はてなキーワード: プロレスとは
こういうクソ虫、どのジャンルにもどの業界にもわくからマジで気を付けたほうがいい。
食べ手には上下・優劣はないが
ラーメン評論家はメディアでラーメンについての発信ができる存在ではあるが、食べ手のひとりであることには変わりはない。その中で店主へのマウンティングがあったとしたらそれは大きな問題である。
「客」や「消費者」や「ファン」ではなく「食べ手」という言い方な。
たぶんラーメンの「作り手」に対応する”対等”な言い方なんだろう。
こんな言葉を使う人間は既に「食べ物としてラーメンが好き」ではなく「ラーメンが居場所」になってる連中。
消費者の分を弁えずに参加者気取り。店側と対等、一緒に作ってる(笑)。
プロレスが新日の復興前に一旦ほぼ滅んでいったとき業界は本当に「参加者」気取りが溢れんばかりだった。
蛸壺化したファン達はみんなもうレスラーに対して異様に馴れ馴れしくウェットでほとんどのレスラーに対してバカにするような意地悪な批評ばかりするようになり、
プロレスメディアにも自分にキャラ付けをしまくって自分の名前を出しまくってご意見番気取りでプロレスシーンにモノ申す記者が現れ、
実況者にもレスラーや試合そっちのけで自分のつまんない言葉遊びを主役にする勘違い野郎(古舘伊知郎っていう)がいた。
みーんな自分の分を越えて「俺はプロレスに参加して一緒に作っている」という意識だった。
それで低迷に低迷を重ねて全部滅んだ。
そしたら再興した。
勿論再興の理由はそれだけではないけど、
かつての参加者気取りの変な奴等は全くもっていなくても大丈夫なゴミだった。
クソ虫どもは「プロレス業界の低迷の犯人捜し」や「起死回生の策」を盛んに論じていたけども
あいつら自身が低迷の犯人であいつらを切るのが起死回生の一歩目だった。
なんでそうなるかって、
「参加者」気取りはそもそも能力的な選抜を受けてないんだよね。
消費者とかライターとか実況アナとしての限定的な役割の能力は問題なくても
でも「参加者」気取りになるとどんどんラインを踏み越えてプレイヤーに接近していく。
プレイヤーというのはプロレスならレスラーだし、ラーメンならラーメン屋店主。
それでプレイヤー側もそういうクソ虫を相手にしちゃう人がいる。
近い距離でヨイショしたり盛り上げたりしてくれる風なので深く考えずに付き合っちゃう。
クソ虫は別に能力が高いわけでもないし消費者の代表でもないので
クソ虫の話を聞いてアイデアに乗ってるとどんどん時流を読み間違えた変な選択ばかりするようになっちゃう。
またクソ虫は固定化されてプレイヤーと一緒に老いていくから新しい消費者のニーズなんていよいよ見えなくなっちゃう。
プレイヤーに必要なのは常に新鮮で偏りのないファンニーズの摂取と新陳代謝であって、
でもその評論は1意見以上に扱われるべきでないし、プレイヤーは距離を取ってクールに眺めないといけない。
そこで「プレイヤーに近付きたい、特別な距離で扱ってほしい、自分をラーメン業界の作り手側にしてほしい」
という態度をちょっとでも出す奴はクソ虫だからそういうのほど近づけちゃ駄目。
「こいつら害の方がずーっとでかいんだな」と見抜いた。クレバーだと思う。
訴えられた中傷爺は完全にクソ虫(自分達を特別扱いしない店に不満を持って攻撃)だし、
この「共に盛り上げる」などとほざいてる記者も間違いなくクソ虫側なのが分かるよね。
はっきり言って人間関係のあるところならどこでもクソ虫は現れるし
会社や王朝がガタガタと滅ぶのだってよく見るとだいたいクソ虫がいる。
自らの分や能力以上に拡大しようとして全体を滅ぼすっていうのはガン細胞と全く同じ性質でしょ?
パラリンピックを見ていると、自分の中にとても複雑な気持ちが生じてくる。
体の一部を失ったアスリートたちを見て、素直に美しいと思ってしまった。
同時に、過去に障害者を扱ったポルノを見て強い嫌悪感を抱いたことを思い出した。
その時の心情に立ち返って、その嫌悪感は本当に正義と言えるのだろうかとふと疑問に感じた。
パラアスリートは美しかった。その瞬間、わたしにとって健常者よりも美しいと思えた。
素直に気持ちを表現するなら、その美しいと感じた感情に性欲が含まれていたことも否定はできなかった。
その時の自分は、素直に美しいものに対し美しいと感じ、そして少しの欲情をもよおしたのだ。
果たして、パラアスリートたちを美しいと思う気持ちは許されないのだろうか。
そこに少しでも性欲が介在した瞬間に、その美しいと思う気持ちは不謹慎なものとされてしまうのだろうか。
恋愛から性欲だけを切り離すことは絶対にできないし、それがあるからこそ子孫は反映してきた。
健常者に性欲を抱くことは許されて、障害者であることを理由に性欲を抱くことは不謹慎なことなのだろうか。
そう考えれば、そもそも障害者を扱ったポルノを不謹慎なものとすることさえ、差別的ではないかと思うようになってしまった。
ミゼットプロレスが不謹慎という理由で中止に追いやられた結果、障害者たちがレスラーという数少ない働き口の一つを失ってしまったという話を見たことがある。
もしポルノ業界に障害者が働く余地がないとしたら、それは逆を返せば健常者だけが働くことを許されているという職業差別と言えなくもない。
当然十分に職業選択の自由があり、消去法的ではなくても選択できる一つの職業であると認められることが必要だとした上での話だ。
しかし、ある側面では、そこにもしニーズがあり、お金を稼ぐ手段として確立されているにも関わらず、福祉や道徳という規制で制限されてしまうとしたら、それはまたやはり差別的ではないかと考えてしまう。
そこに想像の余地があるからこそ、誰もが自分にとって最も美しい姿を空想できることが傑作である理由とされている。
わたしはパラアスリートたちにそれと同じ美しさを見た。(四肢の一部がないのだから本当は見えていない。)
その姿を美しいと思ってしまった自分を偽ることはできないし、障害を理由に美しいと感じたのであれば、それが差別的であると言われても否定できない自分がいた。
そこまで考えても、はやりパラアスリートたちが美しいという気持ちを止めることはできなかった。
彼ら彼女らの美しさは、もっと広告としての価値があってよいと思った。(いわゆる芸能人たちがルッキズムをもとに広告的価値が高いとするのと同じ意味で。)
障害を理由に、それの美的価値を不謹慎と言う言葉で押さえつけることのほうがよほど差別的ではないかと思うからだ。
パラアスリートたちは美しい。
フォロワーと相互ブロックした。この一年世界を騒がせている感染症のせいだ。
前線ではないけれど地方都市の片隅で医療従事者として働いている。手はこまめにハンドクリームを塗っても消毒でボロボロだし顔はずっとつけているマスクで荒れっぱなしだ。特に職業柄利用者がマスクをずっとつけていられる状態ではなくて、ひたすら感染に怯えながら利用者の人に移さないように仕事をしてきた。
日々強いられる自粛の二文字とは裏腹に職場ではソーシャルディスタンスが守られるわけではない。狭い通り道を向かいからやって来る同僚と体を捻りながら譲り合っていると、密を避けましょうとはなんだろうと考えてしまう。
誰も感染しないことを保証してくれるわけじゃないのに、職業柄感染リスクを下げろ下げろと口を酸っぱくして言われる。SNSでも医療従事者が自粛をしなければ白い目で見られる。
その間も感染リスクをものともせずに県外移動をして観光やらレジャーやら楽しんできた人間が感染して運ばれてくるのにだ。
我慢しても努力しても現状はちっとも良くならない。むしろ悪化している。それでも他人は自粛を強いてくるのだ。この一年それなりに頑張ってきたけれどもうこの空気に疲れてしまった。
電車に飛び乗れば都心に繰り出せる距離に住んでいながら、趣味のプロレス観戦もショーパブも夢の国行きもフォロワーさんとのお喋りもお預けされている。
TwitterのTLでは都心に住んでいるフォロワーさんが楽しそうに遊んだ報告をしているのに指を咥えて見るしかない。こちらが犠牲ばかり払っている気がしてうんざりしてしまった。
ある日ふと自分の中で何かが切れた。「もういいや」と思ってしまった。
友達の中には前線で働いている子もいる。その子の家に泊まったときにもうつらいもう辞めたいという心からの叫びを聞いた。
「遊んで罹ったやつ皆死んじゃえばいい」という呪いも聞いた。そのとおりだと今でも思っている。
口では感謝をなんて言っているけれどハメを外して感染した人間は減っていない。
そんな人達のためにこれ以上我慢する義理なんてないと吹っ切れた。親や親しい友人にも相談したら特に反対もされなかった。すり減っていくよりずっといいとむしろ肯定的だった。だから職場には内緒で都内に遊びに行くことにした。
一年ぶりに仲のいいフォロワーさんと遊ぶ約束を取り付けて服も買って、朝早くに電車に乗った。
ずっとネットの知り合いのコミュニケーションは通話アプリばかりだったので対面の会話が嬉しかったし、念願のショーパブにも行った。
かわいくてキレイでゴージャスなお姉さんたちが舞い踊るのを生で見た。最高だった。ずっとこれが見たかった。写真もたくさん撮ったし、声が枯れるまではしゃいだ。
その夜はホテルも予約して久しぶりに自分の匂いがしないベッドで眠った。
何もかもが久しぶりで涙が出そうだった。失われていたけど当たり前にあったものを取り戻した気分だった。
Twitterにも今日のことを投稿した。ほとんどのフォロワーさんが楽しそう!よかったね!と好意的な反応をくれたので、その日のことは何も間違っていないと思う。今でもそう思っている。
続く自粛でべこべこに凹んでいた気持ちがあっという間に戻っていくほどの楽しさはステイホーム中にやったどんなことでも替えがきかない。
ただ一人だけフォロワーさんで違う反応をしていた人がいた。
医療従事者ではないが地方住みなので県をまたぐ遠征はずっと控えていると聞いていた。また職場で感染者第一号になりたくないからと自粛にも積極的で、よく一緒に通話しては同時に映画を再生して鑑賞するといった遊びをしていた。
ネットの付き合いでは長い人だったしウマも合って結構プライベートな話もしていた。
その人がとても否定してきた。
元々県をまたいだ移動をした人や自粛しない人のことを鍵のアカウントで愚痴っていた。自分は自粛しているだけに他人の行動が許せないタイプの人だった。鍵をかけていない方でもはっきりと県外移動を否定していたこともある。
都内に行く一ヶ月ほど前に隣県に展覧会を見に行ったことをこちらがツイートしてからも、県外移動や不要不急の外出を否定したままだった。
感染者があまりいない隣県に平日友達と行くくらい許して欲しいと思っていたのに、その人は主張を曲げなかった。直接ではないけれど罵られたような気分だった。
今回も直接ではないが「県外に遊びに行く人の気持ちが分からない」とハッキリ切り捨てていた。
今まで我慢していたのに自制をやめた瞬間叩かれるのはおかしくないかと思ったのだ。十分我慢したのに最初から我慢していない人と同列に語られるのは違うだろう。だけどその人は一定のラインを越えたらまとめて敵なのだ。攻撃的な面があるのは知っていたけれど自分に向けられたらと思うとどうしてこれからも仲良くしたいと思えなくなった。
この人と縁を切りたいと思うようになった。
都内へ遊びに出かけたことが理解出来ない。私は医療従事者の貴方の苦労は分からないけれど、貴方の行動を肯定する気はない。以前のように接することは出来ないだろうからしばらく距離を置きたいという内容だった。
絶対に分かるわけもない。引き継ぎの度に自粛を呼びかけられるのに職場で感染しない保証はない。むしろ利用者のせいで感染リスクは高いくらいだ。荒れ放題の腕や顔に、日々の楽しみは奪われ続けてそれでも働かないといけない。医療従事者だからというただそれだけの理由でだ。医療従事者は人一倍気をつけないといけないという意識にどれほど苦しめられたか一般職のその人に分かってたまるかと思った。
こちらの行動を反省する気はないこと、以前から攻撃的な発言が嫌だったこと、距離を置きたいと言うけれどそこまで言われたら金輪際関わりたくもないし関わってくれるなという内容の返事を書いて送ってから、持っている全てのアカウントでブロックした。
親にも友達にも4桁ほどいるフォロワーさんにも否定されなかったのにその人だけが否定してくるのだ。
そんな人いらなかった。
この前も仲のいいフォロワーさんとお茶して来た。たくさんお喋りもしたしその様子をTwitterに上げた。
自粛警察なんてこのTLにはいない。自粛自粛と自分を締め付けてすり減るより心に正直に生きた方がいい。案外誰も真っ向から否定なんかしない。