はてなキーワード: ジェンダーフリーとは
そもそも自分にないものを他人に求めるからこそ旧来の結婚が成り立っていたわけで、ジェンダーロールから脱しちゃうともう単純なスケールメリット以外に同居するメリットがなくなるんだよね
ここで言うハイスペとは年収だの容姿だのコミュ能力だの学歴だの多岐にわたるが、
まあ少なくとも1つは(無論複数だとなおハイスペ力が上がる)人並みを抜きん出た能力を持った人間とする。
そんで昨今のジェンダーフリー論の類であげられる「男らしさ」「女らしさ」から脱して結婚や恋愛できるのは、
まさしくハイスペだけなんでは、と思うんだよね。
逆説的にロースペは「男らしさ」「女らしさ」に頼らないと、結婚がちと難しいんではないなと。
1、「男らしさ」「女らしさ」に忠実なハイスペ夫妻
3、「男らしさ」「女らしさ」に忠実なロースペ夫妻
以上のうち1〜3に比べ、4は成立し難いんでは?と思うんだよね。
だから要するに、ハイスペであって初めて、「男らしさ」「女らしさ」から脱せる余裕が生まれる、のでないかと。
ハイスペはハイスペで繋がって結婚できるから「男らしさ」「女らしさ」から脱せられる。
だがロースペはせいぜい「男らしさ」「女らしさ」くらいしか繋がりを持てないわけだ。
ロースペは
『「男らしさ」「女らしさ」に忠実になって結婚する』
『「男らしさ」「女らしさ」に忠実になりたくないから結婚は諦める』
厄介なのが、上記の2のハイスペ夫妻は、大概自らのハイスペっぷりをアピールしないのだ。謙虚。
むしろロースペを自称したりする…いやそもそもハイスペである自覚すら無いかもしれない。
事実は2なのに4を自称してしまう現象がこの問題を分かりづらくしている。
ひたすら自分sageしないと行けないような世知辛い世の中だし。うんうん。
そんでここからが本題だが(長くてゴメン)
世のあまねく婚活アドバイスが「男らしさ」「女らしさ」に寄り添ってしまうのは
『婚活に行ってもロクな異性がいないのは当たり前。優秀な人間は婚活などするまでもなく結婚してるから』
とありますよね。
だから婚活アドバイスする側としても、相手はロースペしかいないんだから、
『ロースペが「男らしさ」「女らしさ」から脱して結婚できるわけねーだろ』
明確にそう思ってるかは知らんが、ぼんやりとそう思ってるんでは無いかと。
そんで婚活アドバイザーが対象を結婚させることを至上の目的としている以上、
誰がそれを責められようかという話だ。
いやまあ我ながらひどくざっくりした論だなあと言うのは認めますし(笑)、
別に頭ごなしに「ロースペが「男らしさ」「女らしさ」を捨てて結婚できるわけねえよ!」なんて言う気は無いッスが、
「なぜ婚活アドバイスは「男らしさ」「女らしさ」に寄り添ってしまうのか?」
という疑問への一つの回答となっているのではないでしょうか?
ま~残念ながら今現在の世の中では『「男らしさ」「女らしさ」から脱した結婚を望むのは良いが、自分はそれを叶うほどのスペックを持っているか?』という思考が必要になってくるんじゃねーかと思うし、
恋愛とか婚活とかについてアドバイスやら必勝法やら語ってるサイトやら書籍を見ていると
「男(女)の心理」「男(女)の喜ぶ行動」「男(女)がするべきファッション」と、
男女の違いについて意識して、恋愛に臨むことがしきりに書かれている。
だがこれらは結局の所、「男(女)はこう思うものである」「こういう風に考える男(女)なんていない」
と言っているようなもので、世の数多いる存在を、こうである、と括って決めつける行為である。
つまりは「男らしさ」「女らしさ」という性役割の固定を前提にして語られているのである。
要するに「男はたくましくあるべき」「女は家庭的であるべき」みたいなセクシズム言説とそこまで距離は無いのである。
元々男女平等とかどうでもいい系の恋愛サイトはそこら辺カモフラージュせずダダ漏れだ。
じゃあ比較的穏健に男女平等に配慮した恋愛サイトは違うのか?と言うと、
「こうすれば上手く行く!」という段階となると、
結局の所、直接的な言葉は避けつつも、何重にもオブラートには包み込みつつも、
前述した「男らしさ」「女らしさ」に頼ったことしか言えてない。
いや、別に、いいんですけどね?そういう恋愛アドバイスは絶対してはいけないとか、
言論封殺したいわけではない。お前らは絶対悪だ!とか言う気はない。
かくいう私も人様に偉そうに言えるほど、男女平等貫けてるわけではないし。
言いたいなら好きに言えば良い。止める気なんて無い。
ただ、「男女平等」を是とするのであれば、この「恋愛アドバイスは性役割を肯定しやすい」
ということは最低限意識した方が良いのではないか?と思うわけである。
親の与えられる遺伝的能力(知能・運動神経)、教育資金、文化資本が多けりゃ多いほど子供が競争社会で有利になりやすいんだから、
ジェンダーフリーが進んで女子供養って一人前みたいな価値観がどっか行けば、男も下方婚しないほうに収束してくだろ
いまどき三角関数も因数分解もできねーような女に自分の子供育てさせたいか?
男女間の収入ギャップはまだあるにしろ、夫婦の知能格差はどんどん埋まってんじゃないの
つーか、自由恋愛そのものが優生思想の観点で導入され推奨されてきたんだもん、こうなるのが必定だよ
要するに競争原理だもん
あぶれた非モテがエリートカップルの子育てに税金絞られたくないってなら、ほーらマルクスは弱者の味方、家族解体論者になるんだよ
「『らしさ』から解放されようよ!」という主張に対して胡散臭さを感じてしまう人が多い理由は
結局の所、世のシステムが「競争原理」で動いてるからだと思うんですよ。
ここで言う競争とは労働だのお受験だの恋愛だのまあ色々あるけど、
そして競争に敗北したとして、救済措置が存在するわけでもない。
いや世の中の人って99.9%以上は「らしさから解放されたい」って思ってると思うんですよ。
でもそうならないのは、繰り返すけど、世のシステムが「競争原理」で成り立っているから。
負けた後お前がなんか救いの手を差し伸べてくれるわけじゃねぇんだろ!?知るかボケェ!」
としかならないと思うんですよね。
いやいや、私はらしさの解放なんて有り得ん!なんて頭ごなしに否定したいわけではありませんよ。
でも結局世が「競争原理」で成り立っていることに関して目を背けるのはナイーブが過ぎないか?と。
まーあれですよ。
「らしさの解放」だとか、他には多様性だとか、ジェンダーフリーだとか、
そこに関して論じてる人があまりにも少ないと思うんですよね。
荻上チキさんの名前を見たなかで一番印象的だったのは、社会学者の古市憲寿さんが直々に『絶望の国の幸福な若者たち』のなかで言及したときのことだ。内容については触れない。ぜひ入手して読んで欲しい。
荻上さんの名前を知ったのははてなダイアリーだ。『バックラッシュ』は買った。表紙には上野千鶴子先生の名前を筆頭に、たくさんの論者の名前が書かれている。その一番最後に荻上さんの名前が書かれている。いまでもその本は捨てずに本棚に置いてある。
はてなには、よく分からないことを言うひとも多かったし、いまでは名前も思い出せないひとも多い。そのなかで荻上さんははっきりと名前を覚えたひとりだ。ジェンダーフリーについてのサイトで煽りまくっていたのを覚えている。
これも合わせて通報しといて
日本のが進んでると思うぞ
そもそも米国の一部の州では生まれた性別のトイレ使ってくださいだし
そもそもトイレがあちこちにない、トイレがあっても、それなりの施設以外は日本ほど整ってないことの方が多いみたいだが
つか内湯か貸切りになさい
そもそも入りたくないわ
本人が望んでいない考え、イメージなどが侵入してきます。例えば、繰り返し出現する、考え、イメージ、衝動などで、内容的には、暴力的、また性的なもの、また汚染に関する物が多いです。
・見知らぬ誰か、家族、友人、または自分自身が、同性愛、近親相姦、子どもと関係を持つなど、本来は考えたくもない性に関する暴力的なイメージが絶えず続く
締約の自由
内容の自由
・利用者は希望に叶わない店であれば利用しない(契約しない)権利がある
・内風呂
anond:20190113084853 anond:20190113094039 anond:20190113095846 anond:20190113100644
日本のが進んでると思うぞ
そもそも米国の一部の州では生まれた性別のトイレ使ってくださいだし
そもそもトイレがあちこちにない、トイレがあっても、それなりの施設以外は日本ほど整ってないことの方が多いみたいだが
つか内湯か貸切りになさい
そもそも入りたくないわ
トランスジェンダーへの差別をなくすためにも、もう究極のジェンダーフリー社会にしようぜ。性はグラデーションを念頭に。
女性専用○○は勿論風呂やトイレも更衣室も共同。宝塚も歌舞伎も相撲も女人禁制の山も女子校男子校も違法。女子会もハラミ会も禁止。スカートもズボンも好きな服装や髪型をするのが常識。入試や面接で性別を書き込むのもなし。
男を警戒しろという防犯対策も、男の家に行ったら襲われても自業自得、とかいうセカンドレイプもなし。それは黒人差別と同じだから。
妻や夫が異性の友達と二人で遊びに行こうが泊まりに行こうがそれは浮気ではない。同性の友達と同じように考えなければならない。でなきゃセクマイの立場がないから。
女らしく男らしく、女なら男ならこうしろ、と言うのもなし。ジェンダーフリーだから。たとえばトランス女性が「女性らしく化粧やおしゃれをしたい」とか言うのも糾弾の対象。女性向け男性向けも女性誌男性誌も勿論禁止。男女の差を扱ったアニメや漫画や小説やドラマ映画も全面禁止。
いや、もういっそ性別という概念もなくそう。性はグラデーションなのだから。一人一人は「こういう体をしているだけ」に過ぎず、子作りも「こういう体の人とこういう体の人が性交したらこうなってデキる」と説明される。
トランスジェンダーも「男/女になりたい」ではなく「こういう体になりたい」になる。整形と同じノリで。
最初に言い出したのは…という話ではなくて
「男にとって都合の良すぎる女キャラ」とか「女にとって都合の良すぎる男像」みたいな批判はまあよく見る。
しかしこれら「現実の女(男)はこんなこと言わない」「現実の女(男)はこうじゃない」などと言った考えは、
よくよく考えてみると逆説的に「男とは○○である」「女とは××である」
要するに、「都合の良い女」とか「都合の良い男」みたいな批判は、
性役割の固定を前提とした、ある種旧来的価値観に寄り添っているのである。
当人はジェンダーロールを批判してるつもりなのかもしれないが、
いやまあ別に、そういう批判は絶対悪だし発言するなとか極端なことを言うわけではないんです。
言いたかったら好きに言えば良いです。
ただ、自分のことを男女平等主義者だとかジェンダーフリーとか自己認識しておいて、
それは自然というものを過小評価している&自分に都合の良いものと捉えている。
俺に心地よいから自然で、俺が不快だから不自然だと言ってる様なものだよ。まさに"お気持ち"に他ならない。
ジェンダーフリーってのは今ある『男らしさ』『女らしさ』の様な既成の概念は多くが社会風土歴史が育んだ後天的な概念なのでそこから自由になろうって思想だろう。
で、現代社会はいまだそこから脱却出来ていないので、「オカマキモい」と親が教えてないなら学校などの家の外の社会に『毒された』と考えるのは筋は通っている(『毒された』って表現はどうかと思うが…)。
正直自分にはどこからどこまでが『後天的な男・女らしさ』なのか、あるいは『自然』なのかはわからない。ただ『オカマキモい』は明治時代以降の西洋から輸入されたキリスト教的な価値観に依るところが大きいのでは?とは思うけどね。