はてなキーワード: 弁当とは
たまに中学生息子に弁当要るときあるけど、この間は生姜焼きみっしり+ブロッコリーだけの弁当だったよ。
幼稚園の時は、みっしりパスタ(しかもレトルトソース)+ブロッコリーの弁当作ったことある。
専業だったけどキャラ弁とか一度もしなかったねー。
昼休憩は一人でぼーっとしたいからデスクで弁当派なんだけど最近弁当派が増えてしまった
みんな社食行ってよーーーーー他人の気配すら感じたくないんだよもう
これってなんの症状なのか教えてほしい。
昔から母が少し変わってるとは思っていたけど、実家を離れて会社で色々な人と接するにつれて、だいぶおかしいんじゃないかと思い始めてきた。
たとえば、ラインのやりとりで実家からうちの家に荷物を送る際、
母「○日に荷物送るけど時間は時間指定が午前か、12:00~14:00,14:00~16:00,16:00~18:00,18:00~20:00,19:00~2100,20:00~2100なんだけど、いつがいい?」
私「午前ならだれかしらいるよ。あと○日にこっちからも荷物送るわ」
母「はーい。ありだとう。じゃ12時〜14時の時間指定で送るね」
基本的に人の話を聞いていない。
私「〇〇嫌いだから入れないでほしい」
↓
またお弁当に〇〇が入ってる→残す→同じやり取りを繰り返す。
私「だーかーらー、〇〇は嫌いだから入れないでほしいって言ったじゃん」のエンドレス
例えば、
母「今日の晩御飯はあなたの好きな〇〇だよ」みたいなやり取りがあることを私は姑と暮らして初めて知った。
姑マジ神。涙出るくらい私の本当の母だと思ってる。本当に感謝しかない。
母は、会話をしてるとき人の様子を一切気にかけない。
こっちが座っていれば延々と自分の話を話す。10分間目を合わせず相槌を打たなくても、耳栓してても気づかないくらい。
会話は、会話のツラをしてるだけ。
常に一方通行。
これって何でしょうか。
どうやってこの先、私の出産〜母の老後まで付き合っていけばいいでしょうか。
メールやLINEが普及してから、日常生活のなかで無言電話を受ける機会は格段に減ったと思う。それでもあの、電話の向こうで、誰かが息を潜めてじっとしているあの感じ、じっさいにそうしているかどうかは分からないのに、それでもやっぱり誰かいると思うあの、背筋がぞわずわする感じは、いまだに思い出す。
無言電話のあの気味悪さをわざわざ味わいたい人などまずいないだろうと思うが、母は無言電話を心待ちにしていた。毎年、いつ掛かってくるかわからない無言電話を受けられるようにするためだけに、家にいることが多かったと思う。
うちは姉と私の二人きょうだいで、姉は少し変わっていたと思う。今だったらいろいろな診断名がついたのかもしれないが、当時はそういうことを知っていた人が周りに誰もいなかった。家にいるときの姉はどこか天真爛漫なところがあって気前がよかったが、何か思い通りにならないことがあると癇癪を起こしたり、ふさぎ込んでしまうこともあった。大きな音が苦手で、近所で工事があって重機の音がしていると、両手で耳をふさいだままその場に倒れ込んでしまうことがあった。甘いものを切らせると具合が悪くなるので、いつもポケットに飴かクッキーの小袋を入れていた。
そういう姉が学校で周りの人とうまくやっていくのは難しかっただろうと思う。小学校低学年のとき、遠足で市立公園に行った。二個上の姉の学年も行き先が同じだった。自由行動のあいだは、友達同士のグループでレジャーシートを敷いて固まって、お弁当を食べたり、おやつを交換したりした。トイレに行くとき、姉の学年の人たちがいる原っぱの横を通りかかった。いくつものグループができて、みんな騒いでいたけれど、姉だけは少し離れたところで草むらに入り込んで、バッタかなにかを追っていた。よくわからないけれど、見てはいけないものを見てしまったような気がして、その日は一日じゅう暗い気持ちだったことを憶えている。
勉強ができた姉は、県内でも有数の進学校とされている高校に行った。毎日、自転車で帰宅して部屋に戻ると、それ以降どこかに出かけた姉を見た記憶がない。高校で「普通」の人付き合いができているかどうか、母は気にしていたらしく、姉の友人関係についてそれとなく尋ねたことがある。そのたびに姉はひどくいきり立って、よくわからないことを叫んで、部屋に籠もった。父は何もいわなかった。
受験生になって県外の旧帝大を受けた姉は落ちた。模試での判定はよかったらしく、私立を併願しても行く余裕はうちになかったので、他にどこも受験していなかった。姉よりランクの低い高校に行っていて、卒業後は就職するのだろうと思っていた私は、姉の身になにが起こっているのか、想像することもできなかった。
自宅で浪人をしていた姉は翌年も落ちた。どういう話し合いが両親との間であったのか、私には分からない。父のつてで紹介された地元のケーブルテレビ会社で姉は働き始めたが、半年ぐらいで行くのをやめた。おそらく人間関係が原因なのだろうと思ったが、家では誰ものその事を言い出さなかった。その頃から母と姉との言い争いが絶えなくなった。ちょっとしたきっかけですぐに激しい言葉のやりとりになって、姉が勢いよくドアを閉めて部屋に閉じこもるのが常だった。
姉が引きこもるようになってから少したった頃、私は地元の会社で働きはじめて、仕事を覚えることで頭がいっぱいだった。家に帰ると毎日疲れていた。姉とは話す機会がほとんどなかった。たまに、夜中の居間で出くわすことはあった。帰宅後、着替える気力もなくて、電気の消えた居間でソファーに沈み込んでTVをぼんやり眺めていたら、冷蔵庫へ麦茶を取りに来た姉もしばらく後ろに立っていて、流れている番組について他愛ない話をした。いま思うと、そういう話をすることで、私たちはお互いに何かを確認していたのかもしれない。
それから姉はいなくなった。珍しく私は早く帰ってきて部屋にいたら、母と姉が言い争う声がして、ドアが勢いよく閉まる音がした。またやってるのかと思ってそのときは気にとめずに寝たら、翌日に姉はもういなかった。捜索願、探偵、行方不明者情報サイトへの登録、なにをやっても戻ってくる気配はなかった。ネットで情報を見た人が、小倉のホームセンターの駐車場で姉らしい人を見かけたといって連絡してきたこともある。ジャージ姿で男の人と車に乗って去っていったらしいが、本人なのかどうか、確認する方法はなかった。
一年くらい経って、姉から電話があったと母が言った。夕方かかってきた電話を取ると、受話器の向こうで人が黙っている気配があったので、姉の名前を呼んでみたところ、ほどなくして切れたそうだ。それからさらに一週間ぐらいしてまた夕方にかかってきて、母がまた姉の名を呼ぶと、今度はかすかにすすり泣くような声が聞こえたという。
電話してきたのはほんとうに姉なのかどうか、そもそも電話はほんとうにかかってきているのかどうか。問いただすことは私にはできなかった。が、それ以来、母は家でじっとしていることが増えた。父と母は、姉の部屋をずっとそのままに、出て行った日のままにしていた。
私は私の地獄を生きるのに精一杯で、家のことを何とかしようとか、母を支えようとか、そういうことをちゃんと考えられなかったと思う。職場は一族経営の地元企業で、上司は会長の甥だった。就職してわりと間もない頃から距離を詰めてきた。この田舎でほかに移れるところはなかったから、断れなかった。僕はパイプカットしてるから子供はできんのやということを口癖のように言っていた。絶えられなくなってその上司の上司に相談したら、いつの間にか私の方が悪いことになっていた。その間、東京の会社へ転職活動し続けて、逃げるように上京したが、ある日突然、電車に乗れなくなった。適応障害だとかいわれて、部屋にこもって布団の上に転がっているだけで、生きているだけで苦しかった。手持ちの金はどんどんなくなっていった。
その間も実家から電話はときどきかかってきたが、ほんとうのことを言うことはできなかった。あるいは、母も何かを察していたのかもしれないが、直接言ってくることはなかった。姉からまた無言の電話があった、という話を聞いても、そうなのかと思って軽く受け流すことしかできなかった。電話を切った後、日暮れ時の実家の居間で、じっと電話を待っていたであろう母の姿を思うこともあったが、その頃は、自分自身がその瞬間に生きていることすら重たすぎて、何かを深く考えることができなかった。
結局、休職期間中の給付が切れる前に、少し無理矢理気味にだけれど職場復帰して、私はぎりぎりでその時は生き残ったと思う。それ以来、地元のことを思い出すと吐いてしまうので、できるかぎり、頭の中から地元の存在を消し去って生きてきた。もちろん実家にもほとんど帰った記憶はない。消し去った地元のうちには姉の存在も含まれていた。
実家はもうない。姉はどうしているのだろうと思うことはある。生きているのかどうかも分からない。いまも実家に電話をかけようとしているのだろうか。もうつながらないと知ったとき、何かを思っただろうか。もちろん私にはなにもわからない。ただ、もう存在しない薄暗い居間で、電気もつけずに母が、おそらく電話をそれとなく待ちながら片づけなどしている姿を、いまでもそうあるものとして、ふっと思い出してしまうことがある。
一品タンパク質×野菜いため期→鍋期→シリコンスチーマー期→食べるスープ期→肉まんとインスタントスープ期→レトルト期(お粥とかスープとか)→フライパンで蒸し野菜期→作り置き冷凍炊き込みご飯おにぎりとスープ期→……(たまにループ)
何食べたらいいか迷ってる
求める要素
・買い出しは週に2回程度に抑えたい、コンビニ弁当はなし
・安い、一食350円以下
・運動したからしょっぱいものがいい。今ならうどんの汁飲み干せる。あっもううどんの口になっちゃった。
・このところ野菜食べられてないからタコライスとかレタスチャーハン。夏野菜カレーでもいい。
・いそいでテレビの映画みたいから丼でさっと食べられるやつ。親子丼てつくるの簡単?牛丼買って帰ろうか?んでいっしょにみよう。
・冬は鍋って何回たべてもおいしいよね。こないだと違うやつでカレーつゆやトマトチーズとかどう
・チーズ食べたいチーズ。チーズフォンデュかピザかタッカルビ。
・最近となりの席の人が刺し身弁当にいれて海鮮親子丼みせつけてくるんだけど。小分けして冷凍して売ってるのがあるみたい。
勉強は不得意。結構勉強しているつもりだけど、成績は中ぐらい。本当はもう一ランク上の高校を志望していたけど、最後まで模試の判定が悪くて諦めた。
将来社会で働くことに興味が持てない。やりたい仕事も見つからない。
ただ、小さい時からよく手伝いをしていたので料理や掃除は得意。今は家族の夕食と弁当作りを任されていて、とてもやり甲斐を感じている。週末も部活がないときは、家の掃除や洗濯をしていることが多い。自分にとって掃除はストレス解消を兼ねた趣味だ。
将来スーツを着て働く自分は想像できないし、そうなりたいとも思えないが、こうやって家族のために家事をし続けられたらいいなと思う。それが一番できるのは、専業主夫しかないと思う。
子どもが好きなので、専業主夫として子供の育児に全力で取り組むことにも魅力を感じる。いくら男の育休拡大といっても専業主夫ほどに子供と関わるのは無理だろう。自分は物心ついた時には父が亡くなっていて、母は仕事で忙しく小さい頃はいつも寂しかった覚えがある。だから、子どもが小さいうちは特に、絶対寂しい思いをさせたくない。
男女の生き方が多様化している時代だし、自分のように働くことより家のことを切り盛りすることに興味をもつ男子高校生がいてもいいはずだ。
ただ問題は、専業主夫へになるにはどうすればいいか、いまいちわからないことだ。
学校では、男も女も働くことが前提で進路を考えさせられるし、専業主夫志望だというのはなかなか言い出しづらい。
参考にできるような男性も周囲にいない。
家族には既に話してある。
夫を死別している母は「一馬力は大変なのよ」とあまりいい顔はしてくれない。しかし「専業主夫になれなかったとしても生きていけるように手に職をつけなさい」とは言ってくれている。
既婚者の友人の多い姉は、「兼業主婦志望で看護師か薬剤師の資格を持っておいた方があとあといいらしいよ」と言う。
ただ、看護師は女性の多い職場は自分には向いていない気がする(小学生の頃、こども合掌クラブが女子ばかりであまり馴染めなかった思い出がある)。それに、看護師という仕事に興味を持てない。人命にもろに関わるだから、興味がなければきついだろう。
薬剤師の方は、まだどういう仕事かきちんと調べられていないけれど、自分の成績で薬学部に行けるかが不安だ。
兄は「専業主夫には向いてると思うけど、結婚相手が見つかるかが問題だよな」と言っている。出会いがある高校生か大学生のうちに恋愛をすべきだぞうだ。たしかに、大黒柱になれそうな女性は大卒だろうし、大学には行くべきだと思う。
専業主夫になった人、専業主夫と結婚したという人、それから専業主婦・専業主夫になりたい人は何学部に行くのがいいのか詳しい人がいたら教えてほしい。
レジ袋有料化されて1年くらい経ってるけど、未だにわかんないことがあるんだよね。
コンビニで弁当(レンジで温めてもらったやつ)とアイスコーヒーとか、要は温かいやつと冷たいやつを両方買うときにレジ袋お願いしたら
に分かれるじゃん。さらに2つに分けるパターンでも、レジ袋1枚分しか課金しない場合と、2枚分きちんと課金する人がいるじゃん。
あれってレジ担当者の裁量なの?それとも店とかによってマニュアルがあるの?
レジに詳しい人教えて!
仕事がないわけではない。仕事はある。忙しい。売り上げが落ちているわけではない。
朝から暇そうに爪を切り新聞を読み、よくわからない唸り声を出しため息をつく。
口を開けば高齢者同士で ワクチンの予約が~、政府の対応は~、若者が自粛しないから~。
新聞とネットサーフィンに飽きたら行先も告げずに「ちょっと1時間ぐらい出かけるね」などと言い出ていく。
仕事量がゼロだとは言わないが、バリバリやってる若手の1割も仕事していないだろう。
お互い知りはしないだろうが、そんな状態で2倍以上の給与差があるのだ。
高齢者にとって会社が「暇を潰して弁当食っておやつ食う場」になっている。
現役層の不満が日に日に高まっているのを感じる。