はてなキーワード: 高倉健とは
最近、非モテだとか、喪女、コミュ障といった属性をタイトルにいれる文章が多いとふと思った(最近といってもここ10年くらいのスパン)
これって、物語にスッと入ってもらうにはとてもいいキーワードではあるんだけど、
読み手に対する予防線でもあるんだよね。「不器用な人間ですから。そっから先は聞かないでください(高倉健)」みたいな。
自虐的な自称は、80年代の「オタク」、90年代の「ニート」が最初ではなくて、もっと遡れば1960-70年代のノンポリ。
そのほか、もっと広くとらえれば、モラトリアム世代、フーテン、ヤクザ、浪人、渡世人と、江戸時代までさかのぼる。
とりあえず非モテで考える。
タイトルで自称するということは、非モテのイデオロギー的な主体を読み手に受け入れさせ、非モテのイメージでコーティングされた主体だけを提示し、物語を展開する、ということ。
非モテという言葉に違和感なく入り込める、まず読者の選別をする。
背景と根拠を聞いたら、「コスト削減は経営方針だ」と繰り返す。
コスト削減が必要なのはわかるが、例えば「近年、ネット販売の比率が上がっているから、対面販売の経費は下げる、それで今までのリアル客の常連さんが離れても、仕方なし」とかいった方針・見通しをオーソライズするのがお前の仕事だろうと思う。
「コスト削減」を連呼する経営戦略室課長殿は、「すごく正しい」ことを言っている顔つきでそれが腹が立つ。よく見るとこいつ、顔の部品一つ一つが整いすぎだ。菊人形みたいな顔をしやがって。
菊人形課長は、エリートコースに乗っていて、順調に行けば役員コースらしい。
菊人形課長が階段を下りていく後ろ姿を見て、踊り場から勢いをつけてドロップキックを浴びせたい衝動に駆られた。いや、こういう奴にはキックじゃなくて、膝だな膝。ジャンピング・ニーアタックをかませてやる。菊人形だから、首の骨がぼきりと折れてバタンキューだ。ざまあみろーー。
しかし、自分の脚力と体重を考えると、菊人形課長まで届かず、自分だけが階段に落下して、脚の骨を折って松葉杖生活になる可能性大である。
こういう理不尽な世相だから、日本も米国のように銃社会であったならばと思う。
そうであれば、会社にライフルを持ち込みロッカーにしまっておいて、もう、カーッとなったら乱射事件ですよ。ライフルだと連射じゃないからカービン銃か。昔のマフィア映画みたいに、蜂の巣にしてやる。
しかし、カービン銃は会社の入り口で没収されるな。最近セキュリティ厳しいし。
それにやはり日本男児なんだから、らしく日本刀か。菊人形をばっさり斬りつけてやる。そのあと、振り回して皆殺しだ。「八つ墓村のたたりじゃー!」と叫ぶながらな。頭に鉢巻巻いてローソク灯して大暴れ。
血みどろになった職場を後にして、赴く先は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地である。そこで演説である。「今ここで、クーデターより憲法改正より、天皇制より、もっともっと大事なことを発表する。それは、パンツのゴムが緩いと、ずり下がって気持ち悪いということだ」と叫き散らして、自決するのだ。しかしである、今は三島由紀夫の頃と違って、市ヶ谷の駐屯地はないらしい。第一、俺は私設軍隊を持ってないし、ボディビルして鍛えてないので、割腹自決は無理だろう。
結局は、サラリーマン生活で溜まったストレスは、溜め込むしかない。溜めて溜めて、恨みつらみを限界まで我慢して、最後は殴り込みをするのだ。背中に「唐獅子牡丹」の彫り物をしょって、池部良と一緒に「死んで貰います」と言ったあと大暴れしたい。
まあ、昭和の時代からサラリーマンはこうして高倉健の任侠ものなどを見ては鬱憤を晴らしていたのだろう。
俺も、久しぶりに「昭和残俠伝」見て、その後寝ようっと。
映画『居酒屋兆治』のメインテーマ。まんま健さんのキャラクターが切々と歌うのは確かに味ではある。であるけど
実は映画に出てたお登紀さんやちあきなおみを差し置いて歌わせたのだ。
完全に監督降旗康男の趣味の人選だった訳で、これでちあきさんがこの歌を歌う機会が無くなったのは害悪だとしか言いようがない。
芸能界一の提供曲クラッシャー。逆に言えば名カバー製造機。この人の歌を他の人が歌うだけで名曲となる。
『アンダルシアに憧れて』では夜ヒットの古舘伊知郎に下手な気遣いを使わせ
一番彼の歌声とフィットした歌は多分『ミッドナイト・シャッフル』しかなかったのではないだろうか。
他なんかある?
それは無口な人じゃん。高倉健じゃん
ありていな話、「わかりやすいエンターテインメントフィクション」は前近代的価値観でないと成立しにくい
たとえば、私的な問題に対する司法権力を無視した暴力による解決、私情による復讐での殺人、近代的な企業のビジネスライクな上下関係にはない濃密なロマン性を持った主従関係、所属集団が敵対しているゆえ結ばれない男女……等々
おかげで、それらを描いた作品を作ろうとすれば、時代劇とか異世界ファンタジーになるのが通例
現代劇でその手の要素を描こうとしたら、「現代に生きてる前近代=侠客アウトローの世界」ぐらいしかないのだ
現実の生活においてはとっくに、ヤクザや不良や暴走族を嫌う人間の方が多数であろう
高倉健の任侠物映画や深作欣二の実録ヤクザ映画が若者の基礎教養みたいなもんだった60~70年代に比べれば、ヤクザも不良もエンターテインメントの世界においても随分と隅っこに追いやられた方だと思う
しかしながら、フィクションの世界において現代においてなおヤクザが都合良く使われているのは、みんな心の奥底では「近代の自由・平等ってつまんない、前近代的な暴力性や主従の束縛などがあるほうが”ドラマとしては”面白い」と思ってることの証左
衣食足りて礼節を知るというけれど、あくまでエンターテインメントとしては、平和な時代になったからこそ、むしろみんな前近代的なものを楽しく思うのさ