はてなキーワード: 帝国主義とは
固有の領土ねぇ
どこまで遡ったら「固有」なんですかね
尖閣諸島が日本に編入されてから100年ちょっとしか経ってないのに「固有」なんですか。
そもそも沖縄だって日本固有の領土とは言いがたいですよ。琉球王国はどうなる。
日本は、17世紀末、鬱陵島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。
このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/pdfs/pmp_10issues.pdf
って、そもそもその頃の幕府に厳密な国境線を引こうって考えがあったんですかね。
つか「固有の領土」論が通るなら樺太だって日本の領土と言えなくもない。ロシア固有の領土でもある。なら南樺太は日本に分けてくれてもいいじゃん。
でもそういう主張はしない。北方四島の領有権主張の根拠が「樺太・千島交換条約」だから。
南樺太は「交換条約」でロシア領になった後に日露戦争でぶんどった後に、太平洋戦争終戦後にそれをチャラにされたわけだが、
要は日帝が帝国主義的にぶんどった領土はナシということにされて、だから「交換条約」まで立ち戻るというわけである。
じゃあ竹島と尖閣諸島はどうなのよっていうと、尖閣諸島の閣議決定は日清戦争中だし、
竹島は、韓国併合はまだでも第一次日韓協約の後なので、戦争で直接ぶんどったわけではないにしろ、際どいところがある。
結局のところ19世紀末では、清国は尖閣諸島なんかあんまり興味なかったし、大韓帝国も竹島なんかあんまり興味なかった。
それなら、あんたら最初はこんな辺境の島なんか興味なかったのに今更何いってんの、って言えよ。
明治~昭和の帝国主義と平和裏の領有との線引きが問題なら、江戸時代のことなんかいちいち持ちだしてくんなよって思う。
「独島は韓国の領土だ」と思うのは自由だし、韓国人なら当然だと思うよ。それを反日とは呼ばない。「竹島は日本の領土」と思う人が反韓ではないように。
でも「独島は韓国の領土だ」というメッセージを広める行動を取るのは全くそれとは違う次元だよ。
"シウォンが竹島を韓国領だと思っていてもSuper Juniorのパフォーマンスは素晴らしい"
思うのは自由だよ。パフォーマンスは素晴らしいよ。でも、250万のフォロワー数を持ってるアカウントで海外に向けて「独島は韓国の領土だ」と政治的発言(RT)をするのはおかしいと思うべきだよ。親父が介入してきて、政治的コメントを発する(煽ると言ってもいい)のはおかしいと思うべきだよ。
俺はK-POPが嫌いで言ってるんじゃなくて、K-POPが日本で排外されないために言ってるんだよ。
K-POPが流行りかけのときに保守的なコメンテーターは「もし韓流アイドルが竹島について発言や行動するかもしれない。それぐらいの影響力を持ちうる。ハマった子が増えれば危ない」って言ってた。
そして、それを俺はいくら何でもそんなことにはならないと一笑に付していた。でも、現実としてそれが起きつつある。
この流れが進んだとき「K-POPを日本で放送するな、ライブをやるな」と言う片山さつき等の政治家に対する反論はなくなってしまうよ。
だからこそ、ここら辺で思想と行動の切り目をつけておくことは大事なことで、不条理なことでも感情的でもないと思う。日本で活動するんだったら、そういう行動はとるなという切り目をつけるべき。多分、KARAや東方神起はそこら辺のことをよくわかってる。
「エンタメと政治を結びつけるな」というのは正論だけど、結びつけるのはいつも韓国の方じゃん。
で、それがおかしいとも思ってないんだよ。「独島が韓国の領土であるのは真実であるのだから、政治的問題ですらない。真実を述べただけ」と本当に思ってるんだよ。それに対する日本からの反論に対しては「いまだに日本は帝国主義を捨てきっていない、歴史を反省していない」と言うんだよ。
軽くグーグル翻訳使って、韓国の反応を見ただけではそう思ってしまうよ。
今回の騒動に関して、日本だと様々な反応が出てる。「竹島とかどうでもいいから、応援します」から「国交断絶だ!」まで、「なんとなく反応しているファン」とか言うのも含めて。そして、その多様性があっていいと思う。
だいたいこの「なんとなく反応しているファン」ってそんなに重要な存在だろうか。彼らに対するイラ立ちは分かるが、そんなにクローズアップするべき必要性をあまり感じない。
日本には「なんとなく反応しているファン」も含めて多様な反応が存在しているけど、韓国では逆にいえば「政治とエンタメを結びつけるな」っていうのが数少ない反応じゃないの。
K-POPファンがすべきは韓国にも多様な反応があるんだったら、それを数多く紹介することだと思うよ。
「韓国もみんながみんな過激ではなくて、迷惑に思ってる韓国人の友達もいるから」みたいなツイートがRTされまくってたけど、そんな言い訳程度のものじゃなくて。そりゃ、そういう人が一人もいなかったら怖すぎるし。
特に、K-POPアイドルの政治関連・領土問題関連の発言、行動に対する韓国の反応には多様性があるのかを知りたい。
今回感じたのは、圧倒的な常識の断絶が韓国とはあるのかもしれないっていう感覚がライトな層にも広がったことだよ。
オリンピックの政治的メッセージにしろ、李明博にしろ、K-POPの独島問題の対応にしろ、それに対する韓国のネットの反応だとか、あまりに理解できないというか、そもそも話が通じないのではという感覚が広がってるのは間違いない。
ふわっとした嫌悪感が広がって、それが世論としてK-POPを押し流す方向に向いかねないことに対する増田の嫌悪は分かるよ。
でも、それを「ただ特別な主張がないなら反応しないでくれ」と押し付けるのは、ただ「なんとなく反応しているファン」に対して自分の嫌悪感を押し付けてるだけ。
だいたい「なんとなく反応してる」って基準は増田が決めてるだけだもん。
「好きなアイドルだけど、政治的な発言に対して嫌だなと思う」ところから出てくるもやもやした発言に対して「なんとなく反応している」と言ってるだけ。
こういうもやもやした感情から出てくる発言は止められないし、出てくるのは当然だよ。
そのもやもやした反応に目を向けるよりも、圧倒的な常識の断絶があるかもしれないという感覚を埋めるにはどうしたらいいのか考えるべきだと思う。
俺はそのもやもやが広がってK-POPが沈みゆくということより、この「圧倒的な常識の断絶」が広まることの方が怖いよ。
あるいは「好きなアイドルだけど、政治的な発言・行動に対して嫌だなと思う」ことを否定し、K-POPファンが「領土問題とかどうでもいい、○○のパフォーマンスが素晴らしいことに変わりはない」だけになったら、日本の一般的な感覚とK-POPファンとのあいだにも「圧倒的な常識の断絶」が生まれて、K-POPだけじゃなくて、ファン自体も排外されかねない。その方が怖いよ。
なんかまたいつものように、宇野常寛と東浩紀がかけあい漫才やってるみたいだけど、この議論って連合赤軍の人たちやラジカルフェミニズムの人たちが、さんざん昔にやってきた話を、繰り返しているように見えて、だから僕は東浩紀の言う「宇野常寛は古風で倫理的」ってのはまさにそのとおりだなあ、って思った。
例えば連合赤軍の議論に変換するなら、「父」を「プチブル」とか「帝国主義者」とかに言い換えてみればいい。
私たちは誰もが(男性であっても女性であっても)誤った、矮小な帝国主義者である。「帝国主義者」になることは達成ではない。(続く) 私たちは否応なく「帝国主義者」にされてしまうのであり、あとはこの不可避の条件にいかに対応するか、という問題だけが残されている。帝国主義の回復は、既に自動的に達成されたものであり、それはもはや想像力の仕事ではない
というわけだ。宇野常寛文脈では、「父」ってのはフェミニズムにおいて批判的に語られる「近代的な傷つける主体としての権力者」っていう意味の隠喩を受けてるから、この(「父」⇒「帝国主義者」の)言い換えはそれほど的を外したものではないだろう。帝国主義者に(あるいはプチブル)になる/ならないの二項対立は無効であり、もはや現代においては全ての人間がプチ権力者でありプチ「傷つける主体」なのだ、だから誰もが否応なく帝国主義者になってしまうのだ!! という議論は、はっきり言うが全く新しいものではない。倫理的に煮詰まっちゃった昔の活動家の人達の多くがたどった道だと思う。連合赤軍にしろ、東アジア反日武装戦線にしろ、ラディカル・フェミニズムにしろそうだ。
さらに言えば、彼らの多くが「ナルシシズムの徹底的排除」を掲げていたのも、宇野常寛と二重写しになる。東浩紀が言っている
「だれもが父である」ということと、「父になってしまう」ということは違うんだよ。宇野君が主張したのは前者。それは父になる/ならないの二項対立を回避するためのアクロバティックな論理。でも「だれもが父である」んじゃ、もう「父」の意味がないじゃん。ぼくの言っているのはそれとは違うの。
というのは言ってみれば典型的なプチブルの思想だ(東浩紀がプチブルの権化であることには皆異論はないだろう)。「全ての人間が帝国主義者だってあんたらは言うけど、でも突然、個別具体的な権力とか責任とかを負わされちゃうことだってあるよね」って連合赤軍に向かって言っているようなものだ。そのような個別具体的な(たとえば出来ちゃった結婚で通俗的な意味で「父になってしまう」ような)例を挙げるのは、社会の根本的矛盾から目を反らすためのナルシシズムであると、連合赤軍ならそう言ったに違いない。個別具体的な実例において「父になってしま」い、そのことについて個別具体的な議論をするようなナルシシストは、「総括」するのが彼ら/彼女らのルールだったのだから。
これはちょっと極端過ぎるたとえかもしれないけど、宇野VS東って赤軍派VSプチブルって捉えると、自分としてはすごく分かりやすいんだよね。
併合は国際法上問題無かった
確実に有罪アウトー!ってわけではないだろう。
帝国主義批判で「植民地支配そのものが許されない」という論調は当然あるけど。
ただ、韓国は併合そのものに対して「謝罪と賠償」を求めてるわけではなく、
強制的に併合されたのが屈辱だと言ってるだけだから、なんか論点がずれてる気がする。
「韓国が望んだので日本は嫌々ながら併合してあげた」というのが間違いなのは、ほぼ確か。
これも事実っしょ。
メリットだけを取り上げるのは問題だけど。
名前の話
ということで、これは韓国人の主張と矛盾はしないんじゃないの。
ハングルの成り立ち
ハングルの普及については、日本の影響が大であったということで良いのでは。
一部で使われていたものを日本が広めたというニュアンスのようだが。
まあ、「間違っているなら反論できるはずだ」とは言うけど、
このあたりは「諸説あるうちの一つであり間違っているとは言わないが単純に肯定もできない」という感じだから、
余計に難しいんだよね。
先日、数学者の藤原正彦さんが、NHKの「100分de名著」っていう番組に出演していたんですが、典型的な老害っていうか、あまりにも偉そうで上から目線の態度に、私はすごくウンザリしてしまいました。
それで気になって調べてみたんですけど…、近頃は新しくこんな本を出しているみたい。
ネットで各所の書評を読んでみると、この本のなかでは、どうやら、「太平洋戦争は正しかった」「東京裁判を否認するべき」と言っていたり、その上「南京大虐殺はなかった」とまで放言しているそうなんです!!
こうなるともう、藤原さんってまるでネトウヨみたいだなー、と呆れてしまいました。いや、彼ならそれぐらい言い出しても不思議じゃないですが。
数年前にベストセラーになった『国家の品格』は、内容自体はくだらないと思ったし、とてもつまらない本でしたが、それでも一応、日本がやった侵略戦争のことはちゃんと批判的に語られていました。
たしかあの本では、「武士道精神の欠如」「弱い者いじめ」とかいう理由に基づいて、明治以降の日本が帝国主義へと走っていく姿を、卑怯なやり方だと一蹴して罵っていたはずなんです。ちなみに、南京事件とか東京裁判とかの話題には、特に触れられていなかったと思います。
それがどうして、こんなトンデモな有様になってしまったんでしょうか? もしやネットで真実に目覚めたりしたのかな?w
歴史修正主義とかの問題については、はてサに検証・批判をお任せするにしても、藤原正彦の変節についても誰かがエントリを上げてくれると助かります。
おそらく名目上は独立を保つのだろうが、経済的、社会的、政治的、そして、もしかしたら軍事的に、
具体的な内容は、こんな感じ。大きな五星紅旗をそれぞれ手に持ち行進する中国人らしき集団が見える。
ここで場面が変わり、東アジアの地図が眼前に表れた。中国の領土が真っ赤に染められている。
左上のほうには金の星が見える。どうやら、国旗の五星紅旗が中国の領土の形に描かれているらしい。
すると、中国領の赤い色が下方に染みてゆき、ラオスの縦長の領土を完全に赤く染めてしまった。
地図は好きなほうだが、ラオスが中国と国境を接していることは、このときまで不覚にも忘れていた。
でも、その赤くなった国がラオスだということは、どういう訳かインスピレーションで分かった。
晴れてラオスは中国の一部となり、この小さな国の出来事をきっかけとして、国際社会は衝撃を受け、
これまでの中国への見方を改めざるを得なくなる。そうした事が全てテレパシーのように伝わってきた。
かつての大日本帝国ほどではないにしても、現在の中国の本質は帝国主義であり、ファシズムなのだ。
「行って警告しなさい」
声のような思念のようなメッセージで、そう訴えかけられるのを感じた。
最後に、「ラオスがなぜか中国に併合される」と、自分がPCに向かって打ち込んでいるところで、
その奇妙な夢は終わった。
これは、いわゆる予知夢なのだろうか。東南アジアで中国の影響力が急速に強まっていることは、
あの地域の事情に疎い自分でも知っていた。今年の初めにも、ラオスの地デジ放送が中国政府や
資本の協力で始まったという話を、WBSで見たばかりだ。これが潜在意識に影響したのだろうか。
それでも、まさか国の併合にまで話が飛ぶとは…。
自分は、右翼のような中国脅威論者ではなく、中国との関係はどちらかと言えば楽観的に見ていた。
とくに、中国の諸々の問題は体制によるものだと思っていた。けれども、そう単純ではないらしい。
体制という「上」からの影響だけでなく、大衆心理という「下」からの作用もあるのかもしれない。
つまり、大衆の即物的な欲望であり、愛国心教育、民族主義教育で植え付けられた自民族中心主義だ。
冒頭の五星紅旗を掲げた中国人と思われる群衆は、そうした大衆心理のメタファーのように感じられた。
中国との交流が進むことは善いことだ。中国を変えられるものは、隣の日本との交流以外に無いだろう。
排斥は、より強い憎悪として返ってくるだけだ。そもそも、もはや中国なしで日本の経済は成立しない。
でも、目先の利益だけを考えて中国依存を進めていけば、夢で見たラオスのようになるのかもしれない。
日本は、もっと色々な国と深く付き合うべきという事なのか。例えば、他の新興国であり、EUであり、
隣の韓国やロシアだ。ちょうどこの夢を見た25日、思いがけず、ASEANの外相らが陸路でラオスを通って
中国詣でに出掛けたらしい。とくに、ラオスは、資源があり、ここ数年、中国の援助や投資が凄いようだ。
ちなみに、自分としては、ラオスの夢よりも、この夢が終わった後の神秘体験のほうが印象に残っている。
目が覚めていて、意識はあるのだが、身体が動かない。部屋はほぼ閉めきっているはずなのに、
何か風のようなものを四方から強く身体に吹き付けられている感覚がする。これが暫く続いた。
科学的に説明できる錯覚なのかもしれないが、自分にとっては恐怖体験としか言いようがなかった。
元増田です。
まあ確かに希望的観測が混じっているのは確かだし、英語マンセー派みたいな奴らはそもそも主張以前に心性が嫌いなのでバイアスがかかっているのは否定しない。あの連中の、何でも「欧米だから正しい、日本だからダメ」という態度は日本で頑張っている人間を馬鹿にしているし、何よりも「欧米」の中でも自分たちにとって都合のいい部分だけつまみ食いして「日本から出れば全て解決する」みたいなデマを煽る奴も信じる奴もとことん腐ってると思うからね。そんなにあんた達が言うほどみんな「グローバルエリート」になりたいなんて思ってないし、起業して金持ちになりたいなんて奴は最初から一握りだろうとか(ああいう連中の「起業」には町工場や飲食店を開くことは絶対含まれてないよね)。ああいう連中って団塊世代に生まれてたらよど号に乗って北朝鮮に亡命したり、そういう連中のシンパになってたりしてたんじゃないかって思うよ。
英語の国際共通語化に伴って、日本はハンデが大きくなっていく一方だけど、それを覆す方法はそもそも無いから、英語マンセーとか夢見ないでちゃんとハンデを織り込んで負け戦の損害を減らす方向で頑張りましょうね、論ですね。
まあ、負け戦を認めるならあなたの言うように撤退戦の戦略を考えることになるだろうね。いずれにしても、あなたの言うとおり「一旦崩壊したはずの大英帝国が再び世界を征服する」ということになるとしたら本当に憂鬱だね。そうなるくらいなら鎖国した方がよっぽどいいと思うしね(最近一般レベルでも知られるようになってきていているけれど、鎖国は日本人の「ガラパゴス」性を決定づけた誤りというようなものなく、西欧帝国主義から身を護るためのやむを得ない戦略だったんだよね。実際、日本のみならず中韓なんかも同時期に鎖国しているわけで)。
元増田です。ああ、そういう風に取られるかと思ったので補足。
私が「英語の時代」と言ったのはそういうことではなく、現在先進国の人間が誰でもその国の公用語を「国語」として、日常会話から高度な話題に至るまで読み書きできるようなことが英語において起こりうるということはないということです。中国語圏での北京語、アラブ圏での古典アラビア語、スイスでのフランス語、そういったものの地位に英語が就くことは無理です。その外の世界では英語をしゃべる集団が社会の中に形成されていないし、テレビやラジオで聞きかじっていれば身に付くなんてのはヨーロッパのゲルマン語圏でもなければ無理。
そして、エリートが英語の読み書きを寡占する状態なんてのは続きません。アンデルセンが偉人たる所以の一つは、作品を「デンマーク語で」書いたこととされています。当時デンマークでは、上流階級はフランス語、中流階級はドイツ語を話していてデンマーク語は下層階級の言葉のように扱われていたわけです(現代で敢えて近い例をこじつければ、台湾での北京語、客家語・台湾語、その他少数民族語の状況ぐらいでしょうか)が、こうした努力によってデンマーク語が独仏語にも劣らない機能を獲得することができたわけです。
「英語の支配」とは帝国主義まっさかりの19世紀に世界が逆転することです。そんなことを長く世界が許すはずはないでしょう。そして英語一極支配を肯定している「現地人」はそのうち必ずや顰蹙を買うことにも気づくべきです。
相対的少数派の東アジア、アラブ、東南アジアの大半なんかの人々だけが英語の支配する世界から取り残されていくと考えるべきです。
それだけの人間が世界の人口に占める比率は決して小さくないどころか非常に大きいわけですが。過半数になりこそしないかもしれないが、大雑把に見て3割は堅いでしょう。
となれば、たとえばアラブが(古典)アラビア語、東アジアが漢文、東南アジアがマレー語あたりで固まったとしてもこれは「ガラパゴス」とは言えず、むしろ現在の経済発展の流れが続くならばEUを上回る経済圏が出現することになる。これは「グローバル化」ではなく世界の「ブロック化」であり、つまり「英語」は「国際語」のうちの最大勢力ではあっても支配言語ではなくなってしまうわけです。要するに英語の影響力は弱まる。
ちなみに現在でもヨーロッパ人は「EUの共通語は英語よりもむしろフランス語」と意識している人は少なくないし(建前としては全言語が共通語)、アラブ圏での古典アラビア語は中国での北京語のようなもので、この地域の経済発展に伴ってこれらの言語の力が強まりこそすれ弱まることはないはずです。また、ブラックアフリカでもスワヒリ語やズールー語、東南アジアでもマレー語やインドネシア語の力が同様に強まるはずです。その方が自分たちの固有の文化(多くの場合言語も)に近いわけで、「近代語」をエリートに独占されずに誰でも学べる形になるわけですから(国民国家の出現と教育制度の整備に伴い、読み書き能力をエリートが寡占していた状態の破壊が進んだことを思い出してください)。
日中韓なんかでは確かに「そのような流れは一般化しえない」かもしれないけど、そんな地域は少数派なんだよ。地図帳と統計資料見ようぜ。インドとアフリカの人口なめんなよw
あなたに言われなくてもその程度の数字は知ってますけどね、日中韓の人口もなめんなよということです。こういう物事というのは多数決で決まるものじゃないのでね。
スペイン語、フランス語、ロシア語、ウルドゥー語etc.の「そこそこの努力で英語力を得られるインド・ヨーロッパ語族の言語を(少なくともエリート層は)日常的に使ってる地域」なんだよ。
残念ながら同じインド・ヨーロッパ語族であっても、ヒンドゥー語やウルドゥー語やペルシャ語は英語と文化が違いすぎて、もはや英語は「学びやすい言語」とは言えない。「難しいとは言えない言語」程度だ。トルコ語は日本語と文法が類似しているというが、日本人がトルコ語を理解するためには、イスラム教やオスマン朝のことをかなり体で理解しなければ礼儀作法といった文化コードまで含めたレベルでの習得は極めて困難だろう。それと同じ壁が存在する。
あなたも言ったように、高度な英語力を身につけられるのはエリート層にとどまり、それに対する非エリート層の不満は経済発展につれて急激に高まることは容易に想像できる。
「ヨーロッパ人は誰でも英語を話す、それに引き替え日本人は」云々という議論を耳にする。確かに英語が流暢なヨーロッパ人に「どうして英語がしゃべれるの?」と訊いたら、なんでそんなこと訊くのという顔で「学校で習ったから」と答えるのが常だという。これを見て、日本の学校英語教育がいかに腐っているかという結論に飛びつく人は少なくない。
確かに日本の英語教育は旧態依然であり、最近の研究成果が反映されていないということはあるかもしれない。しかし、問題はそれだけなのだろうか。ヨーロッパ人が英語を初中等教育の間にかなりのレベルにまで身につけられて、日本人ができないことには根本的な原因が他にあるように思えてならない。
以下は、米国の外交官が各地の言語をビジネスレベルにまで学ぶのにかかった時間の表である。孫引きご容赦。
分類 | 学習時間 | 言語 |
---|---|---|
英語と類縁性の高い言語 | 575-600時限 | アフリカーンス語、デンマーク語、オランダ語、フランス語、イタリア語、ノルウェー語、ポルトガル語、ルーマニア語、スペイン語、スウェーデン語 |
750-900時限 | ドイツ語、インドネシア語、マレー語、スワヒリ語 | |
言語学的・文化的にはっきりとした違いのある言語 | 1100時限 | アルバニア語、アゼルバイジャン語、ベンガル語、ブルガリア語、チェコ語、フィンランド語、ギリシャ語、ヘブライ語、ヒンドゥー語、ハンガリー語、アイスランド語、カナダ語、ラトビア語、リトアニア語、マケドニア語、モンゴル語、ペルシャ語、ポーランド語、ロシア語、セルビア語、スロベニア語、タガログ語、タジク語、タミル語、テルグ語、タイ語、トルコ語、ウクライナ語、ウルドゥー語、ウズベク語、ベトナム語、ズールー語 |
英語母語話者にはかなり難しい言語 | 2200時限 | アラビア語、中国語、日本語、韓国語 |
出典:http://en.wikibooks.org/wiki/Language_Learning_Difficulty_for_English_Speakers
この表は外交官というかなり限定された人を対象にした調査だが、すくなくとも英語母語話者にとっての言語の難易度の序列としてはだいたい合っているといえるだろう。そして、だいたいこの関係は逆に読み取ることもできて、たとえばオランダ人が英語を学ぶのは日本人よりもずっと簡単だということも言えるであろう。こう言うと「英語話者にとって日本語が難しいのは漢字が難しいからだ」と言われるかもしれないが、文法的に近似していて漢字がほとんど使われない韓国語が日本語と同じ分類に属していることから、そこはあまり本質的ではないであろう。
一方、学校での授業時間数を考えてみよう。日本の学校では年間授業日数は約200日である。毎日1時間英語の授業があったとして、中高6年間での英語の授業時間数は、定期考査や学校行事のことを考えればたかだか1000時限程度である。そしてヨーロッパの学校は日本の学校に比べて授業時間数が多いことはないだろう。
となると、結局「ヨーロッパ人は学校で習えば英語ができる」云々は
「ヨーロッパ人は学校で1000時限ほど勉強すれば英語をビジネスレベルに使えるようになるが、日本人はできない」
ということを主張しているに過ぎないことになるが、これは上の表を見れば何も不思議でないことになる。おそらく、日本人が英語を身につけるためには、ヨーロッパ人に比べて2-4倍の時間がかかるのである。
となれば、いったい日本人はどうしたらよいのだろうか。中等教育の1000時限ではとても足りないことははっきりした。あと1000時限ほどの学習が必要である。
この1000時限分、中高6年分を社会に出てから確保するのが絶望的でありしかも遅すぎるのは間違いない。といって、大学で毎日1時限を英語に充てることも無理だ(レジャーランド化したような大学ならともかく、まともな大学生にそんな時間はない)し、もし「日本人も英米の大学に進学すべき」という要求を満たさねばならないとしたらやはりそれでは遅い。
となると小学校の6年間を充てるかということになるが、小学生の読み書き能力が極めて低いということは忘れてはならない。ひらがなやカタカナを学んでいる子供にラテン文字を教えるのは負荷が大きすぎるし、漢字や分数・小数、あるいは都道府県の名前といった「一般常識」レベルのことを学んでいる子供にさらに負荷をかける余地も少ない。そしてこのくらいの年頃の子供は興味がなければ全く学ばないし、学んだこともすぐ忘れてしまう。実際、小学校の後半ぐらいから2言語ぐらいを学んでいるヨーロッパ人でさえ、「中学から勉強しなくなったドイツ語やフランス語は全部忘れちゃって何も覚えていない」という人は珍しくないのだ。英語が特に流暢な語学好きな人だってそうなのだから後は推して知るべしだ。
つまり、日本でできることはほとんどないのだ。香港やシンガポールのように屈辱的な歴史的経緯から日常生活に英語が溶け込んでいればともかく(それでも香港人やシンガポール人全てが英語が流暢なわけでは全くない)、日韓中のように大英帝国の支配を逃れ続けた国民にはそのような機会は全くない。実際、世界的にこの三ヶ国は英語力ワースト3と言ってよい(英語が流暢な中国人は多いように見えるが、その多くは移民の2世以降やごく一握りのエリートである。中国人は母数がめちゃくちゃ多いことを忘れてはならない)。
以上見たように、英語が世界を支配することは結局起こりえない。あるとすれば旧大英帝国と米国をたきつけて世界征服戦争を起こしてもらうしかないということだ。
結局「国際英語」の考えの欠陥はここにある。母語話者が自分たちの文化から逃れられない限り、自然言語を異文化圏に平和裏に浸透させることは無理だということだ。英語圏の文化を普遍的で上位にあるものとして強要しない限り、十分な英語力を得られない異文化圏の人間を無視して英語支配を正当化することはできない。だからといって「英語帝国主義」に開き直ることはそれ自体恥知らずというものであろう。
やれ英語の時代だ、やれグローバル化だということが近年安易に言われるが、ヨーロッパのような文化的に近縁な地域や旧大英帝国、また米国の勢力圏化にある中南米を除いてそのような流れが一般化しうるのかという検討が全くなされていないのは実に不思議だ。「英語がしゃべれるようになれ」といわれてできるのであれば誰でもそうするであろう。問題は「なぜできないのか」を考えるべきことではないのだろうか。無理なものを無理強いしてもどうしようもないということに早く気づくべきである。
元増田です。
それがまずそもそも理解できないんだよな。俺は小学生のガキの頃から不公平だと思ってたが。学校で英語を習いだしたとき、「英語は国際語です」みたいなイデオロギーと「英米の歴史や文化を理解しましょう」みたいな発想が平気で並んでるのを見て心底嫌悪感を覚えたんだが、何よりびっくりしたのは誰もあれに疑問を持ってなかったことなんだよ。
なんで誰もあれが、自分に嘘をついてまでアメリカ様イギリス様に媚びへつらおうって態度だって気づかないんだろう。まるで理解できないよ。
そして、日本が不況に陥ればあれと同じようなイデオロギーをもっとえげつなく公宣流布するやつばかり。ごく稀に「英語帝国主義反対」と言ってる奴はヒステリックな右翼みたいで一緒にされたくないような奴(英語を学ぶのは有害であるとまで言わんばかりのような奴らとか)がほとんどだし。
途中で腹の立った人、題名で既に私の言いたいことがわかった勘のいい方、時間のない方は「本文」を飛ばして「おわりに」を読んで頂きたい。
あなたは、
あなたの旦那さんは、
あなたの息子さんは、
戦争に負けて、巨額の賠償を強いられて、ハイパーインフレの国に生まれたら、家族を養えますか?
父親が貴族やユンカーでもないかぎり自活は無理でしょ。本人の資質や努力、やる気なんて関係ありません。どんなに能力、やる気があっても、恐慌と重税下で家族を養える20代の男性なんてほぼ皆無です。外国を侵略したとか言われてるけど、外国を侵略せずに必死で働いてたら、食べていけたと思います?
多くの若者を死なせた国が終戦したら、自動的に“誰かが支援する必要”があるってことでしょ。
支援するのは誰?
・旧敵国(賠償免除、借款)
・米国
でしょうか。現実的には、戦火を交えた旧敵国(旧敵国も戦争で荒廃してるでしょうし)が自分の生活物資に加え“7000万の敗戦国民の生活物資”を維持し続けるのも、このご時世では苦しいでしょう。
(2)旧敵国に相当の稼ぎがあり、敗戦国民7000万名の生活物資を何年にもわたって供給し続けられる
(3)中立国が助ける
で、ないかぎりは、
(4)東方拡大により生存圏を確保する
しか、敗戦国に生きる道はありません。
・父親が貴族やユンカーではなく、
・政府が支払うと約束した額と現実的な支払い見通しが不十分で、
・旧敵国に、生活物資を支援する財力と予定があると確認できなければ、
「では、このままオーストリアとズデーテンラントに行って、手続きしていってくださいね」と、講和条約を調印する係の人が、講和条約と引き替えに合邦協定草案を渡しながら言う必要があるんじゃないの?
違うのかな・・
「育てられないのに降伏するなんて無責任」という人は、1910年代で帝国主義をしちゃダメだと言ってるの?
“敗戦する可能性”は誰にでもあるでしょ。“敗戦しても自活できる経済力を付けてから戦争しろ”ってこと?それが責任ある態度だというの?それいったい何世紀くらいのこと?22世紀くらい??何世紀まで働いたら“賠償しても国民7000万人養える経済力”なんてつくの?
民族自決ってのは、同じ民族は一つの国家に住みましょうね、っていう政策なんじゃないの?そのために国際連盟まで設立したりしてんじゃないの?
★★★
記録のための事件概要
・1914年7月、兄弟国は戦争を決意。当事国に最後通牒(後に期限切れで宣戦布告)。
・1914年8月、国家防衛のため総動員を開始、自動的に戦争に突入
・1918年11月 革命と共に終戦。隣国は皇帝を引き取り、共和国としての歴史が始まる。
・1921年の3月 ロンドン会議が開催され、賠償額が決定。総額1320億マルク。
・7月頃から国内争乱開始か。大統領緊急令を連発するなどし法によらない解決を繰り返す。
・国内に賠償踏み倒しの声が聞こえ、隣国による保障占領が相次ぐ。イギリスが調停を試みるが、国会が運営できず。
・1930年にヒンデンブルク(当時大統領)が議会に依存しない内閣の結成を命じる。
・1933年1月、軍部による反大統領クーデターの噂(未確認)
・ポーランド西部のアウシュヴィッツでは、虐殺されたユダヤ人無数が遺体で発見される。
・1945年4月30日 ベルリンが陥落したところを、ヒトラーは自殺。
★★★
“ホロコースト”の意味は、虐殺とか、抹殺という意味だと思うのだけど、
この事件では、誰が何をホロコーストしたの?
★★★
この総統が苦学生だった20世紀初頭、ヴィーンでの親友だった音楽家の証言より再構成
彼が総統となってヴィーンに来たときですか?私を接見してくれましたよ。
監視?もちろんなしです。本当ですよ。
それではどうしてあなたはあのいまわしいヒトラーを殺さなかったのですか、ですって?
どうしてって…。彼は私の親友だったからです。
民族自決もいいけど、既に分裂している国家も、もうちょっと合併したらどうかな、旧敵国。
600万人のユダヤ人のご冥福をお祈りします。
言うまでもないが、改変元→http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801
冗談抜きで、ふざけるなと言いたい。「盗人にも三分の理」というが、同情する余地のない人間などどこにもいないのだ。しかしだからといって、追いつめられれば何をやってもいいかのごとく触れ歩くのは単なるデマゴーグに留まらない、犯罪的な言説だ。そもそもこの手の言説は、子供を虐待することなく立派に育て上げている圧倒的大多数のシングルマザーに対する侮辱であることに気がつかないのか。恥を知れ恥を。
まして、「なんでも環境のせいにするな、全ては自己責任」という俗流過激ネオリベ思想を推進しているこのデマゴーグブロガーが、こういうときだけ全て環境のせいにするなど、ふざけるにも程がある。
そして、「ジェンダー」という錦の御旗を振りかざされれば目が眩んでことの本質が見えなくなる馬鹿なはてな民よ、恥を知れ。
人を殺すぐらいなら、もっとまともな手はいくらでもあったはずなのだ。いくら追い込まれての行動とはいえ、同情の余地にも限度があるに決まっていよう。同情の余地があれば全てが免責されるわけでもなければ、悲惨な境遇に追い込まれれば誰もが罪を犯すわけでもない。
勿論、仮にヒトラーが生まれた時期があと50年遅ければ、誰一人を殺めることもなく平穏に生を終えることができたのかもしれない。逆に、私が当時のドイツに生まれていたらヒトラーと同じことをやったかはともかく、その下手人にぐらいはなっていた可能性だってあることは重々承知している。それぐらいの「想像力」は当然ある。しかしそんなことがヒトラーを免罪することになどならないのは言うまでもない。もしそれを赦すことができる者がいるとすれば、神仏のような超越的な存在でしかあり得ないだろう。いずれにせよ、現実社会ではヒトラーは赦されることは未来永劫あり得ない。それが世の道理というものだ。
この事件、いったいそれと何が違うのだ。「ネグレクトしない自信はない」そんなことはあたりまえだ。母子家庭であろうとなかろうと、ネグレクトをしてしまう可能性はある。人間とはそういうものだ。しかし、その責任を自ら引き受けることなく子育てなんてそもそもできるわけがない。育児に限らず、一寸先は闇の現実世界というのはすべてそういうものだ。誰も、他人が過ちを犯す可能性を零にしてやることはできないのだ。なんとか自分を律するように最善を尽くすしかない、それが本当の意味の「自己責任」ではないのか。
「カチンの森事件の追悼行事列席の途上で死んだ」ということに「政治的意味」がある。
悪天候を推してでも着陸を強行しようとした、というのは、
「カチンの森追悼行事を通して、ロシアへの抗議の意思を明確にしたい」という
ポーランド人パイロットのロシアへの意思表示の表れではなかったか?
なので、この国葬に対して、
「火山灰という悪条件の中、いかにしてポーランドまで辿りつくための方策を巡らせるか」
ということ自体が、
仮にイスタンブール辺りまで空路で入り、そこから大渋滞の中を必至に
「ポーランドに対する弔意の表れ」であり、と同時に
なので、ロシアの帝国主義化に懸念を抱く国、それこそグルジアの政府首脳などは、
「死んででもポーランドへ辿りつこう」とするだろう。
「命懸けでポーランドへ入国すること、そのこと自体がロシアに対する政治的メッセージ」
なのである。
さて、この国葬に対して、日本では「江田参院議長」という「格下」しか参加しないとか、
それすらも「火山灰で空路が×だからあきらめた」ことに対して、2ちゃんねるで批判の意見が相次いでいる。
しかし、これは「私見」だが、「格下しか寄越さない」とか「火山灰であきらめる」という決定それ自体が、
「ポーランド国葬には要人は参列しません、つまりロシアに歯向かう気はありません、
(だから北方領土何とかしてください、北朝鮮問題でも協力してください)」という
「ロシアへの友好のシグナル」なんじゃないか?
・・・と手嶋龍一的に「インテリジェンス的国際政治解釈」をしたいところだが、
実際にはもっと低次元な理由なのか?
ttp://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/post-db29.html
イラク戦争は、「米国による石油のための戦争」とも言われた。だが昨年6月以後行われている油田の入札や交渉では、米国企業は、入札資格を得た7社のうち、エクソンモービルを含めた2社が権益を確保しただけと不振を極めた。一方で、中国、日本、マレーシアなど国営、準国営企業の落札が目立ち、随意契約を含め、国別では中国がイラク石油権益の18%を占めて首位となった。
イラク戦争が「石油のための戦争」だというならそのメリットを一番得たのは中国である。そして一番しょっぱい思いをしたのが米国である。なぜこうなかったかだが、基本的に入札が自由主義経済の原理に依存していたからにすぎない。ことは米国にとって想定外のことでもなく、ブッシュ政権からの転換によるものでもない。
米国の利益と優位を支えるのは、直接的・古典的な帝国主義的支配によるのではなく、自由貿易とその上でエネルギーの主軸である石油をコモディティー化する世界構造にある。イラク戦争はその自由主義経済への勇み足な希求と、世界を民主化するという奇妙な情念があった。これまでのところ大半は裏目に出たが、ここからは歴史の転換となるかもしれない。
現在の世界では、原油・天然ガスが輸出収入の大半を占める国家が23か国あるが、そこに1つも民主主義国家は存在しない。このような状況のなかで、近未来に民主主義国家イラクが出現することになり、中期的にはOPECの縛りもなくサウジアラビアに匹敵する産油国になる(さらにイラクには天然ガスも大量の埋蔵が想定されている)。
イラクの豊富なエネルギーが自由主義経済に踊り出せば、米国の優位は自由主義経済興隆の結果として高まることになる。実際のところ、イラク戦争は米国による石油の戦争と言われたが、米国の中東の石油への依存度はそれほど高くない。民主主義国家産油国イラクの台頭が経済台頭するアジアに安定的なエネルギー供給源となることが、結果として米国の国力につながってくる。
http://anond.hatelabo.jp/20100123120122
こちらこそはじめまして。元増田です。英語が得意でないとおっしゃるにもかかわらず、紹介した論文に目を通す労を取っていただいてありがとうございます。そういう方がいるだけでも、2時間近くかけてあれこれ和訳した甲斐があるというものです。
(一応の確認ですが、この元増田さんの主張って「日本の植民地主義が他の帝国主義国家のそれよりも、被支配者にとって有益であった」ってことですよね?)
有益であった、というのが学者(私が読んだのは私が土地勘を持つ経済学者のそれが多いですが、American J. of Socio.の論文でも韓国の資本主義の発展についての日本の寄与について言及がありましたので、経済学者という表現は避けました)の「コンセンサスである」というのが主張です。この点についてはhttp://anond.hatelabo.jp/20100121082524 に少し詳しく書いてありますのでご覧下さい。
1) ここでCumingsが書いているのは、「日本のviceはヨーロッパの帝国主義国家と似ている(かもしれない)けど、virtueは全然似ていないよ」程度のことであって、「日本の植民地主義がヨーロッパのそれよりも有益であった」なんてことは言っていないように思われます。
コンセンサスとしての有益性はReynoldsの論文に一言でまとまっていますので、そちらを参照してください(大学図書館でないと原文は見つからないかもしれませんが、上のリンクにごく一部ながら訳を乗せてあります)。または、同じリンク先のBooth(2007)の最初の数段落(上のエントリーに若干の和訳あり、原文アクセス可)を参照して頂いてもいいでしょうし、Kohli (1997)も農業の生産性向上、資本主義の萌芽としての植民地時代(Eckertの引用も含め)、国家権力を後ろ盾にしての労使関係の(強制的な)改善と、それに伴う生産性の向上、などを挙げています。特に、農業の労働投入の増加ではなく生産性の向上による収量の増加は、多くの論文で当時の植民地経営としてはユニークなものと指摘されています。また、韓国や台湾が資本主義を受容するための有形無形のインフラストラクチャーが植民地時代に整備され、それが戦後の韓国台湾の急速な成長を支えた、という点も、広く受け入れられた見解となっていることはBoothが指摘するとおりです。
Cumingsの著作の中からは、p486の第2段落を参照してください。また、有益の度合いは下がりますが、p489の「多くの植民地ではde-developmentが進行したが、日本の統治下の韓国で起こったのはover-developmentであった」という指摘はなかなか興味深いので一読をお勧めします。
2) で、virtue=美徳ですが、一般的には「あのひとは勤勉だ/勇敢だ」のように、人間が持つ性質や姿勢のことを指すと思います。
virtueにはいくつか意味があり、どれも日本語では美徳の言葉でくくりえるように思えたので、一番一般的な訳を用いました(それでも疑問が残ったので訳出元の単語を併記しました)。この単語はモラルの高さを示す意味のほか、長所や有意義であること、のような意味合いも持つので(後者の場合、必ずしも人間の姿勢や性質を表すことに用いられるとは限りません。ODEで念のために確認しました)、そちらの意味で取るのが正しかろうと思います。
"The virtues that the Japanese shared"を元増田さんは「軍事的な成功、急速な経済発展などの、日本がもたらした美徳の数々」と訳して、日本が朝鮮半島にいいことをした!と主張されていると思うのですが、実際はこれ「軍事的な成功、急速な経済発展といった、日本人が持っていた優れた点」ぐらいの意味じゃないでしょうか。
その訳ではsharedの単語がそっくり抜けてしまいますし、その直後のwere hard to justify philosophicallyと繋がらなくなってしまいます(日本の急速な経済成長や近代的工業構造といった日本人の優れた点それ自体がunjustifiableだというのはおかしいですよね)。
軍事的成功というのは私も少し引っかかりましたが、p479にある、韓国の指導者の幾人かが日本の訓練した軍を率いていたり日本軍に参加していたりしていたことを指している、と解釈したのですが、いかがでしょうか。多くの朝鮮人が日本軍で訓練を受けたことは確かですし、その中には士官がいたことも事実なのですから。
それから、私は日本の植民地政策が朝鮮にとって有益であったというコンセンサスがある、と書いていますが、『いいことをした!』とは書いていませんし、思ってもいません。良いか悪いか、善か悪かは、有益かどうかとはまた異なる評価基準が介在するでしょうから、ここでは議論の対象にしていません。だからこそ「善政かどうかはともかく」という但し書きを入れています。そもそも、「日本の植民地政策は正しかったというコンセンサスがある」と主張するなら、私がCumingsの『日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。』という言葉を引用した段階で、その主張は破綻してしまいます。
3) 論文冒頭(479ページ)でCumingsは、
「アメリカが朝鮮半島に深く関わるようになって長い時間(日本の侵略期間と同じくらい)が経つのに、自由選挙・自由民主主義・基本的人権の尊重といったことが根付かないのは、日本の侵略の影響がいまだ継続している、つまり、日本の侵略の影響が、大戦後の韓国・北朝鮮の両国家をさまざまな方法で形作っていったからなのだ」
この点は私の引用部とほとんど同じことを書いていると思います。日本は自主独立のよき教師でもなければ、民主主義のよき規範でもなかったのです。ですが、Cumingsはそのような「悪い」側面を鋭く批判する一方で、ヤヌスの顔のもう片方、practical virtues(実用面における長所、有意義性、有益性とも訳せるでしょう)についても語っているのです。個人的な感想になりますが、こういうバランスの取り方は大切だと思います。このバランスは専攻分野の違いによって左右されるものの、学界で一般的な態度といってよいのではないかと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20100119124726
挙げられた論文のうち、Cumings(1984)を少し読んでみたのですが、疑問が出てきましたので匿名ダイアリーに書かせていただきました。
英語があまり得意ではないこともあり、読み間違いなども多いかと思いますが、遠慮なく指摘していただけると幸いです。
本題。元増田さん(こういう言い方でいいんでしたっけ?)の主な主張は、
日本の韓国統治が善政だったかどうかはともかく、「その植民地政策が、他の帝国主義国家の政策とは明らかに異なる、有益なものであった」ことについては、学者の間である程度のコンセンサスがある
とのことですが、例として挙げられているCumingsの文章を読んでみても、そのようなことが書いてあるようには読み取れませんでした。
(一応の確認ですが、この元増田さんの主張って「日本の植民地主義が他の帝国主義国家のそれよりも、被支配者にとって有益であった」ってことですよね?)
Professor Eto remarks that Japan's vices were no different than those of European colonists. This may be true, but its virtues were quite different. There was no legitimizing myth that the Japanese could make stick. They were not good tutors to teach their subjects how to achieve the goal of independence, as at least some Filipinos thought was true of American colonialism. They were not good exemplars of liberal democracy, as at least some thought that the British were in India. The virtues that the Japanese shared were hard to justify philosophically, but easy to adopt practically: military success, the uses of a strong state, rapid economic development, modern industrial structure. Thus Koreans greeted liberation in 1945 with a profound rejection of Japanese colonialism, yet have never been able to rid themselves of its Janus-faced influence.
(元増田さんの訳)
エトウ教授は日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカの植民地主義は独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスはインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年に韓国人達は日本の植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。
1) ここでCumingsが書いているのは、「日本のviceはヨーロッパの帝国主義国家と似ている(かもしれない)けど、virtueは全然似ていないよ」程度のことであって、「日本の植民地主義がヨーロッパのそれよりも有益であった」なんてことは言っていないように思われます。
2) で、virtue=美徳ですが、一般的には「あのひとは勤勉だ/勇敢だ」のように、人間が持つ性質や姿勢のことを指すと思います。
"The virtues that the Japanese shared"を元増田さんは「軍事的な成功、急速な経済発展などの、日本がもたらした美徳の数々」と訳して、日本が朝鮮半島にいいことをした!と主張されていると思うのですが、実際はこれ「軍事的な成功、急速な経済発展といった、日本人が持っていた優れた点」ぐらいの意味じゃないでしょうか。
(「日本が朝鮮に軍事的成功をもたらした」って、なんか変ですよね?)
つまりこの部分は、「戦後の韓国・北朝鮮が日本のやり方(富国強兵・殖産興業・国家権力の強化)を『隠れた』ロールモデル=お手本とした/せざるをえなかった」と読むべきではないでしょうか。
あと、もう一つ。
3) 論文冒頭(479ページ)でCumingsは、
「アメリカが朝鮮半島に深く関わるようになって長い時間(日本の侵略期間と同じくらい)が経つのに、自由選挙・自由民主主義・基本的人権の尊重といったことが根付かないのは、日本の侵略の影響がいまだ継続している、つまり、日本の侵略の影響が、大戦後の韓国・北朝鮮の両国家をさまざまな方法で形作っていったからなのだ」
横ですが
あなたが恣意的なのは
ではなくて
あなたが強調した部分
日本の韓国統治が善政だったかどうかはともかく、「その植民地政策が、他の帝国主義国家の政策とは明らかに異なる、有益なものであった」ことについては、学者の間である程度のコンセンサスがある
ではないかな。
「他の帝国主義国家の政策とは明らかに異なる、有益なものであった」
引用している部分の選択が恣意的であることは、Anne BoothがKimuraやCumingsやKohliの文献を引用しているし
それ以外の多数の論文を考察して結論が異なっていることから分かるという話じゃないですか
現時点で、門外漢がどちらを信じるべきかと考えた場合には、やはり学界の多数派であり、多くの一流ジャーナルにアクセプトされている「歴史修正主義者」側の見解を採るほうが客観的でフェアな選択であると思います。少なくとも、「自分の政治的な意見にとって都合のいい方だけを信じる」という、安易な選択よりは遥かに望ましいでしょう。
これもあなたが匿名である以上フェアかどうか分からないんですよ。
あなたが門外漢かどうか分からないんですから...
http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100118/1263799034
「日本の韓国統治は善政か否か」問題で久しぶりに面白いエントリーを読んだ。正直、日本の韓国統治は悪だ、という議論は感情論ばかりが横行するので辟易していたのだが、こういう数字に基づいたエントリーが出てくるとちゃんと議論になる。実際、コメント欄でも、すれ違いはあるものの真っ当な議論になっているように思う。
でもさ、『ちゃんと学術的に認められた歴史書を読み直されるよう、お勧めいたします。』って書くならさ、もう一歩踏み込んでもいいと思うんだ。学問の主戦場たる英語の論文の数々に。ここ20年間、様々な定性定量分析が積み重ねられてるのに、それを無視するなんて余りにももったいない。
結局、日本も韓国もこの件ではバリバリの当事者な訳で、どうしたって中立的な議論は出来ない。純粋に学術的に中立的な議論をしても、その裏の政治的思惑を勘ぐられるのがオチだ。なら、第三者たる欧米の、それも世界最高峰の大学で教鞭を執る学者の議論を参照することは決して無意味な事じゃないはずだ。
それに、10年前と違って、我々はほぼ自由にこれらの議論にアクセスできる。Google Scholarで”Japan Korea colonization”を検索してみるだけでいい。10回くらいクリックすれば議論の形はある程度つかめてしまう。いい時代になったもんだ。
で、2時間ほど仕事をさぼって論文を流し読みした結論。それは、
ということ。ついでに言うと、欧米の開発経済学者と何度か話した時も、この結論をある種自明のように語っていたので、現在でもこのコンセンサスは有効であるように思う。私自身は門外漢なので断言は出来ないが。
日本の植民地政策の総論として、大体平均的な見解になっているのは、Bluce Cumings(シカゴ大教授)の以下の下りだと思う。
エトウ教授は日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカの植民地主義は独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスはインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年に韓国人達は日本の植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。
ちなみに、このCumings教授は北朝鮮よりの言動が過ぎると批判を受けているくらいであって(英語のWikipedia参照)、決して日本よりのスタンスを取っているわけではない。むしろ、日本の植民地政策は朝鮮が政治的に分断される一因となったと書いている(人となりの雰囲気はこの辺りのブログで分かるかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090208/1234060826)。それでもなお、36年間の日本の経済政策については、むしろ肯定的な言及が多い。日本の植民地政策についての興味深い言及もあるので、興味のある人は以下のリンクを読んでみると良いだろう。英語は平易なので、特に苦労なく読めるはずだ。
B. Cumings (1984), “The legacy of Japanese colonialism in Korea”, RH Myers and MR Peattie eds., The Japanese Colonial Empire: 1895-1945, Princeton UP.
http://brightrising.com/pdf211/week10/Bruce%20Cumings%20%27The%20Legacy%20of%20Japanese%20Colonialism%20in%20Korea%27%20-The%20Japanese%20Colonial%20Empire-%20p.%20478-496.pdf
似たような議論としては、
LG Reynolds (1983), “The Spread of Economic Growth to the Third World: 1850-1980”, Journal of Economic Literature.
G-W Shin (1998), “Agrarian Conflict and the origins of Korean Capitalism”, American Journal of Sociology.
CJ Eckert (1991), Offspring of Empire, U of Washington Press
などがまとまっている(最後のは読んでないが)ので、興味のある人は参照して欲しい。Google scholarで検索すれば他にも沢山出てくる。個人的にはReynoldsが俯瞰的にまとめていて良いと思う(アクセス権がないと入手が困難だが)。
さて、ここからが本題だ。欧米の碩学達はなぜ「日本の植民地政策は有益であった」と結論づけたのだろう。正直、上のリンクを読みやがれの一言で済ませてしまっても良いのだが、一連の議論がある程度まとまっている論文を見つけたので、以下で抄訳してみたい。プリンストン大学のAtul Kohli教授の論文なのだが、まず彼は94年に「日本の植民地政策は、戦後の韓国の経済発展に重要な貢献を成した」という論文を発表したのだが、これにS. Haggard(UCサンディエゴ校)、D.Kang(ダートマスカレッジ)、C-I Moon(延世大学)の3人が「いやいや日本の影響なんてたいしたことないから」という反論論文(以下HKM)を寄稿した。これに対して更に「いや、君たちの言うことはおかしい」という再反論をKohliが行った、という流れになっている。この最後の再反論の論文が短くまとまっていて論点も明確なので、これを取り上げてみることにしよう。
HKMではKohli論文に対して4点の反論を試みている。まず、日本統治下での韓国の経済成長と、終戦後の韓国の経済成長とを過大評価しているという点。『私の原論文では、主によく知られたS-C Suh (1978)のデータに基づいて、植民地時代の米の生産量は年率2%相当の伸びを示しており、その相当量が土地1単位辺りの収量の増加によると議論している。生産性の向上は、日本政府による計画的な灌漑、品種改良と肥料の使用を反映したものだ。
日本の行動が利己的なものであって、多くの韓国人はこれらの植民政策の恩恵を受けていなかったという不快な事実に関係なく、安定的で近代的な農業生産の成長は植民地主義の歴史の中でほぼ無類の成果であった。この経験は韓国を他のアジア諸国(除日台)から一線を画す存在にした。そして、この経験はその後の韓国の経済成長へ貢献する一要素となったことは間違いない。』
HKMはこれに反論を試みているが、『HKM自身が提示した資料によれば、1911年から38年までの植民下の韓国の農業成長は3.17%増加しており、私の提示した数字よりも更に高い。』Dehliはなぜ彼らはこの事実をちゃんと議論しないのかと指摘した上で、もう少し細かい議論をしている。さらに他の研究を引いて、Myers and Yamada (1984)は1920年から40年までの農業生産の伸びを年率1.15%、S-C Suh (1978)は穀物生産が25年間で45%、米は30年間で100%増加したと推計しており、『これらのデータを前にして、植民政策下の韓国の農業生産と米の生産が植民経済の基準から言ってかなりの増加を示したことを誰が疑うのだろうか?』と問うている。
『より重要なのは、これらの、特に米の生産の成長の源泉は何かと言うことだ。Suh (1978)とMyers and Yamada (1984)の双方が、この時期に耕地の大幅な拡大や、農業への労働者の大量投入は見られないと指摘している。これらが強く示唆するのは生産性の向上である。HKMは生産性の向上はあくまで緩やかなものに過ぎなかったと主張するが、30年間で60%もの生産性の向上(Suh, 1978)を緩やかと表現するのは不可能だ。籾付米の栽培パターンの変化は韓国農業に“生物学的革命”が起こったことを示している:品種改良された種籾を使用する水田は倍に増え、肥料の投入量は10倍になり、灌漑された農地は年率10%近いスピードで拡大し続けた(Suh, 1978, Myers and Yamada, 1894, Ishikawa, 1967)。
これらの改善は明治時代の農地革命の日本から韓国への計画的な普及の成果(Suh, 1978, Myers and Yamada, 1984)であった。日本の植民地政府の韓国農業改革の努力によって、“近代的な農業革命が開始され”、日本や台湾と同様に、“これはアジアにおける近代農業改革の端緒となったと言って良いだろう”(Myers and Yamada, 1984)。更に、他の研究者達が指摘するように、この革命は終戦後も引き続き行われた。これでもなお、「ユニークな植民地の運営は大戦後の韓国の経済発展への足がかりとなった」ことを否定することが出来るのだろうか?』
日本の工業政策の影響については、『HKMは3つの伝統的な-そしてあまり説得的ではない-理由から反論している。曰く、工業部門は殆ど日本人が所有していた。曰く、その殆どは北朝鮮に位置していて韓国の経済発展には関係ない。曰く、どちらにせよ、朝鮮戦争であらかた破壊されたので関係ない。
日本人への所有権の集中という最初のポイントは説得的とは言えない。韓国の1965年以降の経済成長においても、企業の所有権はかなり集中していた。こっちは問題ではないとでも?日本の資本について言えば、「外国資本ニ支配サレタ工業化ハ真ノ工業化トハ言エナイ」的な議論は、既に説得力を失って久しい。第2に、工業資本が朝鮮戦争で破壊されたという点は私が原論文で指摘済みの点である。繰り返すが、当時の工業資本の約半数は南朝鮮にあったのである。さらに、南朝鮮にあったのは繊維工場のような軽工業資本であって、北の重工業に比べて輸出産業としては離陸しやすかったはずである。』
Kohliは、更に反論として、脱植民地運動と朝鮮戦争の破壊からの急速な回復は、韓国人が近代工業を運営した経験があったからこそであること、(2) 工業資本が戦争で破壊されたのは事実としても、知識は消え去らないこと、近年のRomer (1993)などの内省的成長理論においても知識の重要性が強調されていること、などから、日本の植民地時代の「正の遺産」は韓国の経済発展に寄与したとしている。
政治プロセスの話をしているのだが、「てめーの読み違いだよ」という話なので省略。
『主にEckert (1991)の重要な著作に依って、私は原論文で日本の植民地主義が韓国で資本主義が孵化するためのフレームワークを構築した、と論じた。』『HKMはEckertはある特定の例しか研究しておらず、日本の植民地政策の影響がなかったとしても、韓国固有の資本主義がいずれ芽生えたはずだ、と主張している。』
これに対する反論として、Kohliは3点の反論を挙げている。(1) Eckert (1991)の“韓国の資本主義は日本の統治の下で、日本の公式な承認(official Japanese blessing)をもって花開いた”という議論は依然として受け入れられており、仮に例証の少なさが問題だとしても、多くの研究者がいくつもの例証を発見しつつある(例えば、Ho Su Yolの研究によれば、韓国の企業家の数と、韓国人所有の企業の規模は、1930年代に共に増加している。(2) 歴史にifはありません。 (3) 『確かに、植民政府は利己的な動機で動いていた。確かに、多くの企業は日本人に所有されていた。しかしそれでも、その政府で、企業で、多くの韓国人が働いていた。そして、その過程で日本式の資本主義はゆっくりと、しかし確実に韓国に根付いていった。更に言えば、多くの韓国人起業家がそのビジネスをスタートさせたのはこの時期なのだ (Eckert, 1991)。確かに、有力な財閥企業の多くは大戦後に設立されている。しかし、資本主義というのはある日突然芽生えるものではない。多くの財閥企業(現代、三星、Lucky Starなど)の創業者達が最初に事業を興したのは植民地時代なのである。』
最後に、日本政府による朝鮮人労働者の使役の問題について。『私は原論文で、韓国での日本人は、きわめて抑圧的でそして日本自身のそれによく似た労使関係の構築に寄与した、と主張した。マネージャー達は若い韓国人を雇い、OJTを施し、愛社精神を植え付け、とんでもない長時間労働を要求し、そして国家権力を後ろ盾として労働組合や政治的な活動を禁じた。さらに、“サンポ”システムで「産業愛国クラブ(industrial patriotism clubs)」を組織して経営者と労働運動のリーダー達を同じクラブの一員とし、彼ら労働運動のリーダー達を経営者が雇い挙げる仕組みを作り上げた。この厳格なアメとムチのシステムは日本人経営者に「生産性上昇よりも低い賃金アップ」という恩恵をもたらしただけでなく、政治運動を無視して生産性向上に集中させることを可能にした。この仕組みは韓国政府に受け継がれ、その高度成長期まではこの仕組みは維持された。』
以下結論が続くが省略する。残念ながら、この論文は大学関係者以外はアクセス権がないので、興味のある方は大学図書館で以下を当たって欲しい。
A Kohli, (1994), “Where do high growth political economics come from?”, World Development.
S Haggard, D Kang, CI Moon (1997), “Japanese colonialism and Korean development: a critique”, World Development
A Kohli, (1997), “Japanese colonialism and Korean development: a reply”, World Development.
念のために書くが、別に権威ある意見が全てだと言っているわけではない。自分の足でデータを探して考えるのはとても大切なこと。でも、それだけではたどり着けない議論というのがあることも分かってもらえればありがたい。上で紹介したKohliは帝国主義と経済発展が専門分野で、日々そんなことばかり議論する毎日を送っているはずだ。そういう人たちがたどり着いた「日本の植民地政策にはありきたりのvices(悪徳)と、ユニークなvirtues(美徳)がある」という結論には、それだけの重みがあると私は思う。