の言うことが全部ってわけじゃないけど、一応返すね。
・ヴィーガンが食べる野菜は森や山など切り開いた畑で生産されている(住処を追われた動物が沢山いるはず)
そうだよ。っていうか、何回も言われてるように、植物だって生きてるし、あらゆる生物のあらゆる苦痛をあまねく回避するっていうのは現実的じゃない。人間だって生きてるだけで結構辛いし。
スゲー何回も言ってるけど、食肉産業は農業で支えられてるんだよ。
牛に無理やり子供産ませて育てては殺すっていうことをやめられれば、トータルで苦痛を減らせるだろって話なんだよ。
そのうちヴィーガンになってくれるかもしんないし。