はてなキーワード: マイシンとは
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
昨日めちゃだるくて寝てた、熱は昨日は37.0~37.1度。動悸がひどいし息苦しいアラフィフ女性。一昨日以前もだるさがなかったが一瞬熱っぽい気がしてはかったらそのくらい遭ったと思うが36度台と37度台をフラフラしてて測り間違いかとおもうくらいにブレが大きい。
同居家族もだるいというが生理が来てるからかも、わからんが若いからとりあえずいつもどおり引きこもっていれば移し移されもなく大丈夫だろうというので
とりあえず症状(微熱)がはっきりとある自分から医者にいった。
ちなみに自分は普段から喘息持ちで常備薬つかって低空飛行でいきてる。熱が少し低くても濃厚接触したなら医者にかかっていい範疇の人。連れ合いはジムや会社や外食に通っていて何ら自粛しない。PCR陽性だったらさすがに行動が一変するだろうという目論見も有る。
濃厚接触者云々の都道府県ごとのサイトをしらべる。9時から電話で問い合わせできるが24時間窓口も一応ある。
息苦しくて眠れず朝5時頃からかけようかかけようかとおもってたけど夜番って疲れててつっけんどんだよね我慢して待とう
でもそうこうしてるうちに熱がちょいと上がった(37.2)し息苦しさがどうにもならんので我慢できずに七時半に24時間窓口へ。
状況をいろいろ喋ったけど熱が37.5ないのでとりあえず「かかりつけの医者」へかかれという指示。
9時から電話で受付に問い合わせて指示をうけていると書いた上かかりつけの医者へ。めちゃ混んでる。当院はPCR検査はしないと入り口あたりに書いてあった。
医者はかかりつけだけあっていろいろ話をきけた
・(S02)95%あるからいつもくらい。肺炎だともっと低い。でも脈が100こえてるのはアレだ
・(受診態度)あっマスクは外さないで(×3回いわれた、喉をみるときもはずさず顎にひっかけろといわれた)喉はキレイだな
・(受診態度)熱が4日つづかないかぎり家でじっとして療養するしかないってテレビニュースでもいってるでしょ(テレビ一切見ないです)ネットにもほら(出てないです)
・(受診態度)濃厚接触じゃないかぎりいいんだって(県内でスプレッダが出た2箇所のジムがどことどこかはどこのサイトでも具体名ふせられてます)A区のとか・・・。出てるはず(出てないと思うけど知ってれば予診で名前あげられてるし反論はしなかった)
・(検査結果)インフルはない、採血は白血球が正常範囲の上限くらいまで上がってる。ウィルス性ではなく細菌性のなにかっぽい。動悸もいつもの薬にベータ入ってるからそれじゃないの
こんな感じだった
ちなみに親世代に20年間質性肺炎でここ数年も酸素吸入していきており、介護保険でどうにかなってるけど長期停電かコロナにあったら一発死亡する人がいるので知っているのだが
コロナだったら旦那がこれからスプレッダーになるんだと思うんだけど
おわり
https://www.tokai-tv.com/newsone/corner/20200304-CORONA-Jimunosyosai.html
ジムの詳細公表で感染防げた可能性も…新型コロナ感染者41人は“全国2位” 問われる愛知県・名古屋市の姿勢
3月 4日
新型コロナウイルス、3日は愛知県で新たに9人の感染が確認されました。
そのニュースについて、視聴者の方から次の様なご意見をいただきました。
「新たな罹患された方の情報がありました。『尾張地方』の2人とのことですが、なぜ市町村名を公表しないのでしょうか?他府県では市町村名や立ち寄り場所なども公開していて、愛知県の少なすぎる情報に憤りを感じます」
この女性のご意見の通り、愛知県や名古屋市は感染者が暮らす市区町村や具体的な立ち寄り先は公表していません。その対応に街でも疑問の声が上がっています。
市はこのうち80代の女性3人は3月1日に感染が確認された80代の女性と面識があり、同じ場所にいたことがわかっていると発表。
しかし、会見では接点となった「同じ場所」がどこなのかは、明らかにしませんでした。
<名古屋市の会見の様子>
記者:
「もう少し具体的に発表していただきたいんですけど」
市の担当者:
「今日現在お答えできる内容というのが、大変恐縮です、分かりづらいかもしれませんけれども、こういう説明のところまでが精一杯ということでございます」
アトピーじゃないけど、つま先の皮膚が割れまくってずっと血だらけになってた。
皮膚科で油薬貰ってつま先に包帯巻いてそのうえに靴下穿いてた。
学校ではそんな事話さないので、体育の教師にはどんくさいやつと多分思われてた。
親はぼーっとしてる人たちなので、娘がつま先が痛くて、帰ったら血だらけの包帯かえてるのを、面倒くさそうにみてるだけ
教師にそういうのを話してくれたりもしないので、つま先が痛くて早く走れないのは、どんくさいためと思われて、さらに辛かった。
他の友達にそんなこと言ってる子はいないようだったので、「人と違うトラブル」は「話すだけ無駄」と知っていたため話さなかった。
「可哀想」という共感力は、小学校低学年になんて、そんなにないのだ。「人と違う」は「気の毒」でもいじめの対象になる可能性だってある。
死ぬほど嫌いだった体育。
先生に「化学繊維にかぶれるので、綿・麻・絹100%のくつしたにしてください、10%でも入ってたらダメ」
たいがいのものにはナイロンやポリがはいってて強度が高めてあったので、探すの大変だった。
大人になったら、OLになったらストッキングどうしよう、絹とか高いんじゃないのかな……。
友達にも教師にも話さず、つま先はずっと痛くて、あかぎれみたいに割れて最悪だった。
ところが、第二次性徴で治った。嘘のように。
当時の体育教師は、どんくさいけど柔軟体操のときだけ変に体に柔らかい、太めの生徒と思われていたんだろう。
つま先は体重がかかるので、あかぎれの酷いやつみたいに(カッターで切り付けられたようにバンバン割れる)なるので本当に血だらけだった。
夏はほぼ大丈夫。
可哀想、とときどき母が言ってくれたけど、油薬と、割れた傷跡の血が混じるとぬるぬるしてさらに気持ち悪い
父が若いころ結核して、マイシンで奇跡の生還した人なので。多かれ少なかれなにか子供の私にも影響があったのかも知れないと今では思う。
自分がIBSという病気について再発したので色々と調べてみた。
過去には学生時代、もう思い出したくないことがたくさんあった。
その後就職によって生活習慣が180℃変わったので改善していた。
またもや再発したということなので現状と原因をみてみた。
まずは現状はガス溜まりが酷い。食事後にゲップ、オナラがよくでる。特に麺類の場合は多い。
それに続いて下痢症状が発生した。下痢はお腹が冷えている場合に起こる。
これが約半年経過している。
起こった経緯としては約2ヶ月間、粗末な食事によって胃が荒れてしまうことが続いて、とある日を境に発症した。
断食は他にも同じ症状の人の結果を見たが、あまり効果はないようだ。自分でも2日行ったが改善はしなかった。
運動は大変効果有り。腸内に効果は不明だが、ストレスが大幅減ることにより精神的に楽になった。
胃カメラはピロリ菌の疑いも合わせて検査をお願いしたが、特に何もなくピロリ菌も陰性だった。
ヨーグルトは種類によって効果が変わった。一番効果有りと感じたのはLG21だった。
これからの対策としては抗生剤投与を行うつもりだ。合わせて運動し、ヨーグルトを食べる。
抗生剤についてはガス型IBSが改善した人のレポートを発見した。それによるとRifaximin、カナマイシンである場合は病原菌に対し非感受性とされていた。
それに対してクリンダマイシンを寒天に調整し、空腹時に服用したところ治療に成功したようだ。
運動についても書かれていて、それによると病原菌は嫌気性であり運動によって血の巡りがよくなり腸の酸素濃度が上昇し菌の活性が弱まり除去されると書かれていた。
この記述は私が以前に回復した状況によく似ている。精神安定のためにも運動は必要だ。
ヨーグルトはIBSによる腸内環境が悪化し、下痢になるのを防ぐためにも毎日食す。
今のガス型IBSを巡る医療の現状は精神療法となっていると感じる。私の持論だがIBSの悪化する原因は腸内環境悪化→細菌増殖→腸内環境悪化→下痢、腹痛、ガス→精神不安定→腸内環境悪化、、、と思っている。
この流れを食い止めるには何者かの細菌を死滅させるしかない。ヨーグルトはあくまで悪循環を抑えるだけだ。運動はいつ回復するか不明確すぎる。
このガス型IBSによって多くの人々が人生を数年~十数年と苦しめられてる。これが精神的という曖昧なものではなく、明確な治療法によって改善するということを自らを持って証明したい。
また抗生剤を投与後に経過報告を記そうと思う。