はてなキーワード: 優生学とは
ごめん、「人類は多すぎるから多様性を考えなくてもいい」というのがちょっとよくわからない。
今から優生学に基づいて遺伝子を厳選しながら人口を減らしていった30億人なら、
前者のほうが絶滅を避けられると思う。(そういう話ではない?)
歴史的に優生思想が何をやらかして何故危険とされるかは、例えばこのnoteとかに読みやすく書かれてるけど、
これに尽きると思う。
例えば戦争をしていた時代に遺伝子の選別がされていたら、今イケてる「賢くてコミュニケーション力のある人」なんて全然優先されないに決まってる。
同様に、今の人類の思う優れた形質が100年後にどう見えるかわかったもんじゃない。
そもそも「苦しみを減らしたい」っていうのが凄く感情的で、「合理的に考えると」っていうのと正反対なのが一番引っかかってます。
もちろん、断種法がアウトなのはよくわかる。産む側、親の明確な人権侵害だ。ただ、断種は優生思想の実現方法の一つでしかない。優生思想は一般にアウトとする理由がよくわからない。
確かに、野田洋次郎のツイートはいまいちだと思った。「一部の親の生殖を奨励することで、奨励されて生まれた子供とそれ以外の子供で命の価値の不平等が生じる」ってのはまあ理解できる。一方で、「人間の価値は変動するから」「人間という種の生存戦略として不適だから」みたいな意見を読んだけど、じゃあ普遍的な価値を持った遺伝子が見つかったり、生存戦略として適切であるような方法が見つかれば、優生思想はOKなのか?と問い返されてしまうのではないか。
安楽死の話はそもそも優生思想は関係ないはずだ。優生学は「生殖の制御」が必須の要素で、今後生殖しないであろう高齢者の安楽死を認めようが認めまいが(他の倫理的な問題はもちろんあっても)優生学とは無関係だ。言い換えれば、「誰が生きるべきか死ぬべきか」ではなく、「誰が生まれるべきか」を考えるのが優生学だ。
自由恋愛云々は更に無関係だ。個体の自由意志で生殖した結果、集団として形質に偏りが生じる、というのは進化論レベルの話だ。現代社会で、「生殖したくてもできない集団がいる」という問題は明らかに解決不可能だし、それを「優生思想的だから」といって問題視する理屈もよくわからない。もちろん断種法のように、無能である(とされる)個体の生殖を積極的に禁止したら人権侵害だ。それは優生思想的だからというより、(不当に個人の自由を侵害するという)人権侵害であることが問題だ。
雑な言い方をすれば、はてなユーザを無能コンプレックスから守るための便利ワードとして、「優生思想」が使われている気がしてならない。優生思想の何が問題とされているのか、ちゃんと理解されているんだろうか。
あれは優生学じゃなくて育てられないだけだぞ
自由競争は排除の論理であり、それを生殖に適用すれば優生思想的に作用する。
資本主義における自由競争は以下の2つの性質で社会を高効率にする。
①他社より市場が求めるものをより安く提供できる企業を富ませることで市場への参入を促す。
②市場に求められないものや、高コストで供給する企業を貧しくすることで市場から排除する。
自由恋愛も自由競争である以上は②のような排除の論理を宿している。
主に徒労感や自信喪失、学習性無力、年齢増加による無価値化によってだが。
更に商業的に作られた流行によって自由恋愛における理想的な人物像が作られる。
そして自由恋愛による結婚は生殖に直結する。つまり理想的ではない人物が淘汰される。
誰か特定の一人や集団が悪いというわけじゃないがそういう構造になっている。
もちろん資本主義よりまともな仕組みが見つからないから資本主義を続けているように
しかしそれが自由恋愛の残酷な側面から目を背けていい理由にはならないと思う。
人間は企業のように新しく作り直したり脳を入れ替えたりつぶしたり統廃合したり出来ないし、してはいけない。
人間は絶対に変えられない部分があるし、変わるにしても劇的には変われないし、恋愛市場で年齢の増加はマイナスに作用する。
恋愛市場は金融政策や公共事業で調整できるわけでもないし、失業保険のようなセーフティーネットもない。
恋愛市場はゼロサムゲームでいくら市場が活性化してもパイが増えるわけでもない。
少なくとも恋愛市場は資本主義市場より理不尽で未成熟なシステムだと思う…。
なんとかならないのだろうか?先行研究おせーてください。
あれでわかったことは、個人の選択は何ものよりも尊いということ。
優生学と同様の価値判断だとしても、個人の選択である限りそれを否定できないというのが真理。
散々ここで話題になっているあてがえ論者の自称弱者男性や、男性による女性への加害についても、産み分けがそれを解決する。
各個人がそれぞれの判断で産まれてくる子の性別を選べるようになれば、結果的に男児が減り、上記のような問題行動を犯す人が社会から減る。
昔と違って、男性の有害性をきちんと主張できる世の中になったのだから、世論によって、一人ひとりの力によって、ジェンダー問題を解決に向かわせることができる。
もっと言えばスウェーデンのような社会民主主義国家では、対異性魅力が高い少数の男性の遺伝子を受け継いだ婚外子を、福祉で手厚く保護するコンセンサスが得られている。
どこが優生学なのか
https://anond.hatelabo.jp/20200725181538
優生学への批判ってのは権力側が何を「優れている」「優れていない」と決めつけてそれを個人に押し付けるから問題になっているんだろ。
個人が自由恋愛して良い遺伝子を残そうとするのは何の問題もない。それは普通のことだし何が良いか何が悪いかなんてその人の価値観なんだから他人がどうこう言える問題じゃない。
優生学が恐ろしいのは権力の濫用に容易に繋がるからだ。頭が良い人だけ残そう、容姿が良い人だけ残そう、劣っている人々は子供を残してはいけない、とか「良い」「悪い」のその時のその権力の価値観にしか過ぎないものを個人に押し付けるのは本当に酷いことだと思うよ。例えば藤井クンが将棋の天才であることを今の日本の世の中はたまたま評価しているけどさ、仮に彼が将棋とか関係ない南の島に生まれてたらどうなるんだ。別に優れた遺伝子でもなんでもないだろう。何が優れていて何が優れていないかなんてのは時代や文化によって大きく変わるのにその価値観を国家に押し付けられるのは恐ろしくないのか。ナチスが恐ろしいのは頭の良いユダヤ人が目障りだからと排除したからだよ。どう考えてもユダヤ人の遺伝子というか文化の方が優秀なのにそれが気に入らないドイツ人が劣っていると決めつけて排除しようとしたんだよ。
千人が死ぬなら千五百人産めばいいの多死多産が国是の国で
たくさん生んでから殺して調整したほうが効率がいいって発想で千年以上過ごしてきた国じゃん
西洋の命が無条件に大事って倫理観を日本人が伝統的に受け付けてるとは到底思えない
千人が死ぬなら千百人産めばいいの多死多産が国是の国で
たくさん生んでから殺して調整したほうが効率がいいて発想で千年以上過ごしてきた国じゃん
西洋の命が無条件に大事って倫理観を日本人が伝統的に受け付けてるとは到底思えない
植松は人間と非人間の線引きの意識があり、第三者が同意なく(意思表示できなければ)殺して良いとする優生思想だが、
大久保山本は腐っても医師なので「全ての医療行為は患者の同意がいる」としており、終末医療の在り方と医療経済学的な問題意識だと思う。
欧米で合法化されている終末期の安楽死・尊厳死は、"命の選別"とか"優生思想"ではないのだが
マスメディアや政治家がその辺りを混同してるのは意図的なのかバカなのか。
優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される[2]。
優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。
私は安楽死を支持する。その早急な法制化を望む。それへの抵抗勢力は徹底的に粉砕されるべきだ。
そう考えるに至った経緯を、以下に書く。
何年か前、某所で尊厳死・安楽死に関する議論をしたことがある。私が安楽死について肯定的なことを書いたところ、反対派から反論されたのだ。私の書き方もあまり良くなかったので、議論を挑まれたこと自体は構わない。だがその議論で、私は安楽死に対する信念を強化することになった。
議論の中で、私は自分の家系について触れた。私の家系はがん患者が多く、しかも体中を蝕まれて苦しみながら死んでいった者が何人もいる。私もそうなることはほぼ確実で、だから私は苦痛に満ちた死よりも慈悲の一撃による安らかな死を望む、それを邪魔する安楽死反対派のことは支持できない、という趣旨のことを書いた。すると議論相手は、次のように書き込んだ。
「それでも、自殺することは禁じられていません」
唖然とした。私はさっきまで、体中がボロボロになってひどい苦痛に苛まれていた親族の話をしていたのだが。「自殺できるでしょ」って、苦しまない自殺を自力で遂行できるのは健康な人間だけだという程度の想像力も彼にはないのだろうか? そりゃ自分一人で自殺する分には法によるお咎めなどないことは私だって知っている。私はただ死にたいのではなく安らかに死にたいのだ。
さらに彼は、私の自由主義的な主張にも反駁を加えてきた。私は、同性婚や選択的夫婦別姓と同じく選択の権利を求めているだけなのに、同性婚や別姓の問題では同じ側にいたはずの人たちからなぜここまで否定されるのかが理解できない、と書いたのだが、彼は言った。同性婚や別姓を主張する運動は同性婚や別姓を選んだ人たちが幸福に生きるための運動をしてきたが、安楽死推進派は病に苦しむ人びとが幸せに生きられるための運動をしてこなかった、だからそれらは同列には論じられない、というのだ。
他人の幸福のための運動をしなければ、私には安らかに死ぬ権利すらないと言いたいのだろうか?
この時点で確信した。安楽死に反対する連中には人の心がない。彼らは私が苦しんで死ぬことを望んでいる。
もちろん彼にそんな意図はないのだろう。でも、彼は私の安らかな死を、よくわからない運動の都合とか、見ず知らずの他人の選択とか、そういったものの下に置いたのだから、結果としてはそういうことになる。私にとって見ず知らずの誰かが望まぬ死を強制されないかわりに、私は苦しんで死ねというわけだ。
優生学は間違っている。高齢者やALS患者や知的障害者が「社会のお荷物」だからというとんでもない理由で意に反した死を強制されるなんてことがあってはいけない。だから、安楽死を認めるが、その際には厳格な手続きを導入すべきだ、強制を排せる仕組みを構築しなければ、という議論なら私は賛成していた(というか、そういう施策を私は支持していた)。私は彼らに死んでほしいわけじゃなく、自分が安らかに死にたいだけだから。選択の自由を認めてほしいだけだから。
でも彼らは、意に反した死を強制されるかもしれない人たちを守るために、私が安らかに死ぬ権利は認めないのだという。
見ず知らずのやつらが自分の意志を貫けないという恐れのせいで、なんで私が苦しんで死ななきゃならないんだ?
それ、私には関係ないよね?
苦しまずに死にたいというのは、そんなに強く否定されるほど、他人の都合で却下されなければいけないほど身勝手な望みなのか?
安楽死に反対する人たちの書いたものを色々読んだ。彼らの書いたものの中には、苦痛のない死を迎える権利についてはほとんど書かれていなかった。彼らにとってそれはどうでもいいことらしい。
私の苦痛があなたたちにとってどうでもいいなら、あなたたちに死が強制されることも私にとってどうでもいいことになってしまうのだが。
あの議論を経て、私の考え方は変わった。安楽死反対派は本質的に、私が苦しみに満ちた死ではなく安らいだ死を迎えることはたいしたことではないと思っているということが理解できたからだ。だったら、ALS患者や高齢者が死ねという圧力に抗しきれず安楽死の書類にサインしてしまうことだって、私にとってはどうでもいい。見ず知らずの他人が意志薄弱すぎて死ねと言われて死んでしまうことは私には何も関係ない。私はただ、ひたすらに安楽死を支持すればいい。自分の権利を強く主張すればいい。
私は、私の苦痛を切り捨てる冷血漢どもよりは、私に苦痛のない死を保証してくれる人たちを支持する。結果として死を強制される人が出てきたところで知ったこっちゃない。だって安楽死反対派は、私に苦痛を強制しようとしてきたのだから。そんなやつらが死を強制されることを、なんで私が心配しなきゃならないんだ? あの冷血漢どもが私の苦痛を心配しないなら、私にもあいつらの死を心配する義理なんてない。
だから私は、たとえそれが新自由主義者であろうが、安楽死を推進する側を支持することを決めている。私が苦しんで死ぬことを望んでいる側にはつかない、そんなやつらには徹底的に立ち向かって自分の選択の権利を守ると、反対派との議論の中で決意したのだ。
安楽死は早急に実現されるべきだ。反対派に屈してはならない。彼らは人の心がない冷血漢で、他人の苦しみを座視する連中なのだから。
ところで、医者には応召義務があるのだから、安楽死を認めることは医者に殺人を強要することになりかねない、という主張もあり、これはもっともだと思う。だから、安楽死に際しては応召義務を解除しうる法整備をすればいいと思う。それはブラックリスト方式で、デフォルトは安楽死を認めるものとし、安楽死を拒否する医者は役所に届け出た上でそのことを周知する看板かなにかを設置しておき、そういう看板が予め設置されている病院では安楽死を断れる、としておけばよいのではないか。これなら死ぬ権利と殺したくない権利を両立できるかと思う。死にたい患者はその病院を避けて別の病院にかかればいいのだ。
ダウン症児が夫婦にとって経済的、精神的、身体的負担になると思うから中絶してるのに、
高齢者が社会にとって負担だと言うと優生思想として批判されてるのおかしくない?
アイスランドは中絶の結果ダウン症をほぼ”根絶”しているけど、これって優生学が目指していた社会と同じだよね
優生学 人類の遺伝的素質を向上または減退させる社会的要因を研究して、悪性の遺伝的素質を淘汰し改善をはかることを目的とした応用遺伝学の一分野(大辞林)
障害持ってるけどこんなデバフなければないほうがいいし、さっさと”根絶”してこれ以上不幸な人間を再生産しないようにしてほしい
健常者が「人権意識が高くて寛容な私」を演出するために綺麗事言ってるだけで障害者として生きさせられる側のこともそれを支えて負担してる側のことも考えてないよね
実際自分や自分の子供が障害を持って生まれるか健常者として生まれるか選べるとしたらどっちにするの?
【追記】
障害者もいる多様性のある社会の方が良いとか言うけど、じゃああなたは人類の多様性のために障害者として生きられるの?
自分は嫌だよ