https://www.youtube.com/watch?v=3HlXpTQLziY
こちらの動画を「悪趣味な悪ふざけ」と勘違いしている方をお見かけしたので、解説を。
「性的表現」と一括りに語られる表現の是非については、いくつかの異なる論点があって、それを区別できていない方が多いんですよね。(どちらの勢力にも。)
まず一つ目に、「性的営みの自由」に関する論点があります。これは古くから注目されている論点ですね。
ある種のセクシュアリティを持つ人々にとって、ポルノを鑑賞する自由というものは、対人性愛者が恋人とセックスする自由に対応しています。
これらにゾーニングは必要ですが、しかし、「犯罪を助長する可能性」などという議論に持ち込むこと自体が、ある種のセクシュアリティを持つ人々のアイデンティティを著しく棄損することに目を向けるべきでしょう。
ポルノに「犯罪を助長する可能性」があるというならば、対人性愛者が恋人とセックスするという行為、およびそうした行為が許容されているという社会的合意、それらもまた「犯罪を助長する可能性」があるという側面にも目を向けなければフェアではありません。
二つ目に、「文化的営みの自由」に関する論点があります。これは近年になってようやく注目されてきた論点です。
対人性愛が自明視されたこの社会では、対人性愛的な「性と不可分」である文化が無数に溶け込んでいます。
それはファッションやメイクのようなジェンダーエクスプレッションとも融合していますし、また「恋人とデートをする」という程度の活動を生殖行為の一環であると認識している悪趣味な人は少数派でしょう。
そのような社会の中で、宇崎ちゃんの献血ポスターや戸定梨香さんの交通安全動画程度のものが「性的」であるというレッテルを貼られるのは、マイノリティの性の在り方に対する偏見とヘイトの賜物であることは間違いありません。
こうした文化に安易なゾーニングを求めることは、マイノリティの性の在り方をスティグマ化する差別的態度にほかなりません。
多様性を志向するならば、こうした文化を公共空間で許容することこそが求められるべきです。
「性的営み」でしょうか?
「性器を擦り、性的絶頂に至る」ことを目的にこの動画を見る人は、おそらく少数派でしょう。
「文化的営み」でしょうか?
「これが我々の文化だ」と言えば一理あると思いますが、一方で、「これが我々のファッションやメイクだ。ゾーニングは不要だ」と言い切るには、少し違和感もあるかもしれません。
では、「どちらでもない」のかもしれません。
実はもう一つの論点があります。それは「政治的営みの自由」に関する論点です。
そして実は、これこそが最も古くから(一つ目の論点と混同されながら)語られてきた論点かもしれません。
人類は古くから、漫画や漫才、落語、演歌、短歌といった「娯楽」の媒体の中にシニカルな笑いとアイロニーを込めて政治的立場を表明してきました。
挑発的な風刺は、それを見た政敵が嫌悪感を示し、不愉快を表明した時にこそ、その政治性は最も高く評価されるでしょう。
最初の動画を好意的に見た人々は、ある種の「痛快さ」を期待し、実際にそれを動画から享受したのではないでしょうか?
それこそが「政治性」です。
コメント欄を見ても、うっすらとその政治性に気付いている人を少なからず見かけます。
これは表現の不自由展のようなものと同様の活動であり、まさに「表現の自由」の問題です。
外山恒一や後藤輝樹は、彼らなりに真面目な「政治活動」をしているのであり、決して「ふざけている」わけではないのです。(あるいは、時に「ふざける」ことの政治性を彼らは理解している、と言えるかもしれません。)
たとえ大衆を不愉快にさせたとしても、批判を受けながらも許容されなければならない表現というものがあります。
批判はあるかもしれません。しかし、そこにある政治性を軽視し、嘲笑するような態度は、マジョリティしぐさとしては最悪なものでしょう。
anond:20211104114825