はてなキーワード: 要人とは
私は安倍元総理の国葬に反対だが、それは元総理に様々な疑惑があるからだとか、一政治家の葬儀に国費を投じるべきではないとか、そういった理由ではない。
国葬を開催すれば、与党議員を始めとする、主として政権寄りの要人が一箇所に集まることになる。
もしそれをターゲットにしてなんらかの反社会的行為が行われた時、その被害は計り知れない。
今回の安倍元首相暗殺事件の背景を巡って、社会の問題とか何だとか言ってる人間がいるけど全く的が外れている。
それは、頭が良い人間が不運にも人生に失敗して、「無敵の人」になると今回みたいな政治的テロを起こし、成功してしまうということ。
親の経歴、本人が進学校に通っていたこと、それに直近の行動を考えると、山上容疑者は頭がよい。
そして、計画的に安倍首相の訪問スケジュールに合わせて、自作銃を使って、暗殺を決行する。
この一連の行動がかなりの知性、忍耐、行動力が必要なことは言うまでもない。
そして、現代社会においては、頭が良い人間は通常、経済的に成功するから、「無敵に人」になるまで追い詰められることはない。
しかし、統一教会にハマる愚かな母親を持ってしまったことをはじめとして数多の不運が重なり、山上容疑者は、「無敵の人」
になってしまった。
頭が悪い人間が「無敵な人」になっても衝動的に弱者を狙った無差別テロを起こすだけで、それは今までの事例からも明らか。
今回の事件の問題は、頭が良い人間が運悪く無敵の人になってしまったことにあると思う。
国がやるのも自民党がやるのもたいして変わらないだろ!
総理大臣の肩書が自民党総裁に、外務大臣の肩書が自民党幹事長になるだけ。
日本を代表して外国の代表の要人に会うのと自民党を代表して外国の代表の要人に会うのと、そこになんの違いがあるっていうんだ!
海外要人が来たいと言うから受け入れる場を作るとかなんとか言っておけばいいだろうに
弔問外交とかいう明らかな人様の死を利用してなんかしてやろうというイベントが主目的だと堂々と言ってしまうのは何かな・・
だいたい葬儀っていう宗教行事の形をとらないとそれって無理なものなん?
天皇が云々の問題なら天皇制じたいが宗教だからそういう形式になるのは理解するけど首相は別問題じゃん。
第一次世界大戦勃発の火種となったフェルディナント大公暗殺なんかでも
突発的な予定変更があったあとに、
運転手が道を間違えたところに、
安倍晋三が無惨に殺されたことで、はてなの左翼の皆様は実に嬉しそうだ。
こういったエントリーに対して「これはひどい」タグがつくわけでもなく、
口で、ご冥福をお祈りしますと言っておけばOK。
統一教会との関係さえ指摘できれば、要人テロも正当化できるといった感じ。
要人が背後から自作銃で銃殺される国に要人が来たいと思うかな?
弔問メッセージがいっぱい来てるって言うけど、そりゃ送るだけなら簡単だもん。
・無敵の人の攻撃対象が無差別でなく要人、著名経営者、宗教指導者等の真の上級国民になり、社会の風通しが良くなる
そうだね。国はカルトに対策するどころか、カルトの名前の変更(名前隠し)を許可し、政府の要人がお祝いの言葉を送るような状態になってしまっていた。
これはカルトに人生を破壊された人からすれば、巨大な絶望だ。家族はもちろん、親族、地域社会、さらに政治や国に至るまで、自分の味方をしてくれる人はどこにもいない。誰にも相談することができない。相談したとしても知らんぷりされる。警察だって民事不介入で助けてくれない。
味方が誰もいないなら、自分で戦うしかない。一人で戦うしかないのなら、仇の一番上の方を狙うしかない。そういう銃撃犯のロジックにも、共感できてしまう。
報道を見れば見るほど例の暗殺は右翼思想だよね。安倍ぴょん以外を巻き添えにしなかったわけで。
https://ja.wikipedia.org/wiki/一殺多生
元は大乗仏教経典の一つ瑜伽師地論の漢訳文に記された四字熟語であったが、日本では右翼の政治思想の一つとして使われた。戦前の右翼団体「血盟団」の指導者である井上日召が唱えた理念である。
昭和維新を呼号した井上は、血盟団の団員に「一人一殺」を説き、政財界の要人の暗殺を教唆した。「一人一殺」とは、各々の血盟団員が標的を定め、一人ずつ暗殺していくというものである。標的のみを殺し、それ以外の人的被害を防ぐため、その手段は専ら接近してのピストルによる射殺であった。
井上は「これ(標的)に天誅を加えることは、一切を救わんとする一殺多生の大慈大慈の心に通ずるもの」と主張した。つまり「要人一人を殺すことで、その他の大勢の一般国民が救われる」とし、血盟団のテロ活動を正当化した。
戦後の右翼活動家も、連続企業爆破事件など一般人を巻き添えにする左翼のテロとは違い、自分たちのテロは標的のみに狙いを定め、他者を救済する「慈悲ある」テロと自負し、この理念を正当化している者が少なくない。
テレビを見ているとなんか安倍晋三がとても偉大な人のように言われていてとても違和感がある。
えっ安倍晋三ってなんでそんなに偉大だった?
殺されたニュースを見て俺は「さもありなん... 」って思ったのだけど、世間では違ったらしい。
何が評価されて偉大なの?
まず最初に、安倍元首相のご冥福をお祈りします。
今回の事件、犯人は事前に射撃練習を重ねるなど用意周到であり、直前に安倍元首相の応援演説が決まったこともあり警備対策は困難であったと思う。
自分も事件直後は、警護は結果責任が重要な職務であり責任は問われるべきだと思うのだが、一方では、たまたま警護の責を負った奈良県警は不運だなとも考えていた。
しかし、Youtubeに上がっている複数の警護訓練の画像を見て、これは個別県警というより県警を超えた全体の警察組織の構造的な問題ではないかと考えるようになった。
(映像の中でも要人警護のあたりからスタート。都合よい切り取りではと思ったら通しで見てください。)
もちろん、これはマスコミや一般用の公開映像だということは留保すべきだとは思う。
外部に見せるための訓練として、ある程度のフォーマットが決まっているのではあろう。
しかし、どの自治体警察の訓練想定も非常に類似しているし、今回の事件と比較すると理想的すぎる状況ではと感じてしまう。
そう感じる点は下記のような点。ほかにも色々あると思う。
・ 訓練シナリオ : 要人が車から出てくる→観衆に近づく→暴漢が飛び出す→車に退避
・ 観衆は20人程度で片側に整然と並ぶ
・ あらかじめ安全地帯となる車が用意されている
・ 暴漢が飛び出ると観衆も一斉にしゃがんで回避姿勢をとるなど、冷静に協力的に対応
・ 警護対象の要人も即座に回避姿勢をとり、鍛えられた成人の退避スピードで車に迷わずに逃走する
もちろん訓練の目的として基本動作を反射的に行えるようになることは重要であり、ある程度の共通の型は必要だと思う。
また、現場の警察官やSPの方は個人個人は日々努力されているであろうし、要人警護に対する責任感も強くあっただろう。
しかし、あまりに画一的な訓練を行うことで思考力や判断力を停滞させ、今回のような事態に臨機に対応できなかったのではと思ってしまう。
おそらく、全国の警察組織にわたって訓練マニュアルと公開向けの訓練マニュアルが用意されていて、それに従って行動することが徹底されてしまっているのではないか。
上記の映像を見ていると、訓練プログラム自体が機能していなかったのではという思いに駆られる。
今回の件を警護に当たったSP・奈良県警個別の責任問題のみに矮小化するべきではないと思う。
非命に倒れた安倍元総理に殉じ、現場警察官の努力に報いるためにも、警察は構造的にプログラムを見直した方が良いのではと考えた。
せめて人選を3世とかで分かりにくくしてくれればいいのだが、明らかに日本語がおかしいし、ハーフとかなんだと思うと吐き気がする。
テレビに出るなら、私はス〇イで母国の虐殺に加担してます、とさわやかに言ったうえでテレビに出てほしい
【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう 3:11:00
https://youtu.be/T4HE9mY1xxc?t=11462
三浦瑠麗が安倍元総理が殺された件について聞いたところ、まっさきに統一教会について言及した福島みずほ。
開票特番の雰囲気としてはしっかりとした証拠もないのに要人の暗殺と特定団体を結びつけるのはヘイトクライムを誘う可能性もあるし、
党首がそのような言及をすること自体を問題視していた。東浩紀、石戸諭はもはや驚きを通り越して呆れていた。
三浦も驚きつつ、これはニュースになってしまう、聞いておいてなんだが自分には責任はないと思うと述べていた。
しかし一晩経ってもニュースにはなってないし、この番組における四人の反応は過剰だったように思う。
実際のところ安倍暗殺と統一教会がどのように関係があるか、次々と情報は出ているが本当のところはよくわからない。
しかしこれほどに統一教会への言及を避ける程の緊張感が発生する理由もわからない。
もちろん、根拠なしに特定の団体を叩きに走ることがヘイトクライムに繋がってしまうことを恐れているという言い方はできるのだけど、いまいちしっくりこない。
Twitterやはてブなどでは統一教会に関する言及が怒涛の如くされている気がするのだが、
やはりニュースや開票番組に出るような知識人と匿名の有象無象では温度感は異なるのだろうか。
ネットで真実を知った気でいるわけではないが、ニコ生のようなメディアでこそ突っ込んだ議論がされるべきなのではないかと思ったんだが…
統一教会についてもっと多くのメディアが報じるべきだという立場と、証拠もないのに特定団体を加害者にしてはいけないという立場。
この2つの立場は例えば裁判で被害者が加害者を訴えた時に第三者が「裁判で結果が出てないのに第三者が色々言うべきでない」と発言するのに似てて、
その発言は被害者側から「平等の立場に立とうとする加害」と避難される。だんまりするのではなくちゃんと言えよという意見だ。
しかし実際問題その場に自分が居たわけではないのだから、「加害者は悪い!」と断言することはリスクが多すぎる。
それゆえ、何も言わないことが第三者としては結局マイナスのない安定択なのだ。
これを踏まえると三浦瑠麗ら四人が福島みずほの統一教会発言を非難したのも理解はできる。
証拠もないのに特定団体の名を出して死者が出てる事件と結びつけて言及するべきではない。ましてや党首が。
しかし、それでもなお統一教会についての言及があの場でされることに対してそれほど問題には感じられないのだ。
それは無意識で自分が、加害者側に気持ちが寄り添ってしまっているからなのかもしれない。
ネットにおける情報も、統一教会に関連する様々な情報がニュースで明らかになればなるほど「ああやっぱり!」と合点がいく気になってしまう。
しかし、自分にとって都合が良い情報は、無意識に選別してインプットしてしまう傾向にあるのがわかる。
根拠のない状態で統一教会とテロを結びつけてしまう考え自体が陰謀論の沼にハマってしまっている。