はてなキーワード: ルーマニア語とは
すきなのを選べ
アラビア語: كلب (kalb) - カルブ
アルバニア語: qen - クェン
イタリア語: cane - カーネ
エストニア語: koer - コエル
ギリシャ語: σκύλος (skýlos) - スキュロス
コルシカ語: cane - カーネ
シンド語: کتو (kuto) - クト
スウェーデン語: hund - フンド
スペイン語: perro - ペロ
スワヒリ語: mbwa - ムブワ
タイ語: หมา (măa) - マー
デンマーク語: hund - フンド
トルコ語: köpek - ケペク
トンガ語: ʻulungū - ウルングー
ドイツ語: Hund - フント
ノルウェー語: hund - フンド
ハワイ語: ʻīlio - イーリオ
フランス語: chien - シャン
ブルガリア語: куче (kuche) - クチェ
ポーランド語: pies - ピェス
マケドニア語: куче (kuche) - クチェ
ルーマニア語: câine - カイ
中国語: 狗 (gǒu) - ゴウ
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まあまあ、落ち着きなさいって。あなたの人格を攻撃してるわけじゃないんだから。「難癖」じゃなくて普通に疑問点を指摘しただけ。おわかり?
もしこういう議論を感情的な後腐れなくできないのなら、あなたは多分俺と相性が悪いと思うので、読まないことを勧める。
俺は別にこういう議論に人格を賭ける性格じゃないし、そういう性格の人を理解できないと思うので。
それでも、「早い話、英語の技術文書を書かせたら、英語ネイティブのガキよりも俺の方がずっと上なのは明らかだ。」
みたいなことは、口が裂けてもいわないよ。文法と表現で完璧な英語を書くというのは、本当に難しい。
ちゃんとした仕事を任せるなら、10年は訓練がいる。
素人がやったら、All your base are belong to usになっちゃうんだ。そういうこと、わかってる?
わかってますとも。それでもなおかつ「早い話、英語の技術文書を書かせたら、英語ネイティブのガキよりも俺の方がずっと上なのは明らかだ」と言えるよ。
現実問題として、科学技術の世界ではカタコト英語が罷り通っていて、「文法と表現で完璧な英語」なんて全く要求されない。語学が大の苦手だったアインシュタインがその典型だ。英語の兄弟言語のドイツ語を母語としながら、ちょっとテンパるとルー語の逆バージョンみたいな英語しか話せなかったそうだ。それでも後半生を米国で送り、業績に見合った尊敬を保ち続けた。
もしネイティブが「文法と表現で完璧な英語」などを要求しようものなら、「英語で話してやってるだけありがたく思え」「ならば専門的な翻訳者をただで派遣しろ」などと非難囂々になることは明らかだ。本来はエスペラントみたいな人工言語やラテン語みたいな死語が占めるべき地位を、どういうわけか英語が占めてしまっているのでそういうことになっている。
そもそも、科学技術を表現する際の言語というのは、豊饒な日常語に比べて非常に幅が狭い。たとえば"base"あたりが専門用語なら、"All your base are belong to us"でも十分意味が通じてしまう。数学の論文なんかであれば極端な話、ルーマニア語あたりで書かれていても、その分野の専門知識があれば読めてしまう。そういう世界だ。
それに、こういっちゃ何だけれど、学部生の専門知識なんて、
社会に出ちゃほとんど役立たないでしょ? あるいは、後からだって学ぶことは十分できる。
役に立つし、後から学んでちゃ遅いです。まさか会社で線型代数だの電磁気学だのミクロ経済学だのを教えるわけにはいかないんだよ。逆に、その程度にしか知識を要求されない職種に就くのであれば別に国際教養大の学生を雇ってもいいかもしれない。だが、それってただの「兵隊」であって、あの大学が養成しようとしているようなエリートとは程遠いんじゃないかね?
そういう意図よりも、むしろ誇大宣伝に騙されて通学してる学生が可哀想だ、と言ってるんだよ。ちょっと前は器用にExcelだのPowerpointだのが使えるだけで有能な学生扱いされたが、あれと同じことになる危険性が高くはないですか、と。
だから、既存の外語附属短大で同じような勉強はできるし、4年制の外大に行けばそれに加えて専門知識も学べますよと言ってるじゃないか。視野が狭いのはどっちですか?
「ヨーロッパ人は誰でも英語を話す、それに引き替え日本人は」云々という議論を耳にする。確かに英語が流暢なヨーロッパ人に「どうして英語がしゃべれるの?」と訊いたら、なんでそんなこと訊くのという顔で「学校で習ったから」と答えるのが常だという。これを見て、日本の学校英語教育がいかに腐っているかという結論に飛びつく人は少なくない。
確かに日本の英語教育は旧態依然であり、最近の研究成果が反映されていないということはあるかもしれない。しかし、問題はそれだけなのだろうか。ヨーロッパ人が英語を初中等教育の間にかなりのレベルにまで身につけられて、日本人ができないことには根本的な原因が他にあるように思えてならない。
以下は、米国の外交官が各地の言語をビジネスレベルにまで学ぶのにかかった時間の表である。孫引きご容赦。
分類 | 学習時間 | 言語 |
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英語と類縁性の高い言語 | 575-600時限 | アフリカーンス語、デンマーク語、オランダ語、フランス語、イタリア語、ノルウェー語、ポルトガル語、ルーマニア語、スペイン語、スウェーデン語 |
750-900時限 | ドイツ語、インドネシア語、マレー語、スワヒリ語 | |
言語学的・文化的にはっきりとした違いのある言語 | 1100時限 | アルバニア語、アゼルバイジャン語、ベンガル語、ブルガリア語、チェコ語、フィンランド語、ギリシャ語、ヘブライ語、ヒンドゥー語、ハンガリー語、アイスランド語、カナダ語、ラトビア語、リトアニア語、マケドニア語、モンゴル語、ペルシャ語、ポーランド語、ロシア語、セルビア語、スロベニア語、タガログ語、タジク語、タミル語、テルグ語、タイ語、トルコ語、ウクライナ語、ウルドゥー語、ウズベク語、ベトナム語、ズールー語 |
英語母語話者にはかなり難しい言語 | 2200時限 | アラビア語、中国語、日本語、韓国語 |
出典:http://en.wikibooks.org/wiki/Language_Learning_Difficulty_for_English_Speakers
この表は外交官というかなり限定された人を対象にした調査だが、すくなくとも英語母語話者にとっての言語の難易度の序列としてはだいたい合っているといえるだろう。そして、だいたいこの関係は逆に読み取ることもできて、たとえばオランダ人が英語を学ぶのは日本人よりもずっと簡単だということも言えるであろう。こう言うと「英語話者にとって日本語が難しいのは漢字が難しいからだ」と言われるかもしれないが、文法的に近似していて漢字がほとんど使われない韓国語が日本語と同じ分類に属していることから、そこはあまり本質的ではないであろう。
一方、学校での授業時間数を考えてみよう。日本の学校では年間授業日数は約200日である。毎日1時間英語の授業があったとして、中高6年間での英語の授業時間数は、定期考査や学校行事のことを考えればたかだか1000時限程度である。そしてヨーロッパの学校は日本の学校に比べて授業時間数が多いことはないだろう。
となると、結局「ヨーロッパ人は学校で習えば英語ができる」云々は
「ヨーロッパ人は学校で1000時限ほど勉強すれば英語をビジネスレベルに使えるようになるが、日本人はできない」
ということを主張しているに過ぎないことになるが、これは上の表を見れば何も不思議でないことになる。おそらく、日本人が英語を身につけるためには、ヨーロッパ人に比べて2-4倍の時間がかかるのである。
となれば、いったい日本人はどうしたらよいのだろうか。中等教育の1000時限ではとても足りないことははっきりした。あと1000時限ほどの学習が必要である。
この1000時限分、中高6年分を社会に出てから確保するのが絶望的でありしかも遅すぎるのは間違いない。といって、大学で毎日1時限を英語に充てることも無理だ(レジャーランド化したような大学ならともかく、まともな大学生にそんな時間はない)し、もし「日本人も英米の大学に進学すべき」という要求を満たさねばならないとしたらやはりそれでは遅い。
となると小学校の6年間を充てるかということになるが、小学生の読み書き能力が極めて低いということは忘れてはならない。ひらがなやカタカナを学んでいる子供にラテン文字を教えるのは負荷が大きすぎるし、漢字や分数・小数、あるいは都道府県の名前といった「一般常識」レベルのことを学んでいる子供にさらに負荷をかける余地も少ない。そしてこのくらいの年頃の子供は興味がなければ全く学ばないし、学んだこともすぐ忘れてしまう。実際、小学校の後半ぐらいから2言語ぐらいを学んでいるヨーロッパ人でさえ、「中学から勉強しなくなったドイツ語やフランス語は全部忘れちゃって何も覚えていない」という人は珍しくないのだ。英語が特に流暢な語学好きな人だってそうなのだから後は推して知るべしだ。
つまり、日本でできることはほとんどないのだ。香港やシンガポールのように屈辱的な歴史的経緯から日常生活に英語が溶け込んでいればともかく(それでも香港人やシンガポール人全てが英語が流暢なわけでは全くない)、日韓中のように大英帝国の支配を逃れ続けた国民にはそのような機会は全くない。実際、世界的にこの三ヶ国は英語力ワースト3と言ってよい(英語が流暢な中国人は多いように見えるが、その多くは移民の2世以降やごく一握りのエリートである。中国人は母数がめちゃくちゃ多いことを忘れてはならない)。
以上見たように、英語が世界を支配することは結局起こりえない。あるとすれば旧大英帝国と米国をたきつけて世界征服戦争を起こしてもらうしかないということだ。
結局「国際英語」の考えの欠陥はここにある。母語話者が自分たちの文化から逃れられない限り、自然言語を異文化圏に平和裏に浸透させることは無理だということだ。英語圏の文化を普遍的で上位にあるものとして強要しない限り、十分な英語力を得られない異文化圏の人間を無視して英語支配を正当化することはできない。だからといって「英語帝国主義」に開き直ることはそれ自体恥知らずというものであろう。
やれ英語の時代だ、やれグローバル化だということが近年安易に言われるが、ヨーロッパのような文化的に近縁な地域や旧大英帝国、また米国の勢力圏化にある中南米を除いてそのような流れが一般化しうるのかという検討が全くなされていないのは実に不思議だ。「英語がしゃべれるようになれ」といわれてできるのであれば誰でもそうするであろう。問題は「なぜできないのか」を考えるべきことではないのだろうか。無理なものを無理強いしてもどうしようもないということに早く気づくべきである。