はてなキーワード: 挑発とは
武将が「やあやあ我こそは○○の住人、○○なり!~により~参った」といった感じで自分の名前や出身地、主君の名前などを大音量で名乗って
実は大音量で自分の名前や出身地を名乗ってから戦うことで、戦場で誰が誰を討ち取ったのかを明らかにするという意味がありました。討ち取った相手が大物であるほど多額の恩賞を与えられるため、ちゃんと自分が討ち取った証が必要だったのです。
その証を示すだけなら短くてもいいのですが、長いものでは自分の姓名や出身地、主君、大義名分だけでなく、家系まで長々と語ったのだとか。
証拠づくりだけでなく、自分のこれまでの戦功や武勇を高らかに語って敵に知らしめ挑発したり、味方の士気を上げる役割もありました。
筋トレ系トップYoutuberの一人であり、若き日には世界で戦うトップボディビルダーの一人であり、
また「アナボリックステロイドの使用を自著で認めている」山本義徳が先日、動画を出した。
動画の内容は「ナチュラル(ドーピング不使用)トップ選手のトレーニングメニューは正しくない」みたいな内容で、
もともとはナチュラルトップ選手のメニューを行っているYoutuberからの挑発に乗ったものだった。
簡単に言うとナチュラルトップ選手のトレーニングはオーバートレーニングで科学的根拠がない。
それに耐えられる人間ならいいが普通の人間には耐えられないし非効率的という内容。
動画での主張の是非については賛否両論いろいろあると思うので、ここでは語らない。
だが、そこでプロレスの一環として山本義徳からの「煽り」がったのだが、
「自己満足で非効率なトレーニングをするのは個人の自由だが、その隣で我々が効率的なトレーニングで結果を出しているのを見てひがんでいろいろと文句をつけてくる」
先述した通り、山本義徳はアナボリックステロイドを使用するドーピングを行って筋力を増やした選手だ。
実際に現役時代に日本の大会の薬物検査で陽性が出て2年間の出場停止を受けているし本人も自著で明言している。
・ドーピングを容認している大会は一つもなく、ドーピングを明言した場合出場資格を失う。
・しかしドーピングを規約上は禁止しているが検査は絶対にしない、実質黙認している大会が非常に多い。
・その中でも一部の大会のみドーピング禁止を明確に打ち出しており薬物検査を行っている。
という状況。
そしてシュワちゃんなど世界的に有名なプロのマッチョを輩出しているような大会は
「すべて」ドーピング黙認大会となっており、ドーピングしなければ世界と戦えない界隈になっている。
表向きは「ドーピング禁止」を謳っておきながら、ドーピングなしではトップにはなれない。
そんな中でナチュラルの選手は「ドーピングを行わない自分だけの力で筋肉を手に入れること」に誇りをもって日々のトレーニングを行っている。ちなみに中山きんに君もアンチドーピングであり、ナチュラルを明言しており、ナチュラルの大会にしか出場していない。
そんなナチュラルの選手に対して「効率的に鍛えている我々に嫉妬している」とユーザー代表でもある山本義徳が言い放ったのはかなり衝撃的だった。
ステロイドユーザーでも努力しないと筋肉は得られないという人もいるが、健康に害を及ぼさない程度の使用量でも、ステロイドを使ってトレーニングを行わなかった人のほうがナチュラルでトレーニングを行った人よりも獲得した筋肉量が多かったという研究結果もある。
つまり、ステロイドを使いさえすれば寝ていても筋肥大する可能性があるのだ。そりゃ、ステロイドを使うのが一番効率がいいだろう。
だが、ステロイドを使用してもいい大会なんて言うのは世の中に一つもないのだ、表向きには。ルールを守ってゲームをしているプレイヤーに対してチートプログラムを使って無双しているプレイヤーが説教をするような気持ち悪さを感じた。
山本義徳はよく勉強しているし、トレーニング理論には一定の評価があるしそうあってしかるべきだと思う。
最近は自社ブランドのサプリの売り込みに必死すぎてちょっと見てられない部分はあるが、
行政に業務関係の届出を提出してたんだけど、今日担当者から電話かかってきて
「制限緩和の特例を使われてるけど、それは望ましくないから、別の制度に変更してください」とか言ってくる
「いや、でも違法とかじゃないですよね?であれば、変更なしでお願いしたいんですが」みたいに反論するけど聞いてくれない
こういう、法律上は問題ないけど認られない、ということは稀によくあり
根拠は通達だったり独自ルールだったり勘違いだったりして、また支所や担当者によって言う事が違うということも、本当はよくないんだけど、よくあることで
結局はこちらが折れるしかないから、「じゃあ社内で相談しますぅ~」など吐き捨てて、とっとと切り上げることにしてるんだが
今回はお互い感情的になってて、やたら食い下がってしまった。年末で忙しく、イライラしてたのもあると思う
「この特例の導入は、上司の方が決められたんですよね?」
「当たり前だろうが殺すぞ(はい…そうですが)」
「じゃあその時に特例は使わないように説明してもらわないと。それがあなたの仕事でしょう」
「」
オ...オレはキレた
なんで部外者であるオメーになぁ、俺の仕事について指図されなきゃなんねーんだよ!!
「別の者に代わりますッッ!」保留に入れて、受話器を叩きつけた。
上司に事情を説明したが、自分でも息が乱れ、声が震え、鼻の穴が開きまくってたのがわかった。でも落ち着こうにもどうしようもない
怒りでコントロールできなくなるってこういうことなんだな、相手を挑発して冷静さを失わせる戦法って、案外有効なんだな、とか考えてた
同僚からも、怒ってるのがわかった、怖かった、等言われた
やっぱり怒るのはよくない…
https://www.youtube.com/watch?v=3HlXpTQLziY
こちらの動画を「悪趣味な悪ふざけ」と勘違いしている方をお見かけしたので、解説を。
「性的表現」と一括りに語られる表現の是非については、いくつかの異なる論点があって、それを区別できていない方が多いんですよね。(どちらの勢力にも。)
まず一つ目に、「性的営みの自由」に関する論点があります。これは古くから注目されている論点ですね。
ある種のセクシュアリティを持つ人々にとって、ポルノを鑑賞する自由というものは、対人性愛者が恋人とセックスする自由に対応しています。
これらにゾーニングは必要ですが、しかし、「犯罪を助長する可能性」などという議論に持ち込むこと自体が、ある種のセクシュアリティを持つ人々のアイデンティティを著しく棄損することに目を向けるべきでしょう。
ポルノに「犯罪を助長する可能性」があるというならば、対人性愛者が恋人とセックスするという行為、およびそうした行為が許容されているという社会的合意、それらもまた「犯罪を助長する可能性」があるという側面にも目を向けなければフェアではありません。
二つ目に、「文化的営みの自由」に関する論点があります。これは近年になってようやく注目されてきた論点です。
対人性愛が自明視されたこの社会では、対人性愛的な「性と不可分」である文化が無数に溶け込んでいます。
それはファッションやメイクのようなジェンダーエクスプレッションとも融合していますし、また「恋人とデートをする」という程度の活動を生殖行為の一環であると認識している悪趣味な人は少数派でしょう。
そのような社会の中で、宇崎ちゃんの献血ポスターや戸定梨香さんの交通安全動画程度のものが「性的」であるというレッテルを貼られるのは、マイノリティの性の在り方に対する偏見とヘイトの賜物であることは間違いありません。
こうした文化に安易なゾーニングを求めることは、マイノリティの性の在り方をスティグマ化する差別的態度にほかなりません。
多様性を志向するならば、こうした文化を公共空間で許容することこそが求められるべきです。
「性的営み」でしょうか?
「性器を擦り、性的絶頂に至る」ことを目的にこの動画を見る人は、おそらく少数派でしょう。
「文化的営み」でしょうか?
「これが我々の文化だ」と言えば一理あると思いますが、一方で、「これが我々のファッションやメイクだ。ゾーニングは不要だ」と言い切るには、少し違和感もあるかもしれません。
では、「どちらでもない」のかもしれません。
実はもう一つの論点があります。それは「政治的営みの自由」に関する論点です。
そして実は、これこそが最も古くから(一つ目の論点と混同されながら)語られてきた論点かもしれません。
人類は古くから、漫画や漫才、落語、演歌、短歌といった「娯楽」の媒体の中にシニカルな笑いとアイロニーを込めて政治的立場を表明してきました。
挑発的な風刺は、それを見た政敵が嫌悪感を示し、不愉快を表明した時にこそ、その政治性は最も高く評価されるでしょう。
最初の動画を好意的に見た人々は、ある種の「痛快さ」を期待し、実際にそれを動画から享受したのではないでしょうか?
それこそが「政治性」です。
コメント欄を見ても、うっすらとその政治性に気付いている人を少なからず見かけます。
これは表現の不自由展のようなものと同様の活動であり、まさに「表現の自由」の問題です。
外山恒一や後藤輝樹は、彼らなりに真面目な「政治活動」をしているのであり、決して「ふざけている」わけではないのです。(あるいは、時に「ふざける」ことの政治性を彼らは理解している、と言えるかもしれません。)
たとえ大衆を不愉快にさせたとしても、批判を受けながらも許容されなければならない表現というものがあります。
批判はあるかもしれません。しかし、そこにある政治性を軽視し、嘲笑するような態度は、マジョリティしぐさとしては最悪なものでしょう。
あえてゾーニングを破って人々を「挑発」するという政治的営みが、「普通」の人々から「ドン引き」されるというのは、まさにあいちトリエンナーレが「普通」の人々から「ドン引き」されることと、良くも悪くも全く同じ構図なわけです。