はてなキーワード: 活版印刷とは
多分、18世紀半ばだな。
ドラゴンやユニコーンなどは、1世紀に書かれた大プリニウスの『博物誌』に記載があり、これは15世紀に活版印刷技術によってヨーロッパの知識人の間に広く読まれたが、
18世紀半ばにフランスで編纂された百科全書などには記載がない。
18世紀半ばは、くしくも博物学が発展してカール・リンネによる分類学など近代的な生物学があらわれた時代でもある。
おそらく、「いるかどうかわからん」扱いだった動物は、大航海時代と科学の発展によって「いるっつーなら伝聞じゃなくて証拠持ってこいや」という試練を受けて「実物がある」と「実物が無い(判断保留)」に分かれ、
とりあえずいると分かっているものを対象に生物学上の分類研究が系統的に行われるようになっていった結果、いつまで経っても実物が出て来ないから「まだ見つかってないようなモンを大昔の人達が見つけてたわきゃない。こりゃもういないだろう」という扱いになったのだろう。
copilotを英語ネイティブはコピロットではなくコパイロットとすんなり読めるのかどうか
気になる
co-pilotって書かれてたら「あーはいはいコ・パイロット」ね」と日本語モノリンガルの自分も気付けるのだが
copilotと書かれていると「コピロット……コピロート……コパイロット?」と読みを考える時間が発生してしまう
いや、この疑問は別の論点が眠っている気がする
なんでiをイではなくアイと読んでいるんだ
likeのように末尾がeのときじゃないとアイと読まないルールではなかったのか
もちろん例外はあるのだろう、これもその例外の一つだというのか
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・ドイツ語だとpilotはピロートと読む 流石ドイツ語だ、ここら辺の発音ルールは厳格なイメージがある
・英語で末尾e(というか母音)じゃなくてもiをアイ発音する単語は結構ある 例えばvirusとか 日本語だとウィルス……英語だとヴィールス……と思いきやヴァイルスと発音しているようだ
・そういえばislandもアイランド……いや、この単語はそもそもsなんやねんって話にもなってしまう 「大母音推移」というキーワードがひっかかった これを調べてみよう
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ドイツ語なんかも過去に大母音推移が発生したが綴りも発音に合うように変化したらしい
それだったら活版印刷のほうが例えとして適切だと思うわね
いや、活版印刷だろ。グーテンの虎さんとやらの
五感で得た情報を司り、言語という枠を使って漠然としたイメージを表現する一種の記号である。
言語は想起のための指標である。それは経験や知識の曳き手であって、イメージのリアリティではない。
書くことは、他者とのコミュニケーションが可能であることを前提に、ラベル付けされた一連の記号を用いて、他者に対して主張や理性を主張する方法の一つである。
口頭での主張は、私たちが獲得した仮説推論の致命的な能力と、類似点を見つける病気を悪用して、メディアやミームに感染させる一種のツールである。
インターネットを通じて他人のイメージを乗っ取ることを意図して書かれている。この思索は、言語というナンセンスな方法を使っているので破綻している。
自由や幸福は、自分の手に負えないものを無視することで得られる。
これは古代ギリシャの哲学者エピクテテスの発言です。これは権威的な重み付けのための引用であり、特に意味はありません。
松井秀喜がこのストイックな哲学者と似たようなことを言っていたので、歴史的にも理解できる考え方だと思いました。
言語の美点は、話し手が意図した通りに「もっともらしい」ものを人間に刷り込むことができることである。ある公理を真理として刷り込み、恐怖や扇動によってその絶対性を刷り込む行為は、様々な組織の中で日常的に見られる。
そもそも言語の誕生は、人間による宗教の獲得と不可分である。人間はある時点で、言語を通じて空想力、理性、類似性を見出す能力を獲得し、自分ではどうしようもないことを生活の中に内在化させてきた。
それは例えば、お金や権威などの暴力の一種であったり、感情という人間の状態の一種であったりする。
すぐには永続させることのできない現象が、言語という記号を使って他者と共有されるようになったのである。
それだけでなく、活版印刷やインターネットの技術革新によって、言語は時空を超えて広く、長く保存されるようになりました。
それと引き換えに、宗教の絶対性を広めることで、言語習得のデメリットである上記のような制御不能な事象を打ち消そうとする試みがなされたのである。
上記の記述には何の根拠も示せないので、適当な本やネット上の類似情報を相互参照して、ご自身の結論や否定の判断にお任せすることにします。
エピステーム
精神病についての深い考察は、ミシェル・フーコーの著書をお読みください。エピステームという重要な概念が提唱されています。
エピステーメとは、ギリシャ語で「知識」を意味する言葉をもとにフーコーが造語した言葉である。簡単に言えば、私たちの認識が形成される知識の枠組みを指す。私たちの知覚は、私たちの経験から直接、媒介されずに得られるものではありません。私たちの経験はすべて、私たちが持っているある認知的枠組みに適用されたときに知識となるのです。
そもそも「精神病」という名前を使うのはよくありません。何と言っていいのかわからない。ラ・ラ・ラ・ラ・ラ。なんだっけ?
インゲニヤトーレ
12~13世紀のヨーロッパでは、労働組合の倫理規定により技術開発が停滞していましたが、後のルネサンス期の15世紀には、相次ぐ戦争に対応するために様々な技術が開発されました。この時の新技術はインゲニウムと呼ばれていました。その技術を開発したのがインゲニウム・トールである。インゲニウムは、今日のエンジニアの語源です。レオナルド・ダ・ヴィンチもインジニアトールの一人でした。
レオナルドの写本の中で最も有名なのは、アトランティコ写本とマドリッド写本である。彼はすべてのものを描写するために、フォトリアリスティックな絵を必要としていました。言語のような一対一の記号ではなく、より具体的なイメージを捉える方法が必要だったのだと思います。
ピクトリアルジオメトリという幾何学的技法があります。ガスパール・モンジュによって確立され、産業革命期にエコール・ポリテクニークで教えられました。ルネサンスの数世紀後には、主に軍事目的であったが、イコノグラフィーが導入された。
https://anond.hatelabo.jp/20210212190921
https://anond.hatelabo.jp/20210212214154
これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。
僕はVtuberが好きだった.
今は嫌いだ.大嫌い.ムカデやゴキブリを見たときと同じような不快感を催す.Vtuberの動画を見てるという人も嫌いだし,そのような人とはできるならかかわりたくない.
それでも昔は好きだった.キズナアイやシロといった昔の「バーチャルユーチューバー」は好きだった,今でもそこまで嫌いではない.ホロライブやにじさんじなどが嫌い,これらの団体がこの世からなくなるのであればよろこんで命を差し出す.
ツイッターで流れてきたキズナアイの配信の切り抜きがきっかけだった,そのときはバーチャルユーチューバーなんて言葉は知らず「3Dモデルがきれいにモーションキャプチャーされてコンテンツになってる」程度の認識でしかなかった.
後にバーチャルユーチューバーなるコンテンツと知り,それからしばらくで世間的にも人気になって,僕もおっかけた.
コンピューターの処理性能が向上したからこそ,人類における技術の発展があったからこそ誕生したコンテンツに夢中になっていた,活版印刷機よって生れた本を読むという新たに生れた習慣が文化になる時間を追体験するような気分だった.
にじさんじが出てきてすべてが変った.
コンテンツに明示的なエロ,「セックス」が含まれるようになった.
これまでの物,すなわちキズナアイやシロやミライアカリなどが表現する女性的魅力で美や愛に近いもの,もちろんマリリンモンローのような官能性を秘めているが,それらはあくまでもすべて暗示的であった.全てが暗示のみであったというわけではなかったが少なくともコンテンツとしてそれらの表現を最小限にしようといった努力が認められた.
にじさんじの登場によって変化したエロの表現,僕が具体的に思う境界,それは消費的なセックスが暗示されているかどうかだと思う.
少なくとも「これまでの物」にはそれらはなかった.キズナアイの腕や足を露出した衣装,シロの背中があいたセーター,ミライアカリや輝夜月のキャラデザ,これらはもちろん現代のエロであるが女性的魅力の範囲であり,アンハサウェイやミランダカーが着るドレスのような美しさとエロであった.
にじさんじは違った,月ノ美兎のいちもつ発言や「わたくしで隠さなきゃ」,静香凛のバイノーラル配信でのカウントダウンなどでより直接的なセックスの表現が生れ,それは次第にエスカレートしていった.
明示的なエロは最終的に見る人に否定されず受けいれられ,市場の欲望を満すために自己的に増幅し,エスカレートする.それは再び視聴者の欲望を促し,まるで未来永劫終わらない運動のように,エロ表現が増加するのであった.
コンテンツに女性的魅力の美的表現ではなくセックスの暗示表現が混じり,エロティシズムであったものがポルノグラフィになった.付加価値表現として含まれるようなエロが直接表現として表われ,性的に消費が可能なコンテンツとなってしまった.
僕はフェミニズムの話をしたいわけではない,エロが売れるのは真理じみた事実である.通常エロは規制される,売れるからだ.しかしyoutubeでこれらは規制されなかった.それどころか「スパチャ」で正当化される.
エロが悪いという訳ではない,人に必要だから.しかし,好きだったものがエロコンテンツになったのが許せない.
モンローのような女性的魅力が控えめに混り,そしてそれ自身はあくまでも付加価値で,本質的な面白い物を探求しようとする精神に気高さを感じた.それらは死んだ.
新時代のコンテンツは,消費と提供が繰替えされるオタクコンテンツの一つとなった.
僕は残りの人生でVtuberを再び好きになることは決してないと思う,あの開拓時代のような精神であふれた時代には何年経てども戻らないだろう.
僕はVtuberが好きだった.
深夜に勢いで書いたのもあって雑な投稿だったのにいろんなが意見があってとても嬉しいです.
コメントなどを見ながらあらためて自分の意見をまとめ直すと,アイドルになってきたから嫌いになったというのが正しいような気がしてきた.
その意味でエロコンテンツになったというのは過剰な表現だったかもしれない.しかしアイドルになったからこそ,市場としてコンテンツとしてかわいさやエッチさの比重が面白さと同じかそれ以上の物になったから嫌になったんだと思う.
僕個人として,初期のころのVtuberは純粋に動画として面白いから見ていたという自覚がある.ニコニコ動画とかyoutubeのゲーム実況動画が好きだったから,その延長線上としてVtuberを見始めた.なので初期のころのバーチャルユーチューバーをアイドルとして見ていたつもりはなかった.(その過程で女性的要素を一切無視していたわけではないが少なくとも主軸として捉えていた気はない)
それがにじさんじで,というか"事務所"ができて「アイドル」になって,そしてコンテンツとしての主体が動画ではなくアイドルになってしまったのが嫌になった原因と思う.
その結果として,アイドルとしての評価軸がVtuberの評価軸に加わったことが気に入らなかったのかもしれない.
その上で,インターネットアイドルになったこと付加価値としてのエロが増えて,その事実に対して不満を述べたのが記事の内容である.
アイドルであれば,特にインターネット的であるなら,エロであれば売れるからエロになるのが宿命だと思うし,その結果「陰キャのキャバクラ」だとか「風俗嬢」だとか言われても仕方のないことだと思う.
性嫌悪したいわけでもない,女性の理想像を押し付けたいわけでもない.もし仮に初期のVtuberが男で以降アイドル化の流れがあったとしても同じことを言う(もっともそのようなものが流行するかはわからないが).女性像として自分と食い違う物になったから嫌ったのではなく,そもそも女性キャラだから見てたわけではない.
これらを踏まえると「原理主義者」や「老害」といったコメントは正しい思う.
僕は昨今のVの事情はそこまで正しく把握していない.
ミライアカリは美でも愛でもないよな.ここはたぶん勢いで書いた.
技術がないから悪いというわけではないが,アイドルコンテンツとして見るならば技術は不要になるのは当然な流れだ.かわいければイラストが動くだけでも十分だから.
VRChatの世界はあまり知らないが,こんどやってみようと思う.
初期のバーチャルユーチューバーたちをアイドルとして見ていなかったのが間違いであったのならば,僕に先見の明がなかったにすぎないことだ.
それってよく言われるけど、そうでもないんじゃないかな。ワクチンなり薬が実用化されれば基本的には元に戻ると思う。それくらいヒトって保守的な生き物。
もちろん時代は常に移り変わっているから、それに対して「納得感」が欲しいだけ。
世の中が変わる決定的な要因は、新たなコミュニケーションの手段が発明されたとき。活版印刷、電話、インターネット、ソーシャルメディア等。伝染病や天災などはそれらに結び付けられて記憶されている。年号が変わるのも同じようなもの。
そういう意味では、将来、言語に依存せず、かつ言語以上に便利なコミュニケーションの手段が発明されたとき、世の中は根底から変わるんだろう。