はてなキーワード: 教皇とは
英語に兄や弟の差別用語はないから、普通「Big Brother」をキーワードにしない。
『1984年』を持ってる人は巻末のニュースピークを確認するといい。
「資本」「社会」「会社」「社長」「経済」「経営」「広告」「契約」
「主語」「主観」「客観」「概念」「抽象」「具体」「経験/体験」
「義務」「教育」「教科書」「教師」「教皇」「宗教」「教会」「司教」
【努力】「問題」「存在」「選挙」「表現/表情」「交換」「説明」
「会話」「感情」「感性」「情緒」「理性」「思考」「論理」「議論」
ほぼすべて造語。現代日本語なんて妄想。非現代非日本語。やったぜ!
間違ったロボットは正しいオピニオンを言われても
そういうとこだぞ (´・∀・`)
英語に兄や弟の差別用語はないから、普通「Big Brother」をキーワードにしない。
『1984年』を持ってる人は巻末のニュースピークを確認するといい。
「資本」「社会」「会社」「社長」「経済」「経営」「広告」「契約」
「主語」「主観」「客観」「概念」「抽象」「具体」「経験/体験」
「義務」「教育」「教科書」「教師」「教皇」「宗教」「教会」「司教」
【努力】「問題」「存在」「選挙」「表現/表情」「交換」「説明」
「会話」「感情」「感性」「情緒」「理性」「思考」「論理」「議論」
ほぼすべて造語。現代日本語なんて妄想。非現代非日本語。やったぜ!
間違ったロボットは正しいオピニオンを言われても
そういうとこだぞ (´・∀・`)
「ザ・ピープル(国や民族や階級で差別しない)」の平等や人権が世界常識。
「国民」━━自国と自民族だけの平等や人権というおかしな条文は🇯🇵だけ。
国民でないガイジンに平等や人権がないという頭のおかしい発想も🇯🇵だけ。
そのクセ、憲法の英訳では「国民」を「the people」にしてる。
ザ・ピープルなんて主義以前の常識なんで、君主制のクニでも知ってるよ。
「The」をつければ【人を国や民族で区別しない意味】と子供でも知ってる。
【民】━━目を突かれた奴隷。
「国家(帝国豚小屋)」「国民(帝国奴隷)」を語る汚らわしい島🗾。
「恥」「世間」「努力」「頑張る」「仲間」「仲良し」「甘え」は海外にない価値基準。
でも、🐷はウソ翻訳、ウソ字幕、ウソ吹き替えをうのみにしちゃう。
ドイツ国家、アメリカ国民、フランス人民等の失礼はやめなさい。
ホームはブラザーを「兄と弟」に分けない、シスターを「姉と妹」に分けない。
ホームに「年上と年下」「先輩と後輩」「目上目下」の年齢不平等はない。
「自然」はウソで、日本のタテ社会は人工的で家畜的なカースト制度。
ジャパニーズの権利と平等と努力はすべてウソ。誰も頑張っていない。
ジブリも鬼滅も進撃もワンピもFGOもFFも何万のなろうも差別用語だけ!
「兄弟姉妹」「先輩後輩」「皇帝」「教皇」「王」「大臣」「国民」
の偽ホーム、偽ネイチャー、偽ファンタジーで子供を洗脳するだけ。
リアルで具体化しない、フィクションで物語化しない。どんだけ怠けるの?
「ネイチャー」「ホーム」「ブラザー」「シスター」すらわからない。
ピープルやパーソンやインディヴジュアラティの「ヒト」すらわからない。
ヒトとクニとイエがわからない16億の🐷🔗とか嫌すぎる。
まずは姉なる“日🇯🇵”って不平等なニセ太陽を改名しないとな。
憲法。和。恥。自然。世間。努力。頑張る。仲間。仲良し。甘え。
アメリカ留学した日本人が「アメリカに先輩後輩がなくて」と遠慮がちに言う。
実際は「兄と弟」「姉と妹」「先生」「年上と年下」「目上と目下」の差別が全部ない。
欧米露に「教皇」「大統領」「大臣」「長官」なんて偉そうな言葉もない。謙虚な語はある。
欧米露に「国民(だけの権利平等)」「市民>町民>村民」の差別用語もない。
アメリカは部活がなく、シーズンごとに色んなジャンルを選び多様性を身につける。
おまけに中国に「(筋肉ムキムキの)オニ」「鬼門」「陰陽道」もない。
本物の仏教は牛三つ刻の聖なる時を避けない。
お兄ちゃんが刀振り回してゴータマを斬って妹を守る物語じゃダメさ。
リアルもフィクションもファンタジーも兄弟姉妹や年上年下なんかないよ。
刀もオニも兄も妹も姉も弟も民も臣も帝も全部捨てなよ。
ジャパン古すぎだぜ。
『ユダヤ人の歴史』(河出文庫)という本がある。文庫サイズで千円ちょっと。古代から現代に至るユダヤ人の歴史の概要を、中東、欧州、西欧・東欧、北米地域に分けて学べる、比較的コストパフォーマンスが高い本である。
元々、原著はユダヤ教の思想的な部分(これらの神学論争や神秘主義思想は、初心者である一般人には分かりにくく混乱する元でしかない)をほとんど省略して書かれていることから、一般人にとっては取っ付き易く、ユダヤ人の歴史を学ぶための入門書としてお勧めしたい……ところなのであるが、一つ我慢ならない欠点がある。
この本の中では「イノセント」や「フレデリック」という人名が普通に出てくるが、なんとこれらは「教皇インノケンティウス」や「皇帝フリードリヒ」のことを指すのである。高校生時代に世界史が赤点スレスレだった私でも気づくような、凡ミスである。何故、こんな事になったのか。
原著者は、レイモンド P. シェインドリンというアメリカ人だから、当然、原著の人名は英語で書かれている。おそらく、下訳の段階で翻訳者は、それらの人名を取り敢えず英語読みからカタカナ表記にして日本語翻訳原稿を書き、その後、日本国内の歴史書籍で一般的に通用している表記に直す作業を怠ったのだろうと思われる。「怠った」と判断する理由は、英語読みで人名が統一されているわけでもないからである。
翻訳者もひどいと思うが、編集者は何も思わなかったのだろうか?最初に日本語翻訳版が出てからそこそこ年月も経過し、河出文庫から再刊されてからも年月が経過して何度か増刷もされているのに、ずっと「イノセント」と「フレデリック」のままである。翻訳文学作品も多数出している、河出文庫にあるまじき凡ミスだ。
翻訳文学を多数出しているといえば、つい最近、手元に有る創元推理文庫版『フランケンシュタイン』を読み返したら、最初のウォルトンが書いた手紙パートで言及される、英国の詩人コウルリッジの有名な詩「老水夫行」に関する注釈が「老水『天』行」と誤植されているのにも気づいた。
こんな感じで、素人の一般人でも気づくような凡ミスが、訂正されることもなく、増刷された書籍として世の中に出回り続けている例は意外と多いのだろう。
一理ある。
しかし、本当にコミュニティ外の人間がどうこう言う権利がないとまで言えるのかな。
コミュニティを優先するってのはつまり保守ってことで、この件はやっぱリベラリズム(Twitter的なエセリベでない)に対する全面攻撃に他ならないのじゃないのか。
深刻な人権侵害ではないのかどうかも、断言していいか躊躇われる。
もしも人権の話なら、コミュニティ内部の話に留まることはない。
いやこの件非常に矛盾を孕んでいるのは、カトリックキリスト教に社会への強い影響力があるなら深刻な人権侵害たりえるし、人権侵害じゃあないならカトリックなど無視しても構わない程度の存在だってことになる。
その上で、教皇庁が言ってるのよこれ。教皇はカトリックの影響力は強いと(タテマエ上は)思ってるはずで、つまり教皇は強い人権侵害への意思を露わにしたのではないのか。
正直なとこ、単に失言という気もする。
https://anond.hatelabo.jp/20210316232303
この増田の反応見て思ったんだけど、ポリコレって信教の自由に負けるんだな
だとしたら表現の自由にも負けるんじゃね?信教の自由と表現の自由のどっちが強いかって憲法上定義されてるのかな?されてなさそー
じゃあ信教の自由と同じ条件と考えればポリコレより優先されるじゃん。おお
しかも「憲法は政府を縛る為にある」って謎の理屈も、政府ではなく国民がキリスト教の教義をポリコレ文脈で批判する際に信教の自由を忖度してるって事は嘘だったって事だよな
おおー。だとすると憲法上定義されている表現の自由もまた政府ではなく国民がポリコレ的批判をする際に勘案するべき人権と言う事に成るな
表現の自由とポリコレがコンフリクトし得る事が確認できた以上、ポリコレ文脈の批判はそれが表現の自由を侵害しないか、している場合は侵害するに足る理由を備えているか検討を避けられない(しかも信教の自由を侵害する際と同じ強度で)
更に信教の自由はポリコレ的規範から自由であるなら、表現の自由も同様だと言えそうだな、ふーん、ポリコレ雑魚じゃん
→当事者以外による表現に対するポリコレ文脈の批判も同様と言えそうだな、これは大きい
→空飛ぶスパゲッティモンスター教の様な新しい宗教を作って表現を教義化すれば同じ恩恵に預かれそうだな
あと教義で定義されてると言うのは本当なのかな?例えば聖書にそう書いてあるならカトリックだけじゃなくてプロテスタントでも同じく祝福不可になるはずでは?なってるのかな?
なってないなら解釈次第で同性婚の祝福も可能だという事に成らない?だとすれば可能な解釈変更を行っていない教皇は同性婚に十分に譲歩しているとは言えないんじゃない?少なくとも「変更は不可能」では無いよね?可能だけどやろうとしていないだけ
・気に食わないなら改宗すれば良い、改宗の自由は確保されてる等
→表現の自由版に直すと「嫌なら見るな」だな、これがアリなら殆ど全ての表現へのポリコレ的批判は無意味になりそうだな
一応「公共の場では事情は違う」という反論も有り得そうだけど、今回のキリスト教の教義というものが「公共」に入らないかと言えば非常に微妙だよな?
ポリコレ的には時には公共機関ではない日本赤十字社や私企業のコンビニさえ「公共」に入るらしいが、特にキリスト教の強い国での教会の公共性はこれらを上回るのでは?
だとすれば「公共の場」である教会において改宗の自由と言う「嫌なら見るな」でポリコレが無効化されるなら、表現についても同じことが言えそうだね
・実害は無い
→実害の定義次第かなぁ、少なくとも信者の同性愛者にとっては祝福を授けられない事は非常に大きな精神的苦痛を伴うのでは?
実害の中に精神的苦痛を入れないなら、表現による精神的苦痛も実害には入らないという事に成る
更に表現への攻撃によく使われる強力効果論や限定効果論等のメディア効果論(表現に影響を受けた人が暴力的になったり性的な影響や差別的になるという考え)についても、
今回の教皇庁の発表が信者の差別を助長するという二次被害の懸念をも信教の自由でキャンセルできるなら、メディア効果論が仮に正しかったとしても表現の自由でキャンセルできるだろう
(まぁメディア効果論はそれ以前に、科学的なエビデンスが無い事が問題で、「仮に正しかったとしても」と言う仮定がそもそも疑わしいのだが)
→何故出来ないのだろう?出来ない理由に非常に興味がある、もし他の表現が同じ条件に該当するなら、表現の修正を迫るポリコレは同じ理由で拒否できるという事だから
聖書を修正すると信者が暴れるから?なら修正するとオタクが暴れる表現は修正できない事に成るが・・・・流石にこの理由は無いか
聖書の修正が信教の自由を侵害するから?いや、それも微妙だな、修正が信教の自由を侵害するというロジックが無い
本当に一体どういう理由なんだろうね?よく考えて見ると正しそうな理由が見当たらないや
・批判を諦めているだけ
→あまり好ましくない結論だが、オタク側も説得を諦められるようなパワープレイをずっと続ければその内諦めてくれる、という結論に成りそうだな・・・・
増田氏が貼ったBBCの記事では以下のことにも触れられている。
「教皇フランシスコ1世は昨年10月に上映されたドキュメンタリーの中で、同性カップルにも婚姻関係に準じた権利を認める「シビル・ユニオン」を認めるべきだとの考えを明らかにしていた。」
「また昨年のドキュメンタリーでは、「(同性愛者)は神の子であり、家族の一員になる権利がある。誰も見捨てられたり、惨めな思いをさせられたりしてはならない」と述べた。」
「ローマ教皇庁はこのドキュメンタリーの上映後、教皇の発言は文脈から引き離されて引用されたものであり、同性婚を支持するものではないと説明した。」
とも書かれている。
以上から、教皇自身は同性愛者の存在自体を神の子として認めており、迫害の対象であってはならないと考えている。またローマ教皇庁の公式見解も「同性愛関係には「前向きな要素」がある」と述べることによって、同性愛者の存在を受容する方向を示している。と同時に、あくまで「婚姻」という制度概念において教義的に「祝福できない」と言っているのだ。
増田氏は「キリスト教の同性愛忌避は歴史的に同性愛者への迫害と差別の一番大きい要因だった」と言ってるが、少なくともそのようなことを繰り返してはならないという意志は、公式見解や教皇の過去の発言からははっきりと読み取れる。しかし教義上、子孫を残すための男女間の関係を「婚姻」として神が祝福を与える制度としているため、子孫を残さない同性愛者のパートナー関係を「婚姻」という制度と認めて祝福することができないとしているのである。
もちろんその教義自体が既に差別じゃないか、と言われればそうかもしれないが、そもそも古い価値観で石頭になってるのは、クリスチャンでも宗教的でもない、世俗的価値観で生きてるつもりの、増田氏も含めた現代人もそうなんじゃないだろうか?つまり「婚姻」という制度概念自体に頭を縛られ過ぎなのだ。
「婚姻」という言葉に基づく制度は、「子孫を残すための男女間の関係」に限定したままでも別にかまわない。それとは別に、世俗的法制度では性別に関係なく生活を支え合うパートナシップ関係に法的保護を与えればよいのだ。その点教皇は「シビル・ユニオン」というパートナシップ制度を認めるべきだと言ってるわけで、宗教的教義とのバランスにおいて、実質的な権利のあり方に踏み込んでるのである。
また「子孫を残すため」という点では、あくまで出産・子育て支援制度として、パートナーシップ制度とは別に親権者へ法的保護や優遇措置を与えればよい。実子がいない夫婦も養子縁組で親権者になれるのだから、同性愛カップルが親権者になって孤児を育てることだって可能だろう。ヴァチカンの公式見解も、このような方法を否定するものではない。
宗教に差別的意識が刷り込まれていたとしても、宗教ならセーフなの?
例えばその人が人事やチームリーダーで、その刷り込みのせいで同性愛者を低く評価するようになったら、それは差別だよね。
たぶんGoogleはその人をクビにすると思う。
でもそれは個人の差別心ではなく、宗教の信心からの行為ならクビは不当だよね?信条は自由だから。
仕事に宗教は持ち込むな、っていうのも仕事をしている間は無宗教になれと強要していることになるから信条の自由に反するよね。(もしかして反さない?)
能力だけで評価しろって言うならいいけど、割と最近はチームに貢献できるか?とか人間性も評価する流れになってる気がするけど、キリスト教徒のリーダーが同性愛者は邪悪でチームの輪を乱すと判断したらどうするの?
キリスト教徒にとっては同性愛者は邪悪なので、輪を乱していると考えても仕方ないよね。
別のチームに移ることはできるけど、そんなことしたら社内で反同性愛者が集まって先鋭化して会社として歪になってくるよね。
どうするんだろうね。
父親が息子をモーツァルトの再来に仕立て上げるべく7歳3ヶ月だったのを6歳とした話は読んだ。そのせいでベートーヴェンは中年すぎまで自分の年齢を正確に把握できなかったとか。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』では、父親はアル中でとんでもない奴だけど根はいい奴で、自由主義者としてベートーヴェンを導く役割を果たしている。まあさすがにこれは現実ではなかったかな。なおこの漫画の中でもベートーヴェンの難聴の驚きの理由が判明している。
青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』には、父親が宮廷に出した手紙の書き出しが「尊敬すべきお慈悲深き大司教兼選帝侯殿下」、結びは「御足下にひれ伏し服従申し上げます」だったと書かれている。ベートーヴェンと父親の関係については、ベートーヴェンが、バッハのカンタータの未完成写譜を「父が書き写したもの」と書き込んで大切にしていた、とある。
謎の女=死
ヴェーゲラーはベートーヴェンの5歳上。ロールヘンは2歳下。ヴェーゲラーとベートーヴェンの出会いのきっかけは明らかではないらしい。ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家に出入りするようになった。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』ではヴェーゲラーは出てこないが、ロールヘンとの出会いは本作と似ていて、いじめられてたベートーヴェンをロールヘンが助けるシーンになっていた(ただしこれがきっかけでブロイニング家に出入りするようになるわけではない)。
ここで出るか。
強さ、か。生きるための、成し遂げるための。
fffはFuto Final Forever説を信じているけど、第2場で触れた通り交響曲第7番と第8番でベートーヴェンが史上初めてfffを使ったとのこと(第7番は手元にスコアがあるので確認済み)。これは、難聴が関係していたのではないかなと邪推している。難聴の時期は高音があまり使われなくなった(=自分で聴こえる音で作っていた)らしいし。そしてほぼ聴覚を失ってからは高音が再び使われるようになった、というか、第九は演奏困難な高音であったと。そしてこれも触れた通り、第九にはfffはない(オーケストラの編成の大きさも関係してるのか?)。第九は、実際ちょっと常軌を逸した曲だと思う。聴覚がないからこそ書けた曲。第4楽章のコントラバスとかもそうだけど(これはベートーヴェンのお友達コントラバス奏者のドラゴネッティのせいか)、第3楽章。美しい理想が見えるけど、理想に近い演奏を探してみたけど出会えなかった、何年も前の話だけど。オーケストレーションに難あり、だよなと。もしくは時代がまだベートーヴェンに追いついていないのか。
実際は出入りする間に自然と啓蒙思想に触れていったのかなと想像。
なんか泣ける。朝美マジック?
あらきた。1804年12月。
謎の女「心のおともだち、ナポレオン」
んーー、第4場Bで少し構えていたけど、ここハイリゲンシュタットの遺書だったのかあ。いつの間にかハイリゲンシュタットに移動してた?劇場のままかと思っていた。時間もほんとは結構経ってる設定だったのかなあ(ナポレオンの戴冠式はあったけど、もともとの劇場の時間もふわっとしてるし、伝わるのに時差あるかなと思うし。あ、謎の女からの情報だからリアルタイムだったかな)。気が付ける要素あったかなあ。
難聴や失恋からくる衝動は救済の記憶でおさまった後(実際の遺書ではただ"芸術"が引き留めたと)、心のおともだちナポレオンが皇帝になったショックからのシーンだしなあ。
ベートーヴェン(歌)「
歌い続けろ 聴こえない カラダ
歌い続けろ カラダ カラダの そとに
歌い続けろ 中に鳴り響く音
歌い続けろ 出し尽くすまで
大きく 大きく 大きく もっと
強く 強く 強く きっと
たとえ命 たとえ魂
この体が朽ち果てても
たとえひとり 声もしない
孤独の道 ひた走ろうと」
「大きく」「強く」 3回ずつ(=fff)。
ハイリゲンシュタットの遺書から該当しそうな箇所を以下に抜いてみる。
私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。(片山敏彦訳)
遺書の中の「難聴の苦しみ」「孤独の叫び」「自死願望」ついて参考までに抜き追加。長いけど。一部難読字は平仮名に、一部ルビ省略。
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。
しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。
私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。
https://anond.hatelabo.jp/20210212190921
https://anond.hatelabo.jp/20210212214154
これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。