はてなキーワード: 懐古厨とは
正直な気持ちぶちまけたいけど、みんな本当にそのアニメ心から面白いって思ってる?
なんかネット上にはアニメは貶してはいけないって空気があるじゃん?
それのせいで今まで黙ってたけどさ、俺ここ最近アニメを面白いって感じたことが全然ない
どれも話がつまらない、キャラクターが動いていればそれでいいみたいな人もいるかもしれないけど、その割にはなんかストーリーを素晴らしいって言ってる人が多いんだよ…
ドラマよりマシってこと?俺にはそこまで差があるようには思えない
おかげでそれって叩かれるのが怖くて言ってるんじゃないの?って感じる
言っとくけど俺は懐古厨じゃないよ、アニメ見始めたのは00年代の終わり頃からだし
その頃のアニメが素晴らしかったというつもりも全くない、ただアニメを見続けてどうしてもその違和感が拭えてない
元来食わず嫌いではないけれども、この手の内輪ネタはあまりに寒くて苦手だ。
くろみちゃん然りの企画倒れなんで、まあ語れるのは作画と誰がモデルなのか位で
以前グラスリップでも似たような事を書いたが、SHIROBAKOもまた俺のオススメアニメってのを見せられてるのだ。
業界の闇を長々と見せられてもこれといって響かないのは、単にこの手の雛壇芸人による内輪コントに嫌悪感を抱いているに過ぎないわけだ。
その点PAWORKSという会社はあえてそうなるよう仕向けて描いてる感があり、スタッフ的にこの反応は大成功だと感じてるのではないか。
それだけ業界が業界だけに閉鎖的でしかも薄暗いし大人の事情が常日頃渦巻いた世界という点で表では華やかだけど裏では・・・、となるのが常識で、
その辺を察してやれるだけの器量があれば何ら問題ない内容に仕上がっているのは、このスタッフ陣が如何に努力して見せられる業界アニメ、
ないし内輪アニメを目指したのだろうか、と考えてしまうのである。
そうはいっても内輪ネタ以外で楽しめるのは新人制作進行の仕事ぶりとか、アニメ関係の仕事をする他の登場人物をそれぞれの視点で描いている所で
そこは素直に評価してるし、何より業界モノだと分かった上で見ているのでなるほど納得する所が多い。
そもそもこのPAはファンタジー要素さえなければ中々の名作が多い。いろはとかTARI TARIとか現実的な、ちょっぴり非現実的な境界で描いている分が面白い。
逆に少しでもファンタジー要素のある作品は不得手という印象がある。グラスリップとかTrue Tearsとか別に西村〇二監督を非難してるわけではないが賛否両論になり易い。
その中で、やっぱり原点は現実路線であろう。
という事で今期はSHIROBAKO、業界ネタ内輪ネタで勝負をしに来たのだろう。
何故なら、そういった業界にズブの素人である筆者が、何を言っているのか時々分からない単語やとある制作進行の存在が非常に不快だからである。
ああいった業界に不快系の業界人が話の根幹に必ずいるので、話をまとめるために更に風呂敷を拡げないと話がまとまらないというジレンマに陥るのだ。
その不快さがただでさえ業界ネタが人によってはつまらないと感じるのに対し、物凄い相乗効果となって顕れて結果、この手のアニメに敬遠しがちになるわけである。
要は不快系をどうしたら取り除けるかをSHIROBAKOに見ているのに、一向にその不快を取り除く気配がない。
それどころか、その不快系キャラがある種作品のキーマンになっている様に感じられるのである。
これは恐らく失敗を糧に成長していくサクセスストーリーを内含しているのかもしれないが、実際最新話になってもその様子は感じられない。
恐らくそのせいで主人公が苦労するといったコンセプトなのだろうが、見る側としては一通りの着地点を用意しない限り極めて不快で見るに堪えないと言わざるを得ない。
だがしかし、それなら見るのを辞めればいいじゃないかという声もある。
折角最新話まで見ておいて今更視聴を辞められない、またアニメ視聴において3話までで大体のテーマや内容が分かると言われている中で、
それでも面白そうだと感じて視聴を継続する人も存在するのではないか?
少なくとも筆者はその一人であるので、期待も大きいのだ。
内輪ネタがつまらないと一言で言ってしまえば簡単だが、どのあたりが酷いのかという事を指摘するのは実は非常に難しい。
SHIROBAKOだけが抱えている問題というわけではないが、とりあえず何を一番伝えたいのかを明確にする事、明らかに浮いた人物の補足や単語の説明を入れなければ
ゆゆゆやコパスのような唯我独尊アニメや説明し過ぎて駄目になりつつあるテラフォーマーズの様な取り返しの付かないアニメの様な事になってからでは遅いのである。
久しぶりに飲んだサークルの先輩が、「俺たちが出てからの○○(サークル名)はダメだ」とか、「あのやり方はよくない、うちのサークルらしくない」とか、その手のことをぐだぐだ言い続けてた。
たまに顔出してくれた時にはいつも激励してくれてたのに、裏ではあれこれ思ってたらしい。(うちは小規模の文化系創作サークルで、定期的に会誌を作ったり、交流目的の飲み会とかレジャーもやってる。そのわりに俺の文章力が残念なのは仕様)
俺らは俺らで頑張ってやってるつもりだし、そもそも今のメンバーからは先輩が言ってたような不満は聞こえてきてない。
だけど、先輩には譲れないことがいっぱいあるっぽい。
最初は、いくらOBだって今は外野なんだから、外からぐだぐだ文句つけてんなよ、と内心イラッとしたんだけど、先輩が正しいってこともあるかもしれないし、とか思って、どうすりゃいいすか、って聞いても、昔みたいに、みたいなあいまいなことしか言ってくれなかった。最後には、「俺の好きだった○○はもうないんだな」と言われた。
それで心底うんざりして、一種の懐古厨だって納得しようとしたけど、なんかしっくりこない。俺が気付けてないだけで、やっぱり先輩が正しいのかも、って考えが捨てられない。
在学中はすごくお世話になった人だし、今だって面倒見がいい先輩だ。先輩の愛情だ、ありがたい忠告だって解釈すべきなのか? 次会った時、どんな顔すりゃいいんだろ。先輩はどうなりゃ満足なんだ。
もういろいろわからん。
とにかく、しばらくあの先輩には会いたくない。できればしばらく顔見せないでほしい。
http://anond.hatelabo.jp/20140729181717
様々なチャレンジがあったのは間違いないと思う。
その理由は以下の通り。
90年代は20-30代であり、どの時代においても同程度割合でクリエーターになると
考えれば、今の倍程度のクリエーターがいたと思われる。
2.IT革命
1990年代は劇的にPCの性能が向上して様々なことができるようになった。
特に庶民でも手に届く範囲でPCを購入できるのはwindows95が大きいと思う。
(一応、GUIはMacではあったが市民権を得られなかった。)
この年代を目の当たりにした人にとっては
予想した人はいないと思う。
1990年代の輝きだと思う。
いろんな刺激があったのだと思う。
その結果、魅力的なものが作られたのだと思う。
(現代日本では、GDPが10%も毎年増加するなんてとても想像できない!(笑))
2000年代を振り返ってみると
これによってインターネットがほぼすべての年齢まで広まった。
仕方のないことなのだが…。
おそらく1970年代や1990年代ほどの爆発は今後は難しいのだと思う。
それこそ新たな技術革新がないと厳しい。
思ってしまうのだが。
はなんとか生きているうちに達成できるのではないかと期待してるのだがw
懐古厨は嫌いだがニコニコに関してだけは昔のほうがよかったと断言できる。
よかったというより今よりもマシだったと言うべきだけど。
こういうのをなんていうかというと懐古厨って言う
そんな優しく諭してやらんでも「懐古厨乙!」でいいんじゃね。
最近、前からずっとあるのかもしれないが、ビギナープログラマへ向けた教訓めいたエントリなどを
よく見かける。
やれフレームワークから始めるなだとか、なんとかかんとかというものだ。
同時に、これは昔から変わらないが、プログラムを勉強したいけどどうしたら良いのかというような
質問などもよく見かける。
こういった数多のやり取りを見ていて、自身もプログラマとしての一面をもつ限りは
頑張っての一声もかけてやりたいと思うし、辛辣な内容のエントリに頷くこともあれば苦い顔をすることもある。
自分がプログラムの勉強を始めた当時は、プログラマを目指す者にとってはイバラの道だったと思う。
はいはい、懐古厨おつと言われてしまいそうだが、実際そうだったのだ。
まずなんたって、パソコンを手に入れるのが容易でない。
当時PC-9821全盛期であったが、1台40万くらいはした。
容量1.2MBしかないフロッピーにしこしこデータを保存していた。
そしてパソコンを手に入れたとしても、情報を調べる手段というのが確立されていない。
今でこそ、ブラウザを開いてGoogleで検索すれば、どんな情報だって手に入る。
ブロードバンドという言葉がまだなかった頃は、そうではなかった。
インターネットへ接続するのも、お金持ちの家はISDNだが、自分の家はモデムでピーがが~とつないでいた。
そのため、当時はWebサイトのページ容量は画像も含めて数キロバイト以内に収めましょうという
慣習があったように思う。
NTTのテレホーダイというサービスがあり、夜11時から朝の7時までは
特定の番号にかけ続けても一定料金でかけられるサービスがあり、みなそれを
利用していた。自然とパソコンを利用する人々の活動タイミングは夜間となった。
当時はまだGoogleがなかった。
なにより検索で情報にたどり着くということはほとんど概念としてなかったんじゃないかと思う。
Yahoo!が用意したカテゴリを元に、登録されたWebサイトへアクセスし、
サイトからのリンクで新しいサイトを発見するという、本当のインターネットサーフィンを
IntetnetExplorerはまだバージョン3くらいで、脆弱性がありまくり、危険なサイトへ
一番陰気な雰囲気を持っていたんじゃないでしょうか。
NetscapeNavigator(今のFirefoxの前身)が人気を博していた時代の話である。
さて、情報にアクセスできたとして、次に問題になるのは開発環境の話である。
昔の昔、基本ソフトがBASICだった時代は、パソコンを起ち上げるとBASIC言語を使って
プログラミングが出来たが、Windows95はそうではなかった。
開発環境、そしてコンパイラをまず準備できないと、そもそもプログラムの勉強が難しかった。
当時からMicrosoftの統合開発環境として、VisualStudioが存在したが、よほどの金持ちでないと
買えない値段がした。
そこで、LSI-C試食版であるとか、Borlandの無料開発環境であるとか、N-88互換BASICなどの
無料開発環境を探しだして、しこしことコマンドライン上で動く基本動作だけを勉強したものなのだ。
自マシン上に、Apache+PHP+MySQLをインストールする、なんて手法は夢のまた夢だった。
Webプログラムを勉強するには、自分でLinuxサーバーを起ち上げるか、CGIが利用できる
CGIで利用できる言語も、CかPerlかくらいしかなかった。
JavaScriptもまだまだ発展途上で、今のようにあれこれと使えるようになるのは
まだまだ数年先の話だった。
それが今やどうだろう。
パソコンも一家に1台あるだろう。それどころか職場の自分の机の上にも1台あるだろうし、
学校にいってもいくらでも使えるだろう。
開発環境なんて、よりどりみどり。メモ帳ソフトがあれば、もう勉強を始めることができる。
Windows上で動くアプリだって、VisualStudioが無料で手に入る。
それで敷居が高ければ、Excelを使ってもいい。VBAを使えば、Windowsアプリの勉強もできるだろう。
これだけ情報も溢れ、環境もどれを選ぶか難しいほどの状態になってしまっているのだ。
もはや、プログラムを勉強するには、必要以上のものが用意されている環境にあるといっても過言ではない。
がんばってください。
と言い換えても違和感ないよね。
「俺たちオジさん(オバさん)には今、歌う歌もなければ、聴く歌もない!」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tomisawaissei/20130216-00023503/
に噛み付いてるブログ
「青春時代を彷徨い続けるオジサンが大人の音楽を騙るなんて、ちゃんちゃらおかしい」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130220/p1
両方読んで、人間って結局自己中だからそう思うのも仕方ないんじゃね?と思った。
はるか昔から繰り返されてきた、昔はよかった症候群のひとつだし。
口ではなんとでも言っても、なんだかんだで自分がいいと思ったものをいいと思い続けたいというのは別に悪いことじゃないだろう。
他人に押し付けるのは別としても。
ボカロ厨じゃないけど、仮にボーカロイドに当てはめて冒頭の団塊の記事を書き換えたらこうなる。
歌は歌であって、実は歌ではない、という時代があった。もう30年以上も前の〈初音ミク〉のことだ。その時代、初音ミクは歌であって、実は既成の意味での歌ではなかった。どういうことかというと、スタイルはあくまで歌だが、それを超えてしまう“何か”があったということだ。換言すれば、歌は己れの自己表現の一手段だったということでもある。かつて初音ミク時代は、歌とはそういうものだった。歌にボカロPの生きざまそのものが反映され、聴き手である私たちは歌を聴いてボカロPの〈生きざま〉に共感を覚えたのだ。ところが、年月は流れ、歌そのものが変わってしまったように思えてならない。いや、ボカロPも聴き手も、歌に対する考え方が変わってしまったという方が適切だろうか? 歌のスタイルはかつての初音ミク一辺倒の時代から、鏡音リンレン、巡音ルカ、MEIKO、KAITOなどと多様化したが、そんな中で歌は、一口で言うなら“たかが音楽”になってしまった。でも、それは「歌は歌としての“純粋性”を取り戻した」というパラドックスでもある。しかし、と私は考えてしまう。いくら音楽性があったとしても、内容の希薄な歌が本当に歌なのか、と。
初音ミク、ボーカロイドは、私たちが作りだしここまで育ててきた〈私たちの世代の歌〉だったのではないか。変にカッコウなどつけずに、素直な気持ちで自分の胸のうちをさらけ出して現在の〈人生〉を堂々と歌って欲しいものだ。私たちはそれを待ち望んでいるのである。かつてXXXX(※ボカロPの名前)が私に語った言葉が胸に深く刻みこまれている。
「今ぼくがやってることが、初音ミクなんだと思う。この頃、つくづく思うことは、ぼくが生きていること、それ自体がメッセージだってこと。この年になって、まだ現役で動画を作って、いろんなサイトに投稿して。お客さん、たくさん集めて、それで頑張っている。ぼくのそんな生き方そのものがメッセージだと思う。言葉でメッセージするんじゃなくて、生き方でメッセージする。それでいいんじゃないかと思う」
いいか。SNS なり何なりを始めるってのは恋をするようなもんなんだ。
何もかもが新鮮だから最初が楽しいのは当たり前。付き合いたてみたいもんだ。
付き合ってるうちに相手との距離感だとか価値観だとかそういうものが変わっていくだろ。 SNS だって同じなんだよ。
一緒に変わっていく中で、まだまだ一緒にいたいとか、楽しいとか思い続けてられなくなって、
昔はよかったのにとか言い出すってことは、お前はその SNS に飽きたってことだ。
別に SNS そのものが悪いわけじゃない。単にお前が冷めちまっただけなんだ。
お前恋人に昔はよかったのにとか言ってみろよ。そりゃ別れたいって言ってるようなもんだろ。
だから、お前が SNS にそういうことを思い始めたら、それはもう引き際ってことだ。
やめちまったほうがいい。綺麗サッパリ忘れろ。いっそヤケ酒でもしたらいいさ。
そのほうが幸せになれると思うよ。