はてなキーワード: コーランとは
以下は世界史に詳しくもないオレがwikipediaなどで調べた情報を並べたものである。
カルトとは
悪しき集団。犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される。
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# オウム真理教
最盛期
日本:15,000人
ロシア:35,000人
死者…13人
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# イスラム教
約16億人。
ISIL(イスラム国ないしIS)の戦闘員と見られる複数のジハーディストのグループによる銃撃および爆発が同時多発的に発生。
死者…130人
## シリア騒乱
スンニ派とシーア派の対立も要因の一つとして複雑な事情を経た世界の代理戦争状態。
推定死者…46万5000人
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# キリスト教
約21億7千万人。
フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。
推定死者…3,000人
## オランダ独立戦争/八十年戦争 1568年 - 1648年
ネーデルラントのプロテスタント勢力が、カトリック国スペインの支配から脱するため起こした反乱。
推定死者…18万人
## 三十年戦争 1618年 - 1648年
ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる。
推定死者…400万人
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人間の過半数が反社会的な集団なら、それはもはやそういう社会なので、「社会的」ということになるのだろうか。
最近、コーランや聖書をマンガで読んでいる。(分かりやすくて非常に助かる)
こんなこと言うと信者から殺されそうだが、科学技術が発達した現代人が読むと、預言者たちは適当なことを吹き込んでいる詐欺師にしか見えない。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20180828-OYT1T50125.html
この件についてだが、私は表現の自由を守る立場から、エロ本や政府批判の言論と同じく、サン・チャイルド(防護服を着た少年像。以下『少年像』)の撤去は表現の自由に対する侵害であると考える。
以下にその理由を述べる。
市長は「見たくない人が見なくて済む場所を確保するのは難しい」と言っているが、そもそも『見たくない権利』は法律上ほとんど確立していない。
「公然わいせつ罪やわいせつ図画頒布罪はどうなんだ」と思うかもしれないが、それらの刑罰が保護しているものは『最低限の性道徳』であって見たくない権利ではない。
また、「見たら不快になるものを見たくない権利」を仮に認めてしまったら、差別主義者が「同性愛を見たくない権利」「黒人を見たくない権利」「モスクを見たくない権利」
などを主張し始めるのが明らかであり、「見たくない権利」は認めるとしてもごく限られた範囲で済ますべきである。
また、『福島県の人の尊厳を傷つけている』という主張も認められない。なぜなら、『福島県の人』に人権は無いからだ。
何もこれは、「放射能に汚染された福島在住者は遺伝子が変化して人ではない別の存在になってしまったから人権は認められない」などのように言っているのではない。
単に、『福島県に住む個人』には当然として人権があるが、『福島県の人』という抽象的な集団には人権がないと主張しているだけだ。
詳しくは、表現の自由擁護の活動をしている山口貴士弁護士の見解を読んでほしい。
2.この像による風評被害があるというのならば根拠を示すべきである
風評被害や嫌悪感については林智裕氏の記事が詳しい。だが、私はこの見解に異を唱えたい。
現在の福島にとって、「サン・チャイルド」は「過去に思い描かれた架空の未来」を描いた作品になっていると言えます。
たとえ、それが作者の制作意図ではなくとも、「日常を防護服姿で踏み荒らす人々」や「力づくで押し付けられてきた放射能デマと偏見」を
そうですか、想起させるのが悪いのですか。ではレイプ物のAVは実際の性犯罪を想起させるし、『幸色のワンルーム』は実際にあった未成年誘拐事件を想起させるし、
零戦を修復して飛ばせることは軍国主義を想起させることは否定できないから悪いですね。禁止されるべきです。
仮に、あくまで「空想上のイメージ」であるとしても、このままでは作者であるヤノベ氏が本来意図したアートというカテゴリーさえも逸脱して、
「サン・チャイルド」が福島に対する負の烙印やプロパガンダのシンボルとして一人歩きし、悪用されてしまう可能性すらあります。
具体的にこのようなメカニズムによってこのようなことが起きる、という根拠を抜きにして『可能性がある』だけで禁止することは妥当ではありません。
それを言うならば、ロリエロマンガを読んだ人が実際にマンガと同じことをしたいと思って幼い子供に性犯罪をする可能性もありますし、
資本論を読んだ人が再び共産主義にかぶれて身内同士で殺し合いをしたりする可能性もありますし、
コーランを読んだ人が過激な原理主義にかぶれてテロを始める可能性もありますから禁書にするべきですね。
……と言っているのと同レベルではないだろうか? 少なくとも、少年像がどのように害を与えるかを具体的に数字などで示すことができない限り、少年像が現実に被害を与えると言える理由は無い。
この種の問題は判断が難しい例が必ずあるとはいえ、文化の盗用の概念自体を認めないようではいけないので、明らかな例をあげておく。
「アメリカ国旗のデザインがかっこいいという理由で、国旗を逆さまにプリントしたり切り刻まれているように見えるようなデザインにする」
→ アメリカ国旗の模様だけに関心が行き、それがアメリカという国の国旗であるという文化的背景を無視したもの。
「日の丸がかっこいいという理由で、店の入り口の足踏みマットのデザインにする」
「エキゾチックなデザインにしたいという理由で、アラビア語で書かれたコーランの一部を、お皿にプリントし、飲食店で豚肉を含む料理を乗せるのに使用する。」
瞑想というかマインドフルネスに抵抗があって、本を買って読んだりしてみてるわりに、全然実践できていない。
効き目がないと思っているわけではなくて、「まあこういう仕組みだから、こういう世の中でやると、こういう調整が効くんだろうな」と自分なりに納得もしてる。
じゃあ何がひっかかってんのかというと、自分がちゃんとした仏教徒じゃないからだ。
マインドフルネスは、宗教的要素を取り除いたとは言われるけど、きっぱりはっきり「八正道の中の正念」という概念とイコールなことがあきらかだし、そもそもその宗教的要素を取り除いたっていうことに対しても「……いや、そんな勝手に取り除いていいものなのか?」っていう気持ちになってしまう。残りの八正道ノータッチでいいんだ?? ほんとに??
自己実現のために、信仰してない宗教の教義のごく一部分だけをお気軽に使うの、自分のオシャレのためにまったくコーランも知らないのにヒジュラかぶっちゃうみたいなアウト感をね……。感じてしまうんだよな~。
基本的に自分が考えすぎなのはわかってるんだけど、うっかり他人の重要な箇所に土足で入ってるんじゃないかって不安がどうしても残ってしまう。
写経体験みたいなものだと捉えたらどうかと言われたけど、マインドフルネスは継続して行う習慣なとこがどーもな……。
他の時間は読まないです。
2. 「ごめん」という代わりに「バカヤロー」と言ってみる。
謝る必要がないのに、毎回謝ってしまい、謝りすぎてしまうという問題を抱えていました。今でもそうです。そうなってしまうと、何をするのも謝ってしまい、受け身になってしまいます。自信がなくなって他の人から受ける評価も下がってしまいます。だって、すべてのことに謝っているんですから。
なので、意識的に「ごめん」の代わりに「バカヤロー」というようにしてみたんです。
3. タグを置くのではなく、片づける。
鍋から直接食べるのはそろそろやめましょう。
5. 2分で済むのであれば、やめてしまう。
2分もかかるのなら諦める。
一貫性をもたせるのは、認知行動療法(CBT-I)でもとても大事とされています。
確実に人生が変わる。
8. 丸々1年間、小銭はすべてレジで出す。
そして起きたときには忘れる。
増田。
13. できるだけ長く眠る。次の日も続ける。そしてその次の日も。
できれば二度と起きない。
14. 家を出る前に毎朝布団にもう一度入る。
そして二度寝をする
15. 何かをやめるのではなく、新たに買う。
そして部屋がジャンクであふれる。
野菜350gも。