ヴィーガンに限らずだが、どの生命なら食べてよいかを論理的に解決する手段はない。
「なぜ食べてはいけないか」を論理的に話すことは出来ても、「何を食べてはいけないか」ということは論理の世界にはなじまない。
動物の権利だと言っても、権利を持つ生き物との境をどの様に定めるかは「共感」あるいは人間の都合である。
「植物は苦痛を感じないから食べてもいい」というのは、生きながらに切られて焼かれる植物の反応が人間や動物の反応と違うから共感できないということである。
植物には共感がわかないからもやしの様に日光を奪ったり、コルヒチン処理(種無しの果物)のように次代の命を奪っても気にもとめないのである。
一方、牛乳や鶏卵は痛みも意識もないだろうに親牛・親鳥に思いを馳せて権利云々というのである。
それは管理・強制・搾取されて生きる動物の苦しみに共感できるからである。
魚卵を食べるのも豆を食べるのも次の代の命を奪うという点で同じはずなのに片方は許されて片方は許されないのである。
つまり、何を殺して食べていいかというのは共感の世界である。共感の世界に論理を持ち込むのは命の選別を正当化する行為でしかない。
理屈をつけようとすればするだけ差別論者の理屈に近づいていくしかないのである
(反論に対しては論破しようと思ってませんが、ガキみたいにどうして?何が違うの?みたいな質問を投げつけまくる所存でございます)