はてなキーワード: 佐賀県とは
昨日に続きで、約30年で各都道府県でどの程度人口が変化したか。女性注視Ver
1995年~2022年で各都道府県毎にどの程度女性の人口が増減したか順位付けを行った。
また合わせて男女の増加率の差も見てみた。
・特長的だったのはこの30年で男性と比べて女性が大幅に増えた都道府県があること。(男女差4%以上)
・一方で男性側の方が大幅に増えた都道府県はない。差があっても2%以内。
このことから30年で特定の都道府県への女性の流入が進んだことが考えられる。
具体的には東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、奈良。表にて強調表示。
02 沖縄県 13% (14%) 0%
06 滋賀県 7% (6%) 0%
09 兵庫県 0% (-4%) 3%
13 広島県 -6% (-6%) 0%
14 岡山県 -6% (-6%) 0%
15 茨城県 -6% (-7%) 0%
18 静岡県 -7% (-7%) 0%
19 群馬県 -8% (-8%) 0%
22 熊本県 -9% (-8%) 0%
34 新潟県 -14% (-14%) 0%
36 愛媛県 -14% (-14%) 0%
41 長崎県 -18% (-18%) 0%
42 福島県 -18% (-16%) -2%
03 東海 -2% (-2%) 0%
04 近畿 -2% (-6%) 4%
05 九州 -7% (-7%) 0%
06 北関東 -8% (-8%) 0%
注:創設年や前身校が曖昧だったりすることもあるのでそこそこ独断で決定している。
こうしてみると「ここ10年」というよりは1990年代から増えはじめて2000年代に最盛期を迎えていたことがわかる。
これは「共学化」や「合併」で改名の機会が増えたことが一因であろうと思われる。
1990年代は高校数の増加が止まった時期であり、さらに2000年頃からは減少に転じてもいる。
少子化に伴って、全国の高校が共学化や合併を余儀なくされ、その際に「〇〇館高校」と改名したパターンが多いのである。
古めかしい字面の「○○館高校」は江戸時代の藩校や私塾が源流にあることが多い。
もともと「○○館」という名の藩校や私塾があって、それが紆余曲折を経て「○○館高校」になったものである。
そうした高校は、必然的に歴史が長く、地元では「伝統校」「名門校」と見なされている。
推測だが、そうした「伝統校」「名門校」のイメージを持たせるために「○○館高校」に改名したところも多いのではないか。
「○○館高校」の数は県ごとに偏りがあり、特に福岡県・鹿児島県・愛知県・広島県・山形県あたりで多いが、いずれの県にも古くから「○○館高校」がある。
それらの地元では何となく「○○館」にかっこよくて頭が良さそうなイメージがあるのかもしれない。
また、同じ県で近い時期に続けざまに公立の「○○館高校」が開校している例がまま見られる。単純に命名者が重複している可能性もある。
将棋界のプロ制度には1)「棋士(性別不問)」と2)「女流棋士(女性のみ)」があります。
(https://www.shogi.or.jp/knowledge/world/01.html)
>プロの世界には、現役・引退あわせて230名を超える棋士がおります。 現在は男性しかおりませんが、女性でも棋士になることは可能です。
>棋士になるには、奨励会という棋士養成機関に入ります。 奨励会には一定以下の年齢で、棋士の推薦を受けた人のみが受験できます。
>女流棋士になるには、研修会に入ります。 研修会には25歳以下の女性が入会できます。そこで規定の成績を挙げることにより女流棋士2級となります。
で、1)「棋士」と2)「女流棋士」は全く別の制度ですので区別する必要がありますが、"女性棋士"という言葉は1)「棋士」の女性を指します(現状は存在しません)。
「女流」という言葉が差別的だという意見もありますが、代替案として私が思い付くのは「レディース棋士」ぐらいです。ダメか。
ただ女流棋士という名称は数十年かけて定着したので変更は簡単ではないでしょう。
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またこの手の話題では「女流棋士は女性が奨励会を勝ち抜けないから女性だけのプロ組織ができた」という意見もありますが、これは正確には誤りです。
時代をすごーく遡ると江戸時代には数名女性が将棋を指した記録が残っていますが、明治から大正、昭和にかけては将棋を指す女性はほぼいませんでした(賭け将棋が流行っていた、将棋=ギャンブルの時代)。
それが1960年代に連盟が女性教室を開いたり、女性アマ棋戦を作ったりして女性の将棋ファンが少しずつ増え、1974年に女流棋士制度が誕生します(来年で50周年)。
大山康晴十五世名人は将棋普及面の充実ため女流棋士制度の確立を強く提唱したそうです。
ちなみに1976年に建設された東京・将棋会館の設計にあたって大山名人は女子トイレの増設も主張したとか。えらい。
少し話がずれましたが、女流棋士が出来たときは将棋を指す女性は非常に少なく、棋士と比べるレベルではなかったんですね。
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数十年の時が流れ、昔より女性の将棋ファンは増えたと言っても競技人口としては女性はまだまだ少ないです。特にプロを目指せる小学生(棋士は大体5、6歳で将棋を覚える)。
将棋は早く始めないとプロ棋士は無理。これホント。中学生になって囲碁から将棋に転向しました〜とかないですから。
ただ早熟が正義なのは変わりませんが、誰でも将棋が強くなりやすい時代にはなったと思います。
昔は対面で指すしかなかったのがネット対局や将棋ソフトなど勉強方法は多様化。地方在住のハンデは少なくなったし、将棋を指す友達が0人でも強くなれる。
だから女性棋士も沖縄出身の棋士もそのうち出るでしょう、きっと。
(今日の豆知識:福井県、滋賀県、島根県、佐賀県、大分県、鹿児島県、沖縄県は将棋棋士を一人も輩出していない)
(終わり)
佐賀県に幕府海軍があった理由は、大分県や鹿児島県で硫黄が取れたから(輸出もされていた
ここで米国軍人リロイ・ジェーンズが海軍の顧問にきて英語を教えはじめたけれど、幕府はそのうちジェーンズを怪しみ学校予算を止めた
その流れで鹿児島の島津薩摩藩が親米になり、大久保利通などが尊王反幕派としてクーデターを起こした
これが明治維新
世界の硫黄シェアを持っていたシシリアが1940年にフランスに寝返ったので、英米が硫黄不足に陥っていたため(Sulfer crisis)
生きるのがつらい者たちへ、生きる希望が湧いてくるオススメのニコ生主たちを教える
生きるのがつらい増田たちはニコ生のどうしようもないやつらを見て元気出して行こうな
https://note.com/akaska2900/n/n329949f68384
岐阜住み介護職チー牛。とてつもない無能で二次元オタクロリコン。
一向に成功しないナンパ配信やリスナーからの罵詈雑言がコンテンツ。
配信を始めた当初は東京住みの無職で漫画家を目指していたが、その後介護職についたりやめたりしている。
いろんな女生主に恋をしては嫌われている。
気持ち悪い自分語りや恋愛観、僕はこんなに可哀想な人間という被害者意識を語り、それに対する罵詈雑言がコンテンツとなっている。
身長120cm台でも元気にしぶとく生きている。
なお性格も悪く、金にがめつい。死にかけの金バエからの最後の遊びの誘いに、奢りじゃないとわかった途端キレて断る。
佐賀県唐津のローカルタレント堀田みなみに恋をし、一時鬼電、鬼LINEをしていた。
ぽんちゃんのハンディキャップを前に自分の悩みはちっぽけなことに思えてくるだろう。
巨人。心臓疾患持ち無職。無職なのにリスナーの恋人ができ結婚。
堀田みなみに気に入られており、ぽんちゃんとは一時ライバル関係にあった。
ぽんちゃんが唐津に堀田みなみに会いに一人旅に行く際、追いかけて出発しデッドヒートを繰り広げた。
チャリで東京から大阪へ行く企画の途中トンネルで後ろから車に激突され腰の骨を折る。
事故相手の保険会社の医者には将来的に半身不随になると宣告されている。
この事故以降、街ブラ配信で事故りかけるとタコスチャンスと言われるようになった
「のうや」「じゃけえ」が口癖。
女性にはゆのんやかなたのような珍獣枠のほか、容姿の可愛さで癒やす癒やし枠も存在。
すべてを優しさで包み込む魔界から来た永遠の中二病天使。自称14歳。
「ありがたきー」や、「~魔界(語尾)」など独特の語彙が特徴。
眼帯をして、幼稚園児のような格好をして恥ずかしげもなく街を練り歩く。
こいつを見ていたらあまりの珍獣っぷりにきっと元気が出てくる魔界。
https://twitter.com/iroma29/status/1622281800088457216
バイトを一日でやめるなど何をやっても続かないダメ人間無職。一級プロバックラー。
コールセンターのバイトは4回行って自分のダメさに嫌になりバックレる。
絵を描くのが趣味。
「んふーww」という笑い方が特徴。可愛い。
クリスマスにケーキを作る配信では、ケーキ完成直後に床にケーキをぶちまけるミラクルを起こす。
ニコ生の彼氏詮索コメントに耐えかね、転生しイセカイ・リーネというVtuberとして活動を始めるもそれも続かず音信不通に。
ブス罵倒や質問攻め、リスナーに歓迎されないお色気がコンテンツ
https://twitter.com/gin_tonic55/status/1691113767273447425
リスナーの教育が行き届いており、治安の悪いコメントは少なく、雰囲気はウェザーニュースに近い。
大型連休でも配信を行い恋人の陰はなく弱男でも安心して推せるニコ生の檜山沙耶枠。
美人だがヤニカスでポンコツなところもあり、囲いコメは少ない。
宮崎訛りがすごい。天然。
元パチンコ店員。
https://www.youtube.com/watch?v=S3wrJT4Lnhc
世界一下品な女。下ネタや下の話を赤裸々に話すことに抵抗がない
姉は元アイドル
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。