はてなキーワード: 故事成語とは
しかし、多くの場合、議論におけるたとえ話は、欺瞞をはらんでいたり、議論を拡散・混乱させる効果しかない。
ここで、「AはBである」という論者が、Cのたとえ話をするとき、そこには、
①AはCにたとえられる(A≒C)
②CはBである
③①及び②ゆえにAはBである
大抵の場合、たとえ話においては、②については異論がでにくいようなCが設定されるので、問題は①である。
多くの場合において、①A≒Cと言えるかどうかは議論の余地があり、たとえ話によって結局、議論が拡散してしまうのである。
そもそも、①及び②が当然に認められるなら、「AはBである」ということにほとんど疑いはなく、「AはBであるか否か」ということが議論になっているということは、①か②を当然視しない人がいるというこのなのである。
最近の例では、元アナウンサーのブログ記事炎上に対する芸人のコメントがある。
このコメントでは、「壁ド突いたら手の骨折れます、でもド突いちゃった」患者がたとえ話として出されている。
Twitterでのコメントであり、言葉不足となっているが、ここでいいたいのは、
①自己責任で人工透析を受けることになった患者と、壁を殴ったら骨が折れることが分かってるのに殴って骨を折った患者は同様である。
②壁を殴ったら…の患者の医療費は全額自己負担にすべきである。
③自己責任で人工透析を受けることになった患者の医療費は自己負担にすべきである。
ということだろう。
このケースでは、そもそも②が当然に同意できるものではない上、①についても、それらが同様といえるかについて議論の余地がある。
結局、元々の議論に①、②という論点を新たに付け加えているだけであり、議論の促進に資するところがないばかりか、議論を混乱させるものだと言える。
(そもそも元記事の炎上の原因は③の命題の当否ではないという点でも的外れ気味な擁護ではある。)
このようにたとえ話というのは、多くの場合、百害あって一利なしである。
議論においてたとえ話をしない、ということが常識として広まるようになってほしい。
※なお、本来A≒Cとして扱うべきところ、差別意識等からA≠Cとして扱れている、ということを炙り出すためには、たとえ話が有用な場合がある。男女を入れ替えるたとえ話がこの役割を果たすことは多い。もっとも、この場合でも、男女をいれかえることによって変化する要素がないか注意が必要である。
※追記
ここでいうたとえ話というのは、比喩・アナロジーであって、例示ではない。誤解している人もいるみたいなので念の為。
※追記2
故事成語って本人が使い回してるわけじゃないぞ…
1三「怒髪天を衝く」
髪が逆立つほどの闘争心を見せながらも、冷静に点を取り返す狡猾さも併せ持つ、攻撃的なリードオフマン。
2二「布衣之交」
「庶民でさえ約束は守るでしょ」と厭味ったらしく相手を責める、地味ながらも失点の隙を与えない堅守が自慢。
3遊「智勇兼備」
野球評論家・司馬遷も絶賛。攻撃でも守備でも活躍する、まさに智勇兼備と言うべき遊撃手。
4捕「刎頸の交わり」
投手との阿吽の呼吸で巧みにリードする名捕手。契約更改の前に「チームのためならクビを切られても悔いはない」と言い放ったエピソードは有名。
5中「肉袒負荊」
諸肌を脱いで棘付きバットを振り回すパフォーマンスで知られるスラッガー。エラーをするたびに厳罰を望むようなストイックなところがある。
6右「両虎共闘」
危険を察知するのが得意な守備の名手だが、中堅手と共倒れにならないようにフライの処理を譲る場面が多く見られる。
7一「琴柱に膠す」
技術はあるのだが融通がきかないために一軍に定着しきれていない。今回のチャンスをものにできるか。
8左「紙上談兵」
読書家で野球の知識は豊富。他球団からもマークされる期待の若手だが、実戦経験が少ないことに懸念の声も。
9投「完璧」
球界の盟主・秦を相手に完全試合を達成した大エース。「石ころ」と呼ばれるくらいの低評価だったが才能に磨きをかけて名選手となった。
バイト先の後輩と割と仲がいいのだけど、知能に一抹の翳りがある。いや、一抹どころじゃない。
勉学が基本的に一人でできない。文字を追うことに慣れてないし、読解力がないから。
また、義務教育の知識がかなり欠けている。消費税の計算ってどうやるんですか?
「蛇足(などの故事成語)」ってなんですか?この「ear」って意味なんですか?etc
・
マジかよと思いつつ、軽く教えるうちに気がつけば私が何故か教育係になっていた。
後輩もこちらが物事を教えるのがさも当然のように振舞う。
店長も「あいつな(苦笑)。ま、一つよろしく」というような態度でイラっとする。
後輩は常に周りに流されて、自分の意見もない。マニュアル人間として動けば上出来だ。
知識的に自立して思考力があれば、手取り足取り教えなくて済むんだけど。
・
私にはそのようなスペックの子に物事を教える義理はあるのだろうか。
普通に話す分には全く問題がないのだけど、手取り足取り教えるとなると私には荷が重すぎる。
けど、私がいないとこの子は多分だめになるという共依存待った無しの思考に陥りそうですごく怖い。
というか若干なってる。皆どんな風に折り合いをつけるんだろうか。
魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えればそこで終わりなんだろうか。
「君がッ 泣くまでッ 殴るのをやめないッ」とは某ジョジョのセリフだが、
そういえばマザーでも「歌をやめろ」ってギーグのセリフがあったっけ?
「わたしと共にマザーシップに乗りなさい」 「歌うのをやめなさい」 「歌を…やめろ」 「う、うたをやめろ!」 「うたをやめるんだ!」 「地球のむしけらども!黙れ!歌うな」 「うたを…」「やめろ!」
ユング的原体験じゃないけどこういうのってあるよね。わからないって人は慎重に話を聞いてくれ。
DQ8では全員で杖に向かって祈り1人でも死んだら祈りは中断される仕様だったし、
魔法の詠唱が中断されると台無しになるという仕様は多くのファンタジー作品で共通している。
それがどうした?と思うかもしれないが、よく考えてみるとあまりに独特な仕様なんだよね。
2.一瞬でも途切れる(または条件から外れる)とリセットされる(=台無しになる)
3.祈りや歌を継続すると強大な力が得られる
この仕様が無批判に受け入れられて広まっているのは、単に都合のいい設定だからパクられているといったレベルではなく、
物事の真理を言い当てているからなのかもしれない。もう少しリサーチを続けてみよう。
卑近になるがPCにアラートの類いを入れると集中力が途切れるから一切入れないって人がいる。
熟考中に話しかけられると考えてたことが木端微塵に大破するがごとくリセットされるという経験も皆様には数多いことだろう。
また百年の恋が一秒で冷めるとか、信頼を失うのは一瞬取り戻すのは一生という故事成語の通り、
詠唱がわずかでも一瞬でも構成要件というか要件定義から外れると台無しになる。
ピアノの練習だって一日でも休むとすごく鈍るのは多くの人が経験しているだろう。
これでもまだ「抽象的構造だから偏在して当然」と思うだろうか?それとも精神の重要な性質を表していると思うだろうか?
現代社会は多忙で突発タスクの割り込みが多い。歌がすぐ途切れる時代といえよう。
そんな今、歌い続けることに如何ほどの意味があるのか、歌い続けるならどんな歌を歌うべきなのか?
それをみんなで考え始める時期に来ていると言えるだろう。
古いアニメを持ち出すが、ゼロの使い魔のアニメ2期のEDの歌詞に『よそ見してたでしょっ 他の女の子』
という歌詞がある、これは主人公であるサイトがルイズの視点から見るとしょっちゅうシエスタやキュルケに色目を使い目移りしているように見えるということを示唆している。
しかし読者や主人公からすれば主人公であるところのサイトがずっとルイズが好きなのは明らかである。
では何故そのようなすれちがいが発生するのか、これをゲーテの名作であるところの"若きウェルテルの悩み"を読んでいたところ思いついたのでここに記してみる。
若きウェルテルの悩みはウェルテルがロッテに猛烈な恋をするが、既婚者であるロッテとの恋はどうやっても叶えられないことに絶望し最後には自殺をするという壮絶な内容であるが
ロッテが結婚したからといってすぐ自殺をしてしまったほけではなく、当然そこには過程がある。
ウェルテルはロッテがすでに婚約者であったがためにいったんよその土地へ行くがまた戻ってきてしまう、そして戻ってきたときにはロッテはすでに結婚しており以前住んでいたときの住民の近況は変化していた。
作中のエピソードでウェルテルがある口下手な作男と非常に仲良くなり、その男はある後家さんのところで働いており非常にその女主人を慕っており、女主人のほうも作男を優遇しておりにくからず思っているということが語られる。
ウェルテルがよその土地から戻ってみると、その男はウェルテルが留守にしているあいだにその女主人と腕ずくで思いを遂げようとしたがそれを快く思わない女主人の弟の介入もあり拒否され解雇されてしまう。
もちろんウェルテルはこの作男にロッテへの強烈な横恋慕をしている自分を重ねあわせて同情する、そしてこの作男は最後には後任の男を殺してしまうのだ。
作男がこの後任の男を殺したのにはもちろん理由があって、何故か女主人はこの後任の男と結婚しそうな気配があったらしい(なぜこうなったのかは私にはわからない)
ウェルテルは後任の男を殺してしまったこの作男を強烈に弁護するが周りからは受け入れられない。
他にもロッテに恋し、それを打ち明けた結果免職になり気が狂ってしまった書記の話などが語られる。
もしもまともに恋愛ができたならば当然この書記はウェルテルにとっての恋敵なわけだが、ウェルテルはこの気が狂った書記の話に対してはげしく感動をしてしまう。
なぜなら、この書記はウェルテルがやりたいと思ってできなかったことをした結果狂気の道におちいったからだ、それに対して深い同情を覚えて感動をしたわけだ、しかしこれはウェルテルにとっては絶望への一歩だったと思う。
さて前述の作男の裁判をした結果、弁護は受け入れられずウェルテルはロッテとの交流も断たれてしまい、最終的に自殺の道を選ぶことになる。
では何故ウェルテルは自殺をしたのか? ロッテが婚約しているにしても、結婚前に告白すれば万が一でも受け入れられたのではないか?もしくは他の女性を探すとかロッテを略奪するとかさまざまな道があるのではないかと読者が思うのは当然である。
しかしこれらの道はすべてウェルテルからするとすでに検討された、というか現実に試行してみたようなものなのだ。ウェルテルは発狂した男や殺人を犯してしまった作男を見て、自分の思いをうち明けたり略奪をしようとすれば同じ結末になることに気がついてしまったのだ。
とはいっても、他の土地へ移るというのもすでにやってしまった道であり、どうやってもロッテへの想いを抑えることはできないと悟ったから最終的に自殺をするわけである。
ではどうしてこういう考えに至るのかというと、告白やら略奪といった行為は男性にとって非常にリスクのともなう行為だからだ。
古来から女性には恋愛や結婚に弱い拒否権はあっても、誰々と結婚したいといった能動的な権利は与えられてこなかった、つまり求婚は基本的に男性から行われてきたのである、これは現代でもある程度同じ傾向が見られるといっていいだろう。
フィクションであれば"すばらしい新世界"などで女性から直截なセックスを求められ野蛮人(旧世代人)のジョンがショックを受けるといったような話があるが、だからこそ現実ではそうはなっていなかったということがわかる。
それはともかく、女性から求愛をするというのは稀であるというのがわかると思う、これは"据え膳食わぬは男の恥"という故事成語からもめったにあることではなくそのような事までさせてしまったのだから男は責任を取れという意味合いであると思う。
つまり求愛は男性から基本的に行われ、女性はせいぜい思わせぶりな行動しかとれずあなたは私をどう思っているのか?ということは聞けないのである、聞けば実質それは告白と同じである。
そして万が一その告白が拒否されればそれは恥ずかしいことであり自分の自尊心を大いに傷つけることになる。しかしそういったことを聞かずある程度まで仲良くする分にはまったく問題がなくノーリスクなわけである、女性の側からするとやきもきするかもしれないが男性の側からすると告白はリスクの伴う行為であり確証を得るまでは動けないのである。
告白を行うムードまでもっていけたら実質告白前に勝負は決まっており勝ちも同然である。
ある程度の仲まで持っていくのはノーリスクなのだから青年男性はいろんな女性とある程度に仲よくなったりするわけであり、それは意中の女性がいたとしてもまだ彼氏彼女の関係になっていなかったらそうなのである。
それはリスク分散という側面もあるし、単に女性と話すスキルを上げたいというのもあるだろうし、告白し失敗した場合に自分の精神を守るための布石だったり、一人の女性だけに入れ込んでいるのは怖がられそうという判断のためだったりするだろう。
しかしこれは女性の側から見たら、男性はいろんな女性に目移りしたりデレデレしているように見えるのではないかと思った。私は好きとは言わないけどあなたからは言って欲しいというわけである。好きと言ってくれなかったらそれまでの愛が憎しみに変わったりすることもあるわけで、
たとえ男の方は意中の女性のことをずっと一途に慕っていたとしてもそうなったりする。
こういうことを考えていたら、そういえばゼロの使い魔のEDにそういうような歌詞があったなと思いだされてたので文章にまとめた。
ともあれ恋愛弱者に対して死刑宣告をするような本だった、途中まであまり面白くなかったがロッテに告白して爆死した男にウェルテルが同情したあたりから面白かった。
有名な故事成語がある
蜀(蜀漢)の武将・馬謖が、街亭の戦いで諸葛亮の指示に背いて敗戦を招いたことにより、
諸葛亮が「軍律の遵守が最優先」と涙を流しながら切ったという話である。
なぜ諸葛亮は切らなければならなかったのか?
「馬謖ほどの有能な将を」と彼を惜しむ意見もあるほど馬謖はいい人材だった。
そこにはルールを守らねばならないという理由があった。
このルールを守るということ
これって何らかの目的のための手段だよね?
規律を守らなくても良しとすると、
もし小さな組織であれば全ての状況でも判断できるだろうけど
大きな組織になればなるほど全ての状況で自分が判断するということはできなくなる
その為のルールなんだ
大きくない組織の場合必ずしもコンプライアンスとかルールが優先されるものではなく
これから書くことは、あまりにもシンプルで、誰かがもうすでに書いてるんじゃないかと思う。
けど、今朝こんなの(※1)がホッテントリ入りしてるのを見て、なんでこんな誰も使えないようなくだらないテクニックがもてはやされるんだろうと疑問に思ったことだし、一つ書いてみることにした。
これ一つだけだ。
あらゆる文章について、この「繰り返しを避ける」という言説を当てはめて、文章をより良いものにすることが出来る。それは何も難しい事じゃないし、誰でも、今からすぐにできることだと思う。
ひとつの文の中で同じ言葉を何度も使わないことはもちろんだが、もう少しこの法則について吟味してみよう。
まず、へたくそな文章を書く人の大半は、
なのである。よく見かける、「~だ。~だ。」の一本調子では、読んでいる方が疲れる。もちろん、新聞のように厳しく字数制限がある場合は節約の必要もあるだろうが、特に字数を気にしない場合、「~だ。」をアレンジし、「~であった」「~なのだ」などといろいろ使い分けることで、簡単に同じ言葉の反復を抜け出すことができる。もちろん、慣れてきたら、体言止めや時制などにも気を遣ってアレンジしていくと良い(※2)。
次に、へたくそな文章の特徴として、
ということも挙げられよう。
森博嗣大先生なんかこれがひどくて、いま手元にあった「カクレカラクリ」をひもといてみると、
「○○○○」○○は言った。
「○○○○」○○は言った。
「○○」
「○○○○」○○は叫んだ。
とこんな表現がいくらでも出てくる。いくら量産が必要な人気作家でも、これはひどすぎやしないだろうか? 異常ですらあると思う。いくらストーリーが良くてもこれでは興ざめだ。だから、短い文はできるだけ目立たないように、それでいて、自分の主張を特に強めたいときだけに使うとよい。基本的に短い文は強い印象を与え、なおかつ文中でよく目立ち、一方で長い文はその内容の印象を薄める効果があるからだ。それゆえ、長い文を書いた上で、短い文でダメ押しすると強い。Yes, we can.
あとそれから、
のが吉だ。とくに故事成語はヤバイ。こういう言葉は、日本人なら何度も何度も小さい頃から聞かされているから、たとえその文章全体の中で初めて使われたとしても、一気になんか古くさい、繰り返しがまた来たという印象を与えてしまう。これも「繰り返しを避ける」原則の発展としてとらえることができるだろう。
まあ考察は面倒だしそれくらいにしておいて、あとはTips的なものとか、個人的好みの話とか。
ことも大事だよ、ってことを忘れないで欲しい。読点はダテについているものじゃないのだ。本田勝一が「日本語の作文技術」で読点の付け方について、章を一個割いてクドクド説いているのも、当たり前のことだが、理由がなくてやっているわけではない。へたくそな人は、読点をどこに入れるかを全く意識しないから、結果として文章は読みづらく、陳腐に見えてしまう。
ってのもやっぱり大事だ。頭の中で良い。実際に読むスピードで、自分の書いた文章をもう一度読み直すこと。向田邦子は自分の小説だか台本だかを執筆しながら朗読して、それをテープに残していたらしい。そこまでする必要はないと思うけれど、そういう姿勢が大事なのは確かだ。音読してひっかかるような文章を書いているのはよろしくない。
さらに主張しておきたいのは、
ということだ。よく「自分の言葉で書きましょう」なんて事をいけしゃあしゃあと抜かすヤツがいるが、自分の言葉なんて、そんなもの元からありはしない。どんな大作家だって、誰かに影響されて、それが少なからず現れながら文章を書いている。「作文は借文」、この原理原則を忘れずに、出来るだけ素直に、努めてわかりやすく、相手に「自分の心のイメージを、相手のわかる形で伝える」こと。オリジナリティなんて言葉にだまされて変な表現を使ったら一気に興が冷めてしまう。ましてや自分が「これは名文が書けたぜウッシッシ」と考えたりしたことがあるなら、猛省して欲しい。もちろんこれは自戒も込めて。オナニーした後の紙は、ゴミ箱へ捨てるのが常道だ。こびりついた精液を他人様に見せてはいけない。何も、肩を張らなくてもいいのだ。あなたが語った時点で、その言葉は「あなたのもの」なのだから。
最終的に、
ということも忘れないでおくと、相手に自分の心が伝わる、良い文章が書けることだろう。いつでも文章は「書き飛ばせる」ようなものではなくて、努力と苦悩の果てに成り立っている。良い文章が書けなくて苦しんでいるのはあなただけではないし、苦しまなくなったときが、まさに文章を書く人間としての終わりなのだ。どうやったら自分のイメージを、誤解なく、ありのまま伝えることが出来るだろうか? そのひたすらの煩悶が、文章を成長させてくれる。だから、へたくそでも、伝えようという意志を必死で込めることで、相手にその熱意は伝わることだろう(もちろんその熱意を期待してはいけない! 文章を書くことは常に「伝わらない」恐怖との戦いだ)。
(そういえば、読点が多いという指摘があったが、全くその通りだと思う。どうも自分は読点が好きすぎる)
※1:http://www.lifehacker.jp/2009/10/091005writingtips5.html
※2:ただし、よくちまたで言われているように、体言止めはなるべく避けた方がよいのは確かで、その理由は、強く言い切る形になり、語調に与える影響が大きいからだ。従って、原則として使わないという指針は間違ってはいない。間違ってはいないが、体言止めという手法がなぜ存在しているかと言うことも考えると、どうしても必要と信念が訴えるならば使うことになるだろう。もちろんそうやって、みんな失敗するのだ。
今日は僕が書いたキチガイみたいな増田☆記事をまとめてみたよ!☆が入るとなんだかスタイリッシュだよね!
古いのからいくよ!
なんでこんなの書いたかよくわかんないけど内容も意味不明だよ!
意味が分かんないよ!なんだか自分の心の闇を感じてしまうよ!
読む価値ないよ!
もしかして自分って病気なんじゃないのかな!おもに頭の!
もうなんだか頭がやばいよね!僕はもうダメ人間だよね!
もし他人が書いたらこいつ頭くるってんじゃね?と思うけど問題なのは書いたのが僕なんだよね!
これはlevel1だね!
なんで書いたかよくわかんなけどたぶん自分の中での理由付けがあったんじゃないかな?
これはお酒を飲まない僕だからこそたどりついた境地だと思うよ!
語呂がいいよね!
Level2だよ!
もうさ、僕はダメ人間だよね!
もう、コメントしようがないよね!
人は匿名だとありえない人間性を発揮するよ!こんな人間でも大学で首席候補なんだから人生を悲観するのはよくないよ!
どうにかなるさ!人生どうにかなるさ!たぶん、どうにかなるさ!
どんなことでも根本まで突き詰めるとあらゆる分野で通用する力が身につく。とよく言われるけど、それはほんとなんだろうか。
例えば読書。読書と言ってもいろいろあるので小説を読む場合に限定する。
ひたすらにページを捲って物語を読み漁る。それで得られるものと言えばなんだろうか。
おそらく大半は物語に入り込むことで生まれる擬似経験とそれに引っ張られて生じる自分の擬似感情だろう。
想像の中での擬似経験を楽しむ、あるいはストレス発散であるとかカタルシスを得るとかの不満解消の意味が、それらの擬似体感にはある。
魔法が使える世界でのお話であれば、その設定だけで一時的にであれストレスが解消される。
自分と似たような環境での話であれば、主人公と一体化して現実ではやりたいができないことを体験し不満を解消できる。
小説にメリットを求めた場合どんなものがあるかの話になってしまった。
小説を読む、ということを突き詰めると、どんな力がつくだろう。
よく言われるのは想像力だ。ものごとを予測して備えるのに役立つ脳内シミュレーション機能である。
小説を読むときには少なからず想像が行われる。フィクションを頭の中で具体化してみる作業だ。
これは何にでも応用できる。
人間の体験していることは脳が見せているものだからこそ、想像は全てにおいて適用される。
これを現実に当てはめるといろいろと役立てられる。どのような場面であれ、先を予測できることはメリットになる。
つまり、小説を読むと言う行為を深く突き詰めていくと、多分野で役立つ力が得られるのだ。
ここで一応の仮説はできた。具体的な例は小説を読む人の場合だけだが、一つの筋は通ったわけだ。
ここで言いたかったのは、
何かを突き詰めていくといずれは人間固有の(かつ根底の)能力の部分をどうこうしていくことにつながるから、何かのプロは別のプロにも通ずる部分があるんじゃないかな、
ということだ。
いまでこそ分野もモノも増えたわけだけど、それらを扱うのはどこまでいっても人間なわけだ。
思考回路が整備されてるか否かで能力は変わる。思考回路を作っていくのは何かを突き詰める場合だ。
故事成語や名言と言われるものを読んでると、そういう根本ルールがぼんやりと感じられる。
何をやるかじゃなくてやれることを底の底までやりきるかを重視したほうがよいんじゃないかと思ったのだ。
なんすかこの空気。すいませんでした。
こういう故事成語のusopediaをだれかつくるんだ。