はてなキーワード: 徒然草とは
文章を読むことは他ならぬ知識の蓄積である。しかしながら、脳裏に浮かんだ取り止めのないことも形として残さなければ、それはただ消えゆくのみである。
書けば文学、書かねば妄想。誰が言った言葉かも覚えがないが、実に的確なように思う。
怠惰で自堕落、そして堪え性のない私のことだから、明日は日記を書かないのかもしれない。
習慣化は難しいことで、習慣化してしまうことによって失われるものもきっとある。
自分の思ったことをただ文章に書き連ねていると、それによって分かってくることもある。
書くべきか書かぬべきか。それすらも文字として並べていく。
データは何年も残らない。
自己満足とはなんなのか、追い詰められた人間の搾り滓が文章なのか。
その心の気休めとして書く文章に、私だけは誰よりも価値を見出したい。
文章を書くことが、何よりも真摯に己に向き合うことだと信じて。
この余白の片隅から、誰にも見せない日記、その一節だとしても。
何も出来ない人間なりに、栄えある先達をささやかに見送らせて頂く。
とりあえずニーチェは読んでみる。
というか、光文社古典新訳文庫ではあるけどニーチェの本は全部買って手元にあるんだ。いわゆる積読状態。
語彙力が足りず文章力がなく表現が雑で言語化能力が低いのは昔からコンプレックスなので、もうちょいマシになるべく頑張る。
これも言わんとしてることはよく分かるんだけど、草枕と徒然草を楽しめる感覚の持ち主がフリーレンを楽しめるかというと、必ずしもそうではないのかなと。
なぜならフリーレンには現代風の味付けがなされていて、その味付けが人によっては好みがわかれるようなテイストだと、少なくとも自分はそう感じたから。
「あとドストエフスキーがニーチェ的なのではなく、ニーチェがドストエフスキーの無神論に影響を受けてる。」そういう話をしてるんではないよ、ニーチェ読んでみ。ドストエフスキー的なものとは全然違う。
「楽しんでいる人たちの大多数はもっと感覚的なところで素朴に純粋に楽しんでいる」
ここで目にする増田に比べると君は本読んでそうだけど、「感覚的なところで純粋に楽しんでる」なんてそれらしいだけで中身のない雑な表現をしてきて残念だよ。文化資本がなければその「感覚」がないって話をしている。そしてたとえば草枕を読んだり徒然草を楽しめる感覚と、フリーレンを楽しめる感覚は似たセグメントにある、という話をしてるんやで。
草枕、徒然草、ファウストはフリーレン的だと思わんかった?ドストエフスキーがニーチェ的だとは全然思わん。夏目漱石を楽しめるならツァラトゥストラも楽しめるはずだと思うけど。あとは古典SFやファンタジーじゃね?四畳半神話大系やシュタインズゲート、ゼーガペインにグレッグイーガンが多大な影響を与えているのは確かだけど、知らなくても説明的だから楽しめるんじゃね?フリーレンは説明も感情も抑制してるから教養ないと楽しめないって言われるんだろね。
草枕、徒然草、ファウストをフリーレンと関連づけるという発想そのものが出てこなかった。
あとドストエフスキーがニーチェ的なのではなく、ニーチェがドストエフスキーの無神論に影響を受けてる。
古典SF、四畳半神話大系やシュタインズゲート、ゼーガペインにグレッグイーガンは一切履修してない。完全にそのあたりの知識は欠落してる。自分が知るファンタジーはゲームのRPGがほとんどかもしれない。それが原因なのかも。
今回、ネットやSNSでフリーレンの感想を漁ってみたんだけど、楽しんでいる人たちの大多数はもっと感覚的なところで素朴に純粋に楽しんでいるように見えた。
なので、教養がないと楽しめないというより、教養があるとより楽しめる作品なんじゃないかな、というのが個人の感想。
それはフリーレンに限らないけれど、フリーレンはどちらかというと起伏があまりない作品なので、その傾向がより顕著になるんではないかなと。
草枕、徒然草、ファウストはフリーレン的だと思わんかった?ドストエフスキーがニーチェ的だとは全然思わん。夏目漱石を楽しめるならツァラトゥストラも楽しめるはずだと思うけど。あとは古典SFやファンタジーじゃね?四畳半神話大系やシュタインズゲート、ゼーガペインにグレッグイーガンが多大な影響を与えているのは確かだけど、知らなくても説明的だから楽しめるんじゃね?フリーレンは説明も感情も抑制してるから教養ないと楽しめないって言われるんだろね。
* 本当にざっとで良い。助動詞の主な用法ぐらいで。活用暗記とかはさせない。
* 品詞分解が正確にできていても訳せないという経験を早期にさせる。
* いっそ現代語訳も配布してしまってもいいかもしれない。「なぜこの訳になるのか?」と疑問を持った点を報告させ、そこを解説するスタイルでもいいかも。
* 『源氏物語』 がいちばんむずかしいのに、定番テキストのように高校で扱われるのは不思議。
* 方法は何でもいいから、とにかくたくさん読まないと古典は読めないということを認識させる。
* テキストは 高橋正治『古文読解教則本』 みたいなのがいいと思う。
* ぶっちゃけ全員が品詞分解をできる必要はないと思うので、学生の選択に委ねるのもあり。(大学受験する人だけとか)
そういうお前に徒然草の第八十五段を贈るわ。読んで自分のことをよく考えてみ
(現代語訳)
人の心は素直でないから、嘘偽りにまみれている。しかし、生まれつき心が素直な人がいないとも言い切れない。心が腐っている人は、他人の長所を嗅ぎつけ、妬みの対象にする。もっと心が腐って発酵している人は、優れた人を見つけると、ここぞとばかりに毒づく。「欲張りだから小さな利益には目もくれず、嘘をついて人から崇め奉られている」と。バカだから優れた人の志も理解できない訳で、こんな悪態をつくのだが、この手のバカは死んでも治らない。人を欺いて小銭を巻き上げるだけで、例え頭を打っても賢くなる事はない。
「狂った人の真似」と言って国道を走れば、そのまま狂人になる。「悪党の真似」と言って人を殺せば、ただの悪党だ。良い馬は、良い馬の真似をして駿馬になる。聖人を真似れば聖人の仲間入りが出来る。冗談でも賢人の道を進めば、もはや賢人と呼んでも過言ではない。
ロリコンでマザコンなイケメン主人公と聞いて、シャア大佐みたいなモテモテ人生なのかなって思ったら、歳とったら普通にモテなくなって、若いイケメンに若い妻を寝取られて自分の子として育てるハメになる因果応報の話だった。
作者きっとすげーむっつり。
溢れ出すリア充臭。
語彙力があるパリピ。
紫式部と合わないのもすげーわかる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。とか始まるから、虚しさが残る話かと思ったら、普通に爽快な軍記ものだった。
卑屈さと承認欲求が交互にやってくるのが人間臭くていい。くだらない噂話や伝聞に偉そうにマウントとるんだけど、そのマウントの取り方が枕草子の微塵も迷いなくイケイケな感じじゃなくて、ウジウジしてる。
徒然草(兼好)「花は満開でもあえて引きこもりするのもなかなか風流」
って後の世のやりとりが好き。
俺は古典教育廃止しろ派、というか、文法とかどうでもいいから文学史だけやれ派なんだけど、その理由のひとつに、「古典」つって出てくんのが結局枕草子・源氏物語・徒然草程度じゃん!っていうのがある
なんなら小学5年〜中1くらいでやるだろその辺って
谷川俊太郎の詩とかと一緒にさあ!
それで暗唱させられたから覚えてるだけなんだ
水鏡とか大鏡とか、伊勢物語とか落窪とか、なんかいろいろあったろ?俺は覚えてねえけどさあ
日常的に軍記物語の語り口調でギャグを飛ばしてみんながウケるとか、しょっちゅう百人一首あたりを引用して喋るのが一般的とか、そういうレベルでみなさんが教養を持ってんだったら、俺だって文句は言いません
でも何すか、スーパーの惣菜売り場に「春は揚げ物」って書いてある、これが"古典教育"だ!ですって?
"「春はあけぼの」の元ネタがわかる"程度だったら、小学生のときに、授業1時間受けるだけで、充分たどり着けるんだよ
っていう話だろ
これ、実は明確な答えがあって、ないんです
なんせ何も覚えてねえ
昔、男ありけり ソーワット、ファックユー!
まあ実際、(ごく一部を除いて)つまんねえ上に教訓もないクソ説話・小説を6年にわたって読まされることで、ああ俺たちの先祖ってカスだったんだ、貴族階級のが書いて、かつ後世に残そうとされた、日本古典文学の上澄みがこのレベルだったんだ、貧しい文化の国だったんだなあ!と思えるというのは、ひとつの学びだったかもね
ここで10 Japanese Classic Booksなるまとめをチェック!
4 竹取物語 ングアー!やられた!!でも竹取物語って古典やんなくても知ってるだろ 古典教育の必要性って意味では、これはノーカウントじゃないか?? でもまあ、1ポイント
7 砂の女 そういえばこれ読んどきたい
9 雪国 ほら〜
見てくださいよこれ "クラシック"なんて頭につけても、ガチ古典vs近代文学で3:7ですよ
雑魚すぎんだって古典 しかも竹取物語はなんか、史料っぽい雰囲気だからな
アレある程度授業でやったけど、覚えてんのは「うつくしうてゐたり」の一文だけだ 美しく座っていた、という表現はちょっと英語っぽくてかっこいいな、という浅い印象だけ あと不死の薬を焼いたから富士山です(笑)みたいなオチがすげー鼻についた
枕草子・源氏物語・徒然草・竹取物語・今昔物語くらいをサラッとさらって、文法は一切触れず、こんな感じだったんですよ〜でお終いだ
原典の響きがどうこうって意味では、昔のハ行はパ行だったとかいうし、やるだけ無駄ってもんだろ
古代ギリシャ的な素朴な議論になってしまうかもしれないが、人間が他の人間を認識する時には、『自分と似ている部分』を共通項にすることで、認識が上手くいくようにしている。
単純な話、自分と全く違う人格を持っていたり、自分と全く違う経験をしている人間のことを理解することはできないけれど、自分と似ている部分を持っている人間や似たような経験をしたことのある人間はより理解しやすいということである。本当に単純な話だ。
このようにして、人間は他者を理解する。ある意味、自分の一部分を他者に擬態させて、記憶するのである。自分の中に他者の疑似人格を構成していると言っても差し支えないだろう。
ある意味、この疑似人格は、作成した当初は、自己の人格をアレンジしつつ複製したものと言ってもいいので、完全な他者ではない。
とは言え、その他者(自分の中に複製した他者ではなく、現実にいるオリジナルの他者)を認識し続けることで、その疑似人格としての他者は変化を続ける。現実の、オリジナルの他者について認識を続けていく中で、この疑似人格が当初の認識から変様を続けていくのである。
このように認識が変化すると、どうなるのか。
つまり、当初自身の人格の疑似複製でしかなかった他者が変化し成長することで、自己の複製としての他者人格が変化し、それによって自己自身さえもが変化していくのである。自身と他者との共通項を基に形作られた疑似人格が変化することで、共通項を基点として自分自身の人格が変化し、時に新たな属性を手に入れることになる。つまり、自己が『延長』されることになるのである。
そんな風に、誰か自分と共通項を持った他者に関する認識が、その他者との交流を通じて変化し、新たな属性を身につけ、その新たな属性によって自己そのものに変化が及ぼされる過程――そのような仮定を、人は愛と言っていいのではないかとか、そんなことを思うのである。
そんな感じ。
この話のポイントは、このような自己の『延長』は、そもそも自分と共通項のある他者(を基に作り上げた疑似人格)を媒介にしてでしか成立し得ないということである。人は時に、自分と全く異なる人間に対して、愛着に似た感情を抱くことがある。これは、ある種環境に堪えうるための多様性を人が獲得しようとして生じる現象なのではないかと個人的には思っている。とは言え、このような愛着は、自己を延長させうる愛にはなり得ないと個人的には思っている。何せ、共通項が希薄な人間に関しては、自己を延長させ得るような疑似人格を構成することが難しいのだから。