はてなキーワード: 障碍者とは
なんで吐き出したら楽になると思ったん
そういうとこじゃないん?
それで抜け出すってどういうことなん?
ハマってるとか進むっていってもどっちにか抜けたら先になにかあるんかとか
ゆうて抜け出すとかハマってるとかそんなん他人の言葉借りてるだけやろ
自分の今の状態だけ明確に理由があってどういうことなのか情報発信するんはどうなん
鏡みるやろ普通
他人は自分からみたら見えるやろ でも他人かて自分の姿格好は見えてへんやろ
あんたがみたもんを反射して自分がどういうものなのか解るってもんちゃうん
お笑い芸人がおったとしてな おもんないギャグでなんでウケへんのやろって
そのギャグがおもろいかどうかはお客次第やろ そのお客にどうしたいかは自分次第やろ
自分が赤い色が見たいとおもったらどうするん 自分が赤い色を発したら辺り一面赤くなるやろ
お客を笑わせたかったらどうしたらええんや 笑われることしたらええんやろ
この笑いが腑に落ちて自分の記憶と思考と合致したときにでるもんと 自分が絶対正義で相手が間違ってたり弱者であることの自己肯定感から来る嘲笑との違いがわかってへん若手も素質のないやつもおるけどな
なんで自分のギャグがうけへんのやろ 自分は赤い風景がみたいのになんで青にしか観客席がひからんのやろ って原因考えたら自分が青にひかっとるからだけなんちゃうん
たとえばな
器用に生きてて思い切れてるんいいなってみとるやん
じゃあやってみろっていわれて 恐る恐る手をだしてみるけど とどかんから不器用やないわれるんやろ
それもともと手がとどくとおもてやってへんやん
必死に手を伸ばしてとどかんかったら恥ずかしいとか 傷つくとかそんなんでわざとはじめから失敗するの前提でやってんのやろ
それで偶然とどいたりまわりが届かせてくれるようになったらええのにな とかそれだけが希望なんやろ
ちょっとそれナメすぎちがう? 他人が良い人になってくれるように自分が足りない人間やってる自負でもあるんかいな
自分が弱者でなんにもできないから周りの人に助けてと喚く それを聞いて堪えかねて助けてくれる人にお礼をいってなんてありがたいことかと返す
たちのわるいギャグやん 障碍者ネタでウケねらってる芸人みたいなもんやん 赤子かなんかなんか?
スポーツ選手が技をきめて成功したときでる観客の笑みは嘲笑ちゃうやろ それまでの失敗と苦労を笑ってるのとちゃうやろ
今来るべきところが選手にも観客にもわかっててそこに来れたときに自然と出る笑みやろ
その相互理解のために必要なんは失敗はありきで練習もありきでいさせてくれる環境なんちゃうん
まずなにより失敗を受け入れる自分自身の在り方がないとまず失敗のひとつもできんやろけどな
失敗するのわかってましたw っていえる自分がそんなにカッコいいんやったらカッコつけ続けたらええがな
器用ってもんはそれで大体わかるんちゃうん?
失敗したときどうすんのか 成功したときどうすんのか 準備できてるってことなんちゃうん?
なんでそんな先のことがわかるんやって わからんやろ
わからんけど 何回も繰り返してきたことやったら失敗したときも成功したときもパターンあるやろ
なんで毎回はじめてのチャレンジで練習もなしにできたことを評価されなあかんのん
そんなんラッキーマンかなんかやろ 自分の運を常にためしてんのか?
じゃあそのときどうしたらいいかわからんって なんも準備がなかったときどうするかってそれも経験値でなんとかなるやろ
ならんとしても ならんかったときどうするかって自分のテンプレがあったらええんちゃうん
失敗したときほかの人間はどうしてるん なんか真似したりしたらええんとちゃうの
全ての手が失われて想定外のときにはもう呆けてへたりこんだらええがな
もしあったとしたら めっちゃ貴重やろ その時にできなかったことをするチャンスがくるなんかそんなない事やからな
自分がそうなるんはもちろん嫌やけど でもそれを見た誰かがその次の手を考えるきっかけになるんやったら 自分はそこで失敗してもええかなって思う
そういう大切なもんは一個くらいあってもええんとちがうのん
まず失敗してみて失敗の仕方とその次の手を覚えるべきなんちゃうのん
失敗は失敗で終わらせて次をそのもひとつ向こうまですすめたらええやん
その先でまた失敗したらそこまでは失敗やけどその次成功させてもうひとつ進めたらええやろ
なんで連続成功体験でゴールまで無傷でいかんのかな とかおもてんの?
他人はみんな失敗したとこなんかみたことないから普通一度も傷つかずに成功しつづけてゴールしてるとでもおもてんの?
ちょっとそれは失礼すぎやろ 他人がコストをかけて売価かけてる売り物みんなぼったくりやゆうことになるやん
苦労して失敗やロスがあって その分加味しておゆずりできまっせゆうのが付加価値やろ
自分でやったら原価ゼロやんゆうてるんのおんなじやな じゃああんたの仕事ゼロ円でこっちにしたってくれやって話なるやん
ともかく
①器用に見えるんは準備があるから 準備すんのにはなにを準備したらいいか知らんといかん 知ってできるようになるには失敗せんとわからん
②自分を変えるにはまず自分を知らんといかん 自分は自分で見えんのやから自分を見てくれる人を探さんといかん
そんなとこちゃうの?
とりあえず失敗してもええからってことは失敗が取るに足らんことやと思えんといかんわけやろ
ということはそんなもんが小さいってみえるように 小さいゆうんは相対やから大きい目標もっとったらええんちゃうの
その大きな目標が崩れたら傷つくからこわい とかゆうんやったらせんでええがな
せんかったらどうなるかもう充分にわかってんのやろ 傷つかんですむ生活しとんのやろ それがそれでええんやったら続けたらええがな
実際いま完成してる成功体験に満足しとるんやったら何の問題もないやろ
失敗なんて小さい 大きい目標に比べたら なんていらん体験のために不安になったりする必要ないやろ
大きい目標に努力とかせんかったらもちろん成功もないけど傷つきもせんからな
けど絶対に大きな目標の達成が棚ぼたで寝ててもやってくる可能性はゼロじゃないといったところでほぼゼロやからな
自分がどういう人間かまわりに友達もおるんやからわかるのかもしれけど周りから返ってくる返事で自分を自分で知るって話先にしたやん
いま友達がおるしその人がゆうてるしでええんやったらそのままでええがな
ただ自分がどうしてそんなやつなんやろって それ自分がそんなやつやでって返してくるまわりの人間がおるからやろ
そうじゃない君がおるって話をするやつがおらんからそのままでおんのやし どうしたらええのかもわらんのやろ
自分のギャグがウケへんのやったら お客がウケるのにしたらええねん
自分を曲げてまでお客がウケるのしたないゆうんやったら 自分でおれる場所をさがして移動したらええやろ
どこにもないかもしれんけど 一生みつからんかもしれんけど 探しとるやつはいっぱいおるはず
探しとるやつを応援する自分やとか そういう人間に反射する鏡の立場になってないからそんな人らの姿もみえんのやろ
自分が鏡として役に立っとるんは 自分が反応を返しとる相手だけやでな
自分が自分でわからんとか 自分が自分の期待通りの自分じゃないって姿を返してくる環境とか友達とかは そういう鏡やってことやでな
自分をみっともなく蔑んで姿を映してくれる鏡やからこそがんばれるゆうんやったらそれでもええやろし 褒められて伸びるんやったら自分が綺麗にうつる鏡を探すべきやろ
失敗したらどうなるばっかり肯定してできないからしないって断固たる決意だけはできるのに どうなるかわからん未来はどうなるかわからんから不安でできないって意味わからんくないか?
なんで失敗したらやばいからできないってことだけ絶対選択できるんや
まあええけどな
じゃあせんかったらええねん
自分で行動しないけど結果がほしいときって もうほかに選択肢ないやろ
じゃあどうやって手に入れるん
自分で手に入れられるように訓練して出てくるけど まあまた戻っていくわな
無理なんは無理なんかもな
自分でせん人間には選択肢はもうないでな 自分でせんのやから生産が自分でできないの100%確実なんやから
とりあえず失敗して 失敗したっていえる人間がおって 次がんばろうやって言ってもらえたらええんとちがうの
なのにわざわざ企業の採用の自由を制限してまで雇用を義務付けられている。
障碍者の側からしても経済的理由だけで考えれば働く必要はない。
冒頭に書いたように今の日本には十分な生活保障制度があるからだ。
なぜか?
働きたくても働けない不幸を回避し、社会の一員として労働する尊厳を尊重しなければならないからだ。
このように考えたとき、弱者男性の結婚問題も、自由恋愛の敗者と自己責任論で捨て置くわけにはいかなくなる。
結婚したくてもできないというのは、まさに個人の尊厳と幸福追求に関わることだからだ。
障碍者雇用が義務付けられ、雇用すれば助成金がもらえて未達なら罰則金がとられるように、弱者との結婚に関しても助成と罰則を設けるべきだろう。
弱者男性に配偶者があてがわれないのは幸福追求権の侵害ではないか?
所得によって、身分によって、年齢によって、容姿によって、それを制限されている。
これは現行の社会制度が弱者男性の幸福追求権を侵害している状況だといえるだろう。
だとすれば公共の福祉に反しない範囲で、強者の持つ「配偶者を選ぶ権利」を制限し、弱者男性も結婚できる状況にすべきではなかろうか。
一見無茶苦茶な意見に見えるかもしれないが、類例を示せば納得してもらえるはずだ。
ご存じの通り、企業には経済的自由権があり、好きなように人を雇うことができる。
企業は法人であり、法人は人権享有主体であるので、その自由意志は最大限尊重されるべきである。
人を選ぶ際、差別が起こらないよう履歴書に求めてはいけない事項、面接で聞いてはいけない事項が決まっている。
等々数々の制限がある。
これは法人が雇用者と比べて圧倒的強者であり、その自由を際限なく認めてしまえば公共の福祉に反してしまう恐れがあるからだ。
このように、自由意志は最大限尊重されるべきものであるが、同時に他の人権との兼ね合いで一定程度制限されねばならないものでもある。
結婚における強者の選択の自由も最大限尊重されるべきではあるが、その結果弱者男性の幸福追求権が侵害されてしまうのであれば、一定の制約を設けるのも致し方ないだろう。
ホモソーシャル・マッチョな文化になじめず、不登校で引きこもっていた。情報探索処理能力がたりないのでオタクにもなれずにいた。
そんな中で昔フェミニズムの本を読んでちょっぴり救われたり、好きな音楽を抱きしめながらなんとか生きていた。
弱者男性論がホットエントリに盛んに上がってきているのは意識してはいるけど、丁寧に追っかける物理的、精神的な余裕もない。
一言で弱者男性といっても定義は定まっていないみたいで、結局のところ何がどうなれば多少なりとも救われるのか、一人一派なんだよね。
ソーシャルメディアでひとりひとりが個人の主張をできるようになって、それは民主的である一方、議論があまりにも拡散している。
おれは頭が悪いのでそろそろ「バリバラ」で取り上げてくれないかなと思う。
バリバラといえば、この前、LGBTQ×障碍者のことを取り上げていて、温度差が人それぞれ違うのでリスペクトしようっていうような趣旨だった。
よくわかるんだけども、それを言い出すと世界には76億通りの自己認識があるので、頭がパンクしそうになる。
弱者男性とかフェミニストとか非モテとかは音楽のジャンル分けに似ていて、これはロックだジャズだ、いや違うみたいな論争がバカバカしい一方、ジャンル分けは他者とのコミュニケーションでは便利なツールでもあってモヤる。人間の脳はまだすべての個人を個別に認識するまでは進化していない。
テキサスホールデムポーカーは楽しい。ポーカースタジアムはバンナムから出てるポーカーゲームだ。
私は障碍者だ。だがポーカーは皆に平等だ。私はヨコサワさんに教わった知識を胸にポーカーする。
ポーカースタジアムはリアポにもアプリにもない「演出」をかけてくれる。これが楽しい。ついつい100円玉を入れたくなる(後ろに順番待ちがいないか確認してから)。
ポーカーを通じて様々な友人が出来た。一生の宝物だ。
今ゲームセンター、ゲーセンは崖っぷちだ。緊急事態宣言・ソシャゲ移行による客離れ etc.
アミューズは最も深刻だ。
私はポーカーが好きだ。ポーカーがなくなっても友人は消えない。
もしポーカースタジアムが無くなったら死ぬかも知れない。ごめんなさい。