はてなキーワード: 小林麻耶とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4732a14881669ab8114893932e100660208aded
神田沙也加さんの魂を呼んだって言いきっている記事を読んで思い出した。
竹内結子さんが亡くなった後、自称スピリチュアル・ナビゲーターを名乗る人物達が自身のSNSやブログ(アメブロ率多め)で、「竹内結子さんの魂が来た!」と好き勝手に言っていた。
今回の小林麻耶の発言は、この自称スピリチュアル・ナビゲーター達に近いように感じる。
自称スピリチュアル・ナビゲーターの中にはYouTube活動をする者もいて、怪しすぎる。
だけど、怪しいと言ったとしても奴らは怯まない。「私のような力がないのだから、信じられないのも当たり前ですね。このセミナーに参加すると、死者の声が聞けるようになります。」と、インチキ臭いセミナーを開催しているのだ。
病も運も、全てスピリチュアルの力で良くなるらしい。
麻耶さんも麻央さんも恐らく、自分の気持ちを抑圧する事で、家族の平穏と自身の安全を守ってきた(そうして生き抜くしか方法がなかった)タイプの方々ではないかと思う。
幼少期に何があったかは知らないが、もしかしたら苦労もあったのかもしれない。
表に見せる表情と、心の内にあるとても繊細な気持ちとが乖離せざるを得ない環境にあったのではないか。
つまり、本当は寂しくても悲しくても、本当は傷付いていても、家族の為(あるいは自分の為)に無理に笑顔を作り続ける必要性があったのでないか。
そうする事で乗り越えられた事、うまくいった事も確かにあったのかもしれない。
特に麻耶さんは、姉という立場もあり、背負うものが多い分、小さい頃から自分の気持ちよりも家族や誰かを優先する機会も多かったのだろう。
自分の気持ちを自身が無視し、心の傷がなかったかように振る舞う機会が多ければ多いほど、「私は平気だという顔」と「笑顔」の仮面が張り付いたように剥がれなくなる。
一方麻央さんは、そんな優しい姉の健気な努力に守られつつも、姉の無理を案じ気遣っていたのだろうと思う。
本当は繊細な姉の心を、これ以上犠牲にしなくてもいいよう「お姉ちゃん、少なくとも私は全然平気だよ」と、のほほんと、しかし図太く逞しい自分を無意識に演じていたのではないかと感じる。
そのため麻央さんも麻耶さん同様、複雑な思いを抑圧していたのではないだろうか。
似たような特徴を持つ麻耶さんと麻央さんだが、2人には決定的な違いがある。
麻耶さんは、背負うものの重さによりその時その時が精一杯で、また、張り付いて剥がれない笑顔の仮面と繊細な心との狭間で、どうしても「のらりくらり」状態になってしまう。
とても苦労をしているのに、苦労をしてるからこそ、フラフラとしているように見られてしまう。
一方麻央さんは、姉に守られている分の余裕を最大限に生かし、姉の苦悩をひっそりと支え続ける為の洞察力と安定感を磨いてきたのではないだろうか。
麻央さんなりに姉を守る為、のほほんと図太く鈍感な自分を保ち続けるというある種の信念を掲げていたであろう麻央さんは、とても真っ直ぐで、そして実は頑固な方だったのではないかと思う。
麻央さんは海老蔵さんに、麻耶さんと似たようなものを感じていたのではないだろうか。
海老蔵さんは、麻耶さん以上に強く強く自分を抑圧して生きてきたように見える。
しかし麻耶さんとは違い、海老蔵さんには、いくら自分に圧をかけ抑えつけても漏れ出してしまうほど、溜め込んできた強い感情のエネルギーがあるように感じる。
その強いエネルギーを抑え続ける為に、人間らしい感情を極限まで削る事を意識しながら、生きなければならなかったのではないだろうか。
そしてストイックに自分を追い込み、恐らくあるであろうルーティーンをこなす事で安心感を得つつ、それでも足りない部分はさまざまな方法でガス抜きのように発散し、やり過ごすように生きてきたのではないだろうか。
麻央さんはそんな海老蔵さんの内なる心を、分かっていたはずだ。
今まで、抑圧して生きてきた姉をそばで見ていたのだから。そしてそんな姉を、ひっそりと支えてきたのだから。
海老蔵さんと結婚した時点で麻央さんは、今まで姉にしてきたように、彼を支え守るという信念を掲げたのだろう。
彼の心をこれ以上犠牲にしなくても良くなるように「少なくとも、私は全然平気だよ」と、強く逞しく穏やかに。
麻央さんはどれだけ辛くても、自分を犠牲にしようとも、その信念貫き通したのだ。
麻耶さんの話に戻そう。
妹は耐え難い苦しみを抱えながら、それでもひたむきに信念を貫こうとする姿。
麻耶さんは、そんな麻央さんをどう見ていただろう。
察するに余りあるが、麻耶さんは妹と妹が掲げた信念を守り抜く為、今まで以上に自分の心を抑圧し、「笑顔」で麻央さんと甥姪を支え続けていたのだろうと思う。
しかしもはや、今までのように「笑顔」では乗り越えられないほどの理不尽な現実と、今までのようには抑えきれない強い感情もあったはずだ。
それでも、それでも麻耶さんは、笑顔を崩さなかった。崩せなかったのかもしれない。
妹を失っても尚。
麻耶さん自身、すでに剥がし方のわからなくなってしまった、そして結局何も救えなかった自分の「笑顔の仮面」を憎んだだろう。
どれだけ自分を責めただろう。
その「笑顔の仮面」が、ガラガラと崩れて剥がれるキッカケとなったのが、麻耶さんの元夫、國光あきらさんだ。
國光さんはとても優しい方なのだと思う。
恐らく麻央さんしか知らなかった、麻耶さんの笑顔の仮面の下にある本当の顔を、彼は優しく撫でたのだ。
麻耶さんが今まで、家族や何かを守る為に笑ってやり過ごしてきた長い長い年月。
そして、抑圧してきた悲しみと怒り。
國光さんは自らが、麻耶さんの心を写す鏡となり、本当の姿を麻耶さんに思い出させた。
そして、そんな麻耶さんの全てを愛し守ると誓った。
「怒っていいんだよ、僕はとっても怒っている」
麻耶さんは時に恐る恐る、時に解き放つように、今まで抑圧してきた感情を放出し始めた。
本当はとっても傷付いてきたのに、それを無視するように笑ってやり過ごしてきた自分自身。
そうして傷付けられたことを、許したかのように振る舞ってしまっていた自分自身。
そんな自分を変える為に、もうこれ以上後悔しない為に
心からの笑顔は、抑圧した気持ちを素直に吐き出し受け止めた先にあると信じ
私には、そんな風に見えて仕方がない。
私は以前スピリチュアルにはまっていて、総額300万円以上費やしていた。だから小林麻耶さんみたいな人とたくさん会ってきたし、自分もそんな時があった。亡くなった人や聖なる存在(守護霊とか神とかエンジェルとか龍とか)から声が聞こえるとか言って、自分の都合の良い解釈をして人に伝えるのだ。そこには「私はそういう声が聞こえる特別な存在なのだ」という自尊心を高める要素もあり、一度ハマると抜け出せなくなる。私はそういう声を聞くために講座に通ったこともあるし、確かにそんな声が聞こえるような気がして、聞こえた言葉通りに行動したり、ブログに書いたりしていた。すると、ブログでいいねをたくさんもらったり、スピリチュアル部門のランキングに載ったりするようになり、ますますその気になってしまった。ただ私生活ではそのような面はできるだけ出さないようにしていた。変な人と思われるのが嫌だったからだ。
私がスピチリュアルの世界から去ったのは、私生活に影響が出始めたからだ。最初は興味本位で踏み入れていたのだが、入ってしまうとズブズブと抜け出せなくなる。スピリチュアル界の著名人はよく「○○ヒーリング習得コース」などを開き、それを履修すると資格がもらえるパターンがある。国家資格でもないし何の意味もないのだが、ひとつスキルを獲得したようで嬉しくなる。コースは初級は数万円だが、中級、上級となると10万円、20万円とどんどん高くなる。彼らはそうやって儲けを出しているのだ。パワーストーンやパワーソルトやアクセサリーなどグッズは尽きず、私も収入の大半をスピリチュアルにつぎ込んでいた。
そうしているうちに、私は自分が「一角の人物」になっているような感覚になった。一般人とは違う能力を持ち、常識の中で生きている人たちを見下すような気持ちになっていった。初めはその気持ちを言葉に出すことはなく内に秘めるだけだったのだが、少しずつ表に出すようになっていった。スピあるあるの一つとして、「本音で生きる」というものがある。周りの目を気にせず、自分の思ったことを話し、思ったとおりに行動すべきだという考え方だ。そうすると宇宙が味方をしてくれる、周りが去っていったとしてもそれでいいという覚悟を持て。こんな教えなので、私は家族や友人にそのような態度で接するようになっていった。そうすると自然に友人たちは私から離れていってしまった。でも私は「理解できる人だけが残ればいい」、そんな気持ちだった。
そんなある日。私が受けていたスピリチュアルの講座で、先生とマンツーマンでセッションを受けていたときのことだった。先生が私に強い口調で説教をし始めたのだ。「あなたほど心の弱い人間はいない」「逃げてばかりだ」などと一時間以上説教をした。初めはそうなのかと我慢して聞いていたのだが、よく考えると私はこの1回90分のセッションで2万円払っている。2万円払って説教するだけ?それっておかしくない?流石に私にも怒りが込み上げてきた。セッションが終わり、一人になって考えみた。何かがおかしい。違和感がある。ここで私はX JAPANのToshiが書いた「洗脳」という自伝を思い出した。Toshiは洗脳側であるMASAYAに散々こき使われ罵倒され殴られてきたのだけど、洗脳が解けなかった。だが「お金を稼ぐためにX JAPANの活動を再開していい」という話をMASAYAから聞いたとき、「結局金かよ」と思い、そこから洗脳が解けたということだった。私もそうなのかな?私は先生のストレス発散と金儲けの金づるとして使われてるだけなのでは?まさか?でもここまでお金と時間を使ってきたのだし、今更・・・。
そんな気持ちにもなったのだけど、私はこのセッションでこの講座を辞め、先生から遠ざかった。そして次に、散々悩んだのだけど、ブログも閉鎖することにした。辞めないといけない、そんな気持ちが強かった。ブログを閉鎖してもGoogleのキャッシュには残るので、それも削除依頼を出した。なんだか恥ずかしくなって、なにもかも消してしまいたかったのだ。ブログをやめたことにより、ブログ繋がりの友人とも疎遠になった。先生とも会わなくなったので、それ繋がりの友人とも会わなくなった。ああ私は一人ぼっちになってしまった。以前からの友人には冷たくしてしまったし・・・。でもこのままではいけないと思い、LINEで謝りのメッセージと、スピリチュアルはやめたことを伝えた。すると、数人の友人とはまた繋がることができた。スピリチュアルグッズは全て捨てた。書籍も全て捨てた。これまでのお金と努力が、とも思ったが、捨ててしまえばスッキリもした。結果、生活にスピ関係のものは一切なくなった。
こんな経緯があったから、小林麻耶さんの陥ってる状態がなんとなく分かる。スピリチュアルは危険なのだ。趣味の一部として軽い感覚でする(パワーストーンを身につけるとか、パワースポットに行くとか)レベルなら大丈夫だけど、大金をつぎ込むようになったり、誰かに説教するようになったら危険水域に達している。でもここまで来ると誰も止められなくなる。スピリチュアルを教えている側は、それがビジネスなので、辞めろとは決して言わない。むしろ、あれをしろこれをしろと、最終的に自身の稼ぎにつながるようなアドバイスをしてくる。けれど周囲はすでに離れてしまっているので、もう止める人が誰もいない。じゃあ誰が止めるのか?それは、自分自身しかいない。Toshiさんもそうだったし、私もそうだった。洗脳に気付けるのは、最終的に自分自身しかいない。だから、小林麻耶さんも、自分が間違っていることに自分で気付くしかない。
では周りの人間は何もできないのだろうか。いや、できることはある。それは、間違ってると気付いた人を、もう一度暖かく受け入れることだ。Toshiさんもその後復帰して素晴らしい活躍をしているし、私自身も友人に受け入れられ元の生活に戻ることができた。小林麻耶さんも、いつか気づく日が来ると思う。数年後とか、もっと先になるかもしれないけど、彼女が気づき、現在のような状態から完全に足を洗い、謝って反省したとき、世の中に彼女を受け入れる優しさがあればいいなと思う。少なくとも私は受け入れたい。私自身もそうだったから。
https://anond.hatelabo.jp/20201130143825
この増田に触発されて。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/77739
みんな大好き初詣も、おみくじ、占い、お盆、クリスマス、バレンタイン、ジューンブライドもみんなスピリチュアルでしょ?スピリチュアル嫌いな人がどうやって折り合いをつけているのか知りたいくらいだよ。
まず、「スピリチュアル」というものを定義したい。日本でスピリチュアルという時、最も一般的なのは海外発のニューエイジ〜日本における精神世界〜ほぼ同じ内容ながら大衆向けに転換した「スピリチュアル」だと思う。
これはこの分野の第一人者、宗教学者島薗進や、それを引き継いでの研究を参照してのものだが、スピリチュアル界隈について見ている人なら概ね納得してもらえると思う。
最もよくまとまっているのは「精神世界のゆくえ」(これは精神世界についてだがスピリチュアルも中身はほぼ同じ,より新しいものなら「スピリチュアル市場の研究」あたり)だが、とりあえずスピリチュアリティのwikipedia記事、「日本での展開」について読むだけでもおおよそ分かってもらえると思う。
例えば下記のようなものだ。癒しや自己啓発に結びつくものが多い。
・瞑想
・ヨーガ(単なる健康法ではなくチャクラの覚醒やエネルギーについて言われることも多い)
・代替医療(レイキ、手かざし、ホメオパシー、気功、各種ヒーリングなど)
スピリチュアルの特徴は、「宗教ではない」とされること。スピリチュアルで使われる要素自体は宗教的なものが多いが、宗教団体という形を取っていることはほとんどなく、多くは個人としてスピリチュアル本やグッズを消費している(といってもスピリチュアルビジネスの主体が教祖のように振舞っているパターンはよく見られる)。
また、スピリチュアルと共通した概念を取り込んでいる新宗教もあるが、少なくともスピリチュアル界隈で堂々と「○○教です!」と主張されることはほぼないと思う。
となると、「初詣やおみくじ、お盆、クリスマス、バレンタインetc」のほとんどがスピリチュアルには当てはまらないことがお分かり頂けると思う。
ここで挙げられていたのは、世間一般的に行われている慣習であり、私からすれば特に癒しを求めているわけでもないのでスピリチュアルなこととは思わない。占いについてはスピリチュアルの範疇に入るかもしれないが、これは触れなくても問題なく生活はできる。また、初詣については、神社を「スピリチュアルなパワーが得られる」パワースポットとは思っていないのでスピリチュアルな人達とは目的が違っている。
小林麻耶さんの事件で問題になったのは、まさに上述したような教祖化するビジネス運営側であり、スピリチュアル界隈ではこういう例が頻繁に見られる。
個人でやる分にはやたらと批判されることもないだろうが、資格ビジネス化していることも多く、健康被害やキャリアの形成に繋がりかねないような言説(ニセ医療や一般社会での労働を軽視しスピ商材での自立を促す)をばらまく側になってしまっていることがあるので難しい。