はてなキーワード: 京都人とは
実際に「ぶぶ漬け」を出されたことはないのだが
別のクラスの友人達も別のガイドさんから聞いていたようなので、おそらく鉄板ネタなのだろう
元増田http://anond.hatelabo.jp/20151104213705も読んでな!最後までな!
元増田だが、こういうまともな京都人からの話を本当は期待していた。
複雑だがどうもありがとう。
ジョークについて細かく説明するのはちと粋ではないが一応詳しい説明をするなら、
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●某SNSで知り合った→やりとりはしていたとしても直接関わりのない距離感のある関係
●「ぜひ来てください。ごちそうします」→対して深い関わりではない相手からいきなり親しげな歓待を期待させる言葉
●「お茶漬けとか~」→相手は京都の人だから、これは社交辞令でしょ?という自虐ネタ
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という流れで出てきたジョークだ。
「自虐ネタなら相手を怒らせない」とかピントずれまくった間抜けなコメントしてたバカもいたが、「お茶漬け食べさせてください」という意思表示自体が「私のような者があなたにごちそうされるような立場とはとんでもないことです」という謙遜だったってことに気づかないところでジョークの理解ができてないってことなんだよ。わかったか?
そもそも京都に住む人とか京都に関わりがあると明示して「こういうジョークは不愉快だ」というコメントがないあたり、自分と関係ない藁人形を叩いてる感じしかないけどな。うわっキモ。
http://anond.hatelabo.jp/20151104213705 冗談が通じない相手と話すと疲れる
これを見て気になったので、よければ教えてほしい。
まず、「京都のぶぶ漬け」について語る上で、下記の知識は知っておいてほしい。
・ネタは「早く帰ってほしいから、あえてもてなす」ことを逆手に取ったネタ
・「早く帰ってほしい=ぶぶ漬けを出す」という習慣は京都にない
(「早く帰れ=もてなしを無理して用意するのを遠回しに伝える」ならあるかも)
・現在の京都でお茶漬けを「ぶぶ漬け」と呼ぶほぼ人間はいない(1万人に1人いる?)
その上で知りたいのだが、「実際に京都人にぶぶ漬けを出された」という方がどれだけいるのだろう。
なお、に最近だとお茶漬けは京都っぽい料理として楽しむ人が多く、テレビにも高級茶漬けなどが取り上げられるため、
「帰れ」ではなくむしろ、「おいしいのあるんやでー」という意味で、ぶぶ漬けのネタも気にせず出す人はいる。
繰り返すが、まず「ぶぶ漬けを出す」という古来の風習もないし、現代では「ぶぶ漬け」なんて使わないし、
大半の京都人はお茶漬けからぶぶ漬けは直結しないのだ。(ちょっとラグが生まれる感じ)
なので、もてなしでなく、「帰れ」という意味でお茶漬けを出された人に限るが、
これは実際のところどれだけいるのだろう。
これが気になったのは、上記の匿名ダイアリーのブックマークコメントで以下のような発言があったからだ。
この発現を別に「嘘つき!」と糾弾したいわけではない。(なので、上記引用もidを書かない)
実際、私も東京で「おまえ京都人? この前、京都人に茶漬けを出されたぞ」と知り合いから因縁を付けられた経験がある。
個人的にはかなり疑問が浮かぶし、身の回りでも四十年間聞いたことはないのだが、知人を疑うのは嫌いなので信じたいと願う。
正直、京都の真ん中に長年住んでいても、隣近所のもてなし事情まで知り尽くしているわけではない。
あと思うのは、この「ぶぶ漬け」が新しい文化として成立している可能性だ。
京都もある程度の都市ではあるから流出入は激しいし、他地域の人が連想する「生粋の京都人」なんてクラスに数名レベルだ。
だから、「京都っぽい振る舞い=ぶぶ漬けを出す」という新しい文化が生まれているのかもしれない。
いや、それは考えすぎで、単にステレオタイプを誤っているのにもかかわらず吹聴するひとが多いだけなのか。
だから聞きたいのだ、実際にぶぶ漬けを出された人がどれだけいるのか。
新しい文化が誕生しているなら面白いが、ステレオタイプでからかわれているだけなら、
ネットでこれだけ「ぶぶ漬け話」を多く目にしてしまうのは京都人として悲しい。
でも、耐えて流すしかないんだろうな。
埼玉生まれ、埼玉育ち。大学と就職は東京。で、転勤で大阪に住んだ。
これがまずあやしすぎる。
元増田の書いた内容で、関東について詳細な記述がろくになさすぎる。
あったとしても比較対象がおかしかったり、首を傾げる内容だったりする。
関東圏については知ったかぶりの知識で語ってる可能性が非常に大きい。
少なくとも、住んでた期間は大阪の方が圧倒的に長そう。
住んでみて、よかったところ、悪かったところ、イメージが変わったところ、ああ、大阪だと思ったところなど多々あったんで、つらつら書いておく。
これもデマカセなんだよね。
住んでみて悪かったところなんて全然あげてない。
あれは全部大阪を褒めてるだけ。
意外に街がきれい
綺麗なところだけ取り上げててアンフェアさがすさまじいよねこれ
あと、やっぱり大阪城はいい。高層ビル街の前に立派な天守閣が見えるのは、すごい日本的で、自分が外国人観光客だったら大喜びだ。 やはり東京よりコンパクトにまとまっていて、暮らしやすい。 ああ、やっぱ関西私鉄って存在感あるんだなあと感じた。
「やっぱり」「やはり」「やっぱ」
この辺りの表現って、もともと関西の方に軸足が無いと出てこない視点での語りなんだよねこれ。
なのでこの立ち位置の語りで関東生まれ関東育ちとか、絶対に嘘だと思う。
あったとしても元からかなりの大阪かぶれ、大阪信者だったとかでないと説明がつかない。
で、ちゃんと通りごとに住居表示が変わっているのにちょっと感動した。 「淀橋」を「西新宿」にしてしまった東京なんかよりずっといい。 谷崎潤一郎が好きなオイラは、鵙屋春琴の実家の薬種商がある「道修町」が、いまでも道修町で、製薬会社があったりすることに、ちょっとあがった。
通りごとの表示と、過去と現在の名称変更を比較していたり、比較対象がやはりおかしい。
あと最後の行の自分語りは単なる趣味の話でむりやり大阪を持ち上げてるだけなので、あのエントリ内ではただのノイズ。
やはり東京よりコンパクトにまとまっていて、暮らしやすい。 しかも、街が平らなので、自転車でも楽々。
コンパクトとか耳障りが良い言葉を使ってるだけで、ただ単にスケールが小さいだけじゃねえか。
この理屈を突き詰めると、山奥の小さな村がコンパクト最強伝説だかんな。
したら、埼玉の実家から都内に行くより近いくらいじゃんよ。
ここが一番違和感を覚える。
「じゃんよ」もあやしいけど、「したら」も怪しすぎだろ。
どちらも関東人が使う言葉じゃないので、出身地がさらにあやふやになる。
そもそも、転勤するような年齢の人間が使う言葉ですらねえじゃん。
私鉄が強い なぜ、阪急の梅田駅はあんなに立派なのだ。南海の難波もそうだが、デパートの建物に味があることもあって、ああ、やっぱ関西私鉄って存在感あるんだなあと感じた。 それでも、国鉄時代を知っている年配の人に聞くと、ずいぶんJRになって変わったらしいが。
こんなとこ関東の人が気にするポイントじゃないというか、そんなとこに注目するのは関西モンの特徴というか。
なぜ素直にお国自慢ができないのか。東京人に褒めてもらわないと胸を張れないのか。
ほんとこれな。
何かを褒めるときに、何かを貶す必要はないってどっかのブコメで最近見たが、
まさにこれな。
自分達の住んでるところが素晴らしいって思うなら、純粋にそのことだけを表明すれば良いんだよ。
関西人、特に大阪人と京都人の関東とりわけ東京へのコンプレックスはいつになったら解決するんだよ。
関西からやたらと目のカタキにされるけど、関東人は関西なんて基本アウトオブ眼中なんで
関東から注目してもらいたいが為に関東disを大声で主張し続けてるとしか思えないわ。
恐らくいつも通り円山公園から出発して四条を通り河原町を上がっていくのだろう。
ゴールは三条大橋下かあるいは市役所前広場辺りか。子供の頃から見慣れた光景だ。
彼らの主張する内容もまた聞き慣れたもので、戦争反対、安倍辞めろ、その他諸々、駅前で毎日共産党が叫んでいることと大して変わらない。
変わることと言えばやたらポップな雰囲気を醸し出していることといつにも増して大人数であることくらいで、四条河原町を封鎖して市民の足であるバスの往来が出来なくなるのも、外国人観光客が興味深げに写真を撮るのも普段と同じである。
その点だけ抜き出せば祇園祭とそう変わりはなく、この形態があと1100年ぐらい続けば時の京都市が伝統的無形文化遺産として指定するかもしれない。
それはそうとして。
実際、彼らが主張すること自体に対しては何の不満もない。
そもそも言論の自由は何人にも保証されており、彼らの口を封じようとする勢力とは断固として戦わねばならない。
僕個人としても立憲主義プロセスを無視しようとする現政権に対する不信感は非常に強いし、安倍晋三という政治屋ボンボン三代目がまともな政治家であるとも思わない。
しかし。
果たしてこの現代版踊り念仏が政治指向を持たない人々の心に響くかどうかは怪しいと言わざるを得ない。
理由は簡単だ。
「迷惑」と「聞き飽きた」。
ただでさえ混雑していた四条が行政の手で更に渋滞するよう作り替えられたのは記憶に新しいが、それに加えてデモによる道路封鎖が起こると四条だけでなく烏丸や川端、果ては堀川辺りまで波及する。
『主張しはんのは勝手やけどせっかくの休みやのに他人に負担掛けてまでやらんといて』と。
その時点で彼らの耳に主張は届かなくなるのだ。
これが良いことであるとは僕には到底思えない。
重要なのは政権批判そのものではなく、政権批判を行う仲間をいかに増やすか、であるはずだ。
左派には民主主義、国民主権を叫びながら国民に主権があることを忘れて政権そのものと戦おうとする人が多く、その点ではいわゆるネトウヨの方がむしろ主権者たる国民に向けて語っているのではないかとさえ思う。
『○○人はこんな悪事を働いてる!』というのは政権ではなく民衆に向けられた言葉だ。
この違いこそ日本のリベラルと呼ばれる勢力が弱い理由だと僕は考える。
より深刻なのは「聞き飽きた」ということだ。
彼らは先述のようによく政権批判の演説を行っているがこれがむしろデモの主張を陳腐化させているように思える。
またこの手の奴か、と。
普段から聞き慣れた言説に『多くの人が集まっているから』という理由だけで耳を貸す人間がどれだけいるだろうか。
これが大人しい田舎なら話は別だ。
ただ大規模なデモを行えばそれだけである程度衆目を集められるだろう。
その解決策は僕にも分からないが、飽きられているのは確かだと思う。
こんな風に書くと「典型的スノッブ京都人」扱いされるのかもしれないが、今回敢えて書かせていただいた。
重ねて言うが、僕は彼らの主張にもその内容にも文句はない。
と言うより京都は一種のアジールでなければいけないし、地方のサムライ・マチズモに由来し明治以来続く国内外に対する植民地主義に対抗する存在でなければならない、と強く思っているので、こういった主張はどんどんしてほしい。
しかし、主張する人間が自ら居場所を減らしているのではないか? と感じるのである。
報道によるとこのデモは若者が主催したもので、この日は2000人を超える人が集ったと言う。
彼らの心意気に敬意を表すると共に、彼らの心意気が無駄にならないことを祈る。
住んでだいぶ経つが、京都が嫌い。
全く愛着わかない。前住んでいたところだって同じくらい経てば愛着湧くようになってたのに全くわかないどころか嫌いすぎる。
考えてみると
・年に1回夏に地蔵盆とかいう町内行事に強制参加させられる。子どものための行事らしいが、子どもがいなくても金は取られる。意味がわからない。
・町内会というおどろおどろしい自治組織→回覧板回したりなど。
・組長とかいうおどろおどろしい名前の看板がかかっている家がある。
・馬を借りなければならないという理由で、学区単位で10年先の時代祭への積み立てを求められる。
・昔からの小学校の学区が絶対で、合併しようが昔の学区に固執する。
・学区単位で区民運動会という名の運動会などがあってヨソモノのアウェー感が半端ない。区民運動会への熱のいれようがやばい。
・お千度とかいう謎のイベントがあり、町費から神社への出費を強いられる。
・選挙に行ったらご苦労さんです、と声をかけてくる立会人が誰が来てるかチェックしてる気がする。
・自転車がないとまともに移動もできないのに駐輪場のつくりがへったくそ。
・路駐で常に一車線つぶれてて、もう激突してやりたい。
・渋滞のひどい四条通で歩行者に偽善的な優しさを見せ、歩道を広げ市バスを機能不全に陥らせるという暴挙にでる。
・冬は北海道より寒く、夏は沖縄より暑いとか本気で信じられている。
・めしやはおいしい。
ざっとでもこんな感じだった。
1つ目。
自分と同程度に仕事ができるか上の立場の人と仕事するときの話。
自分ができて相手ができないことを責めると、自分ができなくて相手ができることでしっぺ返しを食らう。
相手ができてることを認め、できないことには責めたりバカにせず大らかに対応した方がいい。
これは部下にも応用できる。
部下の仕事はだいたい自分でもできるため、できていないと責めがちになる。
同様にできないことを責めるのではなくできているところを認め、
さらにできてるところをより良くするするように伝えることで、
できていないところを改善してもらう、というアプローチの方が良い。
2つ目。
こちらが正しくても、言い方が悪いと諸刃の剣となり多少なりともこちらも切傷を負うことになる。
こうして書いてみると責めてばっかりみたいだな。